297

作者が現実あるいは生活を描かない詩歌はめずらしくない が
作者の現実あるいは生活をまったく反映しない詩歌はない

「この作品には私生活が描かれている/いない」の判定は だから
徒労におもわれる
レトリックで変形されているかいないかの差 だけかもしれないのに

そもそも 作者が作者自身の性格や生活やその他現実もろもろを
すべて理解していることは ありえない
作者が理解できていない自己の内奥を彫る あるいは掘ることが
作品をつくるということではないか

フィクションを描くというよりは ただ 現実というものの幅が
もっと あんがい 広いことを示すために

コアではなく ボーダーに立つこと

296

意味の通じる言語をしゃべる人たち、商品が親しげにかがやく通り、機敏なウエイター、うつくしくきよらかな老若男女、おちついた煉瓦造りのショッピングモールのなか、いつもいつでも異邦人のように私はいる。

逆に、外国語ばかりがとびかう輪の中や、服装も習慣も異なる秘境、どこにいても、ずっと前からそこの住人であったかのようになじんでしまう人もいる。

どんな場所も旅先になる人と、故郷になる人がいるのはなぜだろう。

私はさびしくないし、居心地もわるくない。ただ、自分をふしぎに思う。

295

「安全神話」はレトリックではなく文字通り信仰のひとつだった。
たとえばこのような信仰。

・人は神につくられた。そのとき神から、正しさを与えられた。
・結果的に正しくあるはずなのだから、今回は間違えたとしても、次は間違わない。
・神を信じることは、人を信じることである。

したがって、まだしばらく生きているつもりなら――
神を捨てなければならない。
忘れなければならない。
恋人のように。
泣きながら。
勇気を。

294

表現者の最終目標は、表現ではなく、媒介行為ではないか。
人と、人をとりまくものもの・ことごととの間に、橋を架ける。
媒介者であるからには、境界的な存在であるほうがよい。
両性具有的とか、年齢不詳などとよばれるような。

わたしは境界を越えたいのではなくて、境界の住人になりたいのだ、とも思った。/多和田葉子『エクソフォニー』

293

死者のためになにかすることはできない。死者は有償の行為をもとめないだろう。

生きている人に対して有効である。鎮魂は。

生きている人ができることは、「かなしむ」ことではなく、「かなしもうとすること」だ。
肝に銘じて。

死者のほうが、生きている人間よりも、はるかに悲しみや苦しみを知っているんですね。/菱川善夫『塚本邦雄の生誕――水葬物語全講義』

292

大衆嫌いという大衆性

291

詩は 役に立たないことがらの役に立つ

290

わたくしはいつも銀河の心臓部ではなく腕のほそくほどけつづけるあたりをあやうくめぐっており、はみだしはしないけれどみそっかすで、詩のことばも散文のことばもすこしはしゃべれるもののいずれも十全とはいえず、つまりは辺境の住人なのでした。
だからわたくしはとおくから星めぐりの歌を、
辺境の歌を、
辺境の歌をうたうばかりです。

289

自分の気持ちだけが
自分の気持ちなのではない

巻貝のしづけく歩む森に入りただひとりなる合唱をせり/水原紫苑

288

類型を生きることのいさぎよさを思う。

287

魔法とは。人の心に変化をもたらすもの

286

ていねいにしゃべろう


大きく書こう

285

知ることは一方通行路を行くこと
死を見すごしたり忘れたりしながらも
いちど刻まれた事実、記憶、秘密を
知らなかった状態へは、戻せない

覚えるとは過去のものにすること
人の顔や名を覚えると、その人はその瞬間から
どんどん思い出になっていってしまう

284

やすやすと人と誤りへ導くには、人の怒りを利用すればよい。
だからあなたは、あなたの怒りを利用されないようにしなければいけない。

あなたは、あなたの敵にならないようにしなければいけない。
憎んでいたはずのありかたをいつしか纏っていたということがないように。

あなたの、ある側面をわかってくれる人はいる。
あなたの、すべてをわかってくれる人はいない。
まちがえてはいけないよ。

283

ランク付けすることをいちど覚えてしまうと、ランク付けの無意味さを学びなおすのに時間がかかる。上から見おろしていたものを横からながめられるようになるまで、さらにいえば、上などなかったのだと知るまでの時間が。知るまでの……

知る、とは他の行為よりも上位の行為か……

などと、ほら、考えてしまうだろう?

282

アヴァンギャルドは何らかの保守性、保証、保身を前提にしていなくては成立しない。
型を極限まで変形するために、型の体力を信頼し、型の完全破壊をすんでのところで回避せねばならない。
完全な裏切りはありえない。もしくは、不完全な裏切りという名の裏切りがある。

281

object あるいは 他者について

目的語という、さびしく、きびしい用法をいつ覚えたのだろう。
目的語はかならず他者である。
私は[ ]を思う、というとき、[ ]は私ではない。

*

演じる人、俳優であることは本来、宗教的なありかたなのだろう。
他の人格を演じることは他者の前に全身を投げ出し対象となること。
他者とは最終的には超越者にほかならない。

280

ある仮定について

代表者になるべき職業と、なるべきでない職業がある。
たとえば、施政者は前者(市長は市民を、社長は会社を代表して行動すべきである)、創作者は後者。
ありていにいえば、前者は公人、後者は私人。

後者には探偵タイプと怪盗タイプがいる。
追う者と負われる者、解釈する者と解釈される者。

(ここで、すべての創作者は『ルパン三世』の主要登場人物のだれかにあてはまる、ような気がしてきた。ルパン役のひとは稀少だろうけど、でもそれは創作者の「代表」では、けっしてない)

279

自分語りをしないのは謙虚だからではなく、自己評価が低いからだ。語るべき自己は遠い。それほどに自分のプライドは高い?

私に、ありあまるものなどなく
私の、欠けている部分によって
私の書くものは成りたっている

278

ある考え方について

転生という考え方は
複数の生を生きられるようにするための知恵

今回(この世)では幸せと縁がなかったけれど
次回は……

という考え方をもって人は生きのび
生きつづける

「生きつづけることが、その平凡さのために、かえりみられない状態」
を生きつづける
という持続の困難

を引きうけるため

277

リフレインが時間を止めるのではない。逆である。リフレインがなければ時間は生まれない。うたは時間。宇宙は生まれ、うずをまき、うずをまき、宇宙は育ち、うずをまき、うたをうたい……

276

「女」、

歴史に参与しない者の名前。

「女」は空想世界で、小さな女にも老いた女にも、あらゆる男にも、獣にも植物にも、無生物にも、さまざまな未知の現象にも、その魂を流しこめる。
一貫した「私」以外のものになら、なんにでも。

一貫した「私」、形の定まった「私」だけが、歴史に参与する者。


歴史は溶けよ、
死はうたえ。

275

欠番と欠伸


似ている?

無為の充填によって

274

恨みやすい人がいて、恨まれやすい人がいる。たぶん後者のほうが魅力的だ。愛されやすい人ということなのだから。

見くだす人がいて、見くだされる人がいる。「彼/彼女は他人を見くだしている」と言う人は、いつか他人を見くだしてみたいと願っている。

273

混沌より秩序に興味がある。
混沌のなかからときおり結晶し、規則性を帯びて直立する、秩序。

ところが人びとの多くは
秩序とみえる状態の皮膚がやぶれて、その下に氾濫する
混沌をのぞきこむのが好きなようでした。
雲の上から下界の曲芸をながめるように。

秩序を建てようとしてやまない人たち、
いつも危険な足場の上に立つ人たち――

安全の上に建てる安全、それは
秩序ではない、かれらはのぞんでいない。

272

妄想に貴賎なし

271

毒より棘。甘い毒なんか要らない。優しい棘を育てること。

270

彼に教える者はいなかったのか? 凶悪であること以外のやりかたを?

269

瀕死の白鳥のなんといきいきと踊ることだろう!
(ダンサーによっては「ちょっと寝ます…」くらいの演技にとどまるひともいるけれど。きっと、彼女の肉体はまだ若すぎるのだろう)

生を感じさせるものが好き。
夕陽、朝ぼらけの月、時代遅れの歌、倒れて血を流す人、廃れゆく都市、そうしたものたちが存在過程のなかでもっともいきいきと息づき、死にぎわのあがきをかがやきに変える季節にあってこそ、生きることはすばらしいと、ひとが、自分が、口にすることをゆるせる。

頽廃の光輝にとって、あたらしいものなんて、未だ蒙く死んでいるも同然だ。

268

怒りは散文の道を通ってやってくる、ならば、そのまま散文の道をゆかせなさい。散文で訴えなさい。私は怒りを歌うな。

歌は、その丈が短いとしても、感情や洞察の長きにわたる堆積のはての、さいごの溜息だから。

だから。歌からよびおこされる想念を散文によって追うとき、それは歌の過去世をさぐる、さかのぼる旅だと思う。

耐えて耐えたのち。歌となるとき、ようやく、未来がはじまる。

ぼくにとって短歌とは、文学のあらゆる形式が語り終った時、表現を完了したとき、まさにその時から歌い始めるものです。
(「見えないもの」塚本邦雄)

267

感情のムダはなかなか省けない。その一方で、省くべきでない部分ばかり省いているかもしれない。贅肉と筋肉。感情もボディをもつ。

何が羨ましいか、何が羨ましくないか、切り分ける癖をつける必要がある。何でもかんでも羨ましく、欲しくなってしまわないよう。

いらないものを欲しがり、溜め込み、浪費することを、悪と見なすからではない。それができない自分の貧しさを知っておくべきというだけのこと。

266

死ぬとはすべてをなくすこと、で、なければ、
もしかして、
体のない生をはじめること、だろうか。

生きているとは体をもっているということ。手、舌、鼻、耳、目、足、などにより、それらのいずれかにより、ものごとをキャッチすること。生きるとは感じること。

だから私には、体が感じる快楽・苦痛がすべて。感覚がすべて。
受容も、表現も、
感覚がすべて。

265

女の子は、忘れられてこそ、女の子である。
見守られているうちは、大人の庇護や賛辞や好奇心に補われるせいで、女の子成分100パーセントというわけにはゆかない。よって容姿のよい女の子は早くから女の子ではないものになりやすい、だろう。

女の子は、「いたの?」と言われてこそ。
女の子は、男でも大人でもない。つまり、いてもいなくても同じである存在。
女の子は、人間として、存在しない。

だから
女の子は、自分が女の子であることを嫌悪すべきである。
それに気づいていない女の子は、まだまだ多い、けれど。
女の子は、自分が女の子であることを、ゆめ誇りにしてはならない。
存在したいと思うなら。

264

表現者はみな、しもべであるべきではないか。
誰の、かはよくわからない。創作の神様かもしれないし、極私的に崇敬している他者かもしれない。
誰の、かはどうでもよい。
自分のつくるものの支配者が自分であると決めてしまわないこと。
誰かからの示唆をうけてこしらえ、誰かへとささげる。
もちろん、そんなことをいつも考えている表現者はいない。表現者は自力でこつこつ自分のものをつくりあげると自任するのは自然なこと。
ただ、つくりあげたもののみならず、つくったという記憶さえ自分の手から放して他者にゆだねる、そのような一瞬を持てるかどうかが、表現者の資質を分けるかもしれないと思う。

263

ある本を読んで、興味深かったことを伝えようとするのだが、うまくしゃべれない。
その本の登場人物は、外国で路頭に迷い、言葉が通じず、おびただしい困惑と焦燥の思考がうずまいているにもかかわらず、意思に反してどんどん無口になってゆく。
意思が通じるとはどういうことか。
私はチャイやらベトナムコーヒーやらをはさんで目の前に座る人たちに、その問題意識の重要さを話そうとするのに、使用言語は共通なのに、口をひらけば「おもしろかった」と繰り返すばかり。
意思を通じさせることは可能なのか。
夜のティータイムが夢のように更けてゆく。
ああそうか、夢というのは、夢のような話などではなく、脳に舌にひどく体液を分泌させるもどかしさのことだったのだ。

262

嗤う人にも理由はあるし嗤われる人にも原因はある。
誉められたもんじゃないというのは、前者だけではあるまい。
ただ、可能性という点においては、後者のほうがずっと潤った状態にありそうだ。
嗤いはじめは、涸れはじめであると、肝に銘じておく必要がある。

261

誤解されないため、または誤解を解くために半生を費やすことになる人もいる。
誤解は最大の悲しみ苦しみ、人によっては怒りにつながるのかもしれない。
戦地、被災地などでたまたま生き残った人が、現地で義勇兵になったり、市民活動に情熱をかたむけるようになったり、ということの説明としてよく罪悪感ということばが使われる。
他人をおとしいれて得た運では決してないのに、なぜ罪悪感をもたねばならないのか、当事者になったことのない自分には理解しにくい。
運を得たことへの嫉妬をおそれるというならわからないでもない。しかし、こと不可抗力の出来事に関して嫉妬をする人がどのくらいいるものか見当がつかない。
するとやはり、かれらが回避したいのは誤解なのかと思えてくる。
――見捨てたことはない、忘れたことはない、そんなことをする人間だと思わないでほしい。
――あやうく死体になるところだったわたしをまだ人間でいさせてほしい。
――他の生者たちから、わたしをまだ離さないでほしい。
誤解による切断が、死の恐怖と同等か、それに勝る場合。

260

自分をぶつけるなんて嫌だ。
それより、自分に投げて寄越された好球を、別の方向、他の人に送りたいと思う。私は球ではなく人、球を受け渡す人間だから。球は魂、変幻自在。好い感じの飢餓がつぎつぎ飛んできて、飛んでゆく。

259

このようにして私のヒルコ、アハシマ、
歌われそこなった子どもたち。
あそべ、ねむれ、
生きていなさい。

258

「知的障害女性を自爆テロに利用」というヘッドラインを見ながら、その痛ましさ胸の悪さを民族性や宗教のせいにするのは罠だと思いつつ(情報とは生の事実ではなく、事実の加工物のことである)、あらためて確信する事柄にいっそう胸が悪くなる。ここでの「知的障害」「女性」は差別の要件であり、差別が人々の、もとより脆弱な良心を弄ぶ。差別感情ほど手ごたえのある感情は他にない、差別感情こそが歴史を形成し人類を育んできたのだ、という風に。
愛もまた。愛は救わない。愛は多く、愛する相手から愛せない相手を差別する感情であるから。私は絶望する。

257

愛情より常識を役立てたほうがよい場合もあるだろう。
愛せないとき、
愛せなくて苦しいとき、
状況の悪化を望まないとき、

大きな木のうろのようなさびしさばかりが育つとしても、
それでも

256

比喩、ことばによる世界への祝福(時として呪詛)。
すこし化粧をほどこしたり、変装させたり、あるいは古いセーターをほどいて帽子と靴下に仕立て直すような――そうした改変を加えることで、もとの世界のおもかげをとどめたまま新しい世界をも提示し内包する――読み手と世界との関係を1対1から1対多へと変えることでさらにゆたかな収穫を得るための比喩ならば、つねに探し求める価値がある。

255

寛容さについて考えるとき、はじめて、おとなになりたいと思った。
こどもは他の誰をも恕すということをまだ知らないから。

うまく他人を恕せないこと

知りそめる

こどもの、かなしみ

254

(なおも溶けのこる悩み)

金持ちになれば解決する貧困なら
恋人ができれば解決する孤独なら
敵が罰されれば解決する怨恨なら
書かなくてよい 歌わなくてよい

253

心臓がふくらむような感動と
心臓がグシャッと握りつぶされるような感動と

252

ときとして、

てのひらの上で溶けるあわゆきあるいは舌の上で溶ける砂糖菓子、

鮮明すぎる白昼夢、

かたちがあって、かたちをうしないゆくもの、

そんなものであれ。

251

沖合を左から、右へ、タンカーが横切って進むのを見ている。
私はだんだん天動説論者になる。
恋心のようである。
恋心は天界の清浄さや地底の猥雑さを求めたりしない。
ただ遠く、遠く、水平に、身体感覚がしだいにうすくなりぼんやりあたりへ溶け入ってゆくゆめをみる。

250

幸せへの道。
自分の、だれより自分に対する説明能力の向上。

249

娼婦が信仰に目覚めて心をあらためる――そんな古風な物語をきいて、現在、信仰が1ステージ上の生活あるいは最高ステージの生活などと考えるのは別の罠に落ちたも同然であろうと考えることもできるが、彼女はそもそも“のぼる”ことではなく“変わる”ことによって救われたのではないか。変化は救済であり私たちはいつも救済という名の罠に焦がれている、というふうに。

248

誰かの、あるいは轢かれた猫、堕ちた鳥その他のご冥福なんてほんとうは祈ったことはない。
あるとすれば意思と感情をもつ遺族、関係者のためだけだ。
死者自身の冥福など想像できない。
死者はどこにも行かない。
この国では通常わずかな肉あるいは灰と骨をこの地上に残すだけ。
死者はここに残り、いる。いるけど、いない。
死はかなしくない。ただ、さびしい、さびしいだけ。

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