280

ある仮定について

代表者になるべき職業と、なるべきでない職業がある。
たとえば、施政者は前者(市長は市民を、社長は会社を代表して行動すべきである)、創作者は後者。
ありていにいえば、前者は公人、後者は私人。

後者には探偵タイプと怪盗タイプがいる。
追う者と負われる者、解釈する者と解釈される者。

(ここで、すべての創作者は『ルパン三世』の主要登場人物のだれかにあてはまる、ような気がしてきた。ルパン役のひとは稀少だろうけど、でもそれは創作者の「代表」では、けっしてない)

279

私に、ありあまるものなどなく
私の、欠けている部分によって
私の書くものは成りたっている

278

ある考え方について

転生という考え方は
複数の生を生きられるようにするための知恵

今回(この世)では幸せと縁がなかったけれど
次回は……

という考え方をもって人は生きのび
生きつづける

「生きつづけることが、その平凡さのために、かえりみられない状態」
を生きつづける
という持続の困難

を引きうけるため

277

リフレインが時間を止めるのではない。逆である。リフレインがなければ時間は生まれない。うたは時間。宇宙は生まれ、うずをまき、うずをまき、宇宙は育ち、うずをまき、うたをうたい……

276

「女」、

歴史に参与しない者の名前。

「女」は空想世界で、小さな女にも老いた女にも、あらゆる男にも、獣にも植物にも、無生物にも、さまざまな未知の現象にも、その魂を流しこめる。
一貫した「私」以外のものになら、なんにでも。

一貫した「私」、形の定まった「私」だけが、歴史に参与する者。


歴史は溶けよ、
死はうたえ。

275

欠番と欠伸


似ている?

無為の充填によって

274

恨みやすい人がいて、恨まれやすい人がいる。たぶん後者のほうが魅力的だ。愛されやすい人ということなのだから。

見くだす人がいて、見くだされる人がいる。「彼/彼女は他人を見くだしている」と言う人は、いつか他人を見くだしてみたいと願っている。

273

混沌より秩序に興味がある。
混沌のなかからときおり結晶し、規則性を帯びて直立する、秩序。

ところが人びとの多くは
秩序とみえる状態の皮膚がやぶれて、その下に氾濫する
混沌をのぞきこむのが好きなようでした。
雲の上から下界の曲芸をながめるように。

秩序を建てようとしてやまない人たち、
いつも危険な足場の上に立つ人たち、

安全の上に建てる安全、それは
秩序とはちがう

272

妄想に貴賎なし

271

毒より棘。文学に甘い毒なんか要らない。優しい棘を育てること。

270

彼に教える者はいなかったのか? 凶悪であること以外のやりかたを?

269

瀕死の白鳥のなんといきいきと踊ることだろう!
(ダンサーによっては「ちょっと寝ます…」くらいの演技にとどまるひともいるけれど。きっと、彼女の肉体はまだ若すぎるのだろう)

生を感じさせるものが好き。
夕陽、朝ぼらけの月、時代遅れの歌、倒れて血を流す人、廃れゆく都市、そうしたものたちが存在過程のなかでもっともいきいきと息づき、死にぎわのあがきをかがやきに変える季節にあってこそ、生きることはすばらしいと、ひとが、自分が、口にすることをゆるせる。

頽廃の光輝にとって、あたらしいものなんて、未だ蒙く死んでいるも同然だ。

268

怒りは散文の道を通ってやってくる、ならば、そのまま散文の道をゆかせなさい。散文で訴えなさい。私は怒りを歌うな。

歌は、その丈が短いとしても、感情や洞察の長きにわたる堆積のはての、さいごの溜息だから。

だから。歌からよびおこされる想念を散文によって追うとき、それは歌の過去世をさぐる、さかのぼる旅だと思う。

耐えて耐えたのち。歌となるとき、ようやく、未来がはじまる。

ぼくにとって短歌とは、文学のあらゆる形式が語り終った時、表現を完了したとき、まさにその時から歌い始めるものです。
(「見えないもの」塚本邦雄)

267

感情のムダはなかなか省けない。その一方で、省くべきでない部分ばかり省いているかもしれない。贅肉と筋肉。感情もボディをもつ。

何が羨ましいか、何が羨ましくないか、切り分ける癖をつける必要がある。何でもかんでも羨ましく、欲しくなってしまわないよう。

いらないものを欲しがり、溜め込み、浪費することを、悪と見なすからではない。それができない自分の貧しさを知っておくべきというだけのこと。

266

死ぬとはすべてをなくすこと、で、なければ、
もしかして、
体のない生をはじめること、だろうか。

生きているとは体をもっているということ。手、舌、鼻、耳、目、足、などにより、それらのいずれかにより、ものごとをキャッチすること。生きるとは感じること。

だから私には、体が感じる快楽・苦痛がすべて。感覚がすべて。
受容も、表現も、
感覚がすべて。

265

女の子は、忘れられてこそ、女の子である。
見守られているうちは、大人の庇護や賛辞や好奇心に補われるせいで、女の子成分100パーセントというわけにはゆかない。よって容姿のよい女の子は早くから女の子ではないものになりやすい、だろう。

女の子は、「いたの?」と言われてこそ。
女の子は、男でも大人でもない。つまり、いてもいなくても同じである存在。
女の子は、人間として、存在しない。

だから
女の子は、自分が女の子であることを嫌悪すべきである。
それに気づいていない女の子は、まだまだ多い、けれど。
女の子は、自分が女の子であることを、ゆめ誇りにしてはならない。
存在したいと思うなら。

264

表現者はみな、しもべであるべきではないか。
誰の、かはよくわからない。創作の神様かもしれないし、極私的に崇敬している他者かもしれない。
誰の、かはどうでもよい。
自分のつくるものの支配者が自分であると決めてしまわないこと。
誰かからの示唆をうけてこしらえ、誰かへとささげる。
もちろん、そんなことをいつも考えている表現者はいない。表現者は自力でこつこつ自分のものをつくりあげると自任するのは自然なこと。
ただ、つくりあげたもののみならず、つくったという記憶さえ自分の手から放して他者にゆだねる、そのような一瞬を持てるかどうかが、表現者の資質を分けるかもしれないと思う。

263

ある本を読んで、興味深かったことを伝えようとするのだが、うまくしゃべれない。
その本の登場人物は、外国で路頭に迷い、言葉が通じず、おびただしい困惑と焦燥の思考がうずまいているにもかかわらず、意思に反してどんどん無口になってゆく。
意思が通じるとはどういうことか。
私はチャイやらベトナムコーヒーやらをはさんで目の前に座る人たちに、その問題意識の重要さを話そうとするのに、使用言語は共通なのに、口をひらけば「おもしろかった」と繰り返すばかり。
意思を通じさせることは可能なのか。
夜のティータイムが夢のように更けてゆく。
ああそうか、夢というのは、夢のような話などではなく、脳に舌にひどく体液を分泌させるもどかしさのことだったのだ。

262

嗤う人にも理由はあるし嗤われる人にも原因はある。
誉められたもんじゃないというのは、前者だけではあるまい。
ただ、可能性という点においては、後者のほうがずっと潤った状態にありそうだ。
嗤いはじめは、涸れはじめであると、肝に銘じておく必要がある。

261

誤解されないため、または誤解を解くために半生を費やすことになる人もいる。
誤解は最大の悲しみ苦しみ、人によっては怒りにつながるのかもしれない。
戦地、被災地などでたまたま生き残った人が、現地で義勇兵になったり、市民活動に情熱をかたむけるようになったり、ということの説明としてよく罪悪感ということばが使われる。
他人をおとしいれて得た運では決してないのに、なぜ罪悪感をもたねばならないのか、当事者になったことのない自分には理解しにくい。
運を得たことへの嫉妬をおそれるというならわからないでもない。しかし、こと不可抗力の出来事に関して嫉妬をする人がどのくらいいるものか見当がつかない。
するとやはり、かれらが回避したいのは誤解なのかと思えてくる。
――見捨てたことはない、忘れたことはない、そんなことをする人間だと思わないでほしい。
――あやうく死体になるところだったわたしをまだ人間でいさせてほしい。
――他の生者たちから、わたしをまだ離さないでほしい。
誤解による切断が、死の恐怖と同等か、それに勝る場合。

260

自分をぶつけるなんて嫌だ。
それより、自分に投げて寄越された好球を、別の方向、他の人に送りたいと思う。私は球ではなく人、球を受け渡す人間だから。球は魂、変幻自在。好い感じの飢餓がつぎつぎ飛んできて、飛んでゆく。

259

このようにして私のヒルコ、アハシマ、
歌われそこなった子どもたち。
あそべ、ねむれ、
生きていなさい。

258

「知的障害女性を自爆テロに利用」というヘッドラインを見ながら、その痛ましさ胸の悪さを民族性や宗教のせいにするのは罠だと思いつつ(情報とは生の事実ではなく、事実の加工物のことである)、あらためて確信する事柄にいっそう胸が悪くなる。ここでの「知的障害」「女性」は差別の要件であり、差別が人々の、もとより脆弱な良心を弄ぶ。差別感情ほど手ごたえのある感情は他にない、差別感情こそが歴史を形成し人類を育んできたのだ、という風に。
愛もまた。愛は救わない。愛は多く、愛する相手から愛せない相手を差別する感情であるから。私は絶望する。

257

愛情より常識を役立てたほうがよい場合もあるだろう。
愛せないとき、
愛せなくて苦しいとき、
状況の悪化を望まないとき、

大きな木のうろのようなさびしさばかりが育つとしても、
それでも

256

比喩、ことばによる世界への祝福(時として呪詛)。
すこし化粧をほどこしたり、変装させたり、あるいは古いセーターをほどいて帽子と靴下に仕立て直すような――そうした改変を加えることで、もとの世界のおもかげをとどめたまま新しい世界をも提示し内包する――読み手と世界との関係を1対1から1対多へと変えることでさらにゆたかな収穫を得るための比喩ならば、つねに探し求める価値がある。

255

寛容さについて考えるとき、はじめて、おとなになりたいと思った。
こどもは他の誰をも恕すということをまだ知らないから。

うまく他人を恕せないこと

知りそめる

こどもの、かなしみ

254

(なおも溶けのこる悩み)

金持ちになれば解決する貧困なら
恋人ができれば解決する孤独なら
敵が罰されれば解決する怨恨なら
書かなくてよい 歌わなくてよい

253

心臓がふくらむような感動と
心臓がグシャッと握りつぶされるような感動と

252

ときとして、

てのひらの上で溶けるあわゆきあるいは舌の上で溶ける砂糖菓子、

鮮明すぎる白昼夢、

かたちがあって、かたちをうしないゆくもの、

そんなものであれ。

251

沖合を左から、右へ、タンカーが横切って進むのを見ている。
私はだんだん天動説論者になる。
恋心のようである。
恋心は天界の清浄さや地底の猥雑さを求めたりしない。
ただ遠く、遠く、水平に、身体感覚がしだいにうすくなりぼんやりあたりへ溶け入ってゆくゆめをみる。

250

幸せへの道。
自分の、だれより自分に対する説明能力の向上。

249

娼婦が信仰に目覚めて心をあらためる――そんな古風な物語をきいて、現在、信仰が1ステージ上の生活あるいは最高ステージの生活などと考えるのは別の罠に落ちたも同然であろうと考えることもできるが、彼女はそもそも“のぼる”ことではなく“変わる”ことによって救われたのではないか。変化は救済であり私たちはいつも救済という名の罠に焦がれている、というふうに。

248

誰かの、あるいは轢かれた猫、堕ちた鳥その他のご冥福なんてほんとうは祈ったことはない。
あるとすれば意思と感情をもつ遺族、関係者のためだけだ。
死者自身の冥福など想像できない。
死者はどこにも行かない。
この国では通常わずかな肉あるいは灰と骨をこの地上に残すだけ。
死者はここに残り、いる。いるけど、いない。
死はかなしくない。ただ、さびしい、さびしいだけ。

247

言いおおせたい欲望があり、言いおおせることへの不安あるいは不信(言った途端それは嘘になってしまわないか? 何かをとりこぼしてしまわないか? 「慣れる」こと「答える」ことは悪ではないか?)がある。
前者は後者の態度を不十分であると評する。後者はそれに答えおおせない……世界のあまりにも複雑な単調さに打ちのめされているか、馴染んでしまっているかして。

欲望と不信は理解しあわないだろうか。
大人と子供は理解しあわないだろうか。
(大人とは「答える」態度を負う者である)

246

フィクションの中で登場人物が死んでも死んでも生き返ることはご都合主義とも言えるが、もともとは悪夢、狂気に抵触する展開だったと思う(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』やアンナ・カヴァン『氷』を見よ)。
生まれるまでは死んでいたものを。

245

悪趣味は生の実感のためにある。

244

もっとも残酷であるのは
残酷であると意識されずになされる行為

243

なんとも非道い殺人事件に関して第三者が殺人者を罵倒したり被害者に同情したりするのは、感情のレクリエーション。私だって遊びたい、けれど。

242

家族のあるいは地縁の機能に狂いが生じてきたことを国家に憂えてもらう必要はない。国家はわたしのお父さんではない。わたしはあなたにしつけられるいわれはない。

241

意図について、二つ

神殿をうっとり眺めながら想うのは
神ではなく
神殿をつくらせた権力者たちおよび
神殿をつくった奴隷たちのこと
(だれがなんのために)
神に向けられた情念の不可思議さ

涼しい男たちの恋物語に
女友だちが夢中になっていたとき
わたしもその恋物語を読んだ
男たちのことよりも
女友だちのことを知りたくて

240

ある詩歌を読んで「わからない」と思うのは、既知の事象と照合するからである。ある詩歌を読むときには、未知の事象との遭遇をもとめていた、はずなのに。

そのために、ひとつの作品に、ひとつかみの既知を混ぜておくことは有効だろう。ひとつかみの既知が、はかりしれない未知への細い橋を架けるだろう。

「わからない」ことを忌避するのは、「わかってない」と言われることが恥だから。そうでしょう。その種の恥は捨ててしまっても、たぶん、たいして困りはしないのに。

239

書くとはおしなべて「再現すること」であり
「現前させる」ことはできない
再生 再生
なにを書いてもそれは数秒前あるいは数年前数十年前に録音録画した記録にすぎない
日夜わたしは死体の思い出あるいは思い出の死体を生産しているのかもしれない
それは なげくべきこと? おそれるべきこと?

わたしが秋海棠の花を見て
はな
と記したら
あなたのなかでエンゼルトランペットが咲いた
みたいな
わずかなおおきな違い

わたしが書いて 死ぬもの
あなたが読んで 生まれるもの
それは かなしむべきもの? よろこぶべきもの?

238

白馬に乗った王子様より、白馬に迎えに来てほしい。

237

完全な写実があるなら、それは、ある種の境地をいうのだろう。
いちどなにかを諦めた人、いちど心のどこかが壊死した人にだけ、できる業。

(だからたいていの場合、写しとられた対象よりも、写しとった表現は、やや膨らんでいるはず)

完全な写実を受容できない人は、いつまでも若々しく、比較的若くして死んでゆく。
写実に寄り添える人ほど、はじめから老成し、老いたまま永く永く生きる。おそらく。


(あなた、ちっとも諦めてないね)

236

微塵になりたいこと、遍在したいことは、無私的ではない。むしろ、いうなれば、世界制服への……

235

こわいものをみたりよんだりしたがるのは
ゆめにちかいから

234

生きていることを誇り
生き生きしていることを誉める
ぼくはあなたが
きらいです

233

わたしは極端に不幸にはならないだろう。
わたしは極端に長生きはしないだろう。

232

自 分 に 祈 れ !

231

小野十三郎「奴隷の韻律」論は、その是非とは別に否応なく、当時カンフル剤として機能したのだろうと想像する。そこでは抒情すべてが悪よばわりされたわけではない。短歌的抒情=古い抒情=悪、として、あくまでもそのよどんだ「古さ」が問題になっていた。だから非短歌の人も短歌の人も「新しさ」めざしてやっぱり抒情にはげんだ敗戦後だったはず。ところで、ある種の抒情が「奴隷」なら――

感傷は、何と呼ばれただろう。
「畜生」?

感傷に古い・新しいの区別やランキングはあっただろうか。

現在、抒情に奴隷などという過剰なイメージを付す人は、そうそういない。抒情を肯定する/しない、という軸にそって考えるべき時代的必然は、もう(概ね)ない。抒情に関心をもつかどうかだけ。

しかし感傷は現在でも多く否定されるだろう。「安易な」「他人事としての」「~にすぎない」などの語とともに。

ならばなお、抒情より感傷。見極めるまで、感傷を追ってみること。ただしい反動のために。

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