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歌は旅。というのは、じっさいに旅をしているとき歌はほとんどやって来ず、旅のない日々に歌はおとずれてつねにつねにわたしを旅につれだす。
歌は旅。というのは、じっさいに旅をしているとき歌はほとんどやって来ず、旅のない日々に歌はおとずれてつねにつねにわたしを旅につれだす。
いつも動きを見ていること。静物にも。物体の内部の振動を見続けること。
やはりメタファーでは満足出来ない。
物体や現象が――コップが、コップに水を注ぐことが――知らない世界につけられた扉の鍵でなくてはいけない。
そのはたらきはかつて象徴表現と呼ばれたようだ。
では、対応関係のまだ成立していない、未知の象徴を探さなくてはいけない。
画家はオブジェの記号性から逃げようとし、詩人はことばの意味性から逃げようとする、こともあるかもしれない。
文字が無心の物質としてそこに在るようにみえるとき。
予見、予知という言い方は神秘化であって、そういう能力があるように思われるとしたらそれは現在の底の底を感知しているということだ。
誰かに必要とされていると感じることに飢える弱い心があり、
必要な人物であることは自明なのに誰もそれを認めていないと憤る弱い心がある。
実験精神はしばしば保守思想の土壌に繁茂する
ならば
浮遊植物に、私は
死者はしばしば生者の磁石を狂わせる。
死んだ人のいちばんの理解者であったような錯覚が生きている人のなかに育つ。
サグラダ・ファミリア大聖堂へ行ってみたいと思う。行けばどう感じるかも分かっている。
行けば私は、どこへも行けないことを知るだろう。
人には親切にしたい。優しくしたくない。
私のことを気の毒だと云った人々のことを私はきっとゆるさない。
とはいえ、人をゆるさないで、誰をゆるすのか。
わるくなれば、あとは、よくなるだけ
よくなれば、
自傷はしょせん有閑者の仕事。
ことばにできないことをことばにしようとは
なんと無茶なのだろうわたしたちは
実感信仰を持ちすぎないように 共感をたやすく呼んでしまわないように
出現の歌が読みたい。何もない、何も持っていない状態からの出現。
むかしの人にあてて手紙を出すことはできない。当然のこと!
未来にさよならを告げつづけるばかり。
(前略)最初は/少しも流れなかった時間のフーガ。
(「一八九九年のブエノスアイレス」J.L.ボルヘス/鼓直訳)
という一節に説明しがたいよろこびを覚える。たとえばそうしたよろこびをなんらかの序列の最上におこうとするひとびとに添うことはできない。
よろこびにどうやって序列をあたえることができよう。
“女性性”とは処世術の一種。女をやってゆかざるをえない人々の。
女が「あなたは女だから…である」と言われることなく生きたいと思うなら、死ぬしかない。
オーケストラ、一神教のモデル。
求心的であること たったひとつを思うこと
ことばは世界の一部 あるいは 度しがたい腫瘍
気のくるった犬猫なんているのか ことばによってのみ狂気はもたらされるのではないか
信じられない。信じられない。信じられない。
信じられないのは、信じていたからだ。
こどもときたら不幸の種にこと欠かない。両親が不仲なら辛いし円満ならさみしいのだ。
未知と既知なら前者のほうが価値が高いらしい、が、既知のものなんてこの世にあっただろうか。
よのなかは形而上ポルノグラフィが好きな人と形而下ポルノグラフィが好きな人とでできている。
自分をというより、自分の後方にあるものを表現しなくてはいけないような気がする。自分を貫くもの。
自分とはフィルターである。
戦争詩、愛国詩を書かないで済んでいることは幸運だ。幸運にすぎない。
詩と戦争の関係についていえば、詩は思いだすことしかできない、戦争は思いだされることしかできない。
もういっぽ入ること。
モーツァルトのように陰影うつろう軽やかさをもたないことをかなしみつつバッハのように愚直であること。
裸の状態から書くこと……既得権のない状態から書くこと。なるべく。
潔癖であること。無垢ではなく。
自死はどんな場合でも個人的理由による。生きることも?
自尊心がつよくありたいことのつらさ。
自尊心は自分以外の誰の役にも立たないから、自尊心の不足は自分以外の誰にも理解不能で誰からも供給されない、誰とも共闘できない。
めくるめく恋は平民の夢。
だれかの薬であること。ある人には効き目を、ある人には副作用を。生か死を。
切断 呪詛 畏怖 法悦 顕現 神秘 憂鬱 攪乱 至高 狂信 感傷 … …
ヒステリーの修道女のようでありたまえ。
遠近感のくるい/選択のあやまち
遠い人(故人をふくむ)ばかり大切で、近い人に目が向かない。
好き嫌いがはげしいのに、すべてを愛そうとする。
虐待されて死んだ遠くの子はあわれでならず、コンサートに連れてこられた隣の子がむずかるとつまんで捨てたくなる。やはり遠近感が変である。ありふれたことではあるけれど。
読むとは、書き手にまなざしを返すことではなく、次の読み手に手わたす行為ではないだろうか。付句のごとく?
読んで、すばらしければ、隣人に手わたせばよい。
つまらなければ、自分のなかで、そっととむらえばよい。
「堂々としている」と感じさせられる女性の多くは、父親に愛された記憶をもつようだ。
日常は詩だろうか。
日常は非詩だろうか。
ううん、日常が日常のままなら、それは非詩でしょう。
詩、変容。
人間が非人間性にあこがれることはたしかにあるだろうと思う。
かわいそうな人をかわいそうと感じることに、ある日、疲れたとき。
「祈る、いつも祈る、それがなんの役に立つ?」答えにためらいはなかった、「祈りの役に立つ」。
(『オイディプスの旅』アンリ・ボーショー/宮原庸太郎訳)
詩は詩の役に立つだろう、無力という力において。
人間でありたい。人間でなければ、人間ばなれしたものを感知できない。
自分が人間でしかないことをたしかめるために、人間ならざるものに近づいてみること。
自分の知恵が高貴なはずはない、なぜなら、それらは愚者を反面教師として蓄積されてきたもののはずだから。
恋人とは世間の人々のうちの一人である。
大雨の日は、ずっとおびえてきたことに気づく、でも何に?
あらかじめ神を与えられている文化を好ましく思うときがある。
神の否定もまた自由で可能だから。
この世がこの世であるかぎり、神はいる。
この世がこの世でない世界――すばらしい世界になったとき、神は役目を終えて去るだろう。
偽善は嫌いではない。偽悪よりは実用に供する。
歳をとる、憎むものばかり増える。
愛するものが増えているからだ。なにかを愛するにつれ、そのなにか以外をはからずも愛の埒外へ追い払ってしまうから。こどものようにいつまでも美しい人は、なにも愛さない人だ。愛に憧れるばかりのまるでケルビーノ。
無垢は美徳ではあるが言い訳にはならない。
子どもはかわいがられるべきである。
できれば女のことなど考えずに暮らしたい。私にとって女は幻ではないので。
自然とはつまり死への過程だから、生きてゆくには、自然に逆らうほかない。
言葉は抵抗する。かならず。
比喩が生命の交換であればいい。
強い風の音が波に似ているなら風は波と衣をとりかえている。
と述べるときの〈衣〉は言葉と生命を交換している。
この世には、この世以外のものがある。