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音楽はときにとても不幸なものかもしれない。
チャイコフスキーの交響曲第5番、なんと悲痛な、と思う。作曲家本人は主題を〈完全なる諦念〉としていたそうだが、諦念はかけらも感じられない。人に生まれた不幸がひたすら華やいでいる。
輝かしさというものが、この音楽、この場を離れては、どこにも存在しないと知らされるのだ。
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音楽はときにとても不幸なものかもしれない。
チャイコフスキーの交響曲第5番、なんと悲痛な、と思う。作曲家本人は主題を〈完全なる諦念〉としていたそうだが、諦念はかけらも感じられない。人に生まれた不幸がひたすら華やいでいる。
輝かしさというものが、この音楽、この場を離れては、どこにも存在しないと知らされるのだ。
「見栄はだいじだよ」と言ったひとがいて、わりと賛成だと思ったし、いまも思っている。ただ、
見栄というのは、飾ることではなく、「言いたくないことが多い」ということ。そんな気がしてきた。
コンパスを踊らせながら決めたんだいちばん言いたいことはいわない
飯田有子
したいことができないのは、耐えられると思う。したいことがあるうちは希望がある。
したくないことをさせられるのはどうだろう。生を見放したくなる日がくるかもしれない。
犯罪やテロルは何者かに追い詰められた結果のように見える。追い詰められること、追い詰めること、それがおそろしい。
雑踏のなかで、詩のフレーズが、断片的に浮かんでくる。
その詩の作者を思い出せない。
ものかきはあわれなるかな。
日が暮れるにつれ、世界はにわかに三次元的に立ち上がる。
期待というものをあまりしたことがないと思う。
期待だけに生の実感をみいだす人たち(たぶん木村敏が前夜祭的とよんだ人たち)は、眩しく遠い他人である。
世界が何不自由なく機能している間は、生きていると感じることはない。暮れゆくとき、なにかが滅びつつあると感じるときだけ、生の実感がよびさまされる。そんなありかた。