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祈るな、考えろ。
祈りなんて。
自分にはいっさい罪がないと思っているか、さもなければ自分の罪を他人に掃除してもらえると思っている奴のやることだ。
――では、なにも考えられなくなったら、祈ることにするよ。
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祈るな、考えろ。
祈りなんて。
自分にはいっさい罪がないと思っているか、さもなければ自分の罪を他人に掃除してもらえると思っている奴のやることだ。
――では、なにも考えられなくなったら、祈ることにするよ。
大人になりたくないと思ったことはない。子供にかえりたいと思ったことはない。
現在を工事しつづけるだけだ。
しかし、大人になることが、すなわち役割の固定化を示すのならば、愚かな大人よりは賢い子供であろうとするほうがよい。役割はつねに設定されるべきものであり、かつ、状況に応じて可塑性可変性をもつべきものである。
感情もまたア・プリオリなものではない。
これまでに触れてきた文化や状況に型をとられている。
いたたまれないと感じる旋律がある。
とりわけ後期ロマン派のもの。ブルックナー。マーラー。
厭世と憧憬がないまぜになったような。
いたたまれなさは、どこで型をとられたのだろう。
感情、この異邦の客は、どこから来たのだろう。
歌うときは、なるべく体を楽に、あるいは空にして、という話をコツとして聞くことがしばしばある。
読むときも同じだろう。
世界観の手綱さばきはむずかしい。
限定しすぎても、しなさすぎても、だいじなものが逃げてしまう。
読書という、幼いころから馴染んでいるはずの行為においてさえ。
いくばくかの友人がいて、テレビ番組の話を聞いたり、肉を焼く横顔を見ていたりする。
ふいに申し訳ない気持ちになる。
なにに対してなのか分からない。
友人、天候、境遇、
…どれでもあるようなないような。
もっともっとさびしくならなければいけないのだろう。
さびしいから歌うのでなく、さびしくなるために歌わなくてはいけないのだろう。
よりよいほうへ。
モラルの低下、犯罪の凶悪化、などと嘆くのは、それが見えるようになったからだ。むかしはこんなではなかった、と思うのは、当時ものが見えなかったからだ。
現在の習慣や環境が、過去にくらべてわるくなったとは限らない。よくなったとも限らない。変化は理解できても進化は実感できない。
人が争ったり祈ったりするのは、それぞれのやり方で、「よりよいほう」へ向かおうとするためだ――という前提はまだ完全に無効になってはいないにせよ。
図式的にいえば、若いうちは未来を恋い、老いると過去を慕うことになるのだろうが、インターネットのなかで、自分の年齢はあいまいになる。
「よりよいほう」とは、どちらのほうだったか。
語る価値があるのは
覗いたものではなく覗きこんだもの あるいは
見てきたことではなく考えてきたこと
飛ぶこと潜ること
どちらもだいじだけれどたぶん今は後者のほうが