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157

悪人とは、この世を愛せない人の総称である。

156

音楽だけは倫理から免れていて構わないと思ってしまう。

文章はロジック、絵画はデザインにより(迎合的・調和的・対立的、いずれにせよ)倫理を表明せざるをえないことが多い。
音楽にも、歌詞の問題、時局や宗教との関わりの問題は常にある。国歌を一部でもアレンジすればもはや無垢でも無辜でもいられない。

それでも音楽だけは倫理から免れていて構わないと思ってしまう。リズムとメロディ、韻律、それだけは。amoral ということ。言葉が音楽を恋う。歌。

155

人間嫌いではなく、人間関係嫌いなのだと思う。

154

むしろ具体によってとりこぼす可能性を考える。

世界、真実、永遠、宇宙、といったことばを詩歌で使いたくないとよくいわれる。「木」より「けやき」「はんのき」などと書き、枝葉のようすを描くよう勧められる。メソッドとしてそれは正しい。正義といってよい。そうすると、

大きな枠組は詩歌には悪だろうか。
悪ならばいっそう、乗りこなしてみたくなる。非個性の海に呑まれる恐れと抱きあいながら。

海は意味にけがされ/今では疲れてしまっている/比喩の残骸が/岩場にくだかれ/海/といわれても思いだすことは何もない
(「盆の上の女神」井坂洋子)

153

枯れる、死ぬ、咲く、春が来る、別れる、死ぬ、出会う、春が来る、病む、死ぬ、治る、春が来る、喪う、死ぬ、生まれる、春が来る、
年々ちいさな死がたまる。日々スタンプをためる。
何個ためれば、おおきな、一度きりの死がプレゼントされるだろう?

152

回すべきもの。足首。頭。スープの中の玉杓子。

151

詩的飛躍、は怠け者の方法。

遠くへ、いきなり行ってしまいたいのだ。準備も交渉も運動もなしに。
机の上のコップと時計のあいだにある十数センチメートルのはるかな距離を小説は書かねばならない。
詩ならたとえばコップと時計に同時に宿るようなあり方を示せるかもしれない。距離を縮めたり伸ばしたり撓めたり消したりしてしまいたい。

armchair detective みたいに座ったまま、怠け者の宇宙旅行をつづけている。情熱的に。

150

幼いころから矛盾していた。
ひとから離れてひとりにならないと、ひとについて考えることができない。
ひとの中にいると、ひとが見えなくなる。
プレアデスを直視するとひとつひとつの星団がぼやけてしまうように。
観察以上に夢想に多くを負っている。生きづらい。

149

セルフチェック。自分の気持ちを点検すること。
今ほんとうに悲しいのか。ほんとうに楽しいのか。

これは心の動きとしてあまり幸せなことではない。点検なんかせず、無心に気持ちを生きられたなら。仕方がない。性分だ。自分を見る自分。自画像。それは双子のきょうだいである。きょうだいの描写が詳細になればなるほど、意識や感情は遠のく。

148

物語の一節のような歌をうたってみたいと思い
歌は物語とはちがうものなのだと思い、なお
物語の一節のような歌をうたってみたいと思う

物語の一節が、一巻より魅力的に思えるとき

147

どんな創作物にも、なんらかの理想の自己像を見ることができる。
けなげな私、あわれな私、たたかう私、とらわれない私、といった自己愛。

自己像へ、自己像へ。
もの見えぬ自己を微に入り細をうがって描きつくし、自己の向こうへ出てしまう一瞬、自己は自己愛を離れるかもしれない。

出てしまうことは放下、それとも、死だろうか。
死は愛から自己を救うものだろうか。

146

私は狂気をあまり、ほとんど、たぶん、まだ、知らない。
ゆえなくロマンティックに感じていた季節を過ぎてなお。

狂気(たとえば被害妄想、たとえば尋常ならざるストーキング)は、音がまったく遮断されているためどこまでも透明な意識を一方方向へ貫いて進みやまない光の毒矢のようなものなのだろうか。

狂気とは、むしろ、明るい青空の下、さらなる紺碧を願い、見えざるものまでを見はるかすべく澄明を願う想いを言うのであろう。正常にあらぬことが狂気なのではない。
(「見えて明るし」永井陽子)

145

ひとの幸福や幸運は止められない。責められない。
ひとの不幸と憂鬱がなくならないのはそのせいだ。

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