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恋が、ずっと一緒にいたいということ、離れたくても離れられないことをいうのなら、犯罪や事故や病を通して死にいたる恋だけがほんものの恋である。
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恋が、ずっと一緒にいたいということ、離れたくても離れられないことをいうのなら、犯罪や事故や病を通して死にいたる恋だけがほんものの恋である。
善意はこの世でいちばんおそろしい罠。
善意は、あなたがそれを拒むことを、拒むだろう。
善意への信心を強いられるだろう。あなたに善意を示す者が、あなた以外の人、あなたが所属しない社会を理不尽に迫害する者であったとしても。
何かに立腹する人間と何かを軽蔑する人間どちらがより小人物であるか……しかし軽蔑する人間がより落ち着いて見えるのはより「精いっぱい」であるからかもしれない……怒りの弾幕を張ることと高みから冷眼を向けることどちらがより大きな恐怖にとらわれているのか……もっとも御しがたいのは恐怖という感情であること……
目で読めば、声に出さないとわからないものだと思い、音読すれば、やはり文字で見ないとわからないものだと思い、いつまでも触れえぬ思いをのこす、詩なるもの。
文学はつまらなくない。
文学ははずかしい。
物書きの書き物は、軽蔑されるためにある。
打ち据えられてこそ。
死角のない人はいない。
リアリティは、奈辺にあるものか。そんなに大切なことなのか。
フィクションにおいて、いわゆる“生活の細部を再発見し、すくいとり、指し示す”手法がもたらす、愛すべきリアリティとは別に、
“人生を、常識を踏み外した、およそ愛せない衝動”に、人はリアリティを見いだせるか。
(たとえばある種のミステリに見られる、ありえない犯罪動機)
(感受性を欠く、うつろな、こころ)
リアリティ。共感。感動。
――うんざりする教条。
(これらを混同するのはどうかと自分でも思う、が)
「あなたは感情的になっている」とたしなめるのは一時的に言い争いを回避し、余裕を示すことで優位に立つための対症療法だけれど、
カンジョウテキとはどういうことだろう。
ものごとを動かすのは、最終的には感情の力なのに、
カンジョウテキを厭うとき、なにに怯えているのか。
死者を愛する心だけがほんとうの愛。
生者による、生者への愛のことばは、なんらかの思惑をともなわずにはいない。死者への愛のことばも、それが生者に向けて語られるかぎり、なんらかのアピールをともなわずにはいない。
生者として生者を愛するなら、黙せ、
と思うのは
絶望からだろうか?
努力をするのは大人
努力をしなくてすむよう努力をつづけるのは永遠の子供
書けば書くほどなにかが蓄積される、
というより逆に
なにかを捨てている気がする。
たとえば、
“こんなことは決して書くまい”と考えてきたこれまでの意識を……
自分を被害者に当てはめてみることはたやすく、加害者になりうる可能性を想像することは(残酷な事件であるほど)むずかしい。後者は人として一般的なあり方ではないし、自己否定にもつながってしまうのだからおそろしくおぞましいことだ。
ものを書く人間は、だからこそ、後者の試みも受け入れなくてはならない。被害者には、ものを書こうが書くまいが、万人がいつでもなれるのだから。