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267

感情のムダはなかなか省けない。その一方で、省くべきでない部分ばかり省いているかもしれない。贅肉と筋肉。感情もボディをもつ。

何が羨ましいか、何が羨ましくないか、切り分ける癖をつける必要がある。何でもかんでも羨ましく、欲しくなってしまわないよう。

いらないものを欲しがり、溜め込み、浪費することを、悪と見なすからではない。それができない自分の貧しさを知っておくべきというだけのこと。

266

死ぬとはすべてをなくすこと、で、なければ、
もしかして、
体のない生をはじめること、だろうか。

生きているとは体をもっているということ。手、舌、鼻、耳、目、足、などにより、それらのいずれかにより、ものごとをキャッチすること。生きるとは感じること。

だから私には、体が感じる快楽・苦痛がすべて。感覚がすべて。
受容も、表現も、
感覚がすべて。

265

女の子は、忘れられてこそ、女の子である。
見守られているうちは、大人の庇護や賛辞や好奇心に補われるせいで、女の子成分100パーセントというわけにはゆかない。よって容姿のよい女の子は早くから女の子ではないものになりやすい、だろう。

女の子は、「いたの?」と言われてこそ。
女の子は、男でも大人でもない。つまり、いてもいなくても同じである存在。
女の子は、人間として、存在しない。

だから
女の子は、自分が女の子であることを嫌悪すべきである。
それに気づいていない女の子は、まだまだ多い、けれど。
女の子は、自分が女の子であることを、ゆめ誇りにしてはならない。
存在したいと思うなら。

264

表現者はみな、しもべであるべきではないか。
誰の、かはよくわからない。創作の神様かもしれないし、極私的に崇敬している他者かもしれない。
誰の、かはどうでもよい。
自分のつくるものの支配者が自分であると決めてしまわないこと。
誰かからの示唆をうけてこしらえ、誰かへとささげる。
もちろん、そんなことをいつも考えている表現者はいない。表現者は自力でこつこつ自分のものをつくりあげると自任するのは自然なこと。
ただ、つくりあげたもののみならず、つくったという記憶さえ自分の手から放して他者にゆだねる、そのような一瞬を持てるかどうかが、表現者の資質を分けるかもしれないと思う。

263

ある本を読んで、興味深かったことを伝えようとするのだが、うまくしゃべれない。
その本の登場人物は、外国で路頭に迷い、言葉が通じず、おびただしい困惑と焦燥の思考がうずまいているにもかかわらず、意思に反してどんどん無口になってゆく。
意思が通じるとはどういうことか。
私はチャイやらベトナムコーヒーやらをはさんで目の前に座る人たちに、その問題意識の重要さを話そうとするのに、使用言語は共通なのに、口をひらけば「おもしろかった」と繰り返すばかり。
意思を通じさせることは可能なのか。
夜のティータイムが夢のように更けてゆく。
ああそうか、夢というのは、夢のような話などではなく、脳に舌にひどく体液を分泌させるもどかしさのことだったのだ。

262

嗤う人にも理由はあるし嗤われる人にも原因はある。
誉められたもんじゃないというのは、前者だけではあるまい。
ただ、可能性という点においては、後者のほうがずっと潤った状態にありそうだ。
嗤いはじめは、涸れはじめであると、肝に銘じておく必要がある。

261

誤解されないため、または誤解を解くために半生を費やすことになる人もいる。
誤解は最大の悲しみ苦しみ、人によっては怒りにつながるのかもしれない。
戦地、被災地などでたまたま生き残った人が、現地で義勇兵になったり、市民活動に情熱をかたむけるようになったり、ということの説明としてよく罪悪感ということばが使われる。
他人をおとしいれて得た運では決してないのに、なぜ罪悪感をもたねばならないのか、当事者になったことのない自分には理解しにくい。
運を得たことへの嫉妬をおそれるというならわからないでもない。しかし、こと不可抗力の出来事に関して嫉妬をする人がどのくらいいるものか見当がつかない。
するとやはり、かれらが回避したいのは誤解なのかと思えてくる。
――見捨てたことはない、忘れたことはない、そんなことをする人間だと思わないでほしい。
――あやうく死体になるところだったわたしをまだ人間でいさせてほしい。
――他の生者たちから、わたしをまだ離さないでほしい。
誤解による切断が、死の恐怖と同等か、それに勝る場合。

260

自分をぶつけるなんて嫌だ。
それより、自分に投げて寄越された好球を、別の方向、他の人に送りたいと思う。私は球ではなく人、球を受け渡す人間だから。球は魂、変幻自在。好い感じの飢餓がつぎつぎ飛んできて、飛んでゆく。

259

このようにして私のヒルコ、アハシマ、
歌われそこなった子どもたち。
あそべ、ねむれ、
生きていなさい。

258

「知的障害女性を自爆テロに利用」というヘッドラインを見ながら、その痛ましさ胸の悪さを民族性や宗教のせいにするのは罠だと思いつつ(情報とは生の事実ではなく、事実の加工物のことである)、あらためて確信する事柄にいっそう胸が悪くなる。ここでの「知的障害」「女性」は差別の要件であり、差別が人々の、もとより脆弱な良心を弄ぶ。差別感情ほど手ごたえのある感情は他にない、差別感情こそが歴史を形成し人類を育んできたのだ、という風に。
愛もまた。愛は救わない。愛は多く、愛する相手から愛せない相手を差別する感情であるから。私は絶望する。

257

愛情より常識を役立てたほうがよい場合もあるだろう。
愛せないとき、
愛せなくて苦しいとき、
状況の悪化を望まないとき、

大きな木のうろのようなさびしさばかりが育つとしても、
それでも

256

比喩、ことばによる世界への祝福(時として呪詛)。
すこし化粧をほどこしたり、変装させたり、あるいは古いセーターをほどいて帽子と靴下に仕立て直すような――そうした改変を加えることで、もとの世界のおもかげをとどめたまま新しい世界をも提示し内包する――読み手と世界との関係を1対1から1対多へと変えることでさらにゆたかな収穫を得るための比喩ならば、つねに探し求める価値がある。

255

寛容さについて考えるとき、はじめて、おとなになりたいと思った。
こどもは他の誰をも恕すということをまだ知らないから。

うまく他人を恕せないこと

知りそめる

こどもの、かなしみ

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