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彼に教える者はいなかったのか? 凶悪であること以外のやりかたを?
彼に教える者はいなかったのか? 凶悪であること以外のやりかたを?
瀕死の白鳥のなんといきいきと踊ることだろう!
(ダンサーによっては「ちょっと寝ます…」くらいの演技にとどまるひともいるけれど。きっと、彼女の肉体はまだ若すぎるのだろう)
生を感じさせるものが好き。
夕陽、朝ぼらけの月、時代遅れの歌、倒れて血を流す人、廃れゆく都市、そうしたものたちが存在過程のなかでもっともいきいきと息づき、死にぎわのあがきをかがやきに変える季節にあってこそ、生きることはすばらしいと、ひとが、自分が、口にすることをゆるせる。
頽廃の光輝にとって、あたらしいものなんて、未だ蒙く死んでいるも同然だ。
怒りは散文の道を通ってやってくる、ならば、そのまま散文の道をゆかせなさい。散文で訴えなさい。私は怒りを歌うな。
歌は、その丈が短いとしても、感情や洞察の長きにわたる堆積のはての、さいごの溜息だから。
だから。歌からよびおこされる想念を散文によって追うとき、それは歌の過去世をさぐる、さかのぼる旅だと思う。
耐えて耐えたのち。歌となるとき、ようやく、未来がはじまる。
ぼくにとって短歌とは、文学のあらゆる形式が語り終った時、表現を完了したとき、まさにその時から歌い始めるものです。
(「見えないもの」塚本邦雄)
感情のムダはなかなか省けない。その一方で、省くべきでない部分ばかり省いているかもしれない。贅肉と筋肉。感情もボディをもつ。
何が羨ましいか、何が羨ましくないか、切り分ける癖をつける必要がある。何でもかんでも羨ましく、欲しくなってしまわないよう。
いらないものを欲しがり、溜め込み、浪費することを、悪と見なすからではない。それができない自分の貧しさを知っておくべきというだけのこと。
死ぬとはすべてをなくすこと、で、なければ、
もしかして、
体のない生をはじめること、だろうか。
生きているとは体をもっているということ。手、舌、鼻、耳、目、足、などにより、それらのいずれかにより、ものごとをキャッチすること。生きるとは感じること。
だから私には、体が感じる快楽・苦痛がすべて。感覚がすべて。
受容も、表現も、
感覚がすべて。
女の子は、忘れられてこそ、女の子である。
見守られているうちは、大人の庇護や賛辞や好奇心に補われるせいで、女の子成分100パーセントというわけにはゆかない。よって容姿のよい女の子は早くから女の子ではないものになりやすい、だろう。
女の子は、「いたの?」と言われてこそ。
女の子は、男でも大人でもない。つまり、いてもいなくても同じである存在。
女の子は、人間として、存在しない。
だから
女の子は、自分が女の子であることを嫌悪すべきである。
それに気づいていない女の子は、まだまだ多い、けれど。
女の子は、自分が女の子であることを、ゆめ誇りにしてはならない。
存在したいと思うなら。
表現者はみな、しもべであるべきではないか。
誰の、かはよくわからない。創作の神様かもしれないし、極私的に崇敬している他者かもしれない。
誰の、かはどうでもよい。
自分のつくるものの支配者が自分であると決めてしまわないこと。
誰かからの示唆をうけてこしらえ、誰かへとささげる。
もちろん、そんなことをいつも考えている表現者はいない。表現者は自力でこつこつ自分のものをつくりあげると自認するのは自然なこと。
ただ、つくりあげたもののみならず、つくったという記憶さえ自分の手から放して他者にゆだねる、そのような一瞬を持てるかどうかが、表現者の資質を分けるかもしれないと思う。
ある本を読んで、興味深かったことを伝えようとするのだが、うまくしゃべれない。
その本の登場人物は、外国で路頭に迷い、言葉が通じず、おびただしい困惑と焦燥の思考がうずまいているにもかかわらず、意思に反してどんどん無口になってゆく。
意思が通じるとはどういうことか。
私はチャイやらベトナムコーヒーやらをはさんで目の前に座る人たちに、その問題意識の重要さを話そうとするのに、使用言語は共通なのに、口をひらけば「おもしろかった」と繰り返すばかり。
意思を通じさせることは可能なのか。
夜のティータイムが夢のように更けてゆく。
ああそうか、夢というのは、夢のような話などではなく、脳に舌にひどく体液を分泌させるもどかしさのことだったのだ。
嗤う人にも理由はあるし嗤われる人にも原因はある。
誉められたもんじゃないというのは、前者だけではあるまい。
ただ、可能性という点においては、後者のほうがずっと潤った状態にありそうだ。
嗤いはじめは、涸れはじめであると、肝に銘じておく必要がある。
誤解されないため、または誤解を解くために半生を費やすことになる人もいる。
誤解は最大の悲しみ苦しみ、人によっては怒りにつながるのかもしれない。
戦地、被災地などでたまたま生き残った人が、現地で義勇兵になったり、市民活動に情熱をかたむけるようになったり、ということの説明としてよく罪悪感ということばが使われる。
他人をおとしいれて得た運では決してないのに、なぜ罪悪感をもたねばならないのか、当事者になったことのない自分には理解しにくい。
運を得たことへの嫉妬をおそれるというならわからないでもない。しかし、こと不可抗力の出来事に関して嫉妬をする人がどのくらいいるものか見当がつかない。
するとやはり、かれらが回避したいのは誤解なのかと思えてくる。
――見捨てたことはない、忘れたことはない、そんなことをする人間だと思わないでほしい。
――あやうく死体になるところだったわたしをまだ人間でいさせてほしい。
――他の生者たちから、わたしをまだ離さないでほしい。
誤解による切断が、死の恐怖と同等か、それに勝る場合。
自分をぶつけるなんて嫌だ。
それより、自分に投げて寄越された好球を、別の方向、他の人に送りたいと思う。私は球ではなく人、球を受け渡す人間だから。球は魂、変幻自在。好い感じの飢餓がつぎつぎ飛んできて、飛んでゆく。
このようにして私のヒルコ、アハシマ、
歌われそこなった子どもたち。
あそべ、ねむれ、
生きていなさい。
「知的障害女性を自爆テロに利用」というヘッドラインを見ながら、その痛ましさ胸の悪さを民族性や宗教のせいにするのは罠だと思いつつ(情報とは生の事実ではなく、事実の加工物のことである)、あらためて確信する事柄にいっそう胸が悪くなる。ここでの「知的障害」「女性」は差別の要件であり、差別が人々の、もとより脆弱な良心を弄ぶ。差別感情ほど手ごたえのある感情は他にない、差別感情こそが歴史を形成し人類を育んできたのだ、という風に。
愛もまた。愛は救わない。愛は多く、愛する相手から愛せない相手を差別する感情であるから。私は絶望する。
愛情より常識を役立てたほうがよい場合もあるだろう。
愛せないとき、
愛せなくて苦しいとき、
状況の悪化を望まないとき、
大きな木のうろのようなさびしさばかりが育つとしても、
それでも
比喩、ことばによる世界への祝福(時として呪詛)。
すこし化粧をほどこしたり、変装させたり、あるいは古いセーターをほどいて帽子と靴下に仕立て直すような――そうした改変を加えることで、もとの世界のおもかげをとどめたまま新しい世界をも提示し内包する――読み手と世界との関係を1対1から1対多へと変えることでさらにゆたかな収穫を得るための比喩ならば、つねに探し求める価値がある。
寛容さについて考えるとき、はじめて、おとなになりたいと思った。
子どもは他の誰をも赦すということをまだ知らないから。
(なおも溶けのこる悩み)
金持ちになれば解決する貧困なら
恋人ができれば解決する孤独なら
敵が罰されれば解決する怨恨なら
書かなくてよい 歌わなくてよい
心臓がふくらむような感動と
心臓がグシャッと握りつぶされるような感動と
ときとして、
てのひらの上で溶けるあわゆきあるいは舌の上で溶ける砂糖菓子、
鮮明すぎる白昼夢、
かたちがあって、かたちをうしないゆくもの、
そんなものであれ。
沖合を左から、右へ、タンカーが横切って進むのを見ている。
私はだんだん天動説論者になる。
恋心のようである。
恋心は天界の清浄さや地底の猥雑さを求めたりしない。
ただ遠く、遠く、水平に、身体感覚がしだいにうすくなりぼんやりあたりへ溶け入ってゆくゆめをみる。
幸せへの道。
自分の、だれより自分に対する説明能力の向上。
娼婦が信仰に目覚めて心をあらためる――そんな古風な物語をきいて、現在、信仰が1ステージ上の生活あるいは最高ステージの生活などと考えるのは別の罠に落ちたも同然であろうと考えることもできるが、彼女はそもそも“のぼる”ことではなく“変わる”ことによって救われたのではないか。変化は救済であり私たちはいつも救済という名の罠に焦がれている、というふうに。
誰かの、あるいは轢かれた猫、堕ちた鳥その他のご冥福なんてほんとうは祈ったことはない。
あるとすれば意思と感情をもつ遺族、関係者のためだけだ。
死者自身の冥福など想像できない。
死者はどこにも行かない。
この国では通常わずかな肉あるいは灰と骨をこの地上に残すだけ。
死者はここに残り、いる。いるけど、いない。
死はかなしくない。ただ、さびしい、さびしいだけ。
言いおおせたい欲望があり、言いおおせることへの不安あるいは不信(言った途端それは嘘になってしまわないか? 何かをとりこぼしてしまわないか? 「慣れる」こと「答える」ことは悪ではないか?)がある。
前者は後者の態度を不十分であると評する。後者はそれに答えおおせない……世界のあまりにも複雑な単調さに打ちのめされているか、馴染んでしまっているかして。
欲望と不信は理解しあわないだろうか。
大人と子供は理解しあわないだろうか。
(大人とは「答える」態度を負う者である)
フィクションの中で登場人物が死んでも死んでも生き返ることはご都合主義とも言えるが、もともとは悪夢、狂気に抵触する展開だったと思う(スタニスワフ・レム『ソラリスの陽のもとに』やアンナ・カヴァン『氷』を見よ)。
生まれるまでは死んでいたものを。
悪趣味は生の実感のためにある。
もっとも残酷であるのは
残酷であると意識されずになされる行為
なんとも非道い殺人事件に関して第三者が殺人者を罵倒したり被害者に同情したりするのは、感情のレクリエーション。私だって遊びたい、けれど。
家族のあるいは地縁の機能に狂いが生じてきたことを国家に憂えてもらう必要はない。国家はわたしのお父さんではない。わたしはあなたにしつけられるいわれはない。
意図について、二つ
神殿をうっとり眺めながら想うのは
神ではなく
神殿をつくらせた権力者たちおよび
神殿をつくった奴隷たちのこと
(だれがなんのために)
神に向けられた情念の不可思議さ
涼しい男たちの恋物語に
女友だちが夢中になっていたとき
わたしもその恋物語を読んだ
男たちのことよりも
女友だちのことを知りたくて
ある詩歌を読んで「わからない」と思うのは、既知の事象と照合するからである。ある詩歌を読むときには、未知の事象との遭遇をもとめていた、はずなのに。
そのために、ひとつの作品に、ひとつかみの既知を混ぜておくことは有効だろう。ひとつかみの既知が、はかりしれない未知への細い橋を架けるだろう。
「わからない」ことを忌避するのは、「わかってない」と言われることが恥だから。そうでしょう。その種の恥は捨ててしまっても、たぶん、たいして困りはしないのに。
書くとはおしなべて「再現すること」であり
「現前させる」ことはできない
再生 再生
なにを書いてもそれは数秒前あるいは数年前数十年前に録音録画した記録にすぎない
日夜わたしは死体の思い出あるいは思い出の死体を生産しているのかもしれない
それは なげくべきこと? おそれるべきこと?
わたしが秋海棠の花を見て
はな
と記したら
あなたのなかでエンゼルトランペットが咲いた
みたいな
わずかなおおきな違い
わたしが書いて 死ぬもの
あなたが読んで 生まれるもの
それは かなしむべきもの? よろこぶべきもの?
白馬に乗った王子様より、白馬に迎えに来てほしい。
完全な写実があるなら、それは、ある種の境地をいうのだろう。
いちどなにかを諦めた人、いちど心のどこかが壊死した人にだけ、できる業。
(だからたいていの場合、写しとられた対象よりも、写しとった表現は、やや膨らんでいるはず)
完全な写実を受容できない人は、いつまでも若々しく、比較的若くして死んでゆく。
写実に寄り添える人ほど、はじめから老成し、老いたまま永く永く生きる。おそらく。
(あなた、ちっとも諦めてないね)
微塵になりたいこと、遍在したいことは、無私的ではない。むしろ、いうなれば、世界制服への……
こわいものをみたりよんだりしたがるのは
ゆめにちかいから
生きていることを誇り
生き生きしていることを誉める
ぼくはあなたが
きらいです
わたしは極端に不幸にはならないだろう。
わたしは極端に長生きはしないだろう。
自 分 に 祈 れ !
小野十三郎「奴隷の韻律」論は、その是非とは別に否応なく、当時カンフル剤として機能したのだろうと想像する。そこでは抒情すべてが悪よばわりされたわけではない。短歌的抒情=古い抒情=悪、として、あくまでもそのよどんだ「古さ」が問題になっていた。だから非短歌の人も短歌の人も「新しさ」めざしてやっぱり抒情にはげんだ敗戦後だったはず。ところで、ある種の抒情が「奴隷」なら――
感傷は、何と呼ばれただろう。
「畜生」?
感傷に古い・新しいの区別やランキングはあっただろうか。
現在、抒情に奴隷などという過剰なイメージを付す人は、そうそういない。抒情を肯定する/しない、という軸にそって考えるべき時代的必然は、もう(概ね)ない。抒情に関心をもつかどうかだけ。
しかし感傷は現在でも多く否定されるだろう。「安易な」「他人事としての」「~にすぎない」などの語とともに。
ならばなお、抒情より感傷。見極めるまで、感傷を追ってみること。ただしい反動のために。
無駄死にということばがあり
無駄生きということばはない
恋が、ずっと一緒にいたいということ、離れたくても離れられないことをいうのなら、犯罪や事故や病を通して死にいたる恋だけがほんものの恋である。
善意はこの世でいちばんおそろしい罠。
善意は、あなたがそれを拒むことを、拒むだろう。
善意への信心を強いられるだろう。あなたに善意を示す者が、あなた以外の人、あなたが所属しない社会を理不尽に迫害する者であったとしても。
何かに立腹する人間と何かを軽蔑する人間どちらがより小人物であるか……しかし軽蔑する人間がより落ち着いて見えるのはより「精いっぱい」であるからかもしれない……怒りの弾幕を張ることと高みから冷眼を向けることどちらがより大きな恐怖にとらわれているのか……もっとも御しがたいのは恐怖という感情であること……
目で読めば、声に出さないとわからないものだと思い、音読すれば、やはり文字で見ないとわからないものだと思い、いつまでも触れえぬ思いをのこす、詩なるもの。
文学はつまらなくない。
文学ははずかしい。
物書きの書き物は、軽蔑されるためにある。
打ち据えられてこそ。
死角のない人はいない。
リアリティは、奈辺にあるものか。そんなに大切なことなのか。
フィクションにおいて、いわゆる“生活の細部を再発見し、すくいとり、指し示す”手法がもたらす、愛すべきリアリティとは別に、
“人生を、常識を踏み外した、およそ愛せない衝動”に、人はリアリティを見いだせるか。
(たとえばある種のミステリに見られる、ありえない犯罪動機)
(感受性を欠く、うつろな、こころ)
リアリティ。共感。感動。
――うんざりする教条。
(これらを混同するのはどうかと自分でも思う、が)
「あなたは感情的になっている」とたしなめるのは一時的に言い争いを回避し、余裕を示すことで優位に立つための対症療法だけれど、
カンジョウテキとはどういうことだろう。
ものごとを動かすのは、最終的には感情の力なのに、
カンジョウテキを厭うとき、なにに怯えているのか。
死者を愛する心だけがほんとうの愛。
生者による、生者への愛のことばは、なんらかの思惑をともなわずにはいない。死者への愛のことばも、それが生者に向けて語られるかぎり、なんらかのアピールをともなわずにはいない。
生者として生者を愛するなら、黙せ、
と思うのは
絶望からだろうか?
努力をするのは大人
努力をしなくてすむよう努力をつづけるのは永遠の子供
書けば書くほどなにかが蓄積される、
というより逆に
なにかを捨てている気がする。
たとえば、
“こんなことは決して書くまい”と考えてきたこれまでの意識を……
自分を被害者に当てはめてみることはたやすく、加害者になりうる可能性を想像することは(残酷な事件であるほど)むずかしい。後者は人として一般的なあり方ではないし、自己否定にもつながってしまうのだからおそろしくおぞましいことだ。
ものを書く人間は、だからこそ、後者の試みも受け入れなくてはならない。被害者には、ものを書こうが書くまいが、万人がいつでもなれるのだから。
人権、尊厳、としつこく繰り返さねばならないのは、そんなものがどこにもないからだ。
まぼろしの守り手として、まぼろしを言い立てねばならない。まぼろしにことばのボディを与えつづけなくてはならない。そのつど。わたしたちは。
語られるべきもの――ことばによって生きるまぼろし。
求められるもの――ひとしずくのけだかさ。
崇高と官能とはわたしたちの社会生活とさほど矛盾しない。むしろ統べている。わたしたちは打たれつづけなくてはならない。
――友達がいない。愛されない。生きることがさびしい。
ああつまりそう
君は、
「欲ばり」
だ。
欲が君を詩のことばに飢えさせる。
悪事をはたらかないのは善良さのためではなく、悪事に費やす時間と知恵と労力が惜しいからにすぎない。善良は怠惰の、怠惰は善良の謂。
悲鳴は不快だ。
悲鳴を好む人が少なからずいるのが解せない。
悲鳴を好む人は悲鳴に真実を聞き取るらしい。
つまり
「救いは、ない」
わたしは苦悩の表情が好きです、/それが本当のものだと知っているから――/人々は痙攣をいつわらない、/また烈しい苦痛を装うこともない――
(エミリ・ディキンスン、安藤一郎訳)
夜。自分を愛しぬく作業をつづける。
孤独を感じる。
支持者はいない。
支持者がほしくなる。
そんなふうに自分の書き物を自分に見せ、ひとに見せる。
自分の書き物は、ひとにとって……自分にとって、おもしろいのだろうか。おいしいだろうか。
……そんなふうに自分の書き物を自分に見せる。撒いても撒いても乾く打ち水と思いながら。
夜。愛の作業をつづける。
きびしくあれ。きびしくあれ。快楽という過渡を求めてもよいが、愛情という永遠を求めるな。嘆くな。死ぬときまで「これでよし」と言っては駄目だ。
詩歌は小説的ではありうるが、小説ではない。小説を詩歌で代用することはできない。
ものごとの見方を示してくれる書き手と、考え方を教えてくれる書き手がいる。
前者は慈しみ、後者は訴える。
かしこくなりたい
かしこくなりたくない
わかりたい
わかってしまいたくない
くわしく伝えたい
くわしく伝えれば伝えるほど零れてしまう
言葉以前
言葉以前のものを掬う
十指
肉の削げた部分からさらさら零れてしまう十指で
性欲から離れることはあっても、性(性差)について考えることからは一生離れられない。それなしではいられないものだとか、呪わしいものだとか、付随する制度を改善すべきであるとか。
ジェンダーという術語は一種のマナー、エレガンスのためにある。「あなたはあなたであり、ほかとはちがう人間だが、便宜上ほかの人間とともにカテゴライズさせてもらいますよ」。このエクスキューズを行おうとしない者の野蛮は憎まれてしかるべきである。
とりあえず合意的な性的関係をどなたかと共有することは、ギリシア旅行みたいなものだ。ギリシアへ行く機会があれば、ギリシアの空や獣や人や歴史にしたしむことも、がっかりすることもできる。それはギリシアをよく理解することとはすこし……かなり異なる。ギリシアへ行く機会を得なくても、ギリシアを理解する精神はありうる。
性はまじめに知的に思考されるべきものであり、感覚・官能はつぶさに繊細に観察されるべきものである。理の力を。
死者を悼むより自分が死ぬほうが楽だ(気分的に、ということ。身体的な話ではない)。
書くことはしんどい。
書くことはたのしい。
自己満足にすぎない。人類も世界も救えるわけがない。ほんの一滴の思いやりを含ませれば、他人の一人ぐらい……半人ぐらい……救えるかもしれない。偶然。
ほんの一滴の思いやり。
書くことは。
私は、私を、消費させない。
純文学というものがあるならそれはかならず前衛文学でなければならない。名作か駄作かにはとりあえず関係なくともあれ未来への関心をもつ者だけがかかわるジャンル。ところで私は未来にあまり関心をもてない。
うかうかと生きる希望をいだかせるものはたくさんある。
死への夢想は生きてしかつむぐことができない、と。
おまえはまだ甘き死を、死の縄目を心から知ってはいない、と。
詩人だって――もしかしたら詩人がいちばん――虚業家である。言葉の利鞘ばかり求める。
「ひとりたりとも取りこぼしたくない」と思うことによって、慈悲と罪悪は表裏一体になる。
*が*であることは、*の専売特許ではない。
*のことは#には分からないと宣言するのは、要するに説明能力の欠如である。
自分と他人の身体は別のものだが、自分と他人はときおり志向や感覚を共有している。自分の身体は自分だけのものだが、他人の思考にうながされて行動することもすくなくない。
「自分の主人は自分」という不可欠のレトリックにどこまでしたがうべきか――とりあえず、
○自分は自分の管理人である
○自分は自分の所有者ではない
○他人は自分の管理人でも所有者でもない
軽蔑されることを恕さなくてはならない。軽蔑することを避けなければいけない。
生きてゆくために。
他人と自分にひそむ暴力を嗅ぎあてなくてはならない。
生きてゆくために。
幼さ、愚かさをよそおうことは、ほんとうに稚拙であることが露呈したときに備えての保険である。
がまんづよい猫は、猫ではない。
見せ消ち。アンチクライスト。否定はつよい肯定。
わたしは拒まないことによっておそらくはときおりあなたを拒んでいる。
わたしの寛容はときおり不寛容のあらわれである。
わたしがあなたのものになりはじめたらそれはもはやわたしではないものなのであなたはついにわたしを手に入れることはない。
あなたはわたしを手に入れたければわたしを手に入れようとしてはならない。
尊敬できるのは、まるで間違わない人ではなく、間違いに気づいたとき適宜軌道修正できる人。
未来の私は「あなた」であり、過去の私も「あなた」である。
「あなた」ではない現在の「私」は、私の中の何%ほどを占めているものなのか。
「私」は実体なのか。
*
私の盲目と無理解があなたを怒らせる。
私はあなたに憎ませたりはしないだろうが、ただ、あなたを怒らせてしまう。
私はどうしようもなくて悲しい。私はやがて仕方がないと感ずる。
*
「私」は私を支えない。あなたは私を支えない。
「私」はあなたである。「あなた」は私である。
病だろうか。
あなたが「私」の前から見えなくなり、「私」が私の中から見えなくなってしまうのは。
あなた は 誰?
ある日。
神さまはいないのだと思いました。
経験を受けいれ写実に徹することができないからです。
それができる人は神の創造の確かさすなわち〈あるがまま〉に身をゆだねるところからつねに出発します。
私は自分の創作の跡を確かめることしかできません。
人の創造性など限りあるものですって?
そのとおり。私の創作は私の能力によるものではありません。先人たちの成果のコラージュ。
そうです。私が与えられるのは先人からであって神からではありません。
創作者は神について考え、神に会わない。
会いたいなら、会おうとしてはいけない。神さまはいません。
歌は文学かという、ふるい命題について。
たしかに歌はいつも音楽から文学へ向かっていただろう。
文学になることではなく、文学へ向かうことが、歌の望みだったのではないだろうか。
立ちあがり伸びあがり。
運動。
すくなくとも。
歌は運動に恋をする。
力をこめて推量し、息をひそめて断定する。
私はなんというむごい靴を履いてしまったのでしょう。
脱ぐことはできるのです。私はモイラ・シアラーではありません。
なのに脱ぎたくないとは。どうしたことでしょう。
いつか光が届かなくなってもなお履いているつもりなのでしょうか。私は。
こどものころから考えていたのは、相手のことがだいじであればあるほど、だいじなことを告げにくいだろうということ。
たとえば。
不治の病を告げられるのはかまわないが、告げるのはたいへんむずかしいだろうということ。
だいじな相手ほど他人だから。
他人を前に、もはや最後の相談相手をうしない、このうえなく孤独な自分を知るから。
「ふたりでいても、ひとりとひとり」と言えるうちは、ふたりでいるのだから孤独ではない。
さようなら。
死ぬのはつらい。
ひとりで考えるのはとてもつらい。
帰りたい
なんて言いたくない
帰る場所なんかない
なんて当たりまえすぎて言いたくない
帰るなら
行ったことのない土地へ
帰れ
(白いエルフとともにホビットは帰った)
郷にはさらに郷がある
死にはさらに死がある
(白いヨナタンとともにカールは行った)
まったき終焉は
きっと
ない
地震のない都に住みたい。
崩壊と再建の繰り返しという夢を禁じられた都に住みたい。
やりなおしのきかない世界。
やりなおしがきかないために、繰り返しならぬ、蓄積によってきずかれる世界。
憎悪、策略、謀殺、あらゆる酸鼻の極み。
それらの蓄積の底から差す一条の知恵。
清算ではなく、知恵を求めることにより、永い過ちの果てに永く栄える都に住みたい。
すぐにわかる人は、感傷的にならざるをえない。
すぐにわかる人(わかった、と思う人)にとって、すべてはすみやかに過ぎる思い出だから。
わかることの不幸。
わからない人の愚昧のために未来はある。
わたしは未来を待つ。
1)何が 2)どのように
書かれているかに、人は興味をもつ。
批評的思考が1に振れるとマニフェスト、2に振れるとポエティクスに近づく
と、して。
その両者を満たそうとする試みは、あったか。
試みは、果たされたか。
ゆっくり、しかし決して止まらないように、話しつづけなくてはならない。
断片とは未解決事項である。
加齢とともに、未解決事項が、いっそう降りつもる。
なおのこと、ゆっくり。
おなじことを言いつづけること
おなじ人に継続的に愛されようなんて虫のいいことを考えてはいけない
わたしを愛する存在はある 永遠はない
入れかわり立ちかわり果実をついばみにおとずれる鳥たちのように
人びとがおりおり触れてくれますように
一期一会のみなさん
時になつかしく果実の味を思いだしてください
あなたがたの人生の切片を
わたしはもくもくと実らせつづけます
一生おなじ歌を 歌い続けるのは/だいじなことです むずかしいことです/あの季節がやってくるたびに/おなじ歌しかうたわない 鳥のように
(「ソナチネの木」岸田衿子)
俳句より短歌のほうがみじかいんじゃないかと思うことがある。
俳句は膨大な時間の再構成であることが多く、短歌は須臾を切り取る断面であることが多いのでは、と。
往々にして歌人よりは俳人のなかから普遍性のある小説を書く人材が現れやすい(ような気がする)のは、そういう理由によるのかもしれない。
おべんとばこの詩型。
仕切りを動かしてごはんの量を調節しながら、きょうは何を詰めようかな。玉子焼きはいつもどおり。筑前煮。からあげ。ブロッコリ。
という具合だ、ときおり、短歌の丈というのは。
注目される方法。人を殺せばいい。
人から見られることを想像したいなら自分を。人から見られることを実感したいなら他者を。死体は究極の客体だから。
私はまだ見る人でいる。
無意識の内あるいは意識の内になにかを殺しながら、まだ。
…自分が客体になるなんてのはね…
(『はみだしっ子』三原順)
でも判断を停止してはいけません。ときには変更も背信もできる人でありなさい。
いついかなるときも真面目な人が好き。
慎ましさなど美徳でもなんでもない。ささやかな思いやりはささやかな美徳であるが。
幅数十センチメートルの用水路でも、海抜数百メートルの峠でも、とにかくなにかを越境した感触がなくてはいけない。なにかを書き終えるということ、言いおおせるということは。
移動はたやすく越境はむずかしい。
越境を果たさず力尽きた書きものでこの世はいっぱいだ。
女一人佇てり銀河を渉るべく 三橋鷹女
寂しさに殺される日が私にも来るのだろうか。愛の記憶の尽きる日が。
わたしは女の子/母たちはさかえ/石女だけが/美しくほろびることができる
(「ふしぎの国」矢川澄子)
旅じたくは、ぱんつから。
ほんもののオーロラなんか見たら死んじゃう。と思う。
とりわけ天体現象に関してはイメージの内に生きている時間のほうがずっと長いのだから。この世でこの手に触れられるものはほんの僅かなのだ。
「詩的である」と称されても安心はできない。「詩である」とはまだ言われていない。
「双子」安易にして普遍のツール。生き別れの相似のきょうだいを思いながらひとはひとりを生きる。
虚偽…自分を説得しつづけること。
不信…他者への最大の甘え。
自由…救済を除くすべて。
水平にあこがれよ(ティルナノグ)
水平にあこがれよ(ニライカナイ)
階層なく
天に天国はない
昇天も墜落も
垂直は死のベクトルにすぎない
死を見あげ死を見おろしながら
蹌踉う途上にあれば
仰ぐことはない
見はるかすばかりでよい
候鳥のように
水平にあこがれよ(ティルナノグ)
水平にあこがれよ(ニライカナイ)
階層なく
照れが必要です。
感じる
知る
考える
だいじなのはそれだけ
何がつなぎとめるでしょう 目の利かない私を
誰がつなぎとめるでしょう 愛に不得手な私を
私はなかぞらに住んではいない 土地を離れてはどこにもいない
うろおぼえの歌をうたいながら
――行っちまうんだ 行っちまうんだ だけどかれはまだここにいます
"I am leaving, I am leaving." But the fighter still remains.
('The Boxer' by Paul Simon)
守護者あるいは使者志願。
主人公でいるより、主人公にそっと添う者でいたい。
いわば地上の事のなりゆきを鳥瞰し把握し傍観していたいという願望。
物見えず、苦難で手を汚し、獲得する地上の者――ではなく。
守護者あるいは使者志願。
ほんとうに?
身体は最後のふるさと。身体は最後のいなか。
それは人間関係と同じぐらいままならない。
病。死よりも悩ましく、まれに、慕わしい。
私が悪人だとしたら、それは、「知らないほうがよかった」と思ったことが一度も無いからだろう。
知ることが、その対象となる事物の全体性や有機性の喪失、枯死を招くかもしれない。しかし知ることができるなら、やはり、殺すことに躊躇は無い。
理想主義。叡智のエンターテインメント。
写生とは、具体的な痕跡を写しとること。
痕跡とは、必ず過去に属するものである。
すると、写生とは過去に執すること、ということか。
造物主が遺した過去。あらゆる生命、あらゆる現象。
過去が、過去だけが、植物の霊のようにはびこり、さきわう、土地、生活、歌。
憎悪は憎悪されるか、喝采されるかのどちらかだ。
わたしたちが故なく、あるいは故あって嫌うもの。
そのものをあからさまに呪うことを、良心は許さず、好奇心は煽りたてる。
わたしたちは正義の女神に、きっと、けっして、出会わない。
異性の存在はよくもあしくもノイズである。集音したり、カットしたり、みんなみんな忙しい。
慰撫、誘惑。
悲傷、快楽。
どちらも魅力的ではあるが、後者組に与するほうが合理的ではあるだろう――偽善から免れたいのなら。
悪人とは、この世を愛せない人の総称である。
音楽だけは倫理から免れていて構わないと思ってしまう。
文章はロジック、絵画はデザインにより(迎合的・調和的・対立的、いずれにせよ)倫理を表明せざるをえないことが多い。
音楽にも、歌詞の問題、時局や宗教との関わりの問題は常にある。国歌を一部でもアレンジすればもはや無垢でも無辜でもいられない。
それでも音楽だけは倫理から免れていて構わないと思ってしまう。リズムとメロディ、韻律、それだけは。amoral ということ。言葉が音楽を恋う。歌。
人間嫌いではなく、人間関係嫌いなのだと思う。
むしろ具体によってとりこぼす可能性を考える。
世界、真実、永遠、宇宙、といったことばを詩歌で使いたくないとよくいわれる。「木」より「けやき」「はんのき」などと書き、枝葉のようすを描くよう勧められる。メソッドとしてそれは正しい。正義といってよい。そうすると、
大きな枠組は詩歌には悪だろうか。
悪ならばいっそう、乗りこなしてみたくなる。非個性の海に呑まれる恐れと抱きあいながら。
海は意味にけがされ/今では疲れてしまっている/比喩の残骸が/岩場にくだかれ/海/といわれても思いだすことは何もない
(「盆の上の女神」井坂洋子)
枯れる、死ぬ、咲く、春が来る、別れる、死ぬ、出会う、春が来る、病む、死ぬ、治る、春が来る、喪う、死ぬ、生まれる、春が来る、
年々ちいさな死がたまる。日々スタンプをためる。
何個ためれば、おおきな、一度きりの死がプレゼントされるだろう?
回すべきもの。足首。頭。スープの中の玉杓子。
詩的飛躍、は怠け者の方法。
遠くへ、いきなり行ってしまいたいのだ。準備も交渉も運動もなしに。
机の上のコップと時計のあいだにある十数センチメートルのはるかな距離を小説は書かねばならない。
詩ならたとえばコップと時計に同時に宿るようなあり方を示せるかもしれない。距離を縮めたり伸ばしたり撓めたり消したりしてしまいたい。
armchair detective みたいに座ったまま、怠け者の宇宙旅行をつづけている。情熱的に。
幼いころから矛盾していた。
ひとから離れてひとりにならないと、ひとについて考えることができない。
ひとの中にいると、ひとが見えなくなる。
プレアデスを直視するとひとつひとつの星団がぼやけてしまうように。
観察以上に夢想に多くを負っている。生きづらい。
セルフチェック。自分の気持ちを点検すること。
今ほんとうに悲しいのか。ほんとうに楽しいのか。
これは心の動きとしてあまり幸せなことではない。点検なんかせず、無心に気持ちを生きられたなら。仕方がない。性分だ。自分を見る自分。自画像。それは双子のきょうだいである。きょうだいの描写が詳細になればなるほど、意識や感情は遠のく。
物語の一節のような歌をうたってみたいと思い
歌は物語とはちがうものなのだと思い、なお
物語の一節のような歌をうたってみたいと思う
物語の一節が、一巻より魅力的に思えるとき
どんな創作物にも、なんらかの理想の自己像を見ることができる。
けなげな私、あわれな私、たたかう私、とらわれない私、といった自己愛。
自己像へ、自己像へ。
もの見えぬ自己を微に入り細をうがって描きつくし、自己の向こうへ出てしまう一瞬、自己は自己愛を離れるかもしれない。
出てしまうことは放下、それとも、死だろうか。
死は愛から自己を救うものだろうか。
私は狂気をあまり、ほとんど、たぶん、まだ、知らない。
ゆえなくロマンティックに感じていた季節を過ぎてなお。
狂気(たとえば被害妄想、たとえば尋常ならざるストーキング)は、音がまったく遮断されているためどこまでも透明な意識を一方方向へ貫いて進みやまない光の毒矢のようなものなのだろうか。
狂気とは、むしろ、明るい青空の下、さらなる紺碧を願い、見えざるものまでを見はるかすべく澄明を願う想いを言うのであろう。正常にあらぬことが狂気なのではない。
(「見えて明るし」永井陽子)
ひとの幸福や幸運は止められない。責められない。
ひとの不幸と憂鬱がなくならないのはそのせいだ。
「言葉の暴力」という言い方が、実のところ、有効でないこと。
言葉や音声は、本来、暴力である。
それらのせいで、こそばゆいような細かい傷が私たちには常についている。
「心を傷つける・傷つけられる」という言い方の手軽さ。
吐き気がする。
傷は特権ではない。
細かい傷をしきりにつけあいながら語りあわずにいられないありかたを友愛と呼ぶのではないか。しかし実際、それは得がたい。私たちは弱さのあまり、傷を癒しあうことを優先してしまう。
他人とは意外と誠実なものだ。
なにはなくとも、誠実でありさえすれば。
わたしが目を閉じているからといって眠っているとはかぎらない
あなたの声を聞いているよ
わたしが目を閉じているからといって死んでいるとはかぎらない
あなたをずっと見ているよ
なやみは娯楽。絶望している暇などない。
幸運には、幸運のパン種の仕込みが必要。
いちど手放したものは、みるみる沖へ遠ざかる。
だから手放してはならない、ということではない。
ただ、手放したなら、自分の所有物であったことをすみやかに忘れなくてはいけない。
むかし、ということは、自慢にならない。
あの赤い一点のボールは、もう、私のものではないのだよ。
幸福な光景のただなかでは、しばしば気が遠くなる。
光景が、切り離されて遠ざかる、島、さびしさ、よるべなさ。
孤独ではない。不幸ではない。
負の感情にはかならず手ごたえがある。
しかし幸福な光景のただなかでは、しばしば……
はかない幸福とたしかな不幸、それらははじきあうものではなく、河口の真水と潮水のようにいくたびも入れかわる。
子どものころは死が近かった。おとなになるにつれて死は遠くなる一方だ。
知らないことが多すぎると気づけば気づくほど。
死が子どもの私の目をこじあけた。今、無知が私の目をふさごうとする。
誰もかれも忍耐づよく愛を待っている
忍耐を惜しめば負けといわんばかりに
煉瓦の街に列をなして
独裁者は愛をはじめられなかった
稀代のプレイボーイは愛をやめられなかった
犯罪者は愛をはじめられなかったかやめられなかった
と想像する
伝説に固有名をきざんだ人はたいがい愛に病んだ人だった
と
忍耐を惜しんだ人の負けを遠巻きに指さしながらそうでなければ
ほんらい勝負事ではないのだという顔でいずれにせよ
煉瓦の街に列をなして