途中、見つけたので再録

今もあまり意見は変わってないと思います。以下(★~☆)。

2009年5月12日 (火)
シーソーゲーム的ストーリーに耐えられない。
目的とするものとルールがはっきりしていて、その物語要請上、ほぼ結果がわかっている、あるいはせいぜい勝ちか負けか、どちらかしかありえないようなラストに向けて、鑑賞者が自己投影すべき登場人物がさんざん苦労するという手順が面倒極まりない。
こういうものはゲームとして実践するには面白いだろう。それは結末に至る過程で、すべてその判断と動きが参加者の裁量のもとにあり、勝つも負けるも当人の判断と技によっているからだ。いわば駄目なゲームは参加者の責任であることが予め認められている。
だが、読む物語というものは読者の裁量には委ねられておらず、作者というプロデューサーがある意図のためにわざわざ行ってみせるゲームを横から覗いているという形になる。すると、見え透いた焦らしやためにする苦労といった、「下手なゲーム構成」に対し鑑賞者は常に不満を言いたくなる。
「俺ならそんな馬鹿な話は信じない」「そもそもそういうくだらない理由のために俺は動かない」「俺ならそこで相手をすぐ押さえる、逃げる猶予など与えない」等々。そういった不満がまったくないゲーム的物語展開はあまり見たことがない。
しかも物語のうまくない作者ほど不自然かつ理不尽なそして唐突なシチュエーションを用意し、読者が感情移入することを予期される登場人物が無駄な困難に苦しみ、たいていその感情的対価は後になっても与えられず、不愉快は解消しない。しかもルールと世界は既に決定していて変化しないため、ただ結末に至るまでの面倒な請負仕事のようにしか思われない。

望ましいのは、広い意味での探求を前提とし、探れば探るほど敵味方や良し悪しといった単純な世界のルールが思いもかけない形に変容してゆく過程を、ひとつひとつ納得ある言葉で語ってゆき、そのため細部には当然の感があるのに進めば進むほど世界の奥深さが見えてきて震撼する、新たに見えてくる世界の異変への驚きがきわだってゆく、そして終わりも決定はせず、さらに進めばさらに驚異が待つだろうことを伝えつつ、ひとまず仮初の結末で終結する、そんな物語だ。
それは徹底してゆけばもはや物語という形式からも離れてゆくのではないかと思う。究極には物語が詩である地点を目指しているのではないかと思う。

とはいうものの、なんだか世の中の「エンターテイン」という事柄はせいぜいこんなことかも知れず、という言い方ではエンターテインメントそのものを蔑むような口調になるので、言い直すなら、低級な楽しみに浸るだけで十分な客が多いとすれば手も抜きますわなあ。
自分がこれだと思う著者の作品って、娯楽であろうがなかろうが、どこか定型としての物語を外れているように思うのだが、いや案外。

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『抒情的恐怖群』の思い出(1)

ここしばらく、憫笑されるべき僅かさだが、なぜか『抒情的恐怖群』が通常よりは売れている。
無様ながら自己宣伝を続けたかいがあったのかどうか、今、自分には他に選択肢もないので無様を続けさせてもらうことにしよう。
この先一冊でも買ってくださる方があることを期待して、以下、『抒情的恐怖群』についての過去の記述から(★~☆間)、一部編集済み。

2009年3月 5日 (木)
予定外という要素がうまく働くことが創作には必要なのでないかと思う。むろん、うまく働いているかどうかの判断は鑑賞する人に委ねられる。

書き下ろし短篇集という話をもらったとき、ぼんやりと考えていた方向もあったが、ひとつひとつと書いているうちにやや規格外の作もできてしまった。
できに不満というわけではない。収録作はいずれも互いに親密な関係にある。けれども全篇をひとつのテーマでは括りにくい。
翻って全体をみれば抒情の要素と恐怖の要素があって、その配分の違いが作品の差にもなっているようなので書名を『抒情的恐怖群』とした。

親密な関係と記したが、それはたとえば、作品Aのある部分と作品Bの一部に関係の深いところがあって、またテーマについてはBはCに近く、そしてCの別のある要素がDと共通、しかしAとC、BとDはあまり似ておらず、全体にわたって共通なものはない、個々は独立に見える、というようなもので、確か、ヴィトゲンシュタインがこういうのを「家族的類似性」とか言っていたように思う、そんな関係。

2009年3月 8日 (日)
『抒情的恐怖群』収録作品題名、以下

「町の底」
「呪い田」
「樹下譚」
「グレー・グレー」
「影女抄」
「帰省録」
「緋の間」

以上の七編。「グレー・グレー」のみ「文學界」2008年10月号に既発表。
他は書き下ろし。

2009年3月18日 (水)
『抒情的恐怖群』収録作の題名は、既発表の「グレー・グレー」だけが「・」も入れると七文字、他はすべて三文字しかも大方漢字、なのでなんとなく違和感あるかなとも思っていたが、ゲラで目次を見るとこんな様子。

 町の底(まちのそこ)
 呪い田(のろいた)
 樹下譚(じゅかたん)
 グレー・グレー(ぐれー・ぐれー)
 影女抄(えいじょしょう)
 帰省録(きせいろく)
 緋の間(ひのま)

( )とふりがなのおかげで、素のままよりは差が目立たなくなっている。
「グレー・グレー」にまでひらがなのふりがながついていて、やはり一番文字数が多いが、隣の「影女抄」とそのふりがながそれに次いで長く、「帰省録」「緋の間」、とだんだん短くなっているので案外「グレー・グレー」の長さが気にならない(と私には感じられた)。
できれば「町の底」からも順に読みが長くなっていればもっと効果的だったかも知れないが、そこまで無理をする理由もない。
ともかく、この目次を巧みに組んでくださった方に大感謝。プロの技だ。

2009年3月23日 (月)
『抒情的恐怖群』(毎日新聞社)の装丁は中島浩さんにお願いすることになりました。
また、表紙にはアーティストの西尾康之さんによる立体作品の写真を使用させていただくことになりました。
私の知る中島浩さんのお仕事で特に好きなのは寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』と谺健二の『赫い月照』(初版単行本)。
西尾康之さんは今注目されているアーティストのお一人ですね。
とても果報なことと思います。

2009年3月25日 (水)
早くも、オンライン書店 本やタウンでの近刊紹介に出てました。

抒情的恐怖群
高原英理 著
毎日新聞社 4月中旬 税込価格:1,785円 ISBN:9784620107387
「都市伝説、土地の怪談、現代の妖怪談、恐ろしくも美しい官能的ホラー。ますます充実する著者の最新短編集。」

とのこと。 ↑当たり前ですがこれ、私の考えた言葉ではありません。
面映いですがありがたいご紹介でした。

2009年4月18日 (土)
『抒情的恐怖群』発売。毎日新聞社刊、税込み1785円。
京極夏彦氏に帯文をいただきました。

2009年4月25日 (土)
恐怖している時間は少なくとも明確な意味のある時間だ。
だから私は恐怖を描くフィクションが好きだ。

今更こんなことを再録して、とお思いならどんどん言ってほしい。それはここを読んでくださっているからこそ言える批判だからだ。

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最近ツイッター等で参照されることの多かった発言から

あまり遠いわけではないが、これも、はや過去ではある。以下、抜粋する(★~☆)。

2012年5月 7日 (月)から

たとえば「批評はいらない」という意見は、それ自体が批評であることを忘れ、自己否定していることにも気付いていない。こういうようなのが低級な批評である。
TVで語られたことをただ反復する頭の悪い発言もそれである。
しかし、最低の、自分で考えてもおらず、状況に何か言わされているだけの批評も、批評には違いなく、その意味で、人は批評せずに意識を持つことができない。
すなわち批評は意識の本質的な働きであり、何かの付け足しや後追いや二次創作と決めることはできない。個人の批評意識を辿るなら「オリジナル」の意味も失われる。批評する個人の創造性からは、その批評対象は、オリジナルではなく、それを批評する者にとっての素材と考えることにならざるをえないからだ。

■もう少し続けると

後半、ここに自分がクリエイターであると自負しつつ「作家・小説家」を自認する人と、「批評することを自己表現とする人」との齟齬がある。
「作家」自認者は、自己の「作品」を、(たとえ批判されても、――ただしその態度を貫徹できる作家自認者は少ないが)飽くまでも「作品」として読まれることを望む。
それに対し、批評者にとっては、いかなる作家の書いたものだろうが、当人の得た情報である限りにおいて、落書きやたまたま耳にした会話や見聞した事実などと同列にあるのであって、その作家の書いたことだけを特権化する理由がない。すると、ときにその批評はある作家の作品を「読み込む」のではなく、「使い捨てる」ことにもなる。これを「作家」自認者は許さない。
だが中には批評者でありながら「作家」の願いのわかる人がいる。そういう人は場合によっては大変にありがたい、作家の理解者となり、言及された作家は喜び、あるいは創作の支えとするだろう。
ただ、そういう批評の仕方は実は批評全体の中ではきわめて特殊なものであって、それができる批評者は自身、「作家」的な方向性を持っているのではないかと考えられる。自分が作家側であることを想像できるからこそ、「作家」の読んで欲しいところがよく見えるのではないだろうか。
まだ続けられそうだがひとまず終える。

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「グレー・グレー」の起源

再び過去に関する記

近く、言及していただけるとのことなので「グレー・グレー」について作者から言えること以下。

『ゴシックスピリット』の第4章「死者たち」をお読みの方にはすぐわかることだが、
「死後も身体が崩壊するまでは人格がほぼ保存されるリヴィング・デッド」の案は山口雅也の『生ける屍の死』をもとにしている。エンバーミングのアイデアもこの作品に倣っている。
ただ、この、幽霊とは異なり身体がありつつ、死んだ後も意識がかろうじて残る、という想像の起源は、古くエドガー・アラン・ポーの「ヴァルドマール氏病状の真相」あたりかとも思う。
このシチュエーションでラブ・ストーリーというプランは同じく『ゴシックスピリット』第4章で紹介した『水野純子のシンデラーラちゃん』による。
ただし「グレー・グレー」は『シンデラーラちゃん』のようなラブコメではない(はず)。

信頼できない「作者の言葉」として言うなら、あるデカダンスの根拠のようなものとしてリヴィング・デッドを用いたといったところ。

それでもややユーモラスな場面もあるとしたらヒロインが天然なところによるか。
この種のキャラクターは2006年『猫路地』に収録された自作「猫書店」に出てくる猫娘が始まりかとも思う。

あまりあてにはならないがこんなところで。

5/17追加。
『ゴシックスピリット』第4章の第4節からも考えてみれば、(「ゾンビ」とは異なる)「リヴィング・デッド」という発想の起源は聖書のラザロの復活からか。そこまで遡らなくとも、アンドレーエフの「ラザルス」から、というのならかなり確かに思う。

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昨日は373アクセス、訪問者196人だったので

たまに佐藤弓生関係の宣伝でも。
これ→

「薄い街」展 ◆ 2012年5月17日(木)~6月4日(月)
カフェ百日紅協力展←場所は

短歌 佐藤弓生

写真 田中流

● 関連イベント

街のうたうら~あなたの一首、調合します~

歌人、佐藤弓生が「あなた」のために短歌を調合いたします。

5月20日(日) /  6月3日(日)

どちらも営業時間内随時

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「グレー・グレー」(2008)が「さんかれあ」(2010~)と似たシチュエーションであるという件

5/5の鼎談のあと、川田宇一郎氏から以下のことをご教示いただいた。

はっとりみつるのゾンビラブコメ漫画「さんかれあ」は高原英理の小説「グレー・グレー」とシチュエーションが非常によく似ている。どちらも落下して死んだ女子が生前の意識を保ちつつ生ける死体として甦り、好きな男子とともにいる。その女子の性格が天然なのも同じ。

「グレー・グレー」は2008年10月「文學界」に掲載され、2009年4月、毎日新聞社刊行の『抒情的恐怖群』に収録された。
「さんかれあ」は2010年1月以後、「別冊少年マガジン」に連載中。

発表時期を見て分かるとおり、「グレー・グレー」は「さんかれあ」をまねたのではもちろんない。
といって「さんかれあ」の作者が「グレー・グレー」を読んで発案したということもまずないだろう。

死後も人格のほぼ変化しないリヴィング・デッドを恋愛物語に用いるというやり方が日本では2008年から始まったというべきなのである。

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『女の子を殺さないために』出版記念鼎談・於ジュンク堂池袋本店・2012年5/5で言い残したことを記す

鼎談というのは形式上で、実質は、川田宇一郎・栗原裕一郎両氏対談に司会・高原英理。

とはいえ私も要所ではいくつか発言した。

終わってからあれは言っておくべきだった等の感慨を残すのは常だが、今回は立場が楽だったのでそうした残念さも比較的少ない。

が、それでもやはり一部、不足の点があるのでここに記す。以下。


批評・評論は楽しいことである。そして必要不可欠な営みである。
詩人でない人はいるが、意識ある人間であるかぎり批評一切をしない人はありえない。
ただしその批評意識が低級な場合も多いというだけである。
たとえば「批評はいらない」という意見は、それ自体が批評であることを忘れ、自己否定していることにも気付いていない。こういうようなのが低級な批評である。
TVで語られたことをただ反復する頭の悪い発言もそれである。
しかし、最低の、自分で考えてもおらず、状況に何か言わされているだけの批評も、批評には違いなく、その意味で、人は批評せずに意識を持つことができない。
すなわち批評は意識の本質的な働きであり、何かの付け足しや後追いや二次創作と決めることはできない。個人の批評意識を辿るなら「オリジナル」の意味も失われる。批評する個人の創造性からは、その批評対象は、オリジナルではなく、それを批評する者にとっての素材と考えることにならざるをえないからだ。
その意味で、たとえいわゆる「創作作品」がなくなったとしても批評が終わることはありえないし、あるとしたらそれは人類の文化そのものの終焉である。

ということをまずよく前提として、しかしながら、文芸への批評を専門的に行なうことを職業とする「文芸評論家」というものが現在では職業としてほとんど成立しなくなりつつある、という件を告げた。

私は批評は楽しいことであり不可欠なものであると今も思うが、しかし、著述家としてはもはや批評家・評論家ではない。もともと書いていた小説を主にする「作家」と呼んでくださいと告げた。

現在広い意味での文芸への批評は、書き手がその創作として行なう独立した評論と、書評・紹介とに分かれると思う。
そして、書評家・レビュアーは職業として成り立ちうる。しかも常に必要とされている。
それに対し、創作としての独立した評論を書く評論家は、文芸誌にすら必要とされなくなりつつあり、ある理由から編集部が認めた特定の僅かな評論家以外の評論はもはや発表場所もない。
特定の評論家ですらそれだけを仕事とすることが難しいのは昔からだが、それよりも、文学にかかわる編集の側から、書評的な批評以外が求められることが大きく減っている。それはこれからも減り続けるのではないかと思う。
省みて自分は、小説・評論ともに、いつも自らの書く行為を独立した創作のつもりでいたから、評論と言えば創作としての評論しか書くことができず、書評的評論は依頼されたおりにひきうけることはあっても、自分がずっとやり続けうるものではないと感じる場合が増えて、その結果、評論家という仕事はしていないと言わざるをえないことに至った。

19世紀ヨーロッパでは詩が文学の王だった。それで散文の得意な作家も無理に詩を書いた。現在の日本では小説が文学の王である。
1980年代後半から90年代初めまでのほんの僅かな一時期、評論が、王とは言えなくとも、重要と見られたことがあった。それも独立した創作的な評論が、である。
しかしその状況が去った今、創作的な評論活動は現在の詩と同じく、ほぼインディペンデントで行なうべきものとなっている。
ちょうど文学フリーマーケットも拡大の一途を辿っているのであるし、文芸評論はこういった場で続けられるのが最も無理がないだろう。
残念ながら、かつてのように大手の庇護は望めなくなった。
つまり本当にやりたい人だけがやるものとなった。

さて、私は評論を行なうときは依頼されてでなく、自発的に行なうこととして久しいので、私の評論はインディペンデントでしかありえず、しかもそれのなされることも稀となった。
逆に、小説を書く時間の方が相対的に増えたのでとりあえず小説家・作家なのである。
虚偽の申告をしないという意味で私は評論家ではない。

川田さんの立場と栗原さんの立場は違うが、いずれも評論を書く人であるところは同じである。
二人とも、あまり規模は大きくならないにしても、私よりは評論家的な発言の場を継続しうる可能性を持っていると感じた。

以上が5/5に言い残したことである。

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映画「マンク 破戒僧」

ここしばらくはゆえあって過去に関することしか記さないのだが本日は例外とする。
マシュー・グレゴリー・ルイス原作の「マンク」の映画化作品をシアターN渋谷で見てきたので短くいくつか。
ドミニク・モル監督、アンヌ=ルイーセ・トリヴィディク脚本、ヴァンサン・カッセル主演。→
私は昼メロと呼ばれるイメージの愛欲恋愛ものが大嫌いなので、これもエログロ風味の愛欲ものにされていたら嫌だなあと思っていたら、監督・脚本家もどうも私と同じ志であったようで、まるで自分がプロデュースしたように作りたいところが一致した作品になっていた。見たくないと思うような展開のところはすっきりカットされている。
私から言わせると実に志が高く格調高い。
それは原作ではただ「堕落する」としか言えない修道士アンブロシオの行いを、飽くまでもこいつだけが駄目だったのだ、というような物語にせず、むしろ人間だれでもありうる運命的な悲劇のひとつとして描いているところにある。
つまり普遍性があるのだ。あたかも「オイディプス王」などのギリシア悲劇を見るような展開になっている。確かにアンブロシオは欲望に動かされてゆくが、しかしそれがどうも逃れようのないもののように描かれており、いかに最悪のところまで行き着き、いかに堕落はしても、最後まで彼自身の人間としての、もはやそれを尊厳とは言えないのかもしれないがしかし何らかの尊厳のようなものはなくならない。彼を軽蔑するよりはむしろ、生きることそのものが不条理な苦行なのだとさえ思わせる。
私は、単なる愚か者・欲望に我を忘れて後先考えない者に同情しない。そういう鑑賞者から見て、決して切り捨てられない存在としてこの映画「マンク」でのアンブロシオはある。
むろんゴシックロマンスらしい陰惨さも忘れられておらず、火事で顔を焼いてしまったからとして仮面で現れるバレリオの、佐清もかくやといわんばかりの気味の悪さや修道院のガーゴイルなどが印象深い。
ただ、怪奇だが、ホラー映画的な恐怖追求は二の次になっていて、その意味でもわれわれが感じるところのゴシックロマンスの読み方に近く、しかもその最もよい読み方の一例となっていると思う。
さらに、ラストは原作を踏襲しているとはいえ、その意味が原作にない、大変深いものとなっていて、ここで一転して神とは人とは悪魔とは、と考えさせられるものとなるのだった。
とても気に入った。この間、原作も国書刊行会刊行のベスト3に入れたところだが、この映画も原作に劣らない名作として勧めるものである。

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2006年の主な執筆に関する回想

こんなこともやっていたという覚え書き。 2006年12月31日 (日)の記から(★~☆)。

【雑誌系】

■怪談専門誌「幽」に「記憶/異変」第5・6回を連載。

■フリーペーパー版「早稲田文学」誌に「リテラリー・ゴシック」02~07を連載。

■ゴシックカルチャー研究会編「コムニオ」誌の第3号以後、監修をひきうける。

■「彷書月刊」誌3月号「特集 アドニスの杯」にエッセイ「遠い記憶として」を掲載。

■「群像」誌5月号に小説「石性感情」を掲載。

【単行本系】

■『ゴシックハート』三刷となる。

■Rebecca L. Copeland, edition 『 Woman Critiqued : translated essays on japanese woman's writing 』(2006 University of Hawai`i Press)に『少女領域』序章が翻訳の上収録される。

■東雅夫編『猫路地――猫ファンタジー競作集』(日本出版社)に秋里光彦名の小説「猫書店」収録。

■巽孝之・荻野アンナ編『人造美女は可能か?』(慶應義塾大学出版会)に批評的エッセイ「ゴシックの位相から」収録。

■一柳廣孝・吉田司雄編「ナイトメア叢書」(青弓社刊)の第2巻『幻想文学、近代の魔界へ』にエッセイ「ロマンティシズムの継承権」収録。

■二階堂奥歯著『八本脚の蝶』(ポプラ社)巻末に回想「主体と客体の狭間」収録。

■矢川澄子著『「父の娘」たち』の巻末解説を執筆。

■高根沢紀子編『現代女性作家読本⑦ 多和田葉子』(鼎書房)に評論「『三人関係』――名称先行主義宣言――」収録。

「リテラリー・ゴシック」は後に大半を『ゴシックスピリット』に収録したが、最後のフィクションの部分は別の形にしようとして残したまま今に至る。
これまでの「コムニオ」は総集編「コムニオ・コフィン」によって全号が読める。
「遠い記憶として」「ロマンティシズムの継承権」「『父の娘たち』解説」は『月光果樹園』に収録。
この頃が批評を書いていたほぼ最後の時期かと思う。
テクストに沿った行儀のよいコメント的な仕事に限界が感じられ始めたのもこの時期だったと思う。

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ときおり80年代についてふりかえる

もう何度も書いているが、80年代に関する考え、いくつか。2006年11月2~8日にかけて。(★~☆)

宮沢章夫の『東京大学「80年代地下文化論」講義』という本を見つけて昨日買ってきた。
90年代になってすぐ、おたく系と保守系からさかんに「80年代はなんにもなかった、スカだった、クズだった」というルサンチマン丸出しの発言が出続けたけど、そりゃあんたたちにはなんにもいいことなかっただろうよ。
が、そういう恨みつらみもそろそろどうでもよくなってきたみたいであるし、宮沢氏みたいに「でも俺にはいい感じもあったんだけど、なんだったのかな」的分析も始まってよいと思います。
ただご当人も、どうよかったのか、どうかっこよかったのか、とても説明に困っておられる様子だった。自分的にすごーくよかったことって伝えにくいね。

この先も思いついたときに80年代の自分の憧れと嫌悪を考えてみたいと思う。
なお私はケラリーノ・サンドロビッチ氏の映画「1980」の視点は全然納得できません。
ああいうのなら往年のおたくさんたちに切り捨てられても仕方ないと思う。
2006年11月 2日 (木)

80年代についてもう少し。
あの頃、一番の問題だったのはヘテロセクシュアルの男性なら「女がいるか」ってことだったんじゃないのかな。それが絶対ありえない男を「おたく」と認識していたふしもある。
ダサくてもカップルになれた人々はいたはずだし、それが当人同士この相手で満足と思う限りは外部の価値観は気にならなかったはず……というのはやはり建前で、カップルであっても「美しい日々に生きる自分たち」を演出したかったのではあっただろうけれども。
でも私は、吾妻ひでおの『翔べ翔べドンキー』という漫画で、男性が一生懸命イケようとしてるのに対してドンキーとよばれる可愛いがドンくさい女の子が「いっしょにいるだけで楽しいけどなー」と言い、相手もふとそこで力が抜ける、という展開がよかったなと今思ったりしています。映画「アメリカン・グラフィティ」の後半にもそういう場面がありましたね。
ただ『翔べ翔べドンキー』は、確かめてみると1980年になってすぐくらいに出ている漫画なので、まだその頃は縛りが緩くてそういったほのぼのした展開を許容できたのかとも思える。80年代的序列化に目を眩まされてくるとそんなの発想できなかったかも。
(この件、もう少し考えるとけっこうおもしろくなりそうなのでいずれ使おうと思う)

飽くまでもそういう過去と比較してみるとだけど、ともかく相手がいるという形はある程度クリアしたとして、それを80年代的なファッション煽動と無関係に描かれる、現在のユートピアが『のだめカンタービレ』と思う。
『のだめカンタービレ』で嬉しいのはいつも可愛い服着てるけど、それが80年代以前の「ジャンパースカート」(今もあるのか?)だったりするところ。
それと、のだめ自身の「わたしってどうよ?」的自意識を全く描写しないため、作内でも語られたように動物のような描かれ方をしているところでしょう。

今回はどちらかというと80年代のマイナス面のことになってしまった。いやそれだけじゃない話はまたいずれ。
2006年11月 5日 (日)

昔、池袋西武百貨店の12階にはセゾン美術館というのがあってその横にアール・ヴィヴァンという美術書店があった。
そこでフランスの「オブリック」とかいう、雑誌らしいんだけど厚くて布装の本の、ハンス・ベルメール特集を買ったあたりから私の80年代は始まった気がする。
アール・ヴィヴァンにはけっこう行った。画集もちょいちょい買った。行き初めの頃、たいていブライアン・イーノの「ミュージック・フォー・エアポート」が響いていた。

ずっと後になってセゾン美術館は閉鎖、アール・ヴィヴァンもなくなった。そのへんから90年代的なものが始まったような気がする。
2006年11月 8日 (水)

今となってはそれほど気にもならないようにも感じてしまうので、この先、80年代を問題とした批評は書かないと思う。
フィッツジェラルドみたいに、ある突出した時代を舞台にした小説が書けたらよいなとは思う。

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自分の態度についての指針

2006年10月 1日 (日)の記事から(★~☆)

よくTVでの街頭アンケートやインタビューに答える素人の人が、何か意見らしいものを言った後、自分で「うん」と返答をしてるの。とか。
おばさんに多いのだが「わたしって……だからさぁ」などと言った後、自分で大笑いしてるの。
小説の地の文で「そう、それは」と語り手の一人合点の語である「そう」を冒頭に多用するの。
こういうことって自分ではしたくないと思うのですが、しかしね、いきなり街頭アンケートされたら「……なんだよ、うん」とか「私は……ですからね、わっはははは」とやってしまいそうで怖い。
文章での「そう、それは……なのだ」とかは控えてるけど。

ところで、マスコミに素人としてのかかわりは持ちたくないものですね。インタビューとかであれこれうるさく言ってくる映像系マスコミには中指を立てて見せれば放映はできないだろうから即あきらめるのでは?

書き言葉の地の文に「そう、」という一人合点を入れるのは私としては大変やりたくないことなのだが、ところが、「それ、それだ」といった独言の口調ならよい。「そう、」という言い方には聞き手の同意を当然のように求めているという含みが感じられて、それが不純である。同意なんか期待しないものとして語れば清清しい。
つまり明確に内的独白ならよくて、誰かに向かって語る口調になっている中で一人合点、というのが見苦しく思えるのであった。
マスコミといっても一概に言えないが、とにかくTVの街頭インタビューだけは本当に見ていて嫌だ。インタビュアーが言わせたいことだけを編集している。だから今も中指立て賛成である。

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80年代的サラリーマン差別発言の記憶

血液型の話とは全然違うけれども、これもなにか、「70年代までのサラリーマン的行動様式様式差別」のひとつが作ったものであるような気もするので、参考程度に以下、 2006年10月 3日 (火) の記事を引用(★~☆)。一部訂正編集。

遥か大昔、浅田彰氏が「スキゾとパラノ」と言っていたころのこと。
同氏は「自分はどうしても親がサラリーマンの子たちとは合わなかった」という経験をもとに「自分はスキゾキッズで彼らはパラノイアだ、でもパラノイアにはもう未来がない」といった内容を語っていたことを思い出す。
でもさー、医者の息子であった浅田氏の言うそれって性格の差ではなくて、階級の差だったんじゃないの?
左翼と自認する人は今は貴重だと思いますが、しかし左翼なら、階級差で説明のつくところを自分の資質(が選ばれているという自認)で説明するのはやめないと。
なんてことを20年も経ってから今更ですが、思います。

このときは題名がちょうど「リーマンの素数公式」で、わかる人にはわかるしゃれになっていた。
今も上の考えは変らない。
大学入学当時の自分は、文化人として出てくるようなインテリ左翼のほとんどが中産階級以上の出身で、自分はいい暮らしをして尊敬されながら体制批判をして見せて高度資本主義的に金儲けをする人たちであることを知らなかった。
浅田彰氏の『ヘルメスの音楽』は今も好きな著作だが、これはある程度以上の金持ちでないと書けない上等の趣味の本だ。その限りでとてもよい本だが、浅田氏の発想や嗜好はブルジョワ左翼の典型でしかないし、楽しむためにはよくても社会事情を考えるためには役立たない、というより、害悪になる。
正しさを語るふりをしながら正しさより素敵さを愛させてしまうからだ。
だからかつてはドブネズミとまで言われもした「日本人サラリーマン的心性」を浅田氏が軽蔑したのは当然だ。
80年代は、十分によい文化環境にない人たちを見苦しいと軽蔑してみせれば商売になる時代だったのだなと今更思った。

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また見かけた血液型人間学について

先日、またも血液型によって人の性格を分類する記事を書いて金を得ているらしい人の記述を見て嫌になったので、以下に、かつて書いたそれへの批判を再録する。一部訂正編集。

2006年10月18日 (水) の記事(★~☆)。

血液型人間学を信じるかどうか以前に、たとえば日本では一番多いはずのA型の性格として
「堅実で几帳面で心配性で発想の飛躍がなくて大胆さがなくて予定通りが好きで堅苦しくて視野狭窄になりやすく信頼はできるが本人はいつも小さくまとまって不満そうな小物」
っていうようなキャラクター(確かにいるな、こういう人)をあてがわれて喜ぶ人の顔が見たい。
そういうつまんない役割を仕方なく全うしなければならないことがこの社会には多くて、見回せば日本にはA型が多いから、理由と結果を逆にしてA型は上のような性格って言い出した人がいるだけでは?
たとえば人は立場がよくなればなるほど約束の時間に遅れても許されるから、そうなるとルーズが常態になりますね。
つまり、その血液型分類とやらで言うとすれば、社会的地位の高いA型はA型でない。

たいていの占いはそれを聞き・読む全員が信じるわけではなくまた当たるも八卦当たらぬも八卦というのが常識となっているし、何より運命はすべて決定済みではなく、なんとか未来には変化も期待できそうだという暗黙の了解があって、ときどきによって占いの結果も変わるものとして受け取られる。
しかるに血液型人間学というのは先天的で一切変更のありえない(脊髄移植によるものすごく希少な例外はあるらしいが)血液型という身体上の違いをもとに行われる不当な差別である。
そしてこれによって収入を得るとすればそこで語られる表現がいかにやわらかくとも、それは差別ビジネスである。
こういう仕事をしている人を、私は軽蔑する。

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『女の子を殺さないために』刊行記念5/5

珍しく人前に出ることになったので、お知らせ、以下

5月5日(土)19:30~ 池袋ジュンク堂
川田宇一郎(評論家)+栗原裕一郎(文筆家)+高原英理(作家)
『女の子を殺さないために』(講談社)刊行記念 「幼なじみを探して 庄司薫と村上春樹 etc.」
くわしくは→

上は川田宇一郎さんの新刊を栗原裕一郎さんと語るという催し。
川田・栗原両氏の対談がメインで、私は司会です。

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『少年版江戸川乱歩選集』の記憶

『世界の名作怪奇館』と同時期、同じく講談社から『少年版江戸川乱歩選集』全6巻が刊行された。
表紙箱画口絵が生頼範義による、子供向けとはとても思えない絵であったことが多くの人に回顧されるものである。
B6判箱入り。装幀・水野石文。作品編集・中島河太郎。1970年7~10月に刊。
以下が全巻構成。
                          
『蜘蛛男』     挿絵・藤本蒼  リライト・解説・中島河太郎
『一寸法師』    挿絵・佐々木豊 リライト・解説・氷川瓏
『幽鬼の塔』    挿絵・坂口健之 リライト・解説・山村正夫
『幽霊塔』     挿絵・長谷川晶 リライト・解説・中島河太郎
『人間豹』     挿絵・稲垣三郎 リライト・解説・山村正夫
『三角館の恐怖』 挿絵・篠崎春夫 リライト・解説・氷川瓏

そもそも子供向けに『蜘蛛男』かよ、というところだが、生頼範義もさることながらこの『蜘蛛男』の巻の、藤本蒼(現・不二本蒼生)による挿絵がどれも最高だった。
これをアップしてくださっているサイトがあったのでリンク→
また、生頼さんによる『一寸法師』の口絵もよかった。こちらは→

いずれもリライトだが残酷な場面もそれほど削除されておらず、乱歩の魅力をよく伝えていたと思う。
ただ、後に『蜘蛛男』の原文を読んで「なんだあ、蜘蛛男もちゃんとレイプすんだあ」と思ったことであった。残虐シーンは残してあったがこの件だけは「少年版」では書かれていなかったため、当初、蜘蛛男は性的な行為をせず残酷に殺すだけの、実にすがすがしい殺人求道者に思えたのだった。

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初めて感銘を覚えた怪談本

以下、怪談本に関する2006年10月20・21日の記事(★~☆間)。やや編集。

2006年10月20日 (金)

自分が怪談ということを意識したのは岡本綺堂の『青蛙堂鬼談』から。それと少年少女向けに講談社から出ていた怪奇小説傑作選みたいな本に載っていた綺堂の『西瓜』だな。これは今でも怪談の模範と思う。

えぐいホラーはヤっていう人は昔も今もいるが、怪談嫌いな人ってそんなにいないと思う。怖さより懐かしさに反応する人もいるし。

2006年10月21日 (土)

以前「ダ・ヴィンチ」に掲載されたものですが怪談についての記憶としてここに再録します。初めて感銘を覚えた怪談本は? という問いへの回答です。昨日あげた本をもう少し詳しく記しています。

もっとも印象深かった怪談本

高原英理

 講談社刊『世界の名作怪奇館』第5巻日本編『まぼろしの雪女』(1970)は小泉八雲「雪女」「鳥取のふとんの話」「耳なし芳一の話」、芥川龍之介「妖婆」、岡本綺堂「西瓜」、上田秋成「蛇性の婬」、江戸川乱歩「鏡地獄」を収録。保永貞夫訳・解説。創作中心だがいずれも怪談と呼んでさしつかえあるまい。児童書なのでリライトではあるものの、後に原典にあたっても印象は変わらず二度楽しめた思いが強い。解説も挿し絵もよかった。特に綺堂の「西瓜」が、明白な因果によらない、といって全く偶然でもない、いわば捻じれの位置にあるような因果関係で怪異が起こる。本当に不思議で水際だっていて凡百の因果話を色褪せさせた。

以下2012/03/22現在からのコメント。

『世界の名作怪奇館』全8巻は、1・7・8巻を持っていないのだが2~6巻は今も実家にあって、子供向けの怪奇小説集としては非常にレベルの高いものと思う。
上では問いにあわせて怪談本のひとつとして書いているが、シリーズ全体の概念としては怪奇小説集である。
1・2巻が英米編、3巻はヨーロッパ編(ロシア・フランス・ドイツ。しかしロシアはヨーロッパか?)、4巻が東洋編、5巻が日本編、6巻からはジャンル別となり6巻ミステリー編、7巻SF編、8巻「海にしずんだ海賊都市」は手元にないので明確でないが実話編であったと思う。どれも野田弘志のカバーイラストがとてもよかった。
挿絵でいうなら、後に瀬名秀明氏もわざわざアンソロジーに再録しておられるように、上記書収録「鏡地獄」の片山健による挿絵が驚くばかりの怖さだった。
この後、創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』全5巻に赴くわけだが、それと比べても選択には遜色がなく、ばかりか東洋編・日本編の存在によって網羅的充実はむしろ上回る。
日本編は上のとおりだが、東洋編でのタイやアフガニスタンの怪談などはなかなかこれを読まなければ知らないでいたものだっただろう。
なおミステリー編にはさすがに超自然的な物語はなく、ウールリッチの「非常階段」が「その子を殺すな」の題名で入っていたのと、ディクスン・カーの「銀色のカーテン」が「怪奇雨男」という題名で入っていたのが印象深い。
それにしても「怪奇雨男」とはまた大変な題だが、ただ、実際には大して怪奇でもなかった記憶がある。
このアンソロジーについてはまだまだ語れそうだが、あとは「トーキングヘッズ」の連載内ででも続けようか。

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2006年・新聞でのコメント

以下★~☆間。

2006/03/11 Sat

3/8の読売新聞夕刊「本よみうり堂 トレンド館」に、石田汗太記者による「ゴシックの美学 いまなぜ復活 不安社会で『生』の欲求」という記事が掲載された。

この件で先日取材に応じた。
記事には私の言葉として以下の部分もある。

「個人的には、30年代の江戸川乱歩の猟奇趣味、エログロナンセンスあたりが日本的ゴシックの源流と思っていますが、80年代にアングラ的に洗練されていた耽美と退廃のゴシック趣味が、90年代以後は『おたく文化』と重なりながらすそ野が広がったのが特徴だと思います」

上、大学でも教えているとおり。

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『八本脚の蝶』の記録

以下、★~☆間。少し編集。

2006/02/27 Mon

二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社刊)

巻末「記憶――あの日、彼女と」というところに佐藤弓生とともに寄稿。
「主体と客体の狭間」というのがそれ。
お読みいただけばわかるように、『ゴシックハート』の末尾に記した「ゴシックな記憶」の女性はこの人です。

2006/01/17 Tue

二階堂奥歯著『八本脚の蝶』ポプラ社から届く。
西崎憲、穂村弘、佐藤弓生らとともに私も短い文を載せている。

蝶の翅の模様が表紙なのだが、ネット上の書影では翅の模様だけが強調されて、なにか異様な怪物が口を開いているようにも見える。
そういう感じで出されてもよいとは思うが、実物を見るとかなり印象が違っていて、重厚かつ瀟洒で特に背表紙の飾り文字が綺麗。
カバーをとって広げると蝶が翅を広げている像になる。

この本、著者の自死までの日記だが いずれ、たとえばシルヴィア・プラス「のような」意識の女性(に限らないな)にはバイブルになるのではないかと思った。

自分が文を寄せているので活字メディアでの紹介とか書評はしないが何年か後に何か言及するかも知れない。
むろんその前にいろいろなところで話題にもなるでしょう。

2012年現在、残念ながら品切れで重版予定がない様子だが、やはりバイブルとしている方はおられるようだ。
アマゾンでのマーケットプレイスを見ると2012年3月20日の最低額が8999円、最高額が13800円。なお定価は1890円だった。
やはり形を変えてでも再版されるべき本だと思います。

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その後の『ゴシックハート』への言及

その後、刊行された書籍の中で『ゴシックハート』の関するある程度長い言及があるのは、私の知るところで

浅見克彦著
『SFで自己を読む 「攻殻機動隊」「スカイ・クロラ」「イノセンス」』
(青弓社刊・青弓社ライブラリー 69)→

こちらは批判というのではなく、参照、という形。

浅見氏はSF映画に詳しい方で、社会理論、社会思想史をご専攻とのこと。著書に『SF映画とヒューマニティ』(青弓社)、『消費・戯れ・権力』(社会評論社)など。和光大学で教えていらっしゃるそうです。

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『ゴシックハート』批判の記録

以下すべて2005年11月29日の記録。
まずは「ナイトメア叢書」創刊のことが記される。以下。(★~☆間が引用)

2005/11/29 Tue

青弓社から「ナイトメア叢書」という叢書が創刊され、その第1巻として『ホラー・ジャパネスクの現在』が2005年11月23日、刊行された。
編者は一柳廣孝・吉田司雄。
執筆者から、私のいくらか知る人をあげると平山夢明(インタビュー)、芳川泰久、稲生平太郎、城殿智行、長山靖生、など。
一柳氏による巻頭の言葉にも明らかなとおり、この叢書は「幻想文学」誌の創った幻想文学批評の歴史を引き継ぎ、さらにより広い範囲と成果を期すものである。
この後も、「近代幻想文学史の再構築」「妖怪は繁殖する」といった特集が予定されている。
志の高い企画を大いに歓迎したい。
またこの叢書が末永く継続することをお祈りする。

続いて、この「ナイトメア叢書」に『ゴシックハート』批判あるいは『ゴシックハート』的姿勢への批判が掲載された件が記される。
それに対する反応をいくつかに分けて記しているが、今回、一括して再録する(★~☆間)。

2005/11/29 Tue

 ところで、今回、『ホラー・ジャパネスクの現在』に跡上史郎氏による「澁澤龍彦 死後の生――ゴシック/セクシャル・マイノリティ/サブカルチャー」という澁澤龍彦について主に記した記事が掲載されているが、その中に自著『ゴシックハート』について言及したところがあり、しかも小見出しには「ゴシックハートと小さな三島由紀夫たち」「ゴシックハートを超えて」とある。
 この小見出しからもわかるとおり、跡上氏は、私が「ゴシックハート」と呼んだ心性に対しては批判的である。
 そして結論から言えば、その批判は、私から見ても正しい。

 簡略に跡上氏の見解を紹介すると、澁澤龍彦については、暗黒・異端・そしてゴスの元締め、といったイメージで語られる部分と、後年、当人自身がそうした重苦しいイメージに辟易しつつ提示した軽妙な、あるいはユーモアに富んだ部分、という少なくとも二つの面があり、その死後、澁澤に対する批評は後者の可能性を強調する方向で進んだにもかかわらず、現在、ゴシックと耽美を愛する読者からは相変わらず「黒い貴公子」として崇拝されていることが多い。
 むろん、こうした部分を全く見ないで澁澤を語るのは間違いであるし、またこの部分あっての澁澤、そしてその人気でもあるのだが、その硬直しがちな部分だけを見て陶酔し崇拝する、自己相対化とユーモアに欠けた態度を跡上氏は「ゴシックハート」と呼んで否定し、その視線だけで澁澤を崇拝することを批判している。
 ここで述べられているのは、ちょうど、「マルクスには多くの未知の可能性があったが、それを神格化するマルクス主義者はその可能性を排除し、マルクスを読むこと本来の可能性を狭めてしまった」というのと同じく、澁澤龍彦の著作からはこの先も豊饒な意味と価値が見出されるはずだが、澁澤崇拝からは貧しい成果しかありえない、というものである。

 私自身、かつて「別冊幻想文学 澁澤龍彦スペシャル」に掲載した「澁澤=サドの遊戯作法」という澁澤龍彦とサドをめぐる批評で、澁澤晩年の境地の「かたくなでない自由」について記しており、「澁澤といえば暗黒の貴公子」という短絡にはもともと批判的であるので、その澁澤への態度はさほど跡上氏とも変わらない。
 ただし、『ゴシックハート』にその態度は多く反映されておらず、これを読んだ方が私もまた偏狭な澁澤主義者と感じるならばそれは仕方のないことだ。
 だがここで跡上氏は私に対しての批判をしているというのではなく、私が「ゴシックハート」と命名した意識を優先することへの批判、と考えるのが正しい。

 また、私の記す「ゴシックハート」とは全体としての判断・意識の中のより極端な志向だけをさしているので、もし跡上氏の用いたようにただ死への魅惑、ただ厭世、ただ自己愛、ただ耽美だけに我を忘れる意識が他を覆い隠してしまう、というのであれば私としても、ともあれ批評的精神を意図する者としてやはりそれを肯定することはできないが、とはいえ、私もまた、著書に記すとおり、ユーモアに欠けた脆弱な意識の持ち主であることを隠すつもりもない。
 特にbk1の著者による紹介などではあからさまに厭世と否定の意識を記した。
 それは、誰しもある局面では感じることのある生きづらさについて、解決の見通しも加えず、いわば「かくあるべし」ではなく「ただかくある」として提示したに過ぎず、倫理的に、あるいは生き方として肯定されるものとは考えていない。
 だからこそ「ゴシックハート」はどちらかと言えば悪者の意識に近い、と後記にも書いた。悪者というのが正確でないなら「堕落者」でもよい。

 著書としての『ゴシックハート』は「本格ゴシック評論」と銘打って刊行していただいて、この刊行のされ方には大変感謝しているのだが、ただ、厳密には、私が真に評論と考えているものは前著『無垢の力――〈少年〉表象文学論』だけで、(その意味では『少女領域』も厳密な意味では評論的でないところが多い)『ゴシックハート』はどちらかといえば怪奇や暗さと死に惹かれる意識の様相をできるだけ冷静に記録してみたものというのが正しく、そうした意識への真っ向からの批判は敢えて避けたので、その意味で、自己相対化に富んだいわば「真の批評的な精神」は乏しいと言ってよいだろう。

 跡上氏の用いる「ゴシックハート」だけを私の示したものとされることにはとりあえず反対しておくが、ただし、『ゴシックハート』を読んでくださった方による見解としてこのような批判がなされることに文句はない。
 批判はこのようにして行うべきであるとも思う。

 もうひとつ、「ゴシックハート」が既にひとつの一般名詞として流通していることがありがたいような、こそばゆいような。

 何より、私は、誰かが私の言葉に反応してくれるということが嬉しくてならないので、あてこすりめいたものや、著者名と書名を明確にしないまま行なわれる卑怯な攻撃以外ならば、批判も歓迎する。
 礼儀とルールを守る書き方ならばさらにありがたい。

 特に今回の跡上氏による格式の高い批判は、実のところ直接私へ向けてのものとは言えないが、なんだかかゆいところを掻いてもらったような気さえする。

 跡上氏は澁澤龍彦の研究家であり、かつセクシュアリティ問題に関しても、さらには三島由紀夫に関しても詳しい学者の方である。
 今後、期待して注目したい。

ほぼ言い尽くしているので付け加えることはない。

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『ゴシックハート』日本推理作家協会賞落選の記録

以下のとおり(★~☆間が引用)。

2005/03/12 Sat

本日、社団法人日本推理作家協会理事長・逢坂剛さまより連絡あり
第58回推理作家協会賞評論その他の部門の候補作として『ゴシックハート』が選出されたとのこと

2005/05/24 Tue

『ゴシックハート』は日本推理作家協会賞評論その他の部門に落選しました

受賞作は以下のとおり 東京創元社のhpから

5月24日、第58回日本推理作家協会賞の選考会が行われ、戸松淳矩『剣と薔薇の夏』(クライム・クラブ)が、《長編および連作短編集部門》を受賞しました。短編部門は受賞作なし、評論その他の部門は日高恒太朗氏『不時着』(新人物往来社)が受賞しました。

それにしても『子不語の夢』も落選?
私の場合は最初から納得ずくだが、自分が落選したことよりこれが落ちたことが悲しいような……

なお、第58回推理作家協会賞 評論その他の部門・候補作は以下のとおり。

高原 英理  『ゴシックハート』            講談社
浜田雄介編 乱歩蔵びらき委員会 『子不語の夢』 皓星社
日高恒太朗  『不時着』                新人物往来社
村上 貴史  『ミステリアス・ジャム・セッション』  早川書房
吉田司雄編  『探偵小説と日本近代』        青弓社

『子不語の夢』は江戸川乱歩と小酒井不木の往復書簡集だが、村上裕徳氏による詳細を越えた註が読み物としても面白い労作だった。
また忘れてならないのはこの企画を実現させた「名張人外境」主人・中相作氏の志である。
日高氏には今更ながらだがお祝い申しあげることとして、それとは別に『子不語の夢』や同じく中氏の企画による『江戸川乱歩リファレンスブック』(全3巻)が何かで顕彰されればよいと今も願う。

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2004年12月~2005年1月の『ゴシックハート』関連(2)

『ゴシックハート』関連イベントの記憶

東雅夫さんと対談したときの記録から。(★~☆間)編集済み。

2004/12/19 Sun

2005年1月29日(土)のトークについて
■注意■ このイベントは既に終了しています。

ジュンク堂書店池袋本店「JUNKU 連続トークセッション」2005年1月29日(土)18:00~
 ~『ゴシックハート』(講談社)刊行記念~あなたの中のゴシックハート
 対談  高原英理 ・ 東雅夫

2005/01/27 Thu

1/27、ジュンク堂に問い合わせたところ、1/29トークセッション「あなたの中のゴシックハート」は予約満席になったとのことです。ご予約くださったみなさま、ありがとうございます。

なお、3月はじめに早稲田大学近辺の「あかね」という喫茶店で「サブカル、メンタルヘルスとゴシックカルチャー」に関する対談もしくは鼎談を行う予定。
さらに3/26、池袋近辺で「ゴシックハート」読書会に出席の予定です。

■注意■ ↑上のイベントもすべて終了しています。

2005/01/30 Sun

昨日の記

1/29池袋ジュンク堂での東雅夫氏とのトークセッションには定員40名のところ61人の方においでいただきました。おこしいただいたみなさまありがとうございます。

2005/01/31 Mon

あとになって

1/29のトークセッションは多くの方においでいただけてありがたかったわけですが、あとになっていくつか考えることがありました。

まず若干の裏話から
しばらく前、『ゴシックハート』出版記念パーティを催していただいたさい、そこには東雅夫氏もご出席であったのだが、数人の女子大生のみなさんがゴスロリの装いでおいでくださってもいた。
せっかくだから全員自己紹介を、となったときに東氏や私が「かつて澁澤さんのお宅で……」といった話をするたびゴスロリの方々は意想外の大変な受けを示してくださったものである。
この印象が非常に強く、1/29のトーク前、東氏との打ち合わせで、「せっかく来てもらったのだから、損をしたと思われないような話をしたい」という相談になったさい、「澁澤・中井ねたならこういう場においでの多くの方に喜んでもらえるだろう」という結論が出た。
そしてその方針でかつての「幻想文学」時代の澁澤・中井話を語った。
この件は自著で澁澤龍彦と中井英夫がいわば日本の「ゴス」を準備した人、として位置づけられているので違和感はないと思われもし、また実際に受けているのもわかった。

しかし今から考えて見ると、いきおいこの日の話には「幻想文学業界話」的なところが多くなった。また澁澤・中井両氏のひととなりを語るのがゴシックカルチャーを語ることなのだとは言えない。
満足してくださった方も多くおられたのはよかったが、ゴシックの志向、ゴシックの魂、といった原理的な内容を期待してこられた方に対しては大変申し訳のない結果となった。

というわけで、深い話を期待してこられたみなさん、すみません。

以後も何度か、複数の方々の前でお話しする機会がありますが、これからはできるかぎりゴシックという生き方とかゴシック的な思考の本質について語ろうと思います。

東雅夫さんには今一度御礼申しあげます。
それとともに、少なくともこの先は、受けとか状況とかいうやつにほぼノータッチの言葉を語っていたいものだと今も思った。
しかし状況なしに何をもなしえない者にとってはそれは「わたし探し」と同じようなないものねだりであるかも知れない。
といったことを書いて、ここで止めておけば、いくらかは賢く見える。
だがどうしても留まれず、わかった上でも愚かしく何か表現してしまうのが(自称も含めた)アーティスト・作家である。

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2004年12月~2005年1月の『ゴシックハート』関連(1)

「ダ・ヴィンチ」誌に『ゴシックハート』のかなり大規模な紹介をいただいたとき前後の記録。(★~☆間)少し編集した。

2004/12/04 Sat  漸近線

最近ときおり、記憶測定というより未来測定になっていますが、今回もわずかながら未来のこと。

雑誌「ダ・ヴィンチ」の2005年1月に発売される号にゴシックが特集されます。
そこで近く、ノベルコミック作家・イラストレーター・モデル・ミュージシャンのD[di:]さんと対談することになりました。
現代のゴシックって何? という話をする予定。

ところで最近、友人にD氏著『ファンタスティック・サイレント』の後半の話を読ませて泣かせている。
みなたいてい泣きますね。

2004/12/10 Fri  スリーピー・ホロウ

本日は海馬から移送されて間もない程度の記憶

2004/12/09のこと

「ダ・ヴィンチ」2月号(1月発売)内「ミステリー ダ・ヴィンチ」での
「あなたの中にあるゴシックハート」特集のため、D[di:]さんとお話する。
司会を神無月マキナさんにやっていただいた。
於・赤坂プリンスホテル旧館、おたがいゴスに装ったのを森豊さんによる写真撮影あり。掲載予定。

そのままのなりで早稲田文学新人賞受賞パーティへ。
知り合いひとりひとりから服装・容姿についてコメントあり。

2004/12/31 Fri  歓待の掟

今年やった主なこと

■1■ゴシック関係

・『ゴシックハート』刊行・9/15講談社
   この日記の最初から記述のあった件がこれで一旦完了
   ただしまだ遣り残し・新たな展開予定あり

・「夜想」復刊第2号「特集ドール」に「ゴシックドールの系譜」寄稿

・「ダ・ヴィンチ」2005年2月号の記事としてD[di:]さんと
   「ゴシックな心」について対談
   当特集の掲載された号は私には届いているが、
   あと10日くらいで店頭にも並ぶ


2005/01/07 Fri  ゲイ・サイエンス

昨日都内の書店で「ダ・ヴィンチ」2月号入荷を確認。
もしご興味ある方はその176ページから179ページ、
「ミステリー・ダ・ヴィンチ」の中の
「死と暗黒に彩られた”ゴシックハート”はあなたの中にもある……」
という特集とそこにある写真をご覧いただき、
その後、「よくやった」「恥を知れ」などとつっこみを入れていただけると幸いです。

さすがにDさんはきれいですね。

以後、著述類の位置がいくらか決定された。
今もその延長線上にいる。

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『稲生モノノケ大全 陽之巻』メルマガ用アンケート回答・再録

『稲生モノノケ大全 陽之巻』刊行のさい、執筆者へのアンケートとその回答がbk1のメールマガジンとして2005年9月ころ、配信された、と記憶する。が、2006年以前の手元の資料が不完全なので、今のところ確認できない。
ただ、私からの回答は残っており、随分前のものであるし、現在読めるものではないようなので、ここに再録する。(★~☆間)
もし現在も開示が望ましくないのであれば削除しますので、その場合は関係者の方、ご連絡ください。

稲生モノノケ大全 陽之巻 アンケート

【質問項目】
Q1:『稲生物怪録』(=稲生物語全般)のどこに、特に魅力をお感じになりますか?
Q2:『稲生物怪録』に登場するモノノケたちの中で、特に印象に残ったモノ、お気に入りのモノは?
Q3:今回御寄稿いただいた作品についてのコメント、読者へのメッセージ、編者への苦言など、御自由に。
…………………………………………………………………

【回答】

秋里光彦

Q1

私はこの物語を稲垣足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』を読むことで知ったため、どこか懐かしさを共有するような書物として記憶されている。
後に同じ内容を足穂は『懐しの七月』とも題していることを知ってあまりの的中感に当惑さえした。
私が読んだものは大半が片仮名書きの、現代人には読みにくいテクストだったが、読みにくさも気にならない、次は何が起きるのか、次は、と興味にかられた。そして遂に七月が終わるとともに「少年の夏」も去る。
永遠に思えた夏休みが終わり、また、その夏休みは一生に一回だけのものである。
私たちはそれぞれ、一生に一度だけの本当の夏休みをどこかで過ごしてきた。
そこでは途方もないお化けたちが、どうだ、どうだ、こわいか、とさまざまに手を変え品を変え、私たちをおどかしてくれた。お化け屋敷の夏、そのおりには、怖い逃げたいと、思うた筈だが、かつての生々しい記憶が遠のくにつれ、いずれもいずれも懐かしい、気味の悪いものたちもまたわが友であったことに気づくのだ。
二度と戻らない夏のため。
二度と戻らないものたちのため。
私は今年も来るはずのない本当の夏を待つ。

Q2

みみず頭と靴脱ぎのところにいる死体、それと炭小屋いっぱいの顔が印象深いのだが、好みで言えば、『三次実録物語』では「その八 奇妙な赤石来る事」として出てくる無数の目と指のついた赤石である。
昨年、早稲田大学で講師をしていたとき、あるクラスの生徒たちが、学園祭で「稲生物怪屋敷」をやりたいと言い出した。時間も予算もないまま、にわか作りながら、稲生屋敷にみたてたお化け屋敷が完成し、さほど多くの人に見てもらったわけではないが、師として自慢したく思ったものである。
学生たちよ、よくやった。
そのとき、いくらか無理をしてでも絶対に作ろう、と皆が決めたもののひとつがこの、目・指つきの動く石であった。
なお、確か絵巻物の復刻に平太郎の台詞を現代語で付したものがあったと記憶するが、その中で、炭小屋の戸をあけると大きな老婆の顔があったという場面、このときの平太郎の台詞「炭が取れぬではないか」というのがとぼけていて好きである。

Q3

足穂はドストエフスキーの『悪霊』について語るとき、その物語の全体は問題にせず、神の問題にも罪の問題にもまるで触れず、この小説で何より大切なのは、とある登場人物(端役である)が、ひどく落胆したときにミニチュア細工を作ることでそれを耐えたと伝える部分である、と語ってやまなかった。
その意見の正当性はともあれ、私もやはり賛成したく思う。あの暗闇や物怪への繊細な反応を可能にする子どもの心の弱さをなくすことなく、それでもどうにかつらいときを耐えるには夢の胚種をどこかに持たねばいられない。あるいは、それができるなら、世界の意味合いも変わる。
そして私は今も子どもめいたものばかり愛する愚か者だ。
一生に一度の夏、一生に一度の奇跡、それが異形のものたちの世界の形をとって現れてきたら。
そんなことを思いつつ書いたのがこの作『クリスタリジーレナー』である。
おそらく、「お化け屋敷」とは異質の、しかしその何かの懐かしさには通ずるものと思いたい。
とはいえ、今回はいくらか、状況に合わせたところもあって、著名作家とは言い難い私が、多少とも目立ちたければ、他の作家の方々が決して書かないだろう展開を見せるのが適当だろう、そう思い、最初に考えた、完全にオーソドックスで懐かしい「ひと夏のお化け屋敷物語」の案を敢えて退け、このやや淋しい物語の方を提出することにしたのである。
ゆえに、いつかもう一度、今度はあまり比較や「誰かとかぶってしまうこと」を意識せずに、一冊の独立した自著として「ひと夏のお化け屋敷物語」を存分に書きたいと考えています。
さらに、実は『クリスタリジーレナー』のその続きとなるべき物語も既にあることはあるのだが、いつどういう形で公にできるかはまだわからない。

読者のみなさまには、「正当お化け物語ではありませんが、どうか、こんなものもいじめないで読んでやってください」と申しあげたく思います。

編者・東雅夫さんには参加させてくださってありがとう、このよい機会を与えてくださってありがとう、と申しあげるのみです。
また、このもともとの企画を実現させてくださった故佐々木絢子さんのご冥福をお祈りいたします。

以上。

なお、ここに記した、「一冊の独立した自著として」の「ひと夏のお化け屋敷物語」が、その後2007年に刊行された『神野悪五郎只今退散仕る』である。
また、Q1後半に記した詩想は後に「二輪行」という連作短歌および詩となった。

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『稲生モノノケ大全』についての当時の予告

2004/11/17 Wed に東雅夫編『稲生モノノケ大全 陽之巻』についての予告の記述がある。毎日新聞社刊。
2003年に『稲生物怪録』にかかわる文献およびそこからインスパイアされた文豪たちの作品を集めた『陰之巻』が刊行された。その後、現代作家による描き下ろし競作集として出されたのが『陽之巻』である。
亡くなった二階堂奥歯さんが毎日新聞社の編集部にいたことからの関係で成立した企画と聞いている。
ここに秋里光彦名義で「クリスタリジーレナー」という短篇を寄稿した。
『陽之巻』は翌年2005年5月30日に刊行された。
そのさいの紹介等は後ほど再録する。
この企画があったおかげで『神野悪五郎只今退散仕る』を2007年に刊行していただくことができた。
『神野悪五郎』は『稲生モノノケ大全 陽之巻』の別巻のような意味もある。そのあたりの詳細もいずれ記す。
まずはこの企画を実現してくださった皆様に深く、御礼申しあげる次第である。

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2004年文学フリマに出品したときの記録

2004/11/10 Wed  の記述。文学フリーマーケットというのがこの少し前から始まっていて、このときは11/14だったもよう。そこに『うさと私』私家版を出品することの告知をかねた態度表明というべきもの。★~☆間。若干編集した。

詩集『うさと私』という本

以前にも書きましたが、
これは1996年、谷川俊太郎さんの推薦文とともに刊行され、すぐに売り切れました。
現在も欲しいという方がいらっしゃるのですが、採算等の理由で重版はできないままです。
またその後に書かれた、刊行部分の倍ほどの続編があり、これらを考え合わせるといつの日か増補版として別の形で再出版するほうが意味があると考えています。
ただ、読みたい方にまるでゆきわたらないのも残念なのでこのほど出版された分だけは私家版を作成しました。

今年2004年11月14日、秋葉原の東京都中小企業振興公社・秋葉原庁舎
(JR・東京メトロ秋葉原駅から徒歩2分・都営新宿線岩本町駅から徒歩3分)
で開催される文学フリーマーケットに出品されます。
2階奥の端、B-44番の「榎本司郎事務所『コミックfantasy』」のブースに置いていただく予定です。

ここには佐藤弓生の選歌集『真珠区異聞』、
それと『うさと私』続編を連載している同人誌「別腹」も出品されます。
「別腹」執筆予定者は私の他に
穂村弘(歌人)、東直子(歌人)、長嶋有(=ブルボン小林、作家)、
ほしおさなえ(作家・詩人)、ひろたえみ(書家・俳優)、
田中庸介(詩人)、佐藤りえ(歌人)、増田静(歌人)、三上零(占い師)
神谷きよみ(ミュージシャン)、佐藤弓生(歌人)、など。

この「文学フリマ」についてはその成立の段階からさまざまな意見があるようですが、私はその中枢には全く接触していません。
ただ機会があったので使わせていただくだけです。
「玄人」意識の強い作家の方からは否定的に見える点もあるかもしれませんが、私自身はこの催しを歓迎しています。
実際にプロ作家の出品も増えているようで、さらに角川書店・徳間書店・幻冬舎なども参加されていますね。

現在、「文学フリマ」は大盛況の様子だが、私の方はある時期からほとんど出なくなって今に至る。
『うさと私』私家版については最近もご注文くださった方があった。これもそろそろ在庫は少なくなっている。
希望は持つことにするが、増補完全版というようなものがこの先刊行されるかどうかはわからない。

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2004年「東京カレンダー」での『ゴシックハート』紹介

2004/10/22 Fri  に記した記事。「東京カレンダー」誌に載った『ゴシックハート』紹介記事への喜び。★~☆間。

使徒来襲

「東京カレンダー」12月号217ページに『ゴシックハート』の紹介あり。
「BOOK」のところ、ページ上半分くらい。

「ゴシックの使徒が描き出す耽美と残酷への憧憬」

という表題。

自分、使徒だった。

シンジくん、ごめん。ぼく、使徒なんだ。

しつれい。

とにかく嬉しいですねこの表題。

わからない人はいないと思うが、「新世紀エヴァンゲリオン」の渚カヲルのふりしてるわけですね、これ。
これもよい思い出だ。
この程度で調子乗って馬鹿じゃねえの、てところだが、ある人の幸せは他者から見ると噴飯ものであることも多いようですね。

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「幻想文学」と「夜想」

2004/10/15 Fri に書いた回想。(★~☆間)
このとき既に「幻想文学」は終刊している。「夜想」は一旦休刊した後、版形を変え不定期の刊行物として現在も続く。

「幻想文学」にはたとえばブルックナーの交響曲みたいな根性座った・でも俗気も忘れない崇高志向を感じましたが
「夜想」からはいつもコクトーツインズの「トレジャー」を連想してしまいます。
文字どおり夜の思考・お洒落できらびやかで虚無的・無残好みの少女趣味、等。

「夜想」のイメージについて、以前強く同意してくださった方があったので再録する。
なお私のブルックナー観は「かっこよさとお洒落に見向きもせず遠くを望むアート」というべきもの。
ちなみのこのときのタイトルは「ノスフェラトゥ」。

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『ゴシックハート』刊行前から刊行時までの記録

(★~☆間がそれ。各日のタイトルは略)

2004/07/07 Wed

お知らせ
長らく『ゴシック的思考』と呼んで予告してきたものの正式な題名が決定

『ゴシックハート』

となりました。

また7月刊行予定としてきましたが、図版収録の手続きから少し遅れそう。
8月末か9月初めの刊行予定です。
ちょとごめんなさい。

2004/08/08 Sun

『ゴシックハート』刊行は9月となりました。
目次を紹介します。

『ゴシックハート』高原英理

1 ゴシックの精神

 1 ゴシックハート
 2 ゴシックの歴史
 3 現在のゴシック

2 人外【にんがい】

 1 「人外」の心――中井英夫
 2 フランケンシュタイン・モンスターの「人外」
 3 吸血鬼の「人外」

3 怪奇と恐怖

 1 怪奇への愛――『アッシャー家の崩壊』『血の末裔』
 2 恐怖の探求――『IT』『新耳袋』『リング』

4 様式美

 1 「ゴシック耽美主義」の文学理論――三島由紀夫、澁澤龍彦
 2 映像と画像のゴシック耽美――建石修志、村上昴、ウィトキン、シジスモンディ

5 残酷

 1 ゴシックな残酷さ――『責苦の庭』
 2 江戸川乱歩の作法――『残虐への郷愁』
 2 サドとその後裔――『悪徳の栄え』『マルドロールの歌』

6 身体

 1 肉体という呪縛
 2 サイボーグ的超越――『攻殻機動隊』『銃夢』
 3 美貌という権力
 4 選ばれなかった者の挑戦――『ヘルター・スケルター』

7 猟奇

 1 人体への執着
 2 身体欠損の物語――『芋虫』『ジョニーは戦場へ行った』『使い切った男』『蝿男』
 3 死体を介した連帯

8 異形

 1 醜さと不幸――『のろいの館』
 2 醜さと悪――『みにくい悪魔』
 3 姉妹の物語――『血』

9 両性具有

 1 両性具有を望む精神
 2 天使/小悪魔のゲーム――浅田彰
 3 カストラートという性――『ポルポリーノ』

10 人形

 1 ゴシック的人形の起源――ハンス・ベルメール
 2 ゴシック・ドール――四谷シモン、三浦悦子
 3 人形化願望――『O嬢の物語』『DOLL』
 4 人形主義――マリオ・A、江戸川乱歩

11 廃墟と終末

 1 廃墟を愛する心――レーンドルフ、フリードリヒ、グラック、稲垣足穂
 2 世界の終わり――モンスー・デジデーリオ、澁澤龍彦
 3 救済のない黙示録――『デビルマン』
 4 あてのない世界改変――『新世紀エヴァンゲリオン』
 5 グノーシス主義――中井英夫

12 幻想

 1 過度の想像力と幻想文学
 2 日本幻想文学の自覚――澁澤龍彦、中井英夫
 3 ゴシック・シュルレアリスム――キャリントン、バロ

エピローグ ゴシックな記憶

2004/08/26 Thu

『ゴシックハート』に使用の図版が決定したのでお知らせします。
今回は章ごとに扉絵を用います。ちょと贅沢で嬉しい。
レイアウトは装丁のミルキィ・イソベさんにお願いしました。


『ゴシックハート』扉絵

第1章 フローリア・シジスモンディ「REDEMPTION」より
第2章 伊藤潤二「フランケンシュタイン」より
第3章 ハリー・クラーク「ベレニス」挿絵
第4章 村上芳正「暗黒のメルヘン」表紙
第5章 大蘇芳年「英名二十八衆句」より「裸女つるし斬りの図」
第6章 士郎正宗「攻殻機動隊」表紙
第7章 竹中英太郎「芋虫」雑誌掲載時の扉絵
第8章 楳図かずお「のろいの館」表紙
第9章 建石修志「宙に止まる者」
第10章 三浦悦子「義躰少女」より
第11章 フリードリヒ「樫の森の修道院」
第12章 レメディオス・バロ「星粥」

2004/09/03 Fri  

ネット書店に配信するためのメッセージを用意せよ、ということだったので、およそ以下のようなものを送りました。本日はその前半。

『ゴシックハート』著者からのメッセージ
高原英理

 物心ついた頃から怪奇なもの怖いもの暗がりにあるものが気になって仕方なかった。夜、墓場、お化けとか怪談とか。
 集団生活と共同作業が苦手。今のところ徴兵制はないからよいが軍隊に入れられたら耐えられないだろうな。
 平穏が続くというのが信じられない。いつも死のイメージばかり考えていた。今も。
 ダークな感じ、陰惨なもの、残酷な物語・絵・写真を好む。ホラーノヴェルもホラー映画も好き。
 時代遅れと言われても耽美主義。様式美の感じられないものに興味が持てない。
 身体の改変・変容に強い興味がある。サイボーグを夢見ている。肉体の束縛を越えたい。
 両性具有、天使、悪魔、多くは西洋由来の神秘なイメージが好き。澁澤龍彦の紹介した文物絵画など。
 金もないのに贅沢好み。少女趣味。猟奇趣味。廃墟好き。頽廃趣味。逆の無垢なものにも惹かれる。
 情緒でもたれあう関係が厭。はにかみのない意識が厭。
 自信満々の人が厭。弱者だからと居直る人も厭。「それが当たり前なんだから皆に合わせておけ」と言われると怒る。はじめから正統とされているものには疑いを感じる。現状の制度というのが決定的な場面では自分の味方でないように思える。
 気弱のくせに高慢。社会にあるどんな役割も自分には相応しくない気がする。毎朝、起きると、また自分だ、と厭になる。自分でないものに変身したい。それは夜に生きる魔物であればよい。フランケンシュタイン・モンスターの気持ちがわかるつもり。楳図かずおの描く怪物たちの気持ちがわかるつもり。
 最近ようやく気づいた。私の考え方、好み、いずれも、ゴシックと呼ばれるものなのだ。私のような感じ方をゴシック的と言うのである。
 これから私はゴシックな意識について語ろうと思う。それは主義のような言い方になるときもあるが主義ではない。また思想や理論として構築されているのでもない。言ってみれば好悪の体系のようなものだ。しかしそこに自分として確固たる必然が感じられるものだけを語る。好みだからといって重要でない筈はない。命懸けの好みなのだと言いたい。ロックがそうであるように、それは生き方だからだ。

2004/09/05 Sun

前々日に続き『ゴシックハート』著者からのメッセージ
本日はその後半。


 私・高原英理は一九九六年、「第三十九回群像新人賞評論部門優秀作」に選ばれることから評論活動を開始しましたが、また一方で一九八五年、澁澤龍彦・中井英夫両氏の選考による「第一回幻想文学新人賞」をいただきました。この文学賞は翌年第二回まで行われましたが、澁澤氏の逝去により途絶したまま現在に至っています。
 澁澤さん・中井さんは今も私の師です。

 人外・異形・怪奇・恐怖・耽美・残酷・身体・廃墟・終末といったテーマによって、ゴシックの起源から現在の「ゴス」まで、見込みある未来のないまま今を生きるゴシックな魂の諸相を力及ぶ限り書きとめてみました。
 これまでの著作『少女領域』(国書刊行会刊)および『無垢の力 ――〈少年〉表象文学論』(講談社刊)はいずれも純然たる文芸評論でしたが、今回は文学にとどまらず、シジスモンディ、ウィトキン、フリードリヒ、キャリントン、バロ、ベルメール、建石修志、村上芳正、四谷シモン、三浦悦子、マリオ・Aなどの美術作品、岡崎京子『ヘルタースケルター』、士郎正宗/押井守『攻殻機動隊』、楳図かずお『のろいの館』、永井豪『デビルマン』、庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』、三原ミツカズ『DOLL』などの漫画・アニメーションに関する言及も含みます。
 文学としては『オトラント城綺譚』『フランケンシュタイン』『吸血鬼』といったゴシック・ロマンスのほか、澁澤龍彦、中井英夫、三島由紀夫、江戸川乱歩、稲垣足穂、ポオ、サド、ロートレアモン、ミルボー、レアージュ、グラックなどの作品から、ゴシックな心に届くものだけを探りました。
 また、前著『無垢の力』の延長ともなる「人形」「両性具有」「幻想」といった章では、暗黒への志向とともに天上への憧憬もゴシックの領域であることが示されるでしょう。

 ここで善悪は問題ではありません。美しく残酷なこと。きりきりと鋭く、眠るように甘いもの。ときにパンク、ときにシュルレアリスティック、またときに崇高な、暗い魅惑に輝くゴシックの世界へ、どうかおいでください。

2004/09/15 Wed

本日、書店に『ゴシックハート』入荷確認。

よって本日はゴス記念日とします。

こうして『ゴシックハート』は刊行された。
「著者からのメッセージ」はその後、『ゴシックスピリット』の序のところに一部用いた。

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2004年5月2日~9日の「ひとことコメント」

昨日示した2004/05/02~09の期間、ついでに「ひとこと……」として小さいコメントを記していた。
今となってはどうでもよいこともあるが、振り返りとして再掲する。(★~☆間)

2004/05/02 Sun
ひとことCM 『ゴシック的思考(仮題)』講談社より7月刊行の予定。

2004/05/04 Tue
ひとことCM 6月にメディアファクトリーから創刊の季刊怪談雑誌「幽」に随筆連載します。

2004/05/05 Wed
ひとことCM 6/26、南青山の「梅窓院」というお寺の「祖師堂」で行われる怪談会に佐藤弓生とともに出ます。

2004/05/06 Thu
ひとことレジスタンス 輸入CD禁止法反対。

2004/05/08 Sat
ひとこと疑問 「自己責任」ていう人本当に自分責任負ってる?

2004/05/09 Sun
ひとこと呼びかけ 「CASSHERN」好きな人あつまれ

ここで『ゴシック的思考(仮題)』と告知したのが『ゴシックハート』。その後増刷を重ねた。現在五刷。
「幽」の連載は創刊号から十回ほど続いて終わり、現在は見開きコラムとしてほそぼそと続いている。
「幽」主催の怪談会では佐藤弓生とともにステージに立たせてもらったが、そうした出演はこれが最初で最後となった。いい思い出である。
あとは多少当時の政治経済状況について。普段こうしたことは敢えて言わないので珍しくはある。
最後の「CASSHERN」は紀里谷和明監督の映画。好評不評があい半ばしつつ、それなりに興行成績をあげたと聞いている。破綻も多いことはわかっているが、こういうものからは眼が離せない。

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2000年に提出して公開されなかった推薦書リストふたたび

2004/05/02 Sun  には以下。

さて、2000年3月ころ、「早稲田文学」から、附録としてつけるCDRに
収録する特集として「これからの『早稲田文学』読者に読んでほしい数冊の本」
というアンケートを頼まれた。
どうせみんなルール破り放題なんだろうと思い、
数冊ではなく数項目についてそれぞれ何冊かずつあげて答えておいたら、
結局収録されなかった。多すぎて載せられないということだった。
他の方々はあまり大量には書かなかったらしい。ちょっと恥。

で、そのとき記した推薦書など以下に。

として2004年05/02から09にかけて記した推薦書リストを編集しなおして再録する。★~☆間
※部分は今回補足。

読んでほしい数冊の本
高原英理

各ブロックごとにどれか一冊ずつ、あるいはどこからでも合計して「数冊」、読んでいただければ、私のいだく問題系の一端が共有されることと信じる。

■ブロックA(小説-少年/自己愛/憧憬)

「豊饒の海」全4巻 三島由紀夫(新潮文庫)
「孤島の鬼」江戸川乱歩(創元推理文庫ほか)
「稲垣足穂作品集」稲垣足穂
  (新潮社版もしくは沖積舎版・内容は同じ、河出文庫数冊でもよし※ちくま文庫でもよし)
  【「少年愛の美学」「彼等(they)」「一千一秒物語」「僕の"ユリーカ"」含む】
「中公文庫版・折口信夫全集第24巻 創作4」折口信夫(中央公論新社)
  【「口ぶえ」「死者の書」含む】
「創元ライブラリ版・中井英夫全集第5巻 金と泥の日々」中井英夫
  【「金と泥の日々」「夜翔ぶ女」「名なしの森」「夕映え少年」「他人の夢」含む】

※ 『無垢の力』系。

■ブロックB(小説-少女/自由/高慢)

「山梔(くちなし)」野溝七生子(講談社文芸文庫)
「ちくま日本文学全集第20巻 尾崎翠」尾崎翠(ちくま文庫)
   【「第七官界彷徨」含む】
「甘い蜜の部屋」森茉莉(ちくま文庫)
「ナチュラルウーマン」松浦理英子(河出文庫)
「ハイブリッド・チャイルド」大原まり子(ハヤカワ文庫JA)
「幽界森娘異聞」笙野頼子(※講談社文庫)

今回は『少女領域』系。

■ブロックC(小説or随筆-語り/博物誌/郷愁/詩歌/抵抗)

「山躁賦」古井由吉(集英社)
「夢の宇宙誌」澁澤龍彦(河出文庫)
「昭和幻燈館」久世光彦(中公文庫)
「緑珠玲瓏館」塚本邦雄(文藝春秋)
「神聖喜劇」全5巻 大西巨人(ちくま文庫)

文学ってば、こんなのがいいくないすか。

■ブロックD(評論-美学/幻想/フェミニズム/言説制度/都市)

「殉教の美学」磯田光一(冬樹社)
「銀河と地獄」川村二郎(講談社学術文庫)
「女という快楽」上野千鶴子(勁草書房)
「日本近代文学の起源」柄谷行人(講談社文芸文庫)
「都市空間のなかの文学」前田愛(ちくま学芸文庫)

このあたりが文芸評論に志すこととなった動機かな。

■ブロックE(小説・翻訳-悪/怪奇/ゴシック/沈思)

「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」D.A.F.ド・サド 佐藤晴夫訳(未知谷)
   【河出文庫版・澁澤龍彦抄訳「悪徳の栄え」正続でもよし】
「葬儀」ジャン・ジュネ 生田耕作訳(河出書房新社)
「怪奇小説傑作集」全5巻 ブラックウッド、マッケン、ラヴクラフトほか
    平井呈一ほか編訳(創元推理文庫)
「アルゴールの城にて」ジュリアン・グラック 安藤元雄訳(白水uブックス)
「箱舟」ピエール・ガスカール 有田忠郎訳(書肆山田)

ほぼ幻想文学系。

■ブロックF(評論・翻訳-卓越/蕩尽/世紀末/ジェンダー/クイアセオリー)

「文庫版ニーチェ全集第11巻 善悪の彼岸・道徳の系譜」
    フリードリヒ・W・ニーチェ 信田正三訳(ちくま学芸文庫)
「バタイユ著作集第8巻 ジル・ド・レ論――悪の論理」
    ジョルジュ・バタイユ 伊東守男訳(二見書房)
「肉体と死と悪魔」マリオ・プラーツ 倉智恒夫・草野重行・土田知則・南條竹則訳
   (国書刊行会)
「性の歴史」Ⅰ~Ⅲ ミッシェル・フーコー 渡辺守章・田村俶訳(新潮社)
「聖フーコー――ゲイの聖人伝に向けて」
    ディヴィッド・M・ハルプリン 村山敏勝訳(太田出版)
「ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱」
    ジュディス・バトラー 竹村和子訳(青土社)
「クローゼットの認識論――セクシュアリテイの20世紀」
    イヴ・コゾフスキー・セジウィック 外岡尚美訳(青土社)

以上で終り。
最後は思想・評論で〆。
※ジェンダー系には文句ある人も多そうだが、批判するにせよ、まず知ることはよいではないか。
私はもともとニーチェ主義者でした。……で「CASSHERN」?(恥)
なお以上にあげた推薦書はもはや「早稲田文学」読者に向けてだけではありません。

いや、「私のいだく問題系の一端」を共有していただく必要などないが、ただそれでも、上の本、いいと思いますよ。今も。

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『うさと私』と朗読のこと

2004/01/15 に
★昨年は二回も朗読会に出た。
ところで以下は2000年9月、佐藤弓生の所属する短歌誌「かばん」ウェブの掲示板に書いた朗読に関すること☆

とあって、1995年ころ、『うさと私』が谷川俊太郎氏に評され、その場で朗読することになり、非常に下手に朗読した、という記述が続く。
おそらく朗読に関連して、谷川氏評の件を示したかったのだろう。
『うさと私』刊行時の帯文「キューキョクの愛の表現。スタイル・ユニーク。」というのはこのおりの谷川氏の言葉を使わせていただいたもの。

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2003年全体のメモ

2003年のこと。思い出せるところ、思い出せないところ、これも覚書。(★~☆間が引用)

★2003/12/31 Wed  イノセンス

今年やったことメモ

  3/26
東京工業大学大学院社会理工学研究科博士後期課程終了
「近代日本文学における少年表象による憧憬の価値構成」
により学位取得

  6/2
長編評論『無垢の力――〈少年〉表象文学論』講談社より刊

  6/6
『無垢の力』出版記念会 於・出版クラブ会館

  6/29~7/8
オーストラリア・ブリスベンに滞在
第13回JSAA(japanese study association of australia)で、"girl power literature"に関して研究発表
また「近代日本文学における少年表象による憧憬の価値構成」に関して講義

  8/10
阿佐ヶ谷「よるのひるね」にて「みみのひるね」朗読会で自作を朗読
テクストは「小説推理」掲載、秋里光彦名義による『日の暮れ語り』 

  11/15
アナベル・フィステ 成立 佐藤弓生による

  12/13
東京庭園美術館にて「パンノミミ」朗読会で自作を朗読
テクストは「幻想文学」掲載の『青色夢硝子』

  12/20
佐藤弓生・入谷いずみ「海の歌集批評会」で雑務 於・武蔵野公会堂☆


多くの方々にお世話になった年だった。
いまどきとは思うが、あらためて御礼申しあげます。
この頃は朗読もよくやっていたことを知る。
「日の暮れ語り」と「青色夢硝子」というとりあわせは「江戸川家の方へ」と「稲垣家の方へ」といったところ。

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ミステリーを

たまたま今年から「幻想小説論」と「ミステリー小説論」を教えることになった。
幻想小説については武蔵野大学で伝えてきたことを敷衍するだけでよいが、ミステリーは少し勝手が違う。
だが既に一度、早稲田大学でミステリー創作講座を受け持ったことがあり、やはりその線でゆくことにする。
つまり江戸川乱歩中心主義ということ。
ひとまず当時を思い出しておこう。以下を覚え書とする。(★~☆間が引用)

★2003/12/04 Thu  かっ飛びオランダ野郎

今年も講義要項を提出する時期がやってきた。

昨年、早稲田大学の「ミステリ講座」に用いた要項から抜粋。

「近代人の内面」を長らく第一義的主題としてきたいわゆる純文学が、切実ではあってもそうした実存に規定されるわれわれの「外」を見せることに積極的でなかったとすれば、広義のミステリは「内面への共感」ではなく「変わったできごと」への好奇心をもとに書かれたものと言える。☆

とはいえ今では、「謎」を語るには純文学の方がより一層適しているのかも知れないという気もある。
ただその面白さがミステリーの読者の眼に届かないという場合もあるかもしれないが。

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よい題名

よい題名というのはいつも考えているがなかなかこれとは決めがたい。
かつてあげた例などまとめてみた。(★~☆間、引用、まぎらわしいのでタイトルは略)

★2003/12/06 Sat

以前、藤原龍一郎氏の掲示板に書いたいい題名シリーズ

幻想・現実嫌い・生の心許なさ系題名ベスト3

日々の泡  (ボリス・ヴィアン)
        ←「うたかたの日々」の訳題もあるがいまいち
世界の果てに連れてって  (ブレーズ・サンドラール)
十月はたそがれの国  (レイ・ブラッドベリ)

2003/12/08 Mon

いい題名シリーズ 2

大島弓子題名ベスト3

夏のおわりのト短調
おりしもそのときチャイコフスキーが
リベルテ144時間

2003/12/09 Tue

いい題名シリーズ 3

江戸川乱歩題名ベスト3

目羅博士の不思議な犯罪
      ←後に「目羅博士」と改題、だがこっちの方がずっといい
押絵と旅する男
闇に蠢く

2003/12/22 Mon

いい題名シリーズもう少し続けます。その4

稲垣足穂題名ベスト3

懐しの七月
電気の敵
星は北に拱(たんだ)く夜の記

2003/12/24 Wed

いい題名シリーズ 5

三島由紀夫題名ベスト3

癩王のテラス (戯曲)
月澹荘綺譚 (小説)
薔薇刑 (写真集)

2003/12/25 Thu

いい題名シリーズ 6

最近の純文学新人題名ベスト3

サイドカーに犬  (長嶋有)
クチュクチュバーン  (吉村萬壱)
蚤の心臓ファンクラブ  (萩原亨)

ここで書かれた「最近」とは2001年5月現在のこと。
なお、上の三作は、それぞれ新人賞の二次予選通過作品として文芸誌に掲載された中から、これ題名いいね、と言っていたもの。
その後、三作品ともそれぞれ新人賞を受賞した。

また、この半年前、私は「文學界」で新人月評というのをやっていて、そこからの反映が次のとおり。つまり2000年の純文学から。

半年前の純文学新人題名ベスト3

スッポン (大道珠貴)
もどろき (黒川創)
ゆらてぃく ゆりてぃく (崎山多美)☆

今見直してみてどうか。よくわからない。気になる題名、と言うほうがあたっているかもしれない。
それと「よい題名」と「よくアピールする題名」とは違うらしいとも思う。


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先達のこと・20年早く生まれたかったこと

澁澤龍彦(1987年逝去)
中井英夫(1993年逝去)
後藤明生(1999年逝去)
久世光彦(2006年逝去)
山口小夜子(2007年逝去)
川村二郎(2008年逝去)

上の方々に『抒情的恐怖群』(2009年刊)とそれ以降の小説を御覧いただきたかった

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『書物の王国 6 鉱物』・山口小夜子さん

『書物の王国』第6巻「鉱物」1997年、国書刊行会刊。

収録作品は以下。

「石の夢」 澁澤龍彦
「貝の火」 宮沢賢治
「水晶物語」 稲垣足穂
「異石」 杜光庭『録異記』、岡本綺堂・訳
「石髄の話」 葛洪『神仙伝』、飯塚朗・訳
「狐の珠」 戴孚『広異記』、前野直彬・訳
「石を愛する男」 蒲松齢『聊斎志異』、増田渉・訳
「巡礼のひとりごと」 ヴォルケル、栗栖継・訳
「石の女」 ピエール・ド・マンディアルグ、生田耕作・訳
「食べる石」 種村季弘
「産む石」 種村季弘
「石中蟄龍の事」 根岸鎮衛『耳嚢』、須永朝彦・訳
「懐中へ入った石」 『梅翁随筆』、須永朝彦・訳
「動く石」 柴田宵曲
「室の中を歩く石」 田中貢太郎
「サファイア」 寺山修司
「水晶の卵」 ウェルズ、小野寺健・訳
「博物誌より」 プリニウス、佐藤弓生・訳
「フィシオログスより」 作者不詳、梶田昭・役
「雲根志より」 木内石亭、須永朝彦・訳
「鉱石倶楽部より」 長野まゆみ
「白描・白描以後より」 明石海人
「青色夢硝子」 加藤幹也
「馬鹿石、泥石」 サンド、篠田知和基・訳
「妖気噴く石」 石上堅
「クマルビの神話」 矢島文夫
「岩」 オマハ族の歌、金関寿夫・訳
「石の花」 日野啓三
「石の言語」 ブルトン、巖谷國士・訳
「鍾乳石」 ガスカール、有田忠郎・訳
「黄銅鉱と化した自分」 池澤夏樹
「断片・続断片より」 ノヴァーリス、飯田安・訳
「石」 西條八十
「ファルンの鉱山」 ホフマン、種村季弘・訳
「山の親方」 バジョーフ、佐野朝子・訳
「青晶楽」 塚本邦雄
解説・責任編集 高原英理

内、「青色夢硝子」は自作。
澁澤龍彦のアンソロジー『暗黒のメルヘン』での当人による解説の言葉「編集部のすすめで拙作『マドンナの真珠』をも収録したが、これについての解説は省略させていただこう」のように記したかったのだが、編集部はすすめてくれなかったので、一見別人のようにして収録することにし、解説も日野啓三の作とあわせて一言ですませた。
なお、当サイトのプロフィールにも書いてあるが
2002年
◆池上本門寺主催公演「満月の十三祭り」第三章「山口小夜子 月かがみに遊ぶ」の朗読テキストに小説「青色夢硝子」が使用される。
踊り・朗読:山口小夜子・唄:ミネハハ・演出:天児牛大

上の催しのため、ある日突然、山口小夜子氏のご希望で、として朗読用テキストの依頼があった。
しかも山口氏は「幻想文学」に掲載された初出版で憶えておられたという。
「満月の十三夜」とはいうものの、当日はあいにくの小雨模様で、しかし予定通り開催された。
細かい雨にかすむ中、朗読し踊る山口氏の姿は優れて幻想的であった。
まだそういうご年齢でないのにお亡くなりになったのが残念でならない。

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書物の王国編纂のこと・第16巻「復讐」の選のこと

(★~☆内当ブログからの引用)

★2003/11/25 Tue  流謫王

国書刊行会刊のアンソロジー・シリーズ「書物の王国」は、2000年、最後の巻「復讐」が配本された。このシリーズは各巻それぞれ一人の責任編集により収録作が決定されてきたが、最終巻だけはそれまでの選定者全員の意見をつのることとなった。
編集長からの依頼を受けて私が送付した候補作が以下。

「書物の王国」――復讐――候補作  高原英理・選  2000/03/16

1 コナン・ドイル    「サノクス令夫人」(新潮文庫)
2 塚本邦雄       『遊神図』より「火の鏡」(文芸春秋刊)
3 シオドア・スタージョン「考え方」 (『一角獣多角獣』
                            早川書房刊)
4 シーベリー・クイン  「呪いの家」 (月刊ペン社刊
                      『恐怖と幻想』何巻か忘れた)
5 南条範夫       「復讐鬼」(確か旺文社文庫で読んだ)
6 小酒井不木      「手術」 (立風書房
                      『現代怪奇小説集』1か?)
7 クック(名の方忘れた)「魔の配剤」(ソノラマ文庫)
8 江戸川乱歩      「踊る一寸法師」(講談社版全集その他)

この中から採用されたのが「サノクス令夫人」と「復讐鬼」だった。☆


「書物の王国」全20巻は1997年、国書刊行会の礒崎編集長の発案で始まった。
第6巻「鉱物」の巻だけ、すべて私が作品選定した。
礒崎編集長の当初の意向では選定は数人の合議として選定者の名は示さない方針だったそうだが、ある程度他の意見も反映することはあるものの、特定の巻の作品選定は誰か一人が行なうことがほぼ基本となったので、それに対応すべく、最初のページの「『書物の王国』編纂委員会」の下、選定者の名に*印をつけて、責任編者をあきらかにした。
ただ、その最後の配本となった第16巻「復讐」だけは全員の意見をある程度均等に募ることにしたという。
結果は上のとおりだが、この巻に対して、他の多くの巻を選定した東雅夫氏はやや消極的で、「復讐なんて興味ないし」というようなことを言っておられたように記憶する。とはいえ、おそらくそれでも何作かの作品を推薦しておられることとは思う。
他の方の意見はどうであったか知らない。

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墓地にちなむ

昨日記した「墓地派」というのはこれ
日本ではトマス・グレイの「墓畔の哀歌」がよく知られている。メランコリックで「何をやってもいずれ人は死ぬ」的な諦観に満ちた淋しい静けさを描く詩として愛されているとのこと。
ただ、グレイ以外の墓地派詩人は諸行無常な雰囲気よりも怪奇趣味の方を主とするものが多いようで、またより誇張が多く、執拗である。ロバート・ブレアの詩「墓」はポオの「アッシャー家」を詩にしてもっとくどく大げさに詠嘆的にした感じ。

こうした話題に関して面白い見間違いが一昨日、自分にあったが、作品にすることにしたのでここには書かない。

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死とメランコリーの気分・バウハウスにちなむ

なんとなく感じる時代の空気について。(★~☆が過去の当ブログからの引用)

★2003/11/23 Sun  ベラ・ルゴシズ・デッド

20年前は街のどこかで楽しいことが行われているっていう感じがあったけど、今は街のどこかで誰かが死んでいる感じがある。
でもそれもなかなかいいか。☆

この記述は題名もちょうど内容に適合している。「ベラ・ルゴシズ・デッド」はバウハウスの代表曲で、ポジパン、ゴシックロックの出発点、ともいえるか。英国墓地派の再来のような世界、と思ったこともあるが正確にどう言われているかは知らない。ともかく死とメランコリーを歌ったひとつの達成と思う。
今夜も街のどこかで誰か死んでいそう、と感じ始めたのは1990年代終わり頃からでないかと思う。
他の人はどうか知らないが、そんな記憶がある。それもなかなかいいか、とまでは最初思わなかったが、こう記したときには、その気分がこの先の自己の著作に反映することをはっきり予感していた。
これがより強調されて『ゴシックハート』『ゴシックスピリット』になり『抒情的恐怖群』の諸作になった。
とりわけ「グレー・グレー」と「町の底」はそういう気分から書かれた。

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群像新人賞についての記事で訂正すべきこと・川田宇一郎の近刊

群像新人賞についてもうひとつ。以下★~☆間引用

★2003/11/18 Tue  水晶狂い

最近
(2001年11月1日の記録による。なおこの年、佐藤弓生は角川短歌賞を受賞した。私は96年に群像新人賞優秀作となっている)
   見つけたおかしい話

「公募ガイド」から佐藤に「受賞者紹介記事」の依頼があって見本誌今月号をもらってきた。
「群像新人賞」のところ見てみたら、囲みに群像新人賞出身作家・評論家の名が列挙されていたのだが、その紹介が
「本賞から排出した作家」

わしらウンコか!☆

上、正しくは「輩出」であるのは言うまでもない。この記事の掲載された「公募ガイド」はどこへ行ったかよくわからない。なくなったとしたら残念だ。
いや、それより「公募ガイド」は今も刊行されているのだろうか。
上にあるとおり自分は1996年第39回群像新人文学賞評論部門優秀作、なのだが、一時、受賞作品の題名「語りの事故現場」が「語りの自己現場」と誤記されていた。現在は大方直っているがまだ一部未訂正のものもある様子だ。
正しくは「事故現場」なので、もし間違いを見つけた方はどうか訂正お願いします。

それと、Wikipediaの「群像新人文学賞」を見ると、第39回は

小説部門 第39回(1996年) 当選作なし 優秀賞 堂垣園江 「足下の土」
評論部門 第39回(1996年) 当選作なし 優秀賞 川田宇一郎 「由美ちゃんとユミヨシさん 庄司薫と村上春樹の『小さき母』」、高原英理 「語りの事故現場」

となっていて、評論部門は正しいが、小説部門に重大な間違いがある。
この回、当選作はなしではなく、鈴木景子「やさしい光」が当選作である。
ここには、記事内容に関係のある私からの編集書き込みはできないので、やはりどなたか、志ある方に訂正していただけることを希望します。
この記載のせいで、今もかなり多く、群像新人賞第39回の小説部門を「当選作なし」とした記事を見かける。

なお、評論部門は上のとおり、当選作はなしの優秀作二作。この回は、小説当選一作・優秀一作・評論優秀二作、という大変盛大な回で、四人が受賞・優秀作だった。

さらにもうひとつ、私とともに優秀作を認定された川田宇一郎が、近く、遂に単著を刊行することになったのでここでもお知らせします。
川田くん、おめでとう。

『女の子を殺さないために 解読「濃縮還元100パーセントの恋愛小説」』川田 宇一郎 (著)
ISBN-10: 4062175207  ISBN-13: 978-4062175203  発売日: 2012/3/1

目次 は以下のとおりとのこと。

第一章 村上春樹
●男の子はつらいよ
●「ゲーム」で「人工的」でいまいましい小説とはどういうものか?
●そしてハートフィールドの謎解き
第二章 古井由吉
●なにはなくとも幼なじみ
●女の子が前を歩いて男の子が導かれること
第三章 川端康成
●「キャラクター」として可愛がられる「薫くん」
●『赤頭巾ちゃん』と『ライ麦畑』
●カオルクン的気持よさの発見
●ラブコメと川端康成
●「薫」という名前のメッセージ
●文芸評論の自己愛 
第四章 庄司薫
●女の子を必要としない物語ってなんですか?
●1969年の逃走論
●キャラメルママとエレクトロニック・マザー
●「ママ」を「ママ」らしくさせないために
第五章 坂口安吾
●女の子が死ぬのは、泣かせるため?
●女の子が歩くと落っこちること
●女の子は落ちることにより「ママ」から抜ける
●池の下の雲
●「由美ちゃん」の誕生
●物語論の底へ
第六章 柴田翔
●セックス=女の子が落ちること
●石原慎太郎によるセックスの二つの区別の発生
●崖の上の娼婦
●終わりに……嫌われるために

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群像新人賞、さまよえるオランダ人、死ぬより生きよ

翌日の記述

★2003/11/16 Sun  モボ

とある新人賞の一次選考を(数は少ないが)やったことがあって、現在の小説の書き手がやってはいけないことをそのとき強く意識した。
たとえば、単なる研究レポート禁止、「うたかたの恋」禁止、教育理念吐露禁止、寓話禁止、単純ドッペルゲンガー禁止、白血病禁止、いきなり教会で懺悔禁止、むやみな癒し禁止、中年以後の過去振り返り旅禁止、……など。☆

その翌日

★2003/11/17 Mon  ボンサンス

ヴァーグナーの楽劇「さまよえるオランダ人」というのは英語では「The Flying Dutchman」となるのだが、私はこの英題を見るたび、全然内容も知らない人がこれをさらに日本語訳した場合の題名を想像する。
「かっ飛びオランダ野郎」っての。☆

新人賞の一次選考というのは群像新人賞のこと。確か一度、「これは村上春樹に似すぎていてちょっとどうかと思うが、でもなんか面白い」ということで態度を決めかね、選外のような形で報告した作品が優秀作となった記憶がある。ただ上にあるようにそう多くは見ていないし、二、三回で一次選考の仕事は辞退した。以後やっていない。意外に大変だったからだ。だがいろいろと参考にはなった。
「さまよえるオランダ人」が「The Flying Dutchman」を経由して「かっ飛びオランダ野郎」ともなるという翻訳のおかしさは今も悪くないと思っている。これを思いついてしばらくの後、たまたま翻訳家の金原瑞人氏とお話しした機会に披露してみたら喜んでいただけた記憶がある。
「ワーグナー」「ヴァーグナー」は「ヴァークナー」の方が原音に近いとも聞き、以後そのように書くようになったが、いずれにせよどうしたところで原音と同じにはなりえないので今ではどうでもよいと思う。

少しはしゃいだ書き方をしようとしていたようだ。この程度の期待感のようなものは続けて書く上に必要な気はする。とはいえそもそもここで書く必要なんてない。そこを敢えて続けてみようと思ったことも「死ぬより生きるほうがよい」という意見の方向を認めるなら、よしとせざるをえない。

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『無垢の力』刊行、オーストラリア滞在、避暑、『ゴシックハート』執筆

このブログを始めたのが2003年11月15日だが、どうしてこの日からなのかは憶えていない。
ブログに何を期待していたかもよくわからない。
最初はこんな記述なのだが(★~☆間が引用)

★2003/11/15 Sat  あも

『無垢の力』出版後はオーストラリアへ行ってみたり友人の別荘で由緒正しい避暑をさせてもらったり。あと自分ってずいぶんゴスなもの好きだな~と考えていたら一冊分書けてしまったのでそのうち本にしますかも。☆

オーストラリア行は『少女領域』を読んだオーストラリアの大学の教授からの依頼による。公費で一週間ほど滞在した。後に必要のさいの履歴には以下のように記した。

高原英理 girl power literature テーマ Innovation and Resistance
2003年7月 13th biennial conference of the Japanese Studies Association of Australia
場所 オーストラリア - ブリスベン、クイーンズランド工科大学

友人の別荘というのは当時、当人の希望で名を伏せた。

『無垢の力』刊行は6月、またそれとともに出版記念会を催していただいた。
上で、一冊書けてしまったという『ゴシックハート』は2004年に刊行された。

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蛇の道

今、小休止がてら一筆。
ここまでをテキスト編とする。
次からタイトルの方式も変える。
飽くまで空いた時間の戯れだが、
題名どおりの記憶測定を近く始める。

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ナウ・オン・正字

1  実作者に綺麗ごとなし。
2  読者が小説に素敵なものを見いだすことはできるかも知れないが本質的に素敵な作家はいない。
3  作品を離れた作家のよいイメージは周囲の人が作ってくれたもの。
4  ありもしないお洒落作家なんてのの宣伝はそうしたイメージに無縁の作家に迷惑だ。
5  作者なんてどうでもよい。作品だけでよいではないか。
6  これで人気は難しそう田舎くさそう鈍くさそうな作品であってもそこそこよく読まれる状況が望ましい。

今のところ、以上。
この先、誰かと話していて、あるいは何か読んでいて、あ、やっぱり違った、と思ったときは上、どれでも訂正します。


このところひと山越えて、なんだか緩んでいたので緩んだことを書きました。
お遊びくださった方々、もう一度ありがとう。
これからしばらく、あまりこうしたこともできません。
でも今の山を越えたらそのときはまたあいかわらず「ひさしぶりに」よろしくです。ではまた。

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いと高きところに干さな

(↑ 関西の人がミサ曲の一節を聴いたときの解釈……のひとつ)

ひさしぶりに2ちゃんねるをのぞいたらうまい具合に正しいことが書いてあったので引用。(■~□間が引用部)

註 えりりんとは私のことをさす。

25 :名無しは無慈悲な夜の女王:2012/02/02(木) 18:52:25.10

【幻文速報】えりりん自己評価を激白!

>無念なことだ、自分とはそれだけではないはずだ。
>この状態はいわば宣伝用のイメージ広告の資本不足のようなもので、
>ブルックナーだろうが私だろうが(と、こう同立で並べるところ、激イタであるな)、
>本当のところは、奇跡的に誰か、心からよさをわかってくれる業界人がいて工夫してくれれば、
>お洒落にも見えれば偉大にも見えるものなのだ。

26 :名無しは無慈悲な夜の女王:2012/02/02(木) 19:38:16.68
>>25
こんな甘ったれた幻想を抱き続けちょるから
えりりんはうだつが上がらんのよのうのう

31 :名無しは無慈悲な夜の女王:2012/02/02(木) 23:35:41.63
あの自意識超過剰が治らん限り
えりりんに未来は無いね南無南無

32 :名無しは無慈悲な夜の女王:2012/02/02(木) 23:38:56.17
あれってつまり
ほむほむには理解のある業界人がいたから有名になれて
自分は才能あるのに業界で相手にされないから無名のまま
つーことでオケ?

そうなのです、あなたは正しいです。才能あるのに業界でまったく相手にされてません。
自意識超過剰上等。
要するにいつまでたっても無名なので。まったくそのとおりだ。

33 :名無しは無慈悲な夜の女王:2012/02/03(金) 00:06:45.44
それで帽子にこびこびなのね。。。。。

おう、いくらでも媚びますよ、でも千野さんはそういう媚びを一番嫌う人だからね。
これでまたより一層無名決定ですわ。


みなさん、ご協力ありがとう。
どうですこのみじめさ、見苦しさ。人気がない上に志がよくないからいつまでも「うだつ」が上がりません。
こういう場なのです、創作者の自意識というのは、と言いたいが、それは私だけの醜さであって、創作者全体ではないかもしれませんね。

およそ私の言う、かっこわるさとお洒落でない意味がこれでよくおわかりいただけたことと思います。


それにしても、無名きわまる私のことなど、話題にしてくださるのはここのみなさんくらいです。
ありがとう。皮肉でなく本当にありがとう。

追加

35 :名無しは無慈悲な夜の女王:2012/02/03(金) 10:47:46.25
【幻文速報】久し振りに2ちゃんを覗いてみたえりりん、>>33から3時間後に応酬!

いいとこついてきますね。
そうです。「ひさしぶり」なんていうのは嘘です。ここんとこ、誰かなんか書いてくれるんではないかと思ってわくてかで見てましたよ。
でも3時間後なんてわかるためには私よりさらによく注目してくれてるようで、それはそれでこれまたありがたいことです。

ほかにもイイつっこみなどあればお願いします。

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キンモー星

(承前)
前記の末尾を読むと、オシャレでないことを残念がりつつ、しかしそれをむしろ誇っている文脈となっている。
そうだ。自分としてやりたいことがあるのだ。それを書きつづけるばかりである。
だがその営為は、どういうわけか、今私の知る「世の中」では、田舎くさくてお洒落でないという位置に置かれやすい。ときにそう思える。思えるだけか。いや、お洒落メディアから依頼がこないのはそのことを裏付けている。
無念なことだ、自分とはそれだけではないはずだ。
この状態はいわば宣伝用のイメージ広告の資本不足のようなもので、ブルックナーだろうが私だろうが(と、こう同立で並べるところ、激イタであるな)、本当のところは、奇跡的に誰か、心からよさをわかってくれる業界人がいて工夫してくれれば、お洒落にも見えれば偉大にも見えるものなのだ。
そうやって周囲の決定的協力により世に出たお洒落(として演出された)作家(本質的には作家にお洒落はありえない)を私は何人か知っている。
しかし私は違った。それだけのことだ。
そこで、ともかく記しておきたいフィクション、を人知れず続けるばかりで、それらのいくつかはいつか本として世に出るのかどうかさえも不明なものである。
この不安定さが自己評価を下げるのだろう。だが書くものの価値は疑っておらず、周囲の重力に逆らわないよう、意図的に自己評価を低く言うたびに、内面での価値は相対的にむしろ上昇してしまい、その齟齬が言動のイタさを招くだろう。

多くに知られないまま意図する創作を続けるとはこういう状態に耐えることだ。

むろん嬉しくない。誇れない。人気があることはやはりよいことだ。人気がないことがいけないとは言わないが、人気があることを悪く言うことだけはすまいと思う。

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うつつ鬱もどき

気づけば一昨日の千野さんと私について、こんな。

shinichikudoh 工藤伸一
@
@chinoboshka フリッパーズギターでいうとオザケンとコーネリアスの違いみたいな感じですかね。コーネリアスはダークサイドです。
1月29日

ええー、じゃ、オレ小山田圭吾? おい祝い酒だ。酒もってこいや。
「うーん、チノケンとライヴやってた頃はサイコーだったね、ふふっ」

……てなあ、いえ、千野さんもおっしゃっているがコンビだったわけではありません。しつれい。

てことはともかく。

(ここからは承前)

「オレかっこわりぃし。あんたはいいね、ふんっ」、ていうような感じに聞こえていたのなら、もう一度すみません、千野帽子さん。

そういうことは言わないことにして、しかし自分がどうも「パリの農夫」(byルイ・アラゴン)ならぬ「東京の農夫」な感じに思えて仕方ないのは嘘でなく、ある点ではかっこいいと言われればただ嬉しいが、自己像としてはどうも、

その始まりというのはクラシックでいうと、モーツァルトのK.136のディヴェルティメントみたいのが似合わないように感じたことかとも思う。
あるいはラヴェルの「古風なメヌエット」とかが。どちらも大好きなのに。

クラシックをよく聴くようになってから、最初はあれもこれもだったし、モーツァルトいい、ラヴェルいい、というのもそうなのだが、あるときから、ブルックナーばっかり聴きだして、さすがに今はそれだけではないけれども、ことオーケストラ・コンサートとなるとブルックナーだけは特別に行きたがるのが今も変わらない。
昨年もザールブリュッケンをスクロヴァチェフスキが指揮した4番と9番はのがさず聴いた。
ラットル指揮ベルリンフィルで9番も聴いた。ケント・ナガノ指揮バイエルン国立管弦楽団の9番とテ・デウムも聴いた。

とにかくブルックナーの交響曲の演奏会にはできるだけ行きたい。どうしてこうなってしまったのか。
それはしかし好き好きだからいいではないか、という話なのだが、なんかブルックナー好きな層というのが。
他の演目のときならそれほど込まない男子トイレに、ブルックナーの演奏会の日になると長い列ができる。
バレエの舞台のときの女子トイレの列と同じ。
つまり、どうしてかブルックナーを聴きたがるのは男性が圧倒的に多い。
しかも、特に三年前くらい、スクロヴァチェフスキの指揮で5・7・8番を三日にわけてやったときなんか、曲が終わると、大拍手はいいのだが、「うおー」とか「ぐほー」とかなんだか野太い声がいっせいにわきあがって、そこらじゅうが野獣のような声につつまれた。それが全然止まない。
連れに「ブルオタ祭り」と紹介したが、声は出さないものの、ブルオタ(ブルックナーオタク)であるのは私も間違いなくそうだ。
どんな曲を聴いたっていいのはそのとおりだが、どうもブルックナー好きの男子というと限りなくエレガンスから遠いと思えてならないのである。

最近はようやく女性で好んでブルックナーを聴くという人も僅かだが存在するようになったし、シモーネ・ヤングという女性の指揮者によるブルックナー交響曲全曲録音というのも完成しつつあるらしい。
それはいいんだ、そしてまた、ブルックナーの曲自体がかっこわるいとかいうのでもない、ないが、しかし、やはりモーツァルト、ラヴェルとかと比べるとどうも繰り返しが多くてなんとなく幼稚に聞こえるようなところもあるし、ひどく長くて、しつこくくどい(好きでない人にとっては。好きな人にはそこがいいのだが)。とにかくメガロマニアック、でかいもの大好きで大げさで。古い英雄主義みたいな勇壮なとこもあるし、昔ナチスがつかってたとかとも聞くし(ブルックナー自身は別にユダヤ人差別はしなかった。弟子にマーラーもいる)。
ブルックナー本人もいつまでたっても田舎くさい人だったそうで、そういうところも含めて、
どうもオシャレじゃないのです。偉大だし素晴らしいが、オシャレではない。ナンパに使える種類の音楽ではない。だからこそいい。そのよさは、私が創作者として地を這うようにこつこつと人前にも出ず、素敵な人とも会わず、ただただ毎日、ちまちま直しながら何か小説らしいものを組み上げてゆく、その地味さ、そして自分の作風のなんというか、派手な注目のされなさによく似ているように思えるのだった。

きょうはこのへんにしよう。まだそれほどはイタくない。これからもうちょいイタ展開もあります。ではまた。

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貧ちゃんの鈍(ドーン)といってみよう

(↑ 「貧すれば鈍する」ということですね、わかります。略してヒンドン)

ということはともかく


前回の記事に一日300アクセス近くあったのには驚いたです。
やはり千野さん有名人だ。

でも、

chinoboshka 千野 帽子
@
高原さんの困るところは、 p.tl/WXbl のように、自分は泥臭くて千野はシャレオツ、というような物言いをなさるところです。違うのにー。RT @shinichikudoh @chinoboshka 高原英理さんは常にカッコイイですよね! 23秒前
10時間前

て、千野さん、なんだかごめんなさい。
それと工藤伸一さんありがとう。

せっかくだからオシャレ問題を整理しよう。

千野さんはオシャレだなあ、的なことを私は以前、言ってたですかね。
とすれば、それは正確ではない。オシャレの判断のできる人だなあと言うべきでした。
千野さんは、『文藝ガーリッシュ』や『世界小娘文學全集』『文學少女の友』といった著作で、「これは素敵な本です」という紹介をなさった。そうしたお仕事は今もしておられることと思います。
そして私も『少女領域』でそれに通ずるような「素敵」の探求をしたことがある。
こういう仕事や言動は、本人が素敵かどうかは別にして、「素敵の判定人」という役割だ。
それは少し変換されて「オシャレの判定人」としてもアピールされうるだろう。
厳密には「素敵の」ですね。
私も、素敵レフェリーの役割を一度は務めたわけなのだが、そこではっきり感じたのは「この役割は私にはとてもつらい」ということだった。
それがもっとよくわかってくるのは『無垢の力』を刊行後、『ゴシックハート』以後で、「自分は判定する側より判定される側でありたい」という意識が前面に出てくるからなのだった。
そして判定される側というのは私にとっては創作者であることなので、同じような評論を刊行するのに『ゴシックスピリット』『月光果樹園』とこのあたりはもう創作者の意識で作っている。
『月光果樹園』なんて、既発表の評論を集めただけでは足りず、わざわざ自作の詩歌、それに一編だけだが本文内に小説が入れてある。
むろん評論も創作だが、そういう意味ではなくて、この段階ではもう本当に批評家ではない作家であろうとしています。その、評論の合間に詩を組み込みたがる意識は「ポエマー」と変わりません。「トータルな私を見てください」アピール満点ですね。
そして『月光果樹園』と前後して『神野悪五郎只今退散仕る』が刊行され、次の年にはまずは創作としては一到達点のつもりの『抒情的恐怖群』が出て、以後小説とエッセイ以外書かなくなる。(←いまここ)

そういう自分は、前記1/27に記したような千野理論からするとどうしても、学ぶだけでいられず創作をしてしまうという意味でかっこわるい。
小説などの創作はせず、評論だけに徹している柄谷行人なんかは今もかっこいいと私は思ってます。そして自分はそういられなかった評論家失格人で、なるほど評論も創作だし自己表現だが、必ず他者の言葉から始める、そして自分をオリジナルとしないという意味ではやはり、評論だけをやってそれが本望の人というのは、私から見て、創作しない学者に次いでかっこいい。
すると千野さんは、というと、ご本人は「評論家」であることを否定しておられて、書評家とか解説者といった立場と考えておられるようですが、評論家でなくとも、他者の言葉から考え、自分をオリジナル化しない(本来自分の言葉がオリジナルと考えるのは間違いだが、あたかも自作がオリジナル作品であるかのような書き方と提出の仕方をする作家とは違う)という意味で、やはり私のような「作家であろうとするかっこわるさ」からは免れておられると言うほかはない。
ただ、千野的論理の延長として私はかっこわるいが、別の意味で(たとえば坂口安吾的な意味とかもそうかな?)、かっこいいといってくださる方もおられるということ。
それと、これからは知らないが、ここしばらくの千野帽子さんは、本人がどうかは別にして、「素敵の判定人」の役割を引き受けておられた。
ペトロニウス以来、典雅の審判者(elegantiae arbiter)をやった人の一人といえます。
たとえば日本では1960年代なら澁澤龍彦、1980年代なら浅田彰、といった人たちの引き受けた役割と、構造的には同じです。一度だけは私もそうだった。
「これは素敵です/これは素敵でない」と、ある種の擬似的な理論をたてて趣味判断をし、特に「素敵なもの」のよさを伝え続ける、それは仕事として素敵です(創作に行かないつもりならば)。
しかし、素敵判定人自身が素敵かどうかは、「素敵判定人判定人」がいないのでわからない。
なのでここではっきりしましょう。
私はある意味でかっこわるいが、千野さんはかっこいいかどうかオシャレかどうかはわからない。

ただし、ご本人、こんなことも

chinoboshka 千野 帽子
シャレオツな文芸誌《APIED》19号特集『鴎外と森茉莉 『舞姫』『贅沢貧乏』他』に「森鴎外と森茉莉と。 読書おぼえがき」を書きました。 p.tl/vT-d
10時間前

ほらー、シャレオツな文芸誌に書いてるじゃないですか。
本人がオシャレかどうかは不問ですが、これに限らずオシャレな場に呼ばれる人だ、というのは事実ですね。
で私はどうもそういうオシャレな場には出られません。注文がきません。オシャレ系の雑誌とかに書ける人がうらやましい(ただし批評家としてではなく創作家枠としてだけど)。
と、こういう視線がこういうことを書かせてしまう、それ、やはりかっこわるいですね。
だから開き直ってしまうのです。

(この項、続く、予定、明日以後はもっとイタいことを書くぞ。乞うご期待)

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歌の通う日

一般には「オシャレ文学の旗手」みたいに見られているのかも知れない千野帽子さんがこんなツイート。

chinoboshka 千野 帽子
学ばず作りたがる奴らより、作らなくても学んでる人のほうが100倍カッコいい。QT @raitu 良い作品を創る為には、良い作品を沢山学ばなければならない、と。//俺のように、ただ「学びたい」だけの人もいる。 htn.to/yUpPU1
1月26日

chinoboshka 千野 帽子
〈学ばず作りたがる奴らより、作らなくても学んでる人のほうが100倍カッコいい〉に懐疑の声もあるが「詩書いてます。自己流ですが」のポエマーより「十二音綴韻律とサッポー詩体と律詩とギャングスタ・ラップについて1冊ずつ研究書出した。自作はしない」の学者のがカッコいいに決まってんじゃん。
18時間前

全面的に賛成なのだが、ポエムはともかく小説について言うなら、実際の表現の世界では「学ばず作る人」というのはそれほど問題にならず、創作のプロのほとんどは「学んで作ってる人」だと思う。学び方の緩い人は多いが。

そこでここからは自分の意見
「多く学んでいたとしても、どうしてもその上で自分が作りたいと思うところで既にかっこよさは低減する」
「学ぶだけで満足していられる人が一番かっこいい」

創作をしたいと思う心はもう全然かっこよさとは相反するもので、学ぼうが学ぶまいが、またいかになにげなさを装っていても、表現したいということは必ず「このわたしの表現を見て、見てください」という望みであって、その袖引きの意識は絶対的にかっこわるいんです。
そのかっこわるさを隠すために多大のイメージ操作が行われる。
「いえ、別に宣伝なんかしたくありません」「手に取りたい人だけ取ってください」といった態度でいる作家も、それは自分のかかわっている出版社等が懸命に売り込みに見えない売込みをしてくれているからであって、そこで「読者から求められている、自分では売り込まないアーティスト」のふりをしてもさあ。

で、私にはやっぱり(宣伝のために操作されたイメージをすべて剥ぎ取るなら)「かっこいい作家はありえない」という結論が出ます。
それはまた「作ることに執着している限り作家にオシャレはありえない」という意味でもあります。

ただし、千野氏に少し沿って言うなら、「オシャレと読みうる作品は存在する」「文学をオシャレに読む方法は存在する」
つまり「オシャレ文学は実体としては存在しないが読者の読み方として存在する」(作家でない人限定)
ということだ。
ただ、千野氏も本当のところ、文学にとって「オシャレか否か」というファクターばかりを重要視してはおられないと思うけどね。

ゆえに私はこれからも、ものすごくかっこわるいことをし続けたい。

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«自律せよ、と彼女は言う