『不機嫌な姫とブルックナー団』と『うさと私』、そして幻想文学について
まずはこちらから。
『不機嫌な姫とブルックナー団』(講談社刊1566円税込)8/26発売。→■■
『うさと私』(書肆侃侃房刊1404円税込)9/4発売。→□□
今年は上、二冊を刊行させていただけることになった(8/28時点で後の一冊はまだだけど)。
大変ありがたいことだ。
『不機嫌な姫とブルックナー団』刊行にあわせ、書店各位にご挨拶に伺ったところ、これまで、私を幻想小説作家と認識してくださっていた書店員の方が、今回の小説の、これまでとの作風の違いの大きさについて、やや不思議に感じておられるご様子であった。
既発表の自作をよく知っていただいていればこそで、これまた大変ありがたいことである。ただその場ではあまり言葉をつくして説明できなかったように思うので、こちらで記してみたいと思います。
(1) どうして今回は幻想小説ではないのか。
幻想小説のプランはいくらでもあります。
またこれから書くのでなくとも、ご注文があれば未発表の長編三作、既発表の短編二十数作をすぐご用意できます。
とはいえ、現在の出版状況と私の知名度から、すぐにそれらは実現しません。むろん今回の『不機嫌な姫とブルックナー団』がそれなりの成果を、すなわち売り上げを獲得すれば随分話は違ってくるでしょう。そこからはまた別の話。
ここでお伝えしたいのは、私は幻想文学を忘れたのでも捨てたのでもない、ただ、これまでよりはもう少々違ったことをしてみたい、可能性を試してみたいという望みから今回の小説は書かれたということです。
とはいえ、人はできることしかできません。
『不機嫌な姫とブルックナー団』は、幻想文学という方法ではない形で、私自身のテーマを描いただけのことで、そこにある、一言では言えませんが、発想や世界観等々、決してこれまでと断絶したものではありません。
たとえば、妖怪ファンタジー『神野悪五郎只今退散仕る』(毎日新聞社2007年刊)の末尾近くの、とても強いヒロイン紫都子の妹で怖がりの妙子の、以下の言葉などは、幻想文学であるかないかとは関係なく、私にとっての一貫した問いであります。
「おねえちゃんは、駄目な人のことがわかってないよ。いつも運が悪い人は俯いてるよ。おねえちゃんみたいに駄目なら諦めろって言われても、できない人がいるよ」
これまで私は幻想文学怪奇文学と呼ばれる世界に好ましい作品を非常に多く見出してきましたが、私自身の創作にとっては、私の求める問いがまず重要であり、幻想文学であることが目的ではありません。
むろん幻想文学でなければ描けないテーマもありますが、そればかりではありません。また、幻想文学であっては描けないということもあります。
確か、羽海野チカの『ハチミツとクローバー』のヒロインが、視界いっぱいに置かれた箱(だったかな)を前にして、「生きている間にどれだけ開けることができるだろう」と考えるというシーンがあったように思います(相当いい加減なので間違えがあったら失礼)。
これはいわば幻視の場面ですが、この場合、「箱を開ける」とは、新たな問いを発見し、そのそれぞれを彼女の方法で、異なる何かとして形にするという意味であるわけです。彼女にはそれだけ無数の可能性があって、ただし、限られた人生の中で実現できる可能性はそれらの一部であることを示しています。
私は『ハチミツとクローバー』のヒロインと比較できるほどの者ではないかもしれませんが、それでも、開かれていない可能性を大変多く感じています。
この先も幻想文学かそうでないかに関係なく、手にある可能性を実現したい。そう考えて今回、新たに見えるかもしれない一つの箱を開けてみました。
(2) 「リテラリーゴシック」の作者・編者がどうしてブルックナーという作曲家を好むか。
ブルックナーについての小説は今回が初めてですが、私はブルックナーの交響曲を愛して既に30年以上経ています。ただ、これが小説になるとは4年前までは考えていませんでした。
このブログに少し前、記したとおり、編集の方と、当時たまたま自分が得たコンサートチケットの話からブルックナーという特殊な作曲家とそのファンの特殊性、等々を話していたとき、「それでいきましょう」と、その方が、いわば、私の、これまであったけれども気づかずにいた可能性を開いてくださった、というわけです。
ところで、ブルックナーの交響曲は長くてくどくて人によっては喧しいばかりで、退屈かもしれませんが、もしよくよく聴いてそのよさを感じようとし、それを言葉で示そうとするなら、何よりのすばらしさはその「崇高」にあるのではないかと思います。ブルックナーは音楽によって崇高さを伝えることのできる作品を残した人と私は思います。
むろん、表現される「崇高」は、時と場所、状況を異にすると容易く「滑稽」にもなりますし、ブルックナーの音楽のあまりの巨大化志向を馬鹿みたいと感じ、滑稽と思う方もおられるでしょう。
また、実際の現場では迷ってばかりであった気弱で優柔不断なブルックナーは、その売り込み方は迷い続けたけれども、崇高の表現を目指すということだけについては全く疑いを持たず、笑われようが馬鹿にされようが愚鈍に続けていったのでした。
この方向性と姿勢は私の考えるリテラリーゴシックのそれと同じです。
そしてリテラリーゴシックにとっての最も重要なファクターはやはり「崇高」であり、かつまた、それを嘲笑されることも含めて、腹をくくって、これはよい、と言う覚悟を持つことです。
実際に、ブルックナーの交響曲のもたらす、ある感じは、ゴシック・メタルのあの感じにも近いと私は感じますがそこは主観としておきましょう。
(3) ホラー小説の作者が今回のような作品を書いたのはなぜか。
私の過去の作品をご存知の方なら、秋里光彦名義の『闇の司』(ハルキ・ホラー文庫1999刊)と『抒情的恐怖群』(毎日新聞社2008刊)収録作と『不機嫌な姫とブルックナー団』の空気感との差に驚かれたことでしょう。
今回は恐怖に通ずるところは全くありません。他者の見えない人が懸命に何かやろうとするおかしさ、その失敗のなんだかなあ感、そしてそういう作者の残した作品をこよなく愛する人たちの、やはりまるで思うに任せない在り方、など、過去をそして今を生きることの不器用な人たちの、それでもほっておけないような感じ、そんなところをお読みいただければ幸いですが、ではそこにホラー小説との共通点は全くないのか。
ご判断はお任せしますが、私から仮に、お答えしますと、ホラー小説に心寄せる意識は、やはり現実生活とは異なる驚異を求める心からきていると思います。その、途方もない何か、たとえば崇高、あるいは強烈な恐怖は、いずれも平常には望めないものです。何もそれだけで生きるわけではないので普段はよりよく堅実に生活しようと工夫していますが、ときおりふと、何かこの世ならぬものに惹かれてしまう、という意味で、ホラー小説・幻想小説を求める心とブルックナーの音楽を愛する心とは近いものが私には感じられます。
ホラー小説・幻想小説を書いたときは、驚異を直接語ろうとしたのですが、今回は「驚異に惹かれつつ生きること」を描いているという意味で、向かう先に違いはありません。
(4) 『うさと私』との関係は。
『うさと私』こそ、実は私の最初の著作ともいえるものでした。その後、小説としてはホラー小説集『闇の司』、妖怪ファンタジー『神野悪五郎只今退散仕る』、怪奇幻想小説集『抒情的恐怖群』を世に問うことができて、これによって、いくらかは幻想小説作家として知られることになりました。
『うさと私』もまた全く怪奇・ホラーではありませんが、ファンタスティックというところは多くあります。幻想小説、とまで言えるかどうかはともかく、やはり私にとって是非世に問いたい可能性の発露であったので、これもご覧いただけたら幸いです。
ひとまずこんなことを書いてみました。
9/16(金)18:30~、MARUZEN&ジュンク堂 渋谷店 で、岸本佐知子さんとお話しさせていただけることになりました。 → ▼▼
もっと詳しくはこの日、お話しさせていただきます(が、私としては岸本さんのお話の方がより聞きたい)。
よろしければどうかおいでください。
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