沈みゆく過去のあだごと

クロツヤムシという虫はコガネムシの仲間で、日本では九州・四国地方に住む。
腹を押すときゅうきゅう鳴く。
朽木の中に雄・雌のペアで暮らし、ともに幼虫を育てる。
幼虫も鳴き声をたてて親に餌をねだる。

暖かい地方に住むのであまり餌には困らない様子である。
家族で倒木の中にこっそりと住んでいる。
幸せであってほしい、クロツヤムシ。

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銀色の夏来たるらし

ここしばらくの自分の記述に共通なのは、フィクションあるいは詩的な何かを書こうとするにおいて自分は自分の意識を信じない、ということのようだ。
ただ、コンシャスネス、といえば方向性が常に決まっているものとしての意識だが、私の場合、視線はあっても方向性の乏しいような意識はよしとする。
まるで無意識では表出できないし、といって、強い自己主張を持った明確な意識のままでは自分の場合、小説には無力、ということが長くかかってようやくわかってきた気がする。
この微妙なところを巧く衝いて、半覚半眠のような位置で魔術的に言葉を拾うこと。
その心の特殊な使い方とでもいうものがなんとなく、錬金術師の修業のように思えてならない。
錬金術は物質を扱いながら、ある精神的な陶冶を必ず求めた。
詩人・小説家はまるで物質的なものを手にするのではないのに、その心の技のようなものをどこかで学んでゆくように思う。
なお、それは名技への求道であって、世に考えられる人間的成長とは異なる。

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帝名定まらず、絵師のもと集ひたる暮れ谷生のほの萌え木

そのときの都合で気になっていることって、自分の場合、全然テーマにならない。
というより自分の意見とか主張とかってフィクションを書くときには無用無駄邪魔。
そういうのが無意識に潜った頃、微妙な形で出てくるのは面白いんだけど。
思いつめて続けるテーマもそのままではあんまりうまくゆかない。
不意打ち的に、あ、これ、という思いつきに沿って始める、続ける、のが一番面白くなる秘訣、自分の場合。
そこでは語る「私」の重みをできるだけ減らすのも秘訣。

今月出た東京創元社の「ミステリーズ!」35号で、翻訳家・エッセイストの宮脇孝雄さんが『抒情的恐怖群』を評してくださっている。
末尾では泉鏡花と比較していただいて、心からありがたい評だった。
そこで宮脇さんは、私の今回の短篇の中、

「面白いのは、とても影の薄い、月光のような『幽霊の一人称』とでも呼びたくなる『私』の視点で語られた一群の物語だ」

と指摘してくださっている。
よく読んでくださる方は違う。
「幽霊の一人称」という語はよく記憶させていただこうと思った。

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かくかくありて

昨日に続けて考えてみると、何か意図をもって策動して成功したこともない。
後で、よかった、と思えるようなことって、気づかずにいたら向こうからやってきた場合がほとんどで、それ以外も、なんとなく予感できてはいたが特に手立てを講じたことではない、という感じ。
むろんすべてが、というわけではないだろうがあまり思い当たらない。
それと何か発表するにあたっては時に営業的努力もしたが、それは策動とか立ち回るとかではない、ごく当たり前の営みでしょう。
自分の意志と才覚と策でばりばり現在を切り開いてきた人もいるのでしょうね。
でも自分はどうも凄みのある人間観察ができないせいか、事実上、抜け目なくやろうとするよりは、間抜けな態度でいたほうがむしろ得をするらしいとここ数年感じるばかり。

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いるのか、いないのか

上は中公文庫BIBLIO版・今野圓輔著『怪談 民俗学の立場から』の帯にあった文言。
これに鳥山石燕の「骸骨」の絵がぴったしだった。

ところで、「自分なんか」という感じ方はしたことがない。
一方、こんな待遇じゃここにいる気はしない、と思って去ったことはたびたびあった。
そこで腰を低くして「はいはい」と言っておれば、いつか周囲から盛り立てられてよい立場になったのかは不明。
でもこれまでの経験で言えるのは、人間関係的な配慮をしている暇があるのなら、新たな原稿を一枚でも多く書け、ということ。
少なくとも自分の場合、新たな作品を提出することでしか未来は開けなかった。

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多々ある中のたたずまい

たまーに飛行船が飛んでいるのを見ると大変得した気分になる。
昔みたいに水素ではなくヘリウムを入れているのだからヒンデンブルクのような爆発事故は起こらないはずだし、もっと多く使われてもいいんじゃないかと思うがスピードの問題か?
実態はよくは知らないが、安全性に問題がないとして、もし十分な金が使えるなら、自家用飛行船が欲しい。とても欲しい。

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リトミカ・オスティナータ

長らくプロフィールが途中までのまま、かつ、いい加減だったので、ある程度正確に、また無駄を省き、書き直しました。
また折を見ては書き足し書き直します。
で、ひとまず今はこの形。

http://homepage3.nifty.com/annabel/takahara.htm

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乱ありてなお森々たり

過去は悔いばかり未来は怯えばかり現在はなく過去ならぬ栄光未来ならぬ期待のみ。

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海もあらん空もあらん

「それはなかなか経済だね」
という言い方って今はしないが、意味はわかる。ちょっと古臭いのがかえってよい。
明治末期から大正くらいの感じがするのだが確かかどうかはわからない。

ところで「ご時勢」という言い方はなんとなく昭和中期、高度成長期の新聞雑誌にとりわけよくあったような気がするがどうだろう。
今も現役の語である。意外によくみかける。
だが嫌い。
ことさらに「われわれ庶民は」と代弁する人が、自分の階級闘争的な怨恨を勝手に「普通の人」全員に託して語ろうとするヤな感じに近いか。お前の仲間であるなんて認めた覚えはない。
「このご時勢、……」というときの語りの姿勢は、なんか、オートマチックに「われわれ=庶民=弱者」と決めて疑わないそのオピニオンリーダーの態度に近い無神経さを感じさせる。「お上」とかの言い方も。

もっと使うのがおもしろい「昭和語」、捜しています。

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陸続と立ち上がる黄昏の塔

長らく、自信満々というのはあまりよいニュアンスでとらえなかったし、今もそうだ。
「自信満々」を強く感じさせる人たちのあまりの浅薄な自慢根性が厭だったという記憶による。
だが最近、美術評論家の樋口ヒロユキさんが「アーティストとして成功する人にはたいてい無根拠な自信がある」と言っておられるのを知って、このときふと、私がこれまで嫌悪してきたのは「自信のある人」ではなくて、「自信ありげにふるまおうとしているだけの、実はしょぼい見栄っ張り」ばかりだったことにようやく気づいた。
その証拠に、そういった人々の中で成功した人を見たことがない。
語る話みな自慢という人があるとき「三日で流し書きした原稿を○○文学賞に送ったら、一次予選通ってた。こんな程度でも一次予選通るんだよ俺は」と言っていたが、そんなに実力があるんなら三日でなく半年くらいかけて書いて二次予選通過しろよ、と後になって思った(私の常としてその場での適当な突っ込みは思いつかない)。
もう20年くらい前の話。その人は今も作家デビューはしていない。
さて、そして、本当に自信ある人は決してこれ見よがしな自信ある態度というのをとらない。
見せようとするための自信は自信でない。
こんな当然のことを書くのは、駄目な勘違い例を意識し嫌悪し過ぎることによって、本物を逃してしまわないようにするためだ。
で、確かに無根拠な自信は必要だね、という話。
樋口さんありがとう

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笑みたまえその翳り

他者に見え感じられていて、自分に見えていないこと、感じていないことはきっとある。
きっとあると思うのにそれがあることすら推測でしかわからない。
他者に感じられ自分には感じられないものがあることを私は詩や小説で学んだように思う。
文学はときに自分には得られないものの実在を示唆した。
証明はしない。ただ唆すだけだ。それはある、お前に見いだせないものが必ずあると。

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懐かしくうろ憶え

最近、日本で、整合性のない、説明のつきにくい事件やアクションが起こる小説が増えていると思う、と言う高橋源一郎氏の言葉に対する、柴田元幸氏の言葉

 それはアメリカもまったく一緒ですね。これはたとえば「世の中はそんなに甘いものじゃない」という言い方が説得力を持たなくなったということと根はひとつじゃないかと思うんです。「甘いものじゃない」という言い方をするということは、世の中はきちんとしたものだという前提に立っているわけです。
 でももう誰もこの世の中がきちんと成り立っているなんて思わなくなったし、もう「世の中そんなに甘いものじゃないよ」という言い方を誰も信じなくなった。そういうふうに世の中は筋が通ったものであるはずだという発想がもう説得力を持たないということと、こういう整合性を信じない小説が出てくるということはすごくつながっている気がするんです。

        (『柴田さんと高橋さんの小説の書き方、読み方、訳し方』p.75)

てことだと本日思うので賛成。

と、昨夜書いたら、本日昼、あんまりタイミングよくこんな記事が出てたので貼っとく。

http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20090605-00582/1.htm/a>

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求めゆく心かな

共感/驚き問題をもう少し。
「共感を求める読者は二流三流」「常に驚きと断絶を求める読者が選ばれた読者」などという言い方は心ある読書人はしないから、これは心無い人が勝手に決め付けるときの言葉を先取りしたものとお考えください。
それにしても、相当ものわかりのよい頭の鋭い人でもけっこう独断的に「でもこれ、あんま高級じゃないな」と思いがちな匂いのようなものがあって、それがどうも「押し付けがましい親しさ」といったところではないかと思う。
そういうのを嫌う人は、たとえば刺刺しい・違和感一杯、といった世界が、しかしそこにあるチャーミングな一部分によって読ませるようなものになっているとき、激しく心惹かれるのではないか。違うだろうか。
いつか、ずっと前、「詩的なものに全く対立するセンスの悪さ」をたとえるのに、「酒場で上機嫌になって大声で話している赤ら顔のおじさん」という表現を使った人がいて、そのたとえはある程度言い当てているとは思ったが、しかし、その種のオヤジ的な無神経を責め過ぎることを、1990年代半ば以後、私は疑問に思い始めた。
そういうのは実は私も嫌いで、また、やたら馴れ馴れしい態度というのも厭だが、といって、表現である限り、他者に向けて勝手に語りかけているという意味では「孤高の詩人」だって変らないのだ。
表現者は常に、自分も上機嫌で語り続ける見苦しいおっさんであることを忘れるな、ということだな、という話、になると共感/驚きの話からやや遠ざかってしまうのだが、やっぱりどこか深い所で通底している問題なのだと思う。
この件、またいずれ。

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瑠璃の色かも

あ 5/29に記した、「公開予定のインタビュー」は、6/2に掲げた記事とはまた別です。
こちらはやっぱり7月下旬ね。

あ、もうひとつ言い忘れてた、前号の連載終了でそのまま退場を考えていた「幽」ですが、編集部からのお勧めがあって、ひとまわり規模を小さくした新連載を始めることになりました。
江戸の怪談実話について、気楽に紹介・見解を記しています。
枯木も山のにぎわいとはまったくこのことですが、ご興味あらばどうぞ。
「幽」も、今回から7月の刊行、とのことでした。

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野ぞ彩らる

もうネット上に出てました。
小谷さんありがとう。

http://mainichi.jp/enta/book/interview/news/20090601org00m040036000c.html

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時じくの

このほど大江健三郎賞に続いて伊藤整文学賞も受賞の安藤礼二さんとは、最近、お会いするたび批評と小説を区別しないジャンルを夢見ているといった話をする。
最新刊『霊獣』(新潮社)では見事実践なさってますね。刊行おめでとう。

安藤さんとはその方法・方向・資質が全く異なるものの、言及対象・創作の源泉とする作家作品が自分と相当重なっていて、フィクション/クリティックの通底という意識に関しても近い。
私などと比べられるのはご本人には不本意かも知れないが、私としては以前からなんとなく「いいライバル」のつもりでいる。

現在回答制作中『抒情的恐怖群』をめぐるインタビュー、7月下旬に記事として出ます。

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烈々と

私がその感受性と才能を信頼する、ある優れた女性の歌人が、どこかで、
「わたしは尾崎翠をよいと思わなかった」
というようなことを書いていた。
それを知った佐藤弓生は
「こんなことを人に言うと、なんか、文学がわかってない人と言われそうなのに、その人はえらい」
と言った。
なお、書評家の千野帽子氏の信頼する、あるお知り合いにも尾崎翠はあまり面白くないと言う人がおられるそうだ。
何を面白いと感じるか、何が好きか、それを明確にして世界に対峙できることは優れている、と宣言する人たちの間で、尾崎翠を愛していると言う人は比較的多い。
最近はさらによく知られてきていて、だんだんカルト作家のような受け容れ方もされ始めている。
しかも、少女漫画の優れた先駆だとか、少女の必読本だとかいう意味合いで絶賛する向きが多いため、尾崎翠をあまり好きになれないと明言する人がいると、「えー、センス悪っ」と軽蔑されそうな趨勢だ。
ここが駄目なところだなと思うのは、そういう軽蔑や嘲笑は尾崎翠的なものから最も遠いということだ。
何より、好き嫌いをはっきりさせて世界に対峙しようとしている勇気ある人は、軽蔑されかかっている相手その人ではないか。
尾崎翠がわからない人は少女の心を持っていない人、などと言う、そんな「少女心」など豚に食わせろ。
その歌人の言葉を思い出すたび、こういった他者の思考への許容についてなるべく居心地悪く意識しなおそうと思うものだ。

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知れ

最近感じるのは、フィクションに対し、「共感を求める読者は二流三流」「常に驚きと断絶を求める読者が選ばれた読者」という意見の優勢化の兆し。
物語より詩を求める人やかなり高度な読書家がだいたいこういうことを言う。それがあまりに優勢とならない限りはよい意見だ。
私も六割方はそうだと思う。とりわけ「泣ける本」で売るのは高級な商売ではない。
だが、こういう言い方があまり不用意になされると、「これは共感のための本」、「これは驚異のための本」と、書物を分けてしまう単純な人が出てきそうで、そうなるとなんだか二十数年前の「ネクラ」「ネアカ」みたいな無自覚な差別主義が始まりそうで、厭だ。
私の周囲にはまだそういう人はいないようだが、しかしこの先、「共感ではなく驚異を求めることが本当のアートだ」という単純な物言いに唆された人が「この小説は共感を求めているところがあるから文学ではない」とか言い出すとしたらもううんざりである。
それが過ちなのは、もともとの視点からしてもそれは読者の問題、すなわち、読み方の問題であって、作品自体を固定的に「共感/驚異」と二分割できるのではないということによる。
また、ある作品を「共感を迫る二流三流以下作品」と決めるのは、そのようにしか読めないその読者であって、私から言わせれば、たとえばひとまず共感より驚異がすばらしいと感じる感受性を認めるとしても、そういう場合にも真に優れた読者は、一見、共感誘導的小説からも驚異を見つけ出すことができる。能動的に読むとはそういうことだ。
しかも、あらゆるフィクションは常に共感可能部分と驚異発生部分とを含んでいて、その割合の差があるに過ぎない。
何かを根拠にすぐ単純に序列化したがる、そのときに突出するのは「こんなに選別できる自分」の自覚を求め安易にそれを用意しようとする、当人の事情だろう。
さらに言うなら、ときに共感的な部分を散りばめつつ、あるときにはっとさせる、そういう小説が幅のある小説なのではないか。詩ではなく、小説なのであれば、だ。小説を貧しくするドグマには反対する。
「すべて」を読むことはできない。作品という「外から来るもの」に何を見いだすか、そこに読む側の願望が映し出される。

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先日5/13、佐藤弓生がパネリストに参加するというので「対決!現代短歌の前線」という連続公開講座の第二回を聴講してきた(於 神田・学士会館)。
パネリストはほかに阿木津英、藤原龍一郎、荻原裕幸、の各氏。司会・松平盟子氏。
この回は「モダンvsポストモダン」というものだが、この「対決」が対決になりえないことは、つまり、世に言う「ポストモダン」がそもそもモダン的対決の図式を解体する態度として語られたものであることは、いくらかでも批評を知る人には自明である。
さらに言うなら、建築ではなく文学のポストモダンというのは未だにいい加減な認識しかなく、せいぜい高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を頂点としたサブカル取り込み・80年代風俗取り込みをさすことが多く、それでは現代思想で言われたものとも違う。
もうひとつ言えば短歌にモダン・前衛・ニューウェーブ等の歴史的な流派の区別はあっても「ポストモダン」はなかったし、それは流派にはなりえない。
すなわち、この講座はもともと「ポストモダン」ということをよく考えていない人が(苦し紛れに?)企画したものであると推測され、その意味で、もはやそこに論理的な成果を期待してはいなかった。
むしろ企画者はその、知る人には噴飯ものの「対決」を故意に用意することで、パネリストに「何か」を語らせることを意図しているのであるとわかる、そういう企画だ。
その期待には十分応えるもので、題目の無理矛盾を別にして、阿木津・藤原両氏の明確な立場表明が聞きものであったのと、おそらく最も「ポストモダン」には意識的であろう荻原氏の、やや居心地悪げな解説とが大変興味深かった。
参加者にこういうことを言わせたのであればともあれ成功としてよいだろう。
なお、佐藤弓生の発言についての私からの感想は省く。
中で私が最も興味深く聞いたのは、斉藤斎藤という若手歌人の歌について、阿木津・藤原両氏が否定的に評し、かつ、藤原氏が「自分なら(修辞・形式を)もうちょっと整えたい」といった発言をしたのに対し、荻原氏が「斉藤氏はその、『ちょっと整える』をしたくないのでしょう」とコメントしたところだ。
たまたまどこかで出会ってしまった「生の詩」を、できるだけそのまま、ときには敢えて粗野で下手な形を厭わず書き残そうとする態度と、それを一旦自らの中に取り込んだ後に自らの理念もしくは美意識にあわせて形を整えて定着しようとする態度には永遠の隔たりがある。
対決というなら、この態度の違い以上の対決はないと思う。
この問題に気づかせてもらえただけでも当講座を聴講してよかったと思った。

ところで、以前からときおり告げております毎日新聞社の「本の時間」6月号のことが発行元のサイトにアップされました。以下がそれ

http://mainichi.jp/enta/book/honnojikan/

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徹し

承前。

過ちといっても、それを経験することによって、後に、高度な成功をもたらすような失敗はここでいう「優れた過ち」ではない。それはむしろ、成功の序曲のようなものだから、失敗に価値を見ない人でも「これあってこその得がたい経験」と記憶することができる。
ここに考える「優れた過ち」とは、自体、どう見直してみても成功には結びつかない過ち、無様だった記憶、自らの恥辱でしかないもの、でありながら、それを語ることが一般社会での成功とは別の真実を切り開いてしまうような出来事をいう。
文学はこういった優れた過ちを描くことで深みと幅を広げてきた。
夏目漱石は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』から『それから』『こころ』、『明暗』に至るまで、当人の生活史的事実との関係はともあれ、何らかの挫折、失敗、悔いといった意識の形を記し、その思索が歓迎されてきた。
しかし、無残な記憶は、それを記憶していればいるだけ自己を損なう可能性が増える。そして記憶に苛まれている人に、「その程度で壊れる自尊心など本物ではない」などと言うことはただの傲慢である。「鉄の自尊心」など、ありあまる条件のよさを背景に持たねば成立しない、つまり、自分ひとりで作り出せるものでは全くない。そして、何にせよ自信のない態度、誇りに欠ける態度は再度の手痛い失敗をもたらし易い。それが嘘でも浅はかな思い込みによる自信であっても、人の生活には、自己の無様さを忘れることによる僅かな誇りが、ないよりあるほうがましなのだ。
ならばときに文学者が社会人として失格である場合が見られるのは、その社会的には無駄でしかない過ちの様相にばかり執着してしまった結果だろう。
しかし、逆に、ある文学者は、自らのあるいは他人の、酷い、恥辱に満ちた、醜い記憶を、それゆえに何か恐るべき人間の謎として表出し、その次第によって世俗の成功まで勝ち取る。
いずれの場合も、世の成功を求めて生きることとは別の何かに引き寄せられた結果だ。

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寛ぎて

記憶とはそれに何かの価値を見ることによって残るのではないかと思う。
自らの過ちを語ることのきわめて少ない人がいる。語らないのではなく、語れないのだ。
むろん失敗を経験していないのではない。おそらく人並みに無念な過ちはたくさんあっただろう。
だがそうした人は過ちに全く価値を見いださないために過ちの記憶が容易く忘却される。
その人の記憶は何らかの意味で成功した瞬間だけによって成り立ち、結果的に「うまくいった人生」の形にばかり整備される。
それをナルシシズムと呼んでよいものかどうか。見栄を張ろうとした意図の結果ではないからだ。
ひとりでにそうなってしまうのは自分をよく見せたいからというよりは、その人にとって優れたものが成功だけだからだ。
「優れた過ち」というものがあることを知らないのである。

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狂おしく

「プレゼント用意しました」という語をたまたま見て想像したこと。
100個用意して3人が祝いに来てくれた。
嬉しいか? 悲しいか?
まず100個用意するという現状の読み間違いが悲しいが、しかしゼロ人ではなく、確かに3人来てくれたのだとしたらその3人はこの世界に自分をつなぎとめに来てくれた天使たち、あるいは星に導かれてキリストの生誕を祝いに来た東方の博士たちのようなものだ。
そこを心から喜べない人に明日はないと思う。
ただ、問題は100個用意して一人も来てくれなかったときだ。

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つつましく

穂村弘が以前「村上春樹を読んでとても苦しいところに追い詰められた。登場人物も読者も傷つかない、素敵なものだけでできている世界を見せられて、それ以外のルートが見えなくなった」というようなことを言った。
私も村上春樹は読んだが、彼のように苦しいところに追い詰められたという記憶はない。
ただ、今思えばある時期、池澤夏樹の『スティル・ライフ』が私にとっては躓きの石であったことが感じられる。
それは素敵な世界だからというよりも、限りなく自由を求めて都市を浮遊する存在を理想として描くことができるかも知れないという期待を持たされたからだ。そしてその期待は、「描くべきよきもの」を強固に規定した。
だが、実は『スティル・ライフ』はごく危うい均衡によってだけ成立する幻で、全く幻でしかなく、その唆す理想的意識を『スティル・ライフ』の作者以外がもう一度示すことはできないものだ。
私にはそれがわからず、いつまでも都市の自由を最高の境地として描こうとする願望が残り、それが私の書くフィクションをドグマティックにしていた。つまりそれはプロパガンダ小説のようなもので、理想として描くべき何ものかが予め決定していたから、本当に小説を書くという行為に至ることができなかったのだ。
ようやくそれを免れたのは自覚によってではなく、実社会とその状況が、80年代的な「都市の浮遊生活の自由」など根底から許さなくなったことによる。世界の根元的な不自由が身に感じられてようやくその幻の理想から解放された。
私の場合は、80年代的・ブルジョワ左翼的な「高級な自由」への憧れが、予め目的を定めずに書く行為そのものの自由を阻害していたのだ。
といって、今、池澤夏樹を否定する気はまったくない。今も池澤夏樹は優れた作家であると思うし『スティル・ライフ』は優れた作品だと思う。不景気になった状況こそが「本来の現実」とも思わない。もともと自由の幻影を望むのは人の本来のあり方だ。その幻に幻惑された人を多く生産したからその作者を非難すべきとは思わない。
ナチスに利用される余地を持ったニーチェの思想のように、ある突出したものはそれによって堕落させられる劣等な人々を常に生む。
ともあれ、今、なんとか書くことをやり直している。
幻は忘れない。だが信じもしない。

なお、毎日新聞社の「本の時間」6月号はもう各書店に置いてあるそうです。ご興味のある方はご覧ください。内容についても記そうと思ったが、ここでは敢えて書かないことにしました。

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縷々語りつつ

シーソーゲーム的ストーリーに耐えられない。
目的とするものとルールがはっきりしていて、その物語要請上、ほぼ結果がわかっている、あるいはせいぜい勝ちか負けか、どちらかありえかないようなラストに向けて、鑑賞者が自己投影すべき登場人物がさんざん苦労するという手順が面倒極まりない。
こういうものはゲームとして実践するには面白いだろう。それは結末に至る過程で、すべてその判断と動きが参加者の裁量のもとにあり、勝つも負けるも当人の判断と技によっているからだ。いわば駄目なゲームは参加者の責任であることが予め認められている。
だが、読む物語というものは読者の裁量には委ねられておらず、作者というプロデューサーがある意図のためにわざわざ行ってみせるゲームを横から覗いているという形になる。すると、見え透いた焦らしやためにする苦労といった、「下手なゲーム構成」に対し鑑賞者は常に不満を言いたくなる。
「俺ならそんな馬鹿な話は信じない」「そもそもそういうくだらない理由のために俺は動かない」「俺ならそこで相手をすぐ押さえる、逃げる猶予など与えない」等々。そういった不満がまったくないゲーム的物語展開はあまり見たことがない。
しかも物語のうまくない作者ほど不自然かつ理不尽なそして唐突なシチュエーションを用意し、読者が感情移入することを予期される登場人物が無駄な困難に苦しみ、たいていその感情的対価は後になっても与えられず、不愉快は解消しない。しかもルールと世界は既に決定していて変化しないため、ただ結末に至るまでの面倒な請負仕事のようにしか思われない。

望ましいのは、広い意味での探求を前提とし、探れば探るほど敵味方や良し悪しといった単純な世界のルールが思いもかけない形に変容してゆく過程を、ひとつひとつ納得ある言葉で語ってゆき、そのため細部には当然の感があるのに進めば進むほど世界の奥深さが見えてきて震撼する、新たに見えてくる世界の異変への驚きがきわだってゆく、そして終わりも決定はせず、さらに進めばさらに驚異が待つだろうことを伝えつつ、ひとまず仮初の結末で終結する、そんな物語だ。
それは徹底してゆけばもはや物語という形式からも離れてゆくのではないかと思う。究極には物語が詩である地点を目指しているのではないかと思う。

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ずっと待っている

私の監修するフリーペーパー「COMMUNIO」編集部からのお知らせ。
これまでの「COMMUNIO」がすべて読めます。さらに新たな記事もあります。
私に関する紹介がちょと気恥ずかしいが、そのままコピーペーストします。

(と、先に書きましたが、私の紹介部分は適当に修正しておくことにしました)

ゴシックカルチャー研究会発行・高原英理監修のフリーペーパー「COMMUNIO」5年分の集大成。
「COMMUNIO COFFIN」発刊のお知らせ。

 創刊号の特集「ゴシックとは何か?」を皮切りに、メンタルヘルス、人形、身体、廃墟、エロティシズム、自殺、アナーキズム、ロリータなど、様々なテーマをGOTHという視点で縦横無尽に論じてきた、ゴシックカルチャー研究会発行のフリーペーパー「COMMUNIO」が、集大成となって復活する。監修に高原英理を冠し、豪華ゲスト陣に、『リストカットシンドローム』の著者ロブ@大月、人形作家の安藤早苗、芥川賞作家の藤沢周、ゴシックに深い造詣を持つ医師の高柳カヨ子、画家にして装丁家の建石修志、『S&Mスナイパー』の元編集長渡邊安治、SF&ファンタジー評論家の小谷真理、『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』著者、樋口ヒロユキを迎えて配布してきた7冊を1冊に纏め上げ、「COMMUNIO  COFFIN」と銘打って復刊した。「COMMUNIO COFFIN」限定収録として、高原英理序文「ゴシック・ビス」、雨宮処凛×鶴見済特別対談「自殺からアナーキズムへ」収録。第八回文学フリマ限定200部のみ、定価1500円にて販売。

序文 ゴシック・ビス 高原英理

1 ゴシックとは何か  ~ゴシックハートとメンタルヘルス~   対談 高原英理×ロブ@大月
2 人形          ~人形愛への衝動~          インタビュー 安藤早苗
3 変容する身体    ~特別寄稿 藤沢周・高柳カヨ子~  
4 廃墟          ~ゴシックと廃墟の相互作用~    対談   高原英理×建石修志
5 エロティシズム    ~エロティシズムとゴシックの蜜月~ インタビュー 渡邉安治
6 浸蝕          ~トランスローカルゴシック~     インタビュー 小谷真理
7 血統を受け継ぎし者達へ ~ゴシック・ロリータ・日本~  対談 高原英理×樋口ヒロユキ     
8 自殺からアナーキズムへ COFFIN特別対談  雨宮処凛×鶴見済

「第八回文学フリマ」
開催日 2009年 5月10日(日)
時間 開場11:00~終了16:00(予定)
会場 大田区産業プラザPiO (会場での販売場所の位置はE-52 ゴシックカルチャー研究会です)
(京浜急行本線 京急蒲田駅 徒歩 3分、JR京浜東北線 蒲田駅 徒歩13分)

文学フリマ公式HP
http://bunfree.net/
会場アクセス↓
http://bunfree.net/?%C3%CF%BF%DE

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グッドディズ

恐怖している時間は少なくとも明確な意味のある時間だ。
だから私は恐怖を描くフィクションが好きだ。

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リーディング・リーディング

宇宙の終焉は物質がすべて崩壊して完全に光のない真っ暗なままの状態が何兆年も続く、という説。
遥か先の先の、気が遠くなってもまだ届かない先のことではあるが、何か息苦しくなってしまう話だった。

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労たしアナベル・リィ

精神科医の春日武彦先生によると、統合失調症は国や時代を問わず1パーセント弱の人間に必ず発症する、とのこと。
しかも春日先生によれば「この病気がもし人類にとって本当にマイナスのものであるならば、いずれ淘汰されるはずなのに決してなくならない。それは人類が危機に瀕した際、この人たちだけでも生き残れるように、いわば保険をかけているんだという説があるわけ」
また続けて、「彼らは圧倒的に孤独に強いんだよ。普通の人間は絶望して自殺してしまう状況になっても、彼らは淡々と生きていける」
(武田春彦・穂村弘対談集『人生問題集』より)

本当なのだろうか。
あるいは孤独を感じることこそが真の病気ではないだろうか。ただしその「健康状態」は神基準。

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直ぐなる心

毎日新聞社のPR+文芸誌「本の時間」次号6月号巻頭に『抒情的恐怖群』をめぐる対談を掲載していただけることになりました。
お相手していただけた方にはお忙しい中、本当にありがとうございました。
「本の時間」は毎月15日発行とのこと。
頒価100円ですが、書店ではご自由にお取りくださいの形で置いてあるようですね。ただしすぐなくなります。
内容についてはまた出て後に。

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居ずまいを正す

これまでのテーマ

幻想文学・異世界・うさぎ・少年・少女・惨殺・憧れ・妖精・夜・月光・可憐・鉱物・恐怖・ゴシック・詩歌・猫・怪談・妖怪・夏休み

これから加わるテーマ

死者・きのこ・猟奇・都市・郊外・アポカリプス・夕暮れ・雨・夢魔・結晶・塔・童心・叙述・魔術・記憶・過去・隙間・夜明け・眠り・飛翔・身体損壊・青・手探り・城館・逃亡・白

と覚書。まだ他にもありそうだけど。

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酩酊、酩酊

最近、ペットボトル入りの茶に小さいおまけがついていることが多い。
以前も今も、同じ価格で何かついていると必ず買う。
まったく子供だましと言えるでしょう。
そして私はだまされ子供です。

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すがしくこそあらめ

『抒情的恐怖群』発売。毎日新聞社刊、税込み1785円。

京極夏彦氏に帯文をいただきました。

http://www.bk1.jp/product/03105983
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refShinCode=0100000000000032236692&Action_id=121&Sza_id=B0
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4620107387?ie=UTF8&tag=honyatekiblog-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4620107387
http://www.boople.com/bst/BPdispatch?isbn_cd=9784620107387
http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32236692
http://d.hatena.ne.jp/asin/4620107387/okacatuplat-22

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はい、可愛がります

少し前、日本物怪観光の天野行雄さんから連絡がきて「海坊主車、いくつか納品しました」とのこと。
「化け見世」に行ったときは既に売約済みだったので、次の機会があればどうかご連絡くださいとお願いしてあったのだ。
速攻で東中野のビタミン・ティーへ行き、無事、ゲットした。
「海坊主車」というのはかつて小学館文庫の「妖怪文藝」の第一巻の表紙に出ていた海坊主を立体化し、足のところに車をつけ、さらに頭の前にひとだまを下げる形にしたもので、一つ目、舌出し、という妖怪の模範みたいな可愛いやつ。手とか頭の形はオバQに近い。
これの大きいのがこの刊行のときの記念品として一名限定であたるという催しがあって、そのキュートな写真を見て一気に魅せられたものだった。
そのときは限定一品だから手に入るわけもなく、またあの大きさでは、買うとしても数万に近くなってしまいそうで、小さくていいから適当な価格のがないかな、と念じていたら、実現した。
いい仕事してますね、天野さん。
お店の人から「可愛がってあげてくださいね」と言われた。
はい、可愛がります。

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夜のふけたるは

かつて「Jブンガク」作家リストには加われなかった(何年前の話だそれ)私ですが
このたび《 STRANGE FICTION 》作家の一人として「SFマガジン」5月臨時増刊号での「STRANGEな作家」111人の中にご紹介いただいています。
主に『神野悪五郎只今退散仕る』に関して、また近刊『抒情的恐怖群』の予告まで記していただいて、至れり尽くせりの紹介でした。
お書きくださった方およびここに私を加えるべきとご判断くださった方に深く御礼申しあげます。

http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/720925.html

以下、上記書より。

SFマガジン2009年5月増刊号 STRANGE FICTION
刊行日:2009/03/30 1,200円

異才・奇才が集う文芸誌

《短篇創作》
「アナトーリとぼく」佐藤亜紀 「爽やかなマグロ漁」/「寝心地」/「虎と戦いたい」木下古栗「坂の中の坂」田中哲弥「蛇口」遠藤徹「罪」佐藤哲也「均衡点」平山瑞穂「抜け穴の噺」北野勇作「花いちもんめ」谷崎由依「空地」大谷能生「墓標天球」円城塔

《111人作家ガイド》
青木淳悟、青山真治、朝倉祐弥、浅暮三文、東浩紀、阿部和重、荒山徹、伊井直行、池上永一、池永陽、伊坂幸太郎、いしいしんじ、石黒達昌、磯崎憲一郎、伊藤計劃、井村恭一、入間人間、打海文三、宇月原晴明、海猫沢めろん、円城塔、遠藤徹、大谷能生、大槻ケンヂ、岡田利規、小川洋子、奥泉光、乙一、小野不由美、小野正嗣、恩田陸、鹿島田真希、粕谷知世、金原ひとみ、樺山三英、川上弘美、川上未映子、北野勇作、木下古栗、桐野夏生、栗田有起、小林恭二、桜庭一樹、酒見賢一、佐藤亜紀、佐藤哲也、佐藤友哉、沢村凛、篠田節子、柴崎友香、島田雅彦、殊能将之、十文字青、笙野頼子、真藤順丈、杉井光、諏訪哲史、瀬川深、曽根圭介、高野史緒、高橋源一郎、高原英理、田中慎弥、田中哲弥、田中ロミオ、谷崎由依、多和田葉子、辻村深月、恒川光太郎、津原泰水、戸梶圭太、飛浩隆、中井拓志、長嶋有、中原昌也、梨木香歩、西尾維新、西崎憲、蜂飼耳、初野晴、坂東眞砂子、東直子、東山彰良、久間十義、平野啓一郎、平山瑞穂、深堀骨、福永信、藤谷治、藤野可織、古川日出男、古野まほろ、星野智幸、舞城王太郎、前田司郎、万城目学、町田康、松浦理英子、松尾スズキ、間宮緑、三浦しをん、三崎亜記、村上春樹、本谷有希子、森田季節、森見登美彦、山崎ナオコーラ、山之口洋、横田創、吉村萬壱、米澤穂信

《インタビュー》瀬川深

以上、コピー・ペースト終わり。

今だから一層贔屓目にも思うが、もう半ば忘れられた「Jブンガク」よりずっと楽しそうで、クリエイティブな感じ。
よく見れば必ずしも「若者」限定でもないし、何よりジャンルではなくて想像力の優位を基準にしているところが居心地いい。
それと中には知ってる人もけっこういてお友達的にとても嬉しい。
こういうとき自分だけ仲間はずれは激しく悲しいよね。

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夢想弥生よ

四月刊行予定の『抒情的恐怖群』の帯に最高の推薦文をいただくことになりました。
『うさと私』のときの谷川俊太郎さんによるそれと並ぶ生涯の栄誉御礼。
どなたからのお言葉かはいずれお知らせします。

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繰り出さむ

早くも、オンライン書店 本やタウンでの近刊紹介に出てました。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTNewpub?week=0&genre=1

以下、上のサイトより

抒情的恐怖群
高原英理 著

毎日新聞社 4月中旬 税込価格:1,785円 ISBN:9784620107387

「都市伝説、土地の怪談、現代の妖怪談、恐ろしくも美しい官能的ホラー。ますます充実する著者の最新短編集。」

とのこと。 ↑当たり前ですがこれ、私の考えた言葉ではありません。
面映いですがありがたいご紹介でした。

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森深く

『抒情的恐怖群』(毎日新聞社)の装丁は中島浩さんにお願いすることになりました。
また、表紙にはアーティストの西尾康之さんによる立体作品の写真を使用させていただくことになりました。

私の知る中島浩さんのお仕事で特に好きなのは寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』と谺健二の『赫い月照』(初版単行本)。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4000227718/sr=1-1/qid=1237795878/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books&qid=1237795878&sr=1-1

http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4062117614/sr=1-2/qid=1237795972/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books&qid=1237795972&sr=1-2

西尾康之さんは今注目されているアーティストのお一人ですね。
こんな感じ。

http://www.takahashi-collection.com/kako/nishio.html

とても果報なことと思います。

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さてもさても

東中野のビタミン・ティーというアート・ギャラリー・ショップで今、「化け見世」という展示・即売が行われている。以下のとおり。

http://www.vitamin-tee.jp/index.html

ここに佐藤弓生とともに出向いて、出品しておられる日本物怪観光の天野行雄さんと少し話す。
心から妖怪玩具作りを楽しみ精進しておられるひたむきさと邪気のなさに、

わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした (by八木重吉、再び借用)

おっと、これではのっぺらぼう差別ですね、ともかく自らを省みて恥ずかしくなった、という報告。

「化け見世」は楽しいのでみなさんおいでになるといいと思います。ただ欲しかったもののいくつかは早くも売約済みでした。

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蜘蛛集う朝

『抒情的恐怖群』収録作の題名は、既発表の「グレー・グレー」だけが「・」も入れると七文字、他はすべて三文字しかも大方漢字、なのでなんとなく違和感あるかなとも思っていたが、ゲラで目次を見るとこんな様子。

 町の底(まちのそこ)
 呪い田(のろいた)
 樹下譚(じゅかたん)
 グレー・グレー(ぐれー・ぐれー)
 影女抄(えいじょしょう)
 帰省録(きせいろく)
 緋の間(ひのま)

( )とふりがなのおかげで、素のままよりは差が目立たなくなっている。
「グレー・グレー」にまでひらがなのふりがながついていて、やはり一番文字数が多いが、隣の「影女抄」とそのふりがながそれに次いで長く、「帰省録」「緋の間」、とだんだん短くなっているので案外「グレー・グレー」の長さが気にならない(と私には感じられた)。
できれば「町の底」からも順に読みが長くなっていればもっと効果的だったかも知れないが、そこまで無理をする理由もない。
ともかく、この目次を巧みに組んでくださった方に大感謝。プロの技だ。

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できうべく

まずまず人気のあるらしい作家と、評論家との対談。
作家がいきなりなにか突拍子のないような、有体に言えばいきあたりばったりのいい加減な、しかしインパクトだけはあるようなことを言う。すると評論家がその都度、間に合わせの理由を告げて解説する。ところが作家はまたそれを裏切るようなことを言い、するとまた評論家は間に合わせの理屈でなんとかかんとか言う。だいたいその連続。
すぐに、「ええ、だからそれはね……」という、いかにもなんでも予め知っていたかのような口調でコメントする評論家。
結果として、「評論家って、芸の下手な猿みたいだな」という印象。
逆に作家は「不思議ちゃん」ぶることに懸命なのが後から考えればイタいとも言える。しかしそういうとらえ方は、そこに来ているその作家のファンならやらないから、「自由な作家」という意味は持続し、それとともに、評論家についてはやっぱり「結局作家にはどこまでも及ばない解説屋さん」という印象が残る。

すべて演出されているとまでは言わないが、これはつまり、両方が望まれている役割に忠実であるというだけのことで、すると逆にこんな道化役を全うしたその評論家はとてもよい仕事をしていたのだ、とも言える。その評論家の「いつも裏をかかれる後追い解説屋さん」の格好悪さがあってこそ、その作家は「自由」そうに見えるだけで、実のところたいしたことも言っていない。
ところがそのときに配布された印刷物には作家の派手な宣伝ばかりで、本当の功労者であるその評論家については端のほうに小さく名が出ている程度。
この扱いで、ここまでなんだかなーな役割を嫌がりもせずやれるその評論家は、けっこう腹の据わった立派な人なのかもしれない。
しかしこういう茶番劇が記憶に残るため、「評論家」というのは常に作家の後追いをする滑稽な人という位置づけがどんどん固定してゆく。
個別の極端な例が全体の意味を決めてゆく。

最近、ある人から、「あなたの評論のファンですが、あなたは最近、過去のご自分の評論についてあまり価値を認めないようなマイナスのことを書いたり語ったりしておられて残念です」という意味のことを言われた。
かつての自分の評論の仕事を貶める気はなく、よい仕事をしたと今も思っているのだが、どうも、いつもあの対比の場面が見えてしまう。
それは決して評論家の本来の意味ではないのに、大きなメディアが特定の作家をスター視したがり、その手段として評論家を使おうとし、幾人かの評論家がおとなしくその申し出に従うことが増えてきたためか、今では「評論家」は嘲笑の対象にしかならないような意味合いが、私の中でさえ、増している。いや、そういう役割への嫌悪が増している、と言うべきだ。
むろん「心ある人」の視線は全然違う。
だが明らかに今、評論・批評は、私がかつて考えていた理想の位置づけを失っている。そんなものもともとなかったのだ、と言われるならそうだろう。
今も評論はあるべきと思うけれども、いつも便利に利用される「評論家」の振る舞いは厭だ、と思うことが増えている。
そして、いかにマイナーではあっても、私も一度は評論家を名乗った者なのだから、「心ない人」たちから「あ、あれが間抜けの解説屋さん」と言われることは覚悟せねばならないのだ。
こういったことから、ともすれば評論についての言及がアンビバレントなものになっていたとしたら改めねばなりませんね。
でもなー。

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桃の山まで

『抒情的恐怖群』、毎日新聞社より4月刊行予定。予価1700円。

もうじき校了。

ところで突然ですがここから、ロバのことを少し。

ロバの性格は馬より犬に似ていて、愛されると大変なつく。
ロバはかまってもらえないことが一番つらい。
ロバは恐れることを知らないので、激しく叱責されると対応できずに呆然として動きを止めてしまう。
ロバに怒っていた人はそれを見て馬鹿にされたように思い、一層ひどく虐待することがある。
ロバはおとなしい。
馬にはしないようなひどい仕打ちでもロバには平気でする人がいる。
虐待されたロバを救って引き取る「ピースフルヴァレー・ドンキー・レスキュー」というロバ園がある。
そこの係員は十分にロバを可愛がってくれる飼い主を探していて、みつかると一頭ずつひきわたす。
        以上、「アニマル・プラネット」から

ロバ……

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魔の山も

かわいい至上主義

ひよこ かえる うさぎー(できればドヴォルザークの交響曲第9番3楽章の3フレーズ目のメロディーで)

ちょっと前、うちではやってた「3かわトリオ」(トリオですでに3じゃん)

いやむろんねこもパンダもカピバラもいぬもペンギンも……ね。
って、まあそれだけ。

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鹿の山

ふと二年前の夏を思い出す、といったことを二日前に書いたが、それは懐かしいというより、ややしばらくのため息のような慰安のようなものだ。
自分の場合、懐かしさはいつもかつて知ったフィクションとそこからの想像の中だけにあり、実際の過去を懐かしむことは少ない。おそらく自分自身に関する限り、時を遡るほど最低で、そのうち多くのことが年とともに「いくらかまし」になってきたと感じているからだろう。
無知と事故とそれによる失態ばかりの実際の過去に対し、かつて見た読んだ聞いた空想的な世界の有様はいずれも懐かしい。

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うさぎ背負いし

生まれ育ちのよさゆえにアーティストや芸術的な著述家になれた人はけっこう多く、世にはその予めよい条件から始めたことを否定的にとらえる向きもあるが、しかし、そうした経緯で公に意見を提示できる立場となった人が飽くまでも、広い意味でのアートに貢献する、もしくは芸術的なもの・表現者を擁護するのであれば、私はその人を尊敬するにやぶさかでない。
だが、仮にかつての上流階級出身で後に芸術をめぐる著述家となったような人が、僅かでも芸術的価値よりも社会的身分地位を優先したようなことを言うとしたら、表現それ自体の価値もしくは好悪以前に、「相応の身分の有無、もしくは自己より高い身分の者への敬意の有無」をもって表現の価値の条件としていたことになる。
そういうことならば、単に生まれ育ちがよかったため幅をきかせ、スノッブたちからの尊敬を得ることで楽々と著述家になれただけの人であると言わざるをえず、そこにいかに高度な知識が開陳されているとしても、実のところ、アーティストの敵である。
一方、たとえば、これ以上ないほどよい条件で生まれ育ち、晩年に作家となった森茉莉の我侭勝手な芸術至上主義には諸手を挙げて賛成するものだ。
生まれのよさ育ちのよさが、その人の身分地位それ自体とは別の価値を作り出すのでなければ、ただただ自己肯定の卑しさを見せつけるだけのこととなる。

※ なお、上記の否定的な件のところで改めて事実を確認してみたが十分に確認できなかったので個有名は削除した。

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薔薇のさきわう地の向こう

二年前の夏、比較的危険性の少ない手術を受けて一週間ほど入院した。
設備のよい病院だった。窓からは晴れた空が見えた。
入院療養中も苦痛はあまりなかった。
就寝すべき時間が早いので毎晩9時ころに睡眠薬をもらって飲んだ。すぐ眠った。
起きている間も横たわって、テレビも見ず本も読まず、持参したCDプレイヤーで同じく持参したCDの音楽ばかり聴き続けた。静かな曲ばかりだった。他は一切何もしなかった。
自ら志して真剣に何かし続けることはとてもつらい。
そんなときいつも二年前の夏が思い出される。

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きよらなりせば

『抒情的恐怖群』収録作品題名、以下

「町の底」
「呪い田」
「樹下譚」
「グレー・グレー」
「影女抄」
「帰省録」
「緋の間」

以上の七編。「グレー・グレー」のみ「文學界」2008年10月号に既発表。
他は書き下ろし。

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野放図なるぞよき

やなぎみわ展、イイよ。
東京都写真美術館で開催中。

http://www.syabi.com/details/yanagi.html

これにあわせて今月、やなぎみわ『マイ・グランドマザーズ』(淡交社刊)も刊行されている。(版元のサイトやアマゾンではまだ記載がないみたい)

ケルト伝説の一場面みたいな「ARIKO」、これも森の神話の一場面みたいな「MITSUE」「TSUMUGI」、墓でファッションショーの「ERIKO」、おたくを看取る契約ロリ老婆「MIKIKO」、キグルミ社長「MINAMI」、世界を眺める「MIE」、眼光婆婆「KWANYI」、特にこんなのが好き。
かこいいパンク婆もいっぱいで、楽しくなる感じす。

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とほき世の

予定外という要素がうまく働くことが創作には必要なのでないかと思う。むろん、うまく働いているかどうかの判断は鑑賞する人に委ねられる。

書き下ろし短篇集という話をもらったとき、ぼんやりと考えていた方向もあったが、ひとつひとつと書いているうちにやや規格外の作もできてしまった。
できに不満というわけではない。収録作はいずれも互いに親密な関係にある。けれども全篇をひとつのテーマでは括りにくい。
翻って全体をみれば抒情の要素と恐怖の要素があって、その配分の違いが作品の差にもなっているようなので書名を『抒情的恐怖群』とした。

親密な関係と記したが、それはたとえば、作品Aのある部分と作品Bの一部に関係の深いところがあって、またテーマについてはBはCに近く、そしてCの別のある要素がDと共通、しかしAとC、BとDはあまり似ておらず、全体にわたって共通なものはない、個々は独立に見える、というようなもので、確か、ヴィトゲンシュタインがこういうのを「家族的類似性」とか言っていたように思う、そんな関係。

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かよい路と

近く刊行予定短篇集、書名は『抒情的恐怖群』。

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空即是色なるかならぬか

卑怯者は常にメタレヴェルにいる。
言うまでもないがメタレヴェルの語りをなす者すべて卑怯ということなのではない。
だが、少なくとも、ある意味行為の実際の効果や受け取られ方の微差の認識、そこに至る政治的条件の測定といった実質的な作業から逃げようとする者は決まって非参加的・俯瞰的視線で語ろうとする。
あたかも党派を超えた清潔な真理の代弁者であるかのような態度をとる。
政治性と党派性のない思考がありえないことを知らないふりでいる。
常に高みから現状の不備を問うことだけで終わらせ、精一杯の下手な答えを出そうとあがく無様さを免れようとする。
それを私は卑怯者と呼ぶ。

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