『不機嫌な姫とブルックナー団』と『うさと私』、そして幻想文学について

まずはこちらから。

『不機嫌な姫とブルックナー団』(講談社刊1566円税込)8/26発売。→■■

『うさと私』(書肆侃侃房刊1404円税込)9/4発売。→□□

今年は上、二冊を刊行させていただけることになった(8/28時点で後の一冊はまだだけど)。
大変ありがたいことだ。
『不機嫌な姫とブルックナー団』刊行にあわせ、書店各位にご挨拶に伺ったところ、これまで、私を幻想小説作家と認識してくださっていた書店員の方が、今回の小説の、これまでとの作風の違いの大きさについて、やや不思議に感じておられるご様子であった。
既発表の自作をよく知っていただいていればこそで、これまた大変ありがたいことである。ただその場ではあまり言葉をつくして説明できなかったように思うので、こちらで記してみたいと思います。

(1) どうして今回は幻想小説ではないのか。

幻想小説のプランはいくらでもあります。
またこれから書くのでなくとも、ご注文があれば未発表の長編三作、既発表の短編二十数作をすぐご用意できます。
とはいえ、現在の出版状況と私の知名度から、すぐにそれらは実現しません。むろん今回の『不機嫌な姫とブルックナー団』がそれなりの成果を、すなわち売り上げを獲得すれば随分話は違ってくるでしょう。そこからはまた別の話。
ここでお伝えしたいのは、私は幻想文学を忘れたのでも捨てたのでもない、ただ、これまでよりはもう少々違ったことをしてみたい、可能性を試してみたいという望みから今回の小説は書かれたということです。
とはいえ、人はできることしかできません。
『不機嫌な姫とブルックナー団』は、幻想文学という方法ではない形で、私自身のテーマを描いただけのことで、そこにある、一言では言えませんが、発想や世界観等々、決してこれまでと断絶したものではありません。
たとえば、妖怪ファンタジー『神野悪五郎只今退散仕る』(毎日新聞社2007年刊)の末尾近くの、とても強いヒロイン紫都子の妹で怖がりの妙子の、以下の言葉などは、幻想文学であるかないかとは関係なく、私にとっての一貫した問いであります。

「おねえちゃんは、駄目な人のことがわかってないよ。いつも運が悪い人は俯いてるよ。おねえちゃんみたいに駄目なら諦めろって言われても、できない人がいるよ」

これまで私は幻想文学怪奇文学と呼ばれる世界に好ましい作品を非常に多く見出してきましたが、私自身の創作にとっては、私の求める問いがまず重要であり、幻想文学であることが目的ではありません。
むろん幻想文学でなければ描けないテーマもありますが、そればかりではありません。また、幻想文学であっては描けないということもあります。
確か、羽海野チカの『ハチミツとクローバー』のヒロインが、視界いっぱいに置かれた箱(だったかな)を前にして、「生きている間にどれだけ開けることができるだろう」と考えるというシーンがあったように思います(相当いい加減なので間違えがあったら失礼)。
これはいわば幻視の場面ですが、この場合、「箱を開ける」とは、新たな問いを発見し、そのそれぞれを彼女の方法で、異なる何かとして形にするという意味であるわけです。彼女にはそれだけ無数の可能性があって、ただし、限られた人生の中で実現できる可能性はそれらの一部であることを示しています。
私は『ハチミツとクローバー』のヒロインと比較できるほどの者ではないかもしれませんが、それでも、開かれていない可能性を大変多く感じています。
この先も幻想文学かそうでないかに関係なく、手にある可能性を実現したい。そう考えて今回、新たに見えるかもしれない一つの箱を開けてみました。

(2) 「リテラリーゴシック」の作者・編者がどうしてブルックナーという作曲家を好むか。

ブルックナーについての小説は今回が初めてですが、私はブルックナーの交響曲を愛して既に30年以上経ています。ただ、これが小説になるとは4年前までは考えていませんでした。
このブログに少し前、記したとおり、編集の方と、当時たまたま自分が得たコンサートチケットの話からブルックナーという特殊な作曲家とそのファンの特殊性、等々を話していたとき、「それでいきましょう」と、その方が、いわば、私の、これまであったけれども気づかずにいた可能性を開いてくださった、というわけです。
ところで、ブルックナーの交響曲は長くてくどくて人によっては喧しいばかりで、退屈かもしれませんが、もしよくよく聴いてそのよさを感じようとし、それを言葉で示そうとするなら、何よりのすばらしさはその「崇高」にあるのではないかと思います。ブルックナーは音楽によって崇高さを伝えることのできる作品を残した人と私は思います。
むろん、表現される「崇高」は、時と場所、状況を異にすると容易く「滑稽」にもなりますし、ブルックナーの音楽のあまりの巨大化志向を馬鹿みたいと感じ、滑稽と思う方もおられるでしょう。
また、実際の現場では迷ってばかりであった気弱で優柔不断なブルックナーは、その売り込み方は迷い続けたけれども、崇高の表現を目指すということだけについては全く疑いを持たず、笑われようが馬鹿にされようが愚鈍に続けていったのでした。
この方向性と姿勢は私の考えるリテラリーゴシックのそれと同じです。
そしてリテラリーゴシックにとっての最も重要なファクターはやはり「崇高」であり、かつまた、それを嘲笑されることも含めて、腹をくくって、これはよい、と言う覚悟を持つことです。
実際に、ブルックナーの交響曲のもたらす、ある感じは、ゴシック・メタルのあの感じにも近いと私は感じますがそこは主観としておきましょう。

(3) ホラー小説の作者が今回のような作品を書いたのはなぜか。

私の過去の作品をご存知の方なら、秋里光彦名義の『闇の司』(ハルキ・ホラー文庫1999刊)と『抒情的恐怖群』(毎日新聞社2008刊)収録作と『不機嫌な姫とブルックナー団』の空気感との差に驚かれたことでしょう。
今回は恐怖に通ずるところは全くありません。他者の見えない人が懸命に何かやろうとするおかしさ、その失敗のなんだかなあ感、そしてそういう作者の残した作品をこよなく愛する人たちの、やはりまるで思うに任せない在り方、など、過去をそして今を生きることの不器用な人たちの、それでもほっておけないような感じ、そんなところをお読みいただければ幸いですが、ではそこにホラー小説との共通点は全くないのか。
ご判断はお任せしますが、私から仮に、お答えしますと、ホラー小説に心寄せる意識は、やはり現実生活とは異なる驚異を求める心からきていると思います。その、途方もない何か、たとえば崇高、あるいは強烈な恐怖は、いずれも平常には望めないものです。何もそれだけで生きるわけではないので普段はよりよく堅実に生活しようと工夫していますが、ときおりふと、何かこの世ならぬものに惹かれてしまう、という意味で、ホラー小説・幻想小説を求める心とブルックナーの音楽を愛する心とは近いものが私には感じられます。
ホラー小説・幻想小説を書いたときは、驚異を直接語ろうとしたのですが、今回は「驚異に惹かれつつ生きること」を描いているという意味で、向かう先に違いはありません。

(4) 『うさと私』との関係は。

『うさと私』こそ、実は私の最初の著作ともいえるものでした。その後、小説としてはホラー小説集『闇の司』、妖怪ファンタジー『神野悪五郎只今退散仕る』、怪奇幻想小説集『抒情的恐怖群』を世に問うことができて、これによって、いくらかは幻想小説作家として知られることになりました。
『うさと私』もまた全く怪奇・ホラーではありませんが、ファンタスティックというところは多くあります。幻想小説、とまで言えるかどうかはともかく、やはり私にとって是非世に問いたい可能性の発露であったので、これもご覧いただけたら幸いです。

ひとまずこんなことを書いてみました。

9/16(金)18:30~、MARUZEN&ジュンク堂 渋谷店 で、岸本佐知子さんとお話しさせていただけることになりました。 → ▼▼
もっと詳しくはこの日、お話しさせていただきます(が、私としては岸本さんのお話の方がより聞きたい)。
よろしければどうかおいでください。

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高原英理 『不機嫌な姫とブルックナー団』 について(その5)

この小説は、2012年に講談社の編集の方と話していて、たまたま音楽のことになり、ブルックナー好きの女性って少ないんです、なるほど男のブルオタたちはまたこれが大抵お洒落からは遠くて、そもそもブルックナーという人が非モテの元祖で……という話をしたら、だんだん面白くなっていって、「それでやりましょう」となったもの。
その後、何度も書き直し練り直した。その編集の方はいつも納得のゆくいいアドヴァイスをくださって、無理やりの書き直しとか、指示なしのダメ出しとか投げっぱなしとかは一切ありませんでした。ほぼ共同制作みたいで、こんな恵まれた形で小説を書けたのは本当に幸せとしか言いようがない。
とはいえ、あまりに練り続けたので完成に4年近くかかってしまった。その間ほとんどこの小説を書いては捨てていた。おそらく通算数千枚は書いたことになるだろう(なお完成作は四百字詰として250枚ほどです)。

もし、今回の『不機嫌な姫とブルックナー団』の評判がいくらかよければ、ここ4年の間に、書いたけれども今回の小説には使えなかったエピソード(多数)を用いた別篇も発表できるのですが、それは読みたい方がいらしてこそなので、どうかまずご判断ください。

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高原英理 『不機嫌な姫とブルックナー団』 について(その4)

『不機嫌な姫とブルックナー団』(8月26日、講談社から発売)、少し前にカバーラフを見せてもらったら、参考として英語のタイトルが入っていて(この段階では使用するか否かは未定)、ブルックナー団は「Bruckner Corps」だった。Corpsは「団」だが「兵団」「軍団」としても使う。
進撃のブルックナー兵団!
と、思っていたが、最終的には「Bruckner Brothers」となりました。やっぱりこっちの方が妥当かな。なんかブルース・ブラザーズとかブルックス・ブラザーズとかみたいだけどそれも面白い。

ブルックナーの交響曲の演奏では、ギュンター・ヴァントの指揮したものが好きです。特に北ドイツ放送交響楽団を指揮した5番・8番がよいと思う。
朝比奈隆は大フィル・ザンクト・フローリアンでの7番、新日フィルとの5番、など。
ほかハイティンク、ブロムシュテット、(以下は録音で知っているだけだが)ヨッフム、チェリビダッケなど。カラヤンもけっこういいと思います。
近年の実演では2013年ハイティンク指揮ロンドン交響楽団の9番、同年マゼール指揮ミュンヘンフィルの3番、2015年東京都交響楽団定期ミンコフスキー指揮の0番、今年2016年2月のバレンボイム指揮シュターツカペレ・ベルリンによるブルックナー交響曲全曲チクルス、また、この間7月の東京交響楽団の定期でのジョナサン・ノット指揮による8番はとてもよかった。

『不機嫌な姫とブルックナー団』刊行のさいは私からの推薦ブルックナー演奏CDリストなども考えてみようかと思っています。

この執筆中、心は少しだけ世紀末のヴィーンにいた(あ、基本、現代日本を舞台とした小説ですが)。
世紀末ヴィーンのカフェの様子とか、ちょっとは知っているつもり。それとヴィーン・フィルのリハーサル風景とか。
当時は市庁舎も楽友協会も今とは別の場所にあった。1870年代頃ブルックナーはヘスガッセのヘーネハウスという高級アパートにいた。
ヴィーン大学で無給講師を務めるブルックナーの講義を、マーラーが受講していた。
交響曲第三番初演の際、シャルク(兄ヨーゼフの方。ピアニスト)やクルシシャノフスキー(クジジャノフスキとも、後のワイマール宮廷楽長)ら他の弟子たちとともに後ろの方で聴いた。当時は楽章ごとに拍手喝采をするのが当たり前で、彼らは師の音楽に懸命の喝采を送った。だが演奏会は大失敗した。
マーラーはクルシシャノフスキーとともに、ブルックナーの交響曲第三番のピアノ用編曲もしている。
ヴィーンフィルの総監督となって以後、マーラー本人も三番を指揮したという話だが、彼の死後、アルマ夫人が「何十回も演奏した」と語っているのはどう考えてもありえない。
なお、アルマ夫人はブルックナーを相当馬鹿にしていた様子とのこと。一世を風靡した美貌の才女で才能もありセンスも抜群、男性遍歴数知れず、だったのだから対極にあるような非モテの田舎者を(その才能とは別に)嘲笑したのは無理もない。
なお、リストの義理の娘で当時最先端の芸術家サロンを率いていたホーエンローエ侯爵夫人も同じくブルックナーの鈍くさく卑屈で、しかし実はけっこう計算高い田舎者ぶり(ときにその受け狙いの道化的演技も含む)を毛嫌いしていた。
こういうふうに当時もセンスいいお洒落な美女才女からブルックナーは大抵嫌われていたのです。

『不機嫌な姫とブルックナー団』は全部で9章。ブルックナーの交響曲の数に合わせている。ただしゼロ章と習作章はない。

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高原英理 『不機嫌な姫とブルックナー団』 について(その3)

今回の『不機嫌な姫とブルックナー団』は私のこれまでの作風からすると新機軸というべきもので、以前のゴス/ホラーの線とは異なります。
なお私にはアンソロジー『ファイン/キュート』に代表されるような方向もあり、そちらは『うさと私』として近く増補再刊します(書肆侃侃房・9/1刊行予定)。
『不機嫌な姫…』はそのどちらでもない。

これまでも別の方向性を持つ作品はいくつもあった。
きのこ世界小説『日々のきのこ』、鉱物世界小説『青色夢硝子』『クリスタリジーレナー』、散歩小説『遍歩する二人』、詩論小説『ポエティック・クラッシュ』、記憶の不思議小説『記憶の暮方』等。
だがどれも一冊になっていないので、既に刊行された『闇の司』(秋里光彦の名による)、『神野悪五郎只今退散仕る』、『抒情的恐怖群』だけで判断されざるをえなかった。
ラブ&ピースの『うさと私』もあったけれども、少部数ですぐ品切れ、その後は私家版の状態が続いた。
あとは評論・エッセイが六冊。こちらも私の重要な、そして自負している仕事だが、今の気持ちは小説の方に向いている。

ところで、この『不機嫌な姫とブルックナー団』は30代女性が語り手・主人公ですが、作者の性別と違うではないかといった、そういうことはどうか一旦考えずに読んでいただきたいと思うのです。複数のチェックを経ているので、そのくらいの女性の思考発言として不自然すぎるところはほぼないでしょう。まずは主人公の女性の性格や行動をそれとして読んでいただけると幸いです。
『不機嫌な姫とブルックナー団』では、男たちの好みやすいブルックナーの交響曲に入れ込むおたく男子たちの言動を、より相対化して見るために、視点の人物が若すぎず老いすぎてもいない都市生活者の女性であることが重要なので、そういうところで女性の語りである必然性があると考えます。

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高原英理 『不機嫌な姫とブルックナー団』 について(その2)

高原英理 『不機嫌な姫とブルックナー団』 講談社 8/26刊 (1566円税込)

この小説のヒロインであり語り手である代々木ゆたきは非常勤図書館員なのだが、あるときから現在の図書館の残念な状況に直面することになる。ゆたきはかつて翻訳家を目指していたが挫折している。そしてブルックナー団員たちの残念な様子も知る。なんかズレた彼らから「姫」と呼ばれるとひどく嫌がる。
というわけで「不機嫌な姫」なのです。

ただ、それはゆたきの話の部分。ほぼ半分くらいは、ゆたきが知ったブルックナー団員・タケの書く「ブルックナー伝」で構成される。そこにはヴィーンで作曲家をめざしながらさんざんな目にあう滑稽でダメなブルックナーの姿が描かれる。
ゆたきはタケが小説として書き続けるダメダメなブルックナーの生涯を面白がり、情けながりながら読んでゆく。それはあるクライマックスまで至る。

『不機嫌な姫とブルックナー団』、最初は「ブルックナー団」という題名で考えていた。
編集の人から、主人公=語り手が30代の文化系女子なのだからそこが感じられるような題名がいい、と言われて、また、少し華やかにしようということで「……姫」を加えることにした。
帯文をいただいた穂村弘さんがおっしゃるには「よく売れる本の題名はちょっとだけダサい」。
『ブルックナー団』という題名は適度にダサく、しかも何それ? と思われる意味では悪くない。ただ、主人公=語り手が32才の独身・図書館勤務の女性で、文化系女子には是非注目してもらいたいという気持ちもあった。
そこでちょっと大げさに「姫」を加えるという案が出た。やりすぎかなとも思ったが、すると「ブルックナー団」がこの場合、姫を守る騎士団みたいな感じになって、実際の内容とは逆になっているのもおもしろいと思った。
「ブルックナー団」がブルックナーオタクのサークルとわかると「オタサーの姫」の話か、と思われる可能性もあるわけで、そう思われても仕方ないが、ちょっと違うよ、という意味で「不機嫌な姫」とした。すると今度はサークルクラッシャーか、とも見えるがそうではない。
いろいろ迷った末、ようやくこの題名を考えついて、穂村さんに尋ねてみたら「すごくいい」と言ってもらえたので決めました。

『不機嫌な姫とブルックナー団』主人公・代々木ゆたきはブルックナーファンであること以外はごく地味な文化系女子で、「オタサーの姫」と言われることは嫌う。ただそれでも「ブルックナー団」メンバーとともにいると位置的には「姫」になってしまう。
団員には明治の書生たちみたいな感じもあるし、また、ゆたきには考えられないような断絶もある。それというのは一体、性差によるものなのだろうか?

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『不機嫌な姫とブルックナー団』、講談社から8/26刊行のお知らせ

高原英理 『不機嫌な姫とブルックナー団』、講談社から8/26刊(1566円税込)。

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帯文を小川洋子さんと穂村弘さんからいただきました。御礼。
イラストはMinoruさん、装丁は高柳雅人さんが手がけてくださいました。御礼。
アマゾン→■■

「ブルックナー団」というのは交響曲作曲家ブルックナーのファンのサークルです。たまたま、大変稀ではあるけれど女性でありかつブルックナーの音楽を愛するヒロインが彼らに遭遇したところから始まる物語。

ヨーゼフ・アントン・ブルックナー(一般にはアントン・ブルックナーと呼ばれる)は19世紀末のヴィーンで11曲(内番号なしの習作と「ゼロ番」を含む・番号付きは第9番まで)の巨大な交響曲を作り続け、しかし最晩年の数年以前は全く認められず、今では「巨匠」とされるけれども、その生涯の大半がとても不遇だった作曲家です。

ブルックナーは今でいうコミュニケーション障害で、他者との上手な付き合いができず、いつも小心で融通が利かず、「偉い人」にはひどく卑屈にへつらい、洒落や粋がわからず、シャープなアーティストたちからいつも馬鹿にされ、その無様な言動に「あーあ」と言われ続けた、かつまた、元祖非モテと言える人でした。

実際に記録されているブルックナーの生涯は、セクハラ事件(ほぼ冤罪)や、交響曲第三番公演の大失敗など、情けなく惨めな出来事に満ちています。この残念な人を見よ。

当時のヴィーンでは、ブラームスが通の間で絶対的に尊敬され、またバイエルン(ルドウィヒ二世の統治下)ではヴァーグナーが自分の音楽とその劇場のために国費を費やさせ、また、リストは今のジャニーズ級のアイドルのように超人気、と、華やかな天才が多くいました。それに対してブルックナーときたら。

私はたとえばモーツァルトもラヴェルも好きだしブラームスやフォレの室内楽も好きですが、しかしブルックナーとなると何か特別な気がします。

それは、こんな非オシャレ音楽をどうして好きになるのか、なんだかなあという気持ちと裏腹なものですが、しかし、やはりブルックナーの音楽の与える陶酔には勝てない。

お洒落やビューティフルライフ、センスのよさ、といったものもわかってはいるつもりでも、なぜかダサダサのブルックナーに行ってしまう、そのアンビヴァレントなところを、私などより一層、アンビヴァレントさが際立つ、30代の、そんなに容姿も悪いわけではない女性に託して描いてみました。

現在ブルックナーを愛する人にはなぜか圧倒的に男性が多く、ブルックナーの曲がメインであるコンサートの休憩時間には、男子トイレにものすごく長い列ができるのが普通です(バレエの公演の場合に女子トイレに長蛇の列が続くのとちょうど対照的)。それほど男性に好まれやすい作曲家です。
同じ後期ロマン派でもマーラーやヴァーグナーはそうでもないのにね。

そしてまた、ブルックナーの交響曲の優れた演奏が終わった後には多く、野太い大歓声の中、大抵ずんぐりした男性たちがあちこちに立ち上がり、「うおおうおお」と喝采する様態が見られ、これを「ブルオタ祭り」と呼びます。

それでも足りず、オーケストラ団員がステージを去った後にも喝采は続き、するとそれに呼応して指揮者(ブルックナーのエキスパート・大抵は相当の年配)が一人で出てきて、並み居るブルックナーファンたちに手をふります。これを「一般参賀」と呼びます(「一般参賀」そのものはブルックナーの曲の後に限らず、聴衆が名演と感じたコンサートの後には行われるが、ブルックナーの名演の後には必ずある)。

こんなダサダサのブルックナーファンたちですが、心はいつも子供のように陶酔を求めて集まります。オタクの世界です。しかし、稀ですが、かなりディープにブルックナーの音楽を好きな女性(なお、この小説ではアラサー)がいたとして(絶対いないとは言えないはず)、彼女の目からブルックナーオタクたちを見るとどう見えるか。

しかも、ブルックナー団と名乗った一人は、自己流にブルックナーの伝記を書いていた。それまで、音楽は好きだけれども、作者を好きなわけではなかったブルックナーファンの女性は、彼の書く、史上最低の情けない伝記を読んで、面白がりつつも考えさせられる。

で、彼女、代々木ゆたき、と言いますが、女性ブルックナーファンとしては、ブルオタの一人に数えられることには激しく抵抗するけれども、ただやはりブルックナーファンたちのブルックナーその人を思わせるような不遇ぶりには同情もするのであった。とはいえそのダサさはやっぱりヤなのだが。

なお語り手でもあるヒロインゆたきは、図書館の非常勤職員で、現在の図書館の問題も語られる。さらにかつて翻訳家をめざしていたこともあって、翻訳に関する話もあります。たとえば、岸本佐知子さんみたいになりたかったのになあ、という挫折。
~『不機嫌な姫とブルックナー団』(について、その1)でした。

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リディア・デイヴィス 著 岸本佐知子 訳 『分解する』(作品社刊)

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リディア・デイヴィス 著  岸本佐知子 訳 『分解する』(作品社2016年6月刊)

昨年の『サミュエル・ジョンソンが怒っている』に続いての翻訳。あれもよかった。今回はデビュー作品集で、原著刊行年は1986年。34の短篇が収録されている。

期待していた。そしてきっと期待とは違う予期しない何かに出会えるという意味で期待通りだった。
一気に読むような本ではないので、収録作一作読むたびに日々ちょっとずつメモしたのが以下。

(1) 「話」
恋人であった相手が別の女性と去ることをわかりつつ、彼のいきあたりばったりで信用できない言動の真意と事実を論理的に再構成しようとする試み、という感じ。が、考えるうちに彼ばかりでなく自分の意図も不明になる、そのリアリティ。

(2) 「オーランド夫人の恐れ」
恐れという核をもとにだんだん認知症が昂進してゆく人の心的世界、というように読むこともできるが、誰もが持つ心配という心の隙間が一歩一歩拡大してゆく過程が他人事でない気がした

(3) 「意識と無意識のあいだ―小さな男」
横たわり眠れないまま考えごとをする感じをそのまま言語化しようとした。ところどころ挟まるのは、思考が勝手に動くあの入眠時の小さなヴィジョンかな? あるいは全然寝られないままでの想起とも読めるが、どちらにしても不如意で唐突だ。こういうものを自分も書きたいとよく思う。

(4) 「分解する」
今も好きなのに別れを告げられた女性のことを思うと苦しくて仕方がない。だが彼女といた時間に自分の支払った金を時間数で割ってみると、まあ、そんなに損はしていない…といった俗なレベルでどうにか納得しようと懸命な心。ああ。

(5) 「バードフ氏、ドイツに行く」
ドイツ語習得のためケルンに来たバードフ氏だが語学は上達しない。その日々と望みと女性関係と。短い中に小さいことが淡々と書かれる。どうということもないがやはり人生は発見の連続だ。

(6) 「彼女が知っていること」
自意識が年配の男性だが見かけは若い女、という場合だが、たとえば男性による「オレもし美人の女だったらああもここも」という手の想像とは最初から異質でクール。

(7) 「魚」
女がいて料理済みの魚があるそれだけなのだが、ただもう敗残感。

(8) 「ミルドレットとオーボエ」
下階にいるミルドレットはオーボエで自慰をしている、のか、あるいは? でも声が大きい。そんな環境で考える一人の住人、その冷めた視線と数での対比がおかしい。

(9) 「鼠」
鼠をめぐる話を読んだり思い出すことがあったり実際の鼠に対処したり。その語り方が水平的でどこへ向かうか予めはわからず、特に異様な事件ではないのに異質な視線が知られる、その面白さ。

(10) 「手紙」
過去から響く硬くてどうしようもない執着、そこから逃れるように女は翻訳を続ける。思えば翻訳の対象は自分の言葉でないから、ある責任の放棄が認められつつ自らの言葉の構築ができる。そんな自他の言葉の狭間にある空気を思わせる。

(11) 「ある人生(抄)」
実際の鈴木鎮一の自伝をコラージュしてわざとらしく翻訳調にしたものらしいがその選択・切り取り方もまた再創作なのだと思わせておもしろい。かつ、ここでも翻訳という行為の微妙な在り方を考えさせる。

(12) 「設計図」
期待に満ちて購入した家と土地は実際には最悪の環境で、さらに日一日と悪化する。そんな中、彼の書いた設計図に見える望ましさを受容してくれる男を迎え、彼の想像は一時現実の軛を離れる。いいなあこれ。ちょっとインスパイアされる。

(13) 「義理の兄」
カフカの小品みたいな感触がある。いったい彼は何?あまりの寒さに「薄まりはじめた」というところがすごくいい。小話のようにも読めるけれども、何か夢の底をかすりそうな感じ。

(14) 「W.H.オーデン、知人宅で一夜を過ごす」
詩人オーデンの伝記にあったことをそそそっと再現してみた話。そんなことなんですんの?と思うが、すぐ、いや、わからなくはないな、寝るとき重いかけ布団に押されていたい気持ち。

(15) 「母親たち」
母親あるあるをやや遠い視点で描いたような感じ。ほんとにそうだな、と思いながら、なんか異物感があって、そうだ、母親という存在の異物感ってこれだな、いや悪意のある存在では全然ないのだが、でも、という、保ちきれなさ。

(16) 「完全に包囲された家」
なんだかSFみたいに始まるが、SFというより言語による前提の規定にかかわる、詩想の反復のようなものだった。でもなんなんだそれ?

(17) 「夫を訪ねる」
離婚しようとしている夫の家に行く。互いに恋人がいる。前提はそんなだが、それより、人は何によって心をそらされるか、心そこになくなるときはどういう場合かがとても具体的に切実に書かれていてとてもリアル。

(18) 「秋のゴキブリ」
語り手もゴキブリは嫌いなのだがさほど嫌悪感は表出されず、むしろ詩的な源泉になっている。それが巣くっている隙間を懐中電灯で照らすと「無数の脚の森がうごめくのが見える」というところが最高。

(19) 「骨」
夫の喉に魚の小骨が刺さり、取れなくて医者に取ってもらったときの記憶。それだけなのだが、途中のよくわからない、奇妙だったりものものしかったりする過程が、ごく僅かだが異界めいた気配を感じさせる。

(20) 「私に関するいくつかの好ましくない点」
いきなり別れを告げられる。「最初から好きになれない点があった」って何それ?人はなぜ他者を好み嫌うのかという本質に触れそうで、でもどんなにそこを考えたところで問題は解決しないという事実。

(21) 「ワシーリィの生涯のためのスケッチ」
著述家、今日はやるぞと決めて机に向かおうとするが決まって用具が不足、次いで先にしなければならないことがいくつも起こり、のあたりが、そうなんだよ!と言いたくなったり。そうなんだよ。

(22) 「街の仕事」
街に雇われて、ということだが、皆、変な仕事をする人たち。間違い電話役とか変な帽子かぶり仕事とか狂人役とか。という、ありえなさそうな不条理でスラップスティックな街を創造しかけて、スケッチのまま放棄したような感じ。同じ言葉の間違い電話係りが印象深い。

(23) 「姉と妹」
ミソジニー的な父親の、生まれる子への願望に始まり、やがて姉妹という関係の残念なところ、残念な成り行きが語られる。そして。特に残酷でも恐怖でもないが楳図かずおの連作「おろち」に含まれる「姉妹」と「血」を思い出した。

(24) 「母親」
最初はあるあるなのだが、次第にエスカレートしてゆく、母から娘への惨憺たる言葉。ひとつ前の収録作「姉と妹」より酷さ十倍増しくらい。ラストはもう現実離れしてグリム童話の意地悪な継母みたいで、物語的な感じが強まる。

(25) 「セラピー」
自分でもよいように動かせない自分の心、外部とのときに薄くときに厚くなる壁。保てない感じ。医者相手でもつらいときは多いが、でも関係は続く。ふらふら読みながらどうしようか考えてしまう。

(26) 「フランス語講座 その1―Le Meurtre」
本当にフランス語講座としての説明が続き、いきなり示されるフランス語の単語をパズルのように読んでいくが、ところどころ状況説明が過剰になる。で、そちらに意識を転じると。いいねこれ。 ただ、本当にフランス語できる人にとってはこれ、もう、出オチなんですが。

(27) 「昔、とても愚かな男が」
自分はどこにいる? ここにある問いは例えば「アリス」のチェシャキャットが語ったように、主語でなく述語による同一性に意識が向かうというところから始まるらしい。つまり自分と同一の行動をとる者も自分。では自分はどこにいる?

(28) 「メイド」
なんとなくゴシックロマンスの果てみたいで、「ねじの回転」やパトリック・マグラアの諸作などを思い出した。主人のマーティン様というのも謎だし、どうなっているのかわからないが、陰鬱で抑圧的な口調がただ世界を積み上げる。

(29) 「コテージ」
起伏に満ちた過去の長大な記憶を秘めているらしい、しかし今は他者と語る通路を失った老女、そして娘たちに見捨てられているらしいが待ち続ける老女を、感傷的でもなく突き放すわけでもなく語る。そのなんとなく手探りの感じ。

(30) 「安全な恋」
小児科の医師に恋をしても、自分の子、医院のスタッフほか隔てが無数にあって。でもこういうことは他にいくらでもある。だから、実のところ、われわれの日常は、見えない、成就しない恋に満ちているのでは?とも思った。

(31) 「問題」
誰が誰に対し義務を負い誰を愛し誰を保護し等々の関係が結ぼれた多数の紐のようで決してほどけず動きが取れない。ゴルディアスの結び目みたいに一気にほどくにはすべて断ち切るしかないが、といって、皆がそれをほどかれたいとも思っていないのだ。

(32) 「年寄り女の着るもの」
中年半ばを過ぎかかっている女性が老年の自分の自由さを想像する。男性の友人にそれを語る。老年の自分を安楽に想像したいが、そこにある重力が加わってくる。で、どのように考えればよいのか、自分にはわからない。

(33) 「靴下」
今は別の女性と結婚している元夫がたまたま忘れていった靴下が元夫との年月を想起させる。物に喚起される記憶はときに疲労感を誘う。残された「物」が記憶と感情の代わりとして機能する様子が語られる。それが何かを射止めている。

(34) 「情緒不安定の五つの徴候」
揺れ動き、ときに泡立つような、心という不如意。「あれさえあれば解決する」という期待。だがそれがあっても無理と半ばわかっている。そんな語りの中、なんとなくそのやるせなさに感染してしまう。

毎日(尻 on fire dayを別にして)仕事前に少しずつ読んでいくのが楽しかった。
リディア・デイヴィスの書き方は一貫しているわけではないが、どれも、対象への距離のようなものが何かに託した視線としてあるようで、そこが快い。推薦します。

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飯沢耕太郎 編 『きのこ漫画作品選』(Pヴァイン刊) について

飯沢耕太郎 編『きのこ漫画名作選』(Pヴァイン刊)→■■推薦します。

20160404

                これ↑

以前、読者大驚嘆とともにすぐ完売した同編者による『きのこ文学名作選』(港の人刊)と同じく、限定3000部だそうですね。こっちもすぐ完売しそう。みんな書店へ急ごう。

きのこ文学漫画絵画映画切手等、きのこの文化的表現に関する博物学的大先達、飯沢耕太郎さんの一貫したきのこ本、ついに漫画編、というわけ。

なお、『きのこ文学名作選』は完売・重版予定なし(装丁が凝っていすぎるため二度と作れないとのこと)ですが、同じ版元・港の人からの『きのこ文学』姉妹編・田中美穂編『胞子文学名作選』はまだ手に入る模様→□□

『きのこ漫画名作選』にはかつて幻のきのこ漫画と言われ、近年評価の高い白川まり奈「侵略円盤キノコンガ」が全編収録されています。
題名でどういう話かおよそ分かると思いますが、宇宙から来たキノコ胞子が人間にとりついて……です。キノコ人間の絵が怖い、でも、最後まで来るとホラーというよりは……

他には秋山亜由子「山の幸」。『虫けら様』の秋山さんによるあの絵の、見開きで、きのこ満開の森のシーンあり。いいよ。端の方にきのこを傘にしてかざしたカエルもいてキュート。きのこなのか精霊なのかわからないものも多数。

往年の漫画ファンにはおなじみ松本零士『男おいどん』から「あの」サルマタケについて。
また少女漫画ファンには懐かしい、みを・まこと「キノコ・キノコ」。
そしてブラッドベリ原作・萩尾望都絵による「ぼくの地下室へおいで」など

『きのこ漫画名作選』で今回初めて知った青井秋「爪先に光路図」というBL漫画がよかった。これは前編だけの収録なので中・後編も読もうと思う。
それと村山慶「きのこ人間の結婚」。これも最初の章だけ収録なので全編読みたい。

他には花輪和一、白土三平、吾妻ひでお、坂田靖子、ますむらひろし、つげ義春、といった巨匠たち。
長崎訓子、新國みなみ、友沢ミミヨ、林田球、大庭賢哉、の特異作家たち。
そして、編者・飯沢さんの一作ごとの後に置かれた解説がグッド。きのこ愛だなあ。

小説「日々のきのこ」の続編を、今年中には書きたい。と、『きのこ漫画名作選』を読んで今一層思いますた。

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岸本佐知子 編訳 『楽しい夜』 (講談社刊)について

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岸本佐知子 編訳 『楽しい夜』 (講談社刊)

 これすごくいい本です。小説にはこんな書き方、こんな展開もありなのだ、という心強さを得た。文学は無限である。あ、ここ学びたい、と何度も思った。読みやすい訳文のせいもあって、次を次を続けて、とうとう一晩で読み終えてしまったので文字通り「楽しい夜」でした。

 以下、各作品ごとにちょっとした紹介と感想。

(1) マリー=ヘレン・ベルティーノ「ノース・オブ」

 いきなりボブ・ディランを連れてくる妹。このボブ・ディランが限りなく怪しいのだが、確かにそうらしい。こういう奇妙な書き方を是非学びたい。兄妹との感謝祭を楽しくしようとする母のしくじりと謝罪が胸に痛い。
 江戸川乱歩がよく「奇妙な味の小説」というのを称揚していたが、これなんかもそれだ。乱歩の示すのは主にミステリだが、こちらは純文系「奇妙な味」か。ただその奇妙な造りとともに、地方都市での残念さや家族のつらい心向きが思われて印象深い。

(2) ルシア・ベルリン「火事」

 緊急事態の妹に会いに行くとそこで更なる緊急事態に。慌ただしく混乱した中かわされる、散らかり気味の会話もそれゆえ一層かけがえがない。人生はそうだ、こんなふうにいつも思わぬ緊急事態の中で懸命に語り合っているものなのではないか。

(3) ミランダ・ジュライ「ロイ・スパイヴァ」

 飛行機でたまたま隣り合った有名俳優。気が合うとわかった彼との、気遣いつつ徐々に親密となる会話がとてもうまい。その人生最高の一瞬は後に彼女のいわば護符となるが…でも、ああ、そうだよなあ、のラスト。やはりうまい。
 ミランダ・ジュライは、若干トホホな細部をも含みつつ「生き生きしていた一瞬」を語るのがとてもうまいと思う。それは必ず過ぎ去ってしまうものだが、記憶はこうした要素によって常に賦活される。

(4) ジョージ・ソーンダーズ「赤いリボン」

 悪質な伝染病に感染した犬に幼い娘を殺された父と母。母はあらゆる動物を殺せ人間も殺せと言う。その心は痛いほど伝わるが、現実的処理問題となると途端にファナティックな自警団的組織を育てる厭な動きの現出する苦み。

(5) アリッサ・ナッティング「アリの巣」

 すべての人が身体に生物を寄生させねばならない世界。ヒロインは骨にアリを飼うことにするが…途中からホラー風事態となりそうだがムードが違い、ある仕掛けが明らかとなり…ラストは至福な感じもあるがちょっと気持ち悪いような。
 これ実は以前、乱歩賞最終候補になった「人外領域」の中にある発想とちょっと似てる。といっても自作は公刊されてないからこれはレビューではなくただの私的感懐ですが。

(6) アリッサ・ナッティング「亡骸スモーカー」

 死体の(生体でも)髪を煙草のように吸うとその人の記憶も吸える青年に髪を吸ってもらう女性。ここにも自己遺棄と自他の融合のような発想があって、この作者にはどこか親近感を覚える。この作はリテラリーゴシックでもある。

(7) ブレット・ロット「家族」

 夫婦喧嘩をしかかる二人、だが子供たちがいないことに気づき、懸命に探すと見つかったことは見つかったのだが…これも大変な奇想小説だが、ただそこに展開する家族間のすれ違いと拒絶にはリアルな感触がある。最後のもう一ひねりも面白い。

(8) ジェームズ・ソルター「楽しい夜」

 一人称の小説は実はとても難しいが成功のさせ方はある程度わかるように思う。だが三人称の小説の水際立ったうまさというのはなかなか思い描きにくい。この小説はその、三人称という方式を最もシャープに用いた成功例と言える。

(9) デイヴ・エガーズ「テオ」

 進撃しない巨人の話。事故的に人は少し死ぬが。美男美女の巨人と、そうでないもう一人テオ。物語は原初的な三角関係だが、はみ出しているテオが内省的なので争いにはならない。だが悲しい。どうする。非モテの行く末に救いはあるか。

(10)  エレン・クレイジャズ「三角形」

 男性同性愛者の学者カップルの片方がちょっとしたいさかいの埋め合わせにと買ってきたものは…どことなく「異色作家短篇集」の中にあってもおかしくない展開だが、遊び心的なところはなく、より苦く重い。私たちはもっともっと歴史を知ろう。

(11) ラモーナ・オースベル「安全航海」

 たくさんの祖母たちを乗せておだやかな海を船はどこまでもゆく。ときおり思いもよらない出来事をはさみながら、世の果てまで続く安全航海。ここに漂うある種のファンタスティックな漫画のような懐かしい穏やかさが好きだ。

 以上のようにどれも何かが心に残る短篇で、さすがに岸本さんが選んだフェヴァリットだけありますね。多くがストレンジな展開だが、アイデア先行のストーリーと思えるものはなく、その奇妙さは人の生の不可解さの感触をより具体的に伝えるためにあると感じられた。推薦します。

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友田健太郎氏による「週刊読書人」1016年2/5掲載の文芸時評を読む

 個々の作品への評価は読む限りとても明快で、李龍徳の「報われない人間は永遠に報われない」を私は読んでなかったが、この文を読むとこれから読んでみようと思わせられる。津島祐子の「オートバイ、あるいは夢の手触り」もそう。
 だが最も重要な問題を提示しているのは後半の、男性作家が女性の一人称もしくは一人称にきわめて近い女性の三人称を用いて書くことへの批判のところだ。
 ポリティカル・コレクトネス(最近はPCと書いてあって、え、パソコンがどうしたの? と思うことがあるので私は基本略さないで書きたい。ただし字数の限られた場では仕方ない。それとこの言葉が政治・社会的に公正・公平とかいう意味であることをよく意識する人が未だ案外少ない気もする)については今回、触れない。ともかく前提としては小説では誰が誰の言葉を用いるのも自由ということとしておく。
 その場合、問題は、分かり易い部分でまず二つある。
 ひとつはその男性による作品内の女性としての言動が女性になりきっていない場合。「こんな言い方はしない」「こんな態度はとらない」等、知識・技の不足・勉強不足ということになるから、もし極めたければ信頼できる女性にすべてをチェックしてもらう必要があるだろう。谷崎潤一郎は「卍」を書くさい、関西弁に関する徹底指導を受けている。問題としてはそれと同じだ。これについては、いくつか失敗があっても後から直すことはできる。
 もうひとつはその男性が「もともとわかってない」場合。女の口を借りればうまくゆくだろう、という安易な期待だけがあって、女性であることの本質的な問題、社会的な姿勢や有利不利、心の機微を真にわがものとして意識していないため、「男による勝手な女性像」が語られることで、女性たちはうんざりする。この場合はもうむしろ、木下古栗みたいにわざとその駄目さを精緻に演出して馬鹿さを丸出しにしてみせるという方向があるのみで、もしその「わかってない」男性が真面目に女性の口を借りようとしているとしたら、彼にはもともとそうする資格はなかったということだ。
 だが、このような比較的単純に判断できる部分以外にもっと考えるべき問題がある。友田氏はそこを指摘している。以下、友田氏の言葉を引用する。

 男性作家が作品に女性の「声」を使いたがる心情は分かる気もする。いま日本で男性として生きるということには、興ざめなものがある。女性が差別や偏見、セクハラなどと闘い、一歩ずつ地位向上を勝ち取っている中で、ことに創作に携わる身であってみれば、男性であるばかりに何か本質的な体験ができずにいるのではないかと疑わざるを得まい。古臭い制度がもたらす社会的優位性があったとしても、そんなものは創作者としての成功を保証してはくれない。
 いま男性の周辺には面白いことなんか一つもない。男性は、そのままの姿では生き延びられない絶滅危惧種そのものだ。女性を語り手にした方が、今の日本ではよほど面白い小説になると男性作家が思ってしまうのも無理はないのである。

 引用以上。
 よく言ってくれた、とまず思う。非常に正確に、男性作家が女性の言葉を用いようとする意識を語ってくれている。「そのままの姿では生き延びられない」という認識もおそらく正しいと思う。
 これだけよく事情をわかってくれているからこそ、続く結論が重みを持つのだ。以下、友田氏の言葉を引用する。

 しかしだからこそ、男性作家には、自分の中の、情けない、つまらない、興ざめの、ちっぽけでしなびた男性性から目を離さないでほしいのだ。どんなにくだらなくても、それがあなた方の持ち場なのだ。もちろん私の持ち場でもある。要は居直りだ。だが、本当に面白い小説なんて、そこからしか生まれようがないだろう。

 引用以上。
 やはり正しい。この論理による限りもはや、逃げようはない。
 そして、これを読めば、古井由吉の独語的小説群をひとつの範とする私としても、ならば擬態することはやめ、全身苔むした雄ナマケモノか、皺に埋もれ怪異な顔をさらす雄のオランウータンのようなあからさまな者として、そこに湧いてくる言葉だけを続けていこうかと、ふと、思わせられてしまう。しかもそれはとても気楽で、私にはむしろそのこと自体が救いになるのだ。
 本当はもっと著名なよく読まれている作家の例で語れるとよいのだが、残念ながら自作で言うなら、「闇の司」「町の底」「呪い田」「樹下譚」「日の暮れ語り」「遍歩する二人」「記憶の暮方」「クリスタリジーレナー」「林檎料理」「出勤」、等々、どれも年齢はいくらか違っても、ともかく男性の声で、男性の視線で語ったもので、そこには今回『文學界』2016年2月号に掲載された「リスカ」(女子高校(中退)生の一人称による)を書きながら感じた極度の危うさ、難しさはない。
 だからもう女性の言葉を借りるのはやめようかと、一度は考えてみたのだが、ただ、友田氏の意見が正しいという意味とは別に、作家はもっと不正で愚かで常に手探りで書く者だ、という意識が私には捨てられなくて、それで、やはり、常にではないが、この先も、女性の言葉を借りた小説を書くことだろう。なんだ、せっかくのよい意見を耳にしながら、それでは何も読んでいないと同じではないかと言われるかも知れないが、友田氏の見解を知る前と後とでは私には大きな違いが感じられる。
 きっと私のやっていることは過ちなのだ。そう感じられたからだ。
「リスカ」では一度は女性のチェックを入れてもらっているので、言葉遣いや主人公の行動にそれほど大きな不自然はないはずと思う。あれば直すまでだ。それよりも、ある女性から、その若い女性の意識の追い方に共感できたと言われもしたので、そこに「都合のよい女性像」のようなものが感じられないとしたら、前記した二つの点からある程度、存在を認められるものと思う。
 だが、友田氏的にはこの語りは「男性であること」からのただの「逃げ」であり、生の真実を突いていないということになる。それが真か否かは私には判断できない、作品への解釈なので、そう読まれたとすれば全面的に認めざるをえない。だとすれば、私は、今回、誤ったのだ。失敗したのである。
 ところが、そうすると私はこういうとき、寺田寅彦の、「科学者になるには頭がよいとともに頭が悪くなければならない」という言葉を思い出すのだ。科学者になるには科学的な頭の良さは必要だが、同時に、鋭く先を見通してすぐあきらめたり方向転換しないまま、十年一日のごとく実験を繰り返し、予め間違いと分かっていても必ずやってみてそれを確認する、そういう頭の悪さ(鈍さ)が必要なのだ、その退屈さに耐えられる人が科学者になれる、そして実は、常にではないが、新たな発見や理論はそういう地道なところから見出されるものである、というような意味である。
 私は作家であって科学者ではないが、この点は同じ事と思う。作家であるために必要なことはどんなに誤っても書き続けることだ。予め過ちとわかっていてもそれを書いてみることだ。そしてそれが面白い過ちとなるなら成功なのだ。
 詭弁と言われるだろうか。しかし、正直なところ、小説そのものが過ちの記録であることが私には前提なので、作者として書く姿勢の部分が誤りと指摘されてもさほど残念ではない。
 じゃあ次は男の言葉でやってみます、とは言える。
 だが気が向いたらやはりまた女性の一人称でやってしまうだろう。
 この私の態度には、あるいは友田氏とは相反する、小説というものへの見解の違いがある。
 友田氏は「男性であるばかりに何か本質的な体験ができずにいるのではないかと疑わざるを得まい」と書いた。体験、という意味から、女性の言葉を借りることがごまかしである、体験していない女性のあり方を自分のものとして書くことは欺瞞であり価値が低い、と言うのだ。その虚構の考え方に、私との差があると思われる。
 私にとって、小説とは虚構でなければならず、ドキュメントであってはならない。言葉による「事実の記録」はもう既に事実からの言語的な翻訳に伴う虚構が含まれるが、しかし、それでも必ず「事実」を神として従うのがドキュメントである。しかし小説は、まず何を言うのも嘘である、というところから始めたい。だから、男が女のふりをして語るならその嘘を徹底していればよく、語られた作品に何かの見どころがあれば作者の性別は問うべきではない。
 問題は、現在、ヘテロセクシュアル・ノーマルな男性が女性の語りをやろうとすると大変失敗しやすい、ということなのだ。彼はおそらく何かをわかっていないからだ。またそうして面白くなかったのであれば全くそれは無価値な小説である。
 だから今回の私の「リスカ」も過ちである、といわれるならそれでよい。かつ、面白くなかったと言われればすみませんと言うだけだ。
 だが、小説は、まず口からでまかせを書くのが本態と私は思う。次から次へ、言葉にそそのかされるまま語るとき、作者はもう自分の所属などどうでもよくなる。ただし、初動での方向はその後を大きく決める。今回は女性の言葉でやってみよう、今回は関西弁でやってみよう、あるいは今回はニートで、あるいは今回はネトウヨで、今回はリベラルで、中年男性で、老女で、動物で、物で、等々、初動だけは意識的に決める。あとは、そのスタイルがもたらすまま、語りたいと思う。性別と社会的位置とは等価なのではないが、この立場をとる場合、交換可能的な想像として見られている。そこを欺瞞と言われるなら仕方ない。だが、未体験のことを書くな、と言われると残念になるということだ。
 そうして語っているうち、あるところで、全く嘘なのに、どうしても逃れられない切実な何かが語られてしまうことがある。それを私は小説の真実と呼ぶ。
 小説の面白さは、前提として全面嘘なのに、どうしても忘れられないリアリティが生じるところにあると思う。そういうところがある小説がよい小説である。
 むろん、徹底的に現実に沿って書かれ、そこからリアリティをくみ上げる小説もある。私小説がその極みではないか。そして、友田氏の言うような、どこまでも自分の居場所を忘れないで書かれる小説というのは、最終的には私小説をめざすことになるのではないか。
 批判ではない。友田氏的な方向性はそうではないか、と考えただけだ。
 いやそれほど狭くはない、と言われるとは思う、だが徹底的に自分の位置を意識し、体験を重視するとすれば、ときに虚構の排除という選択肢も大きく出てくる。それはかつての私小説の理想であったし、また、古井由吉氏は、そのようにしてどこまでも嘘を捨てていくうちに、どうしても捨てられない嘘が出てくる、そこが面白い、と書いておられた。
 つまり見方が全く逆方向なのだ。だが、おそらく、友田氏も私も、優れた小説とするものが大きく違うことはなく、それに出会えばおそらく同じように反応すると思う。
 なお、友田氏が今回高く評価しておられる「耳つきの書物」の作者・長野まゆみは、「少年アリス」という自分の性別とは全くかけ離れた少年(しかも完全な虚構的少年)を語る小説でデビューし、それを江藤淳から、「作者が自己の位置を見せない作品」(概略)というような批判を浴びた(と記憶、少なくともその架空性を強く批判されたのは確か)。しかし長野氏は、何を言われても自分の書きたいものだけを書き続け、そして今の境地がある。自分もそうありたいものと思う。
 だがともかく友田氏の批判は大変胸に刺さった。忘れない。こういう「刺さる批判」だけが公に書かれるに値する批評ではないかと思う。その意味で私は友田健太郎という批評家を信頼する。
 以上、友田健太郎氏による「週刊読書人」2016年2月5日号掲載の「文芸」(文芸時評)を読んで考えたことである。
 たまたま先月の「文學界」に掲載された自作が友田氏の否定する方向の作品であったため、自分にばかりひきつけて考えたので、随想であって批評にはなっていないが、とはいえ、ある何かの思考の資にはなると思い、ここに記す。というもっともらしい理由は嘘で、正直に言えば、こういうことを考えたのでみなさん読んでください。
 以上は今後、読み直して訂正することがあります。

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すぐれた本・面白い本・くる本

京極夏彦さんが読書の有効性を認めつつも「本を読んだから小説がうまくなるわけではない」(趣旨)と言っておられた。身も蓋もない小説家の現場からするとそうなのだが、ひとまず小説家である場合には、読んで自分の小説が書ける本とそうでない本があり、前者を私は「くる本」と呼んでいる。

私にとってよい本とは、「すぐれた本」「面白い本」と「くる本」(それを読んでいると自分が書きたい小説が湧いてくる本)の三種であり、最近は「くる本」を求めることが増えた。

読むと評論が書きたくなる「くる本」もあるのだが、小説を書きたくなる「くる本」とは微妙に違う。なお、強く影響されてそれと同じような話を書いてしまうような場合は「くる本」ではなく「すぐれた本」である。「くる本」とはそこに書かれていることとは全然別の自分の事情を浮き彫りにする本のこと。

ある音楽を聴いてよい小説が書けたり、ある絵を見てそれとは違う場面のよい小説が書けたり、ダンスや映画や、思えば本に限らず、何か心を波立ててくれる表現があって、その言ってみれば波動みたいなのによって、テーマは全く異なる何かを書かされてしまうという得難い経験ということ。

インスパイア、というのとも違う、コーンと何かがぶつかることでそれまで気づかなかった可能性が見える、とでも言うか。必ずしもそれは「世界の名作」ではなく、自分にとって貴重な何かを発動させてしまうこと。本でも音楽絵画映画演劇等でも。

ところで(以下別内容)、来年7~9月が決め手の予定で、まだ先は長いがほぼ決定したので今年は快くいられる。三年前は困っていた。人事の交代はときに残念だが長い目で見れば必ず好意的な人が要職に就く時期が来るので無念なときは待つのみ。中堅から大手の出版社の話だが。と、この部分はこれでわかっていただける人にお知らせしました。

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なかよし のこと、妖怪のこと、批評のこと、など

健康で長寿、であればよいことですが、その一番の秘訣は なかよし ではないかと思うのです。 なかわる と いぢわる は寿命と健康を損ないますね。

水木しげる先生の93歳没は水木的にはとても早世であると思いますが、人間平均では長寿ですね。その水木先生は偉大だが聖人という感じはしない(妖怪だけど)。ただ、いぢわるをしたり、なかわるな相手を憎み続けたりということはあまりなかったのではと思う。

妖怪はもともとキャラクターではなく、江戸の絵師の絵をもとに水木先生がキャラクター的に描いたところから今の妖怪文化ができたものと認識していますが、もともと、「存在」というより「事象」であったものですから、原理的な行為や反復はあっても人間的な怨恨・悪意というようなものは薄かったはず。

それで怨恨・悪意の権化としては幽霊という人間意識由来の怪異が担うことになり、ここから妖怪と幽霊は別であるという認識も生じたのではないかと思う。もともとが妖怪に「人間性」はなかったので。

ただ、キャラクター化されてゆけばそこに「人臭さ」も付与されるわけで、最終的には人間ともあまり違わなくなってゆくことになる。そこを一歩とどめようとする工夫がその面白さで、たとえば人間的な妖怪を描くときにはそれでもどこか心が欠落した存在として描くとうまくゆく、とか。

ところで、サント=ブーヴ(小説・詩もあるが主に批評家・フランスの小林秀雄?)は、生前高く評価していたバーキエ公爵の死後、「本当言うとあんなの文学者扱いできない」と酷評した。それを聞いたゴンクール(作家・批評家)は「自分、死んだらあんたに追悼されたくない」と言った。(プルーストの報告による)

また、サント=ブーヴは、バーキエ公爵がアカデミー・フランセーズの会員に立候補すると言ったとき「少なくとも私はあなたに票を入れますよ」と約束したが、実際に立候補の際には別人の名を書いたという。ここには、批評家として世をわたってゆくに必要な言動と、自分の価値観の堅持のための裏工作が見られる。

一度でも文学的批評を公の場でやったことのある人には、単にサント=ブーヴを否定はしきれないと思う。本当に心から正しいと思うことだけをストレートに書こうすると、どんな業界でもいずれ干されてしまう。

じゃあ、周りが望むようなことだけ書けばよいではないか、という意見には、それができる人はライターとして優秀だし文句はないが、批評を公にしたいという人はそういうことから始まっていないので、それだけでは批評を書く意味がない。それでときに卑怯と言われるような騙し討ちもする。

でもそれは私の好きな なかよし の世界ではない。だから私は「批評家として商売すること」を止めた。

とはいえ、今も、あちこちで批評家の無念さは感じることが多い。特に不景気なときや全体主義的な風潮の大きいとき、批評家はあらゆる卑怯なことをしてでも、何かの意地は通さねばいられないのだ。言動に裏表があるとサント=ブーヴを嘲っていられる人は幸いである。

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昨夜の会話2014版ゴジラ編

たまたま話が2014年版ハリウッド製「ゴジラ」についてのことになったのだが、ゴジラもよかったけれども、敵対怪獣として出てくるMUTO雌雄のなかよしぶりが印象的だったという件。
こんなイメージか↓(こういうのはオタク界隈ではもうあたりまえの話と思うが)。

ムートー♂「はい、ミサイル」
ムートー♀「あんがと。もぐもぐ」

ゴジラ「リア充爆発しろ!」ゴワー
ムートーたち「あーれー」

 (※ 正確には一体ずつ倒されます)

いや、ゴジラにとってはゴキブリみたいな駆除対象なので、仕事できる人らしく、冷静に機会は逃さずさくさくと退治してましたけどね。

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「いまとここと現代短歌」追記

昨日に少し付け加え。
短歌の世界にいて楽しい、にとどまらず、「外の」(と敢えて言う)読者にも読まれたいという件について。
このあたりは以前から穂村弘も言っていたことと思う。
穂村さんはよく読まれているエッセイストでもあるが、その散文的活動は最終的に(短歌だけとは限定しないが)自分の詩歌的世界へと導くことをどこかで意図している、というような話だったと思う。
では、短歌なら短歌が歌人以外によく読まれるには?

この場合、「外」と言ったって全然文学に無縁の人をいうのではない。
大抵は、小説は読む、くらいの文学好きで、ふだん短歌には馴染んでいない読者、にも、という意味である。
だが短歌なら短歌には、独自の鑑賞の仕方があって、そのままでは難しい場合もある。
といってただ分かりやすくすればよいのではない。
読み手のことを意識して作る、という意見は正しいが、それも、文学的への興味によって導かれた、ある程度の教養ある読み手を対象として、ということで、対象を無知の人にまで引き下げる理由はない。
そうではなく、たとえば最も読者の多い小説というジャンルの読者になら、どうやって短歌を鑑賞してもらおうか、というような意味である。

はっきり言って、これ、という妙案があるわけではないが、試みとして、自分がやってみたことを宣伝交じりに記す。
私は『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』と『ファイン/キュート』というアンソロジーを編集した。
それら自体の選択は各々の本の理念によるが、双方とも、小説・詩・短歌・俳句・随筆をできるだけ均等に収録した(とはいえやはり小説が最も多くなりはしたが)。
作品を選ぶというとき、あるテーマによって決めるが、できるだけジャンルによっては分けない、という態度を私は実践し、推奨する。

いつも言うのだが、文学は小説だけ成り立っているのではない。
同時に別ジャンルが見渡せるやり方を多くの人がやればよいと思う。
それは一方、たとえば歌人であれば、小説はむろんのこと、詩、俳句、随筆、評論、戯曲、という「外の」ジャンルをも短歌と同じくよく知ろうとする意志の推奨でもある。
短歌を、「外の」人にも読んでもらいたいと願うなら、自身も「外」をよく知りたいと思うのが自然ではないか。
抑圧的な言葉として聞かないでほしい。どんなジャンルにも自分が愛せる作品はあるという希望を共有したいと言っているに過ぎない。

その意味で、催しの中、木下龍也さんに選ばれ、とはいえ短歌としてはそれほどでもないという意見もあったが、以下の歌、

人のセックスをわははわはははわははははははははははははは (加賀田優子・作)

上の歌のよさは認めたい。
これは短歌の世界よりも現代小説に親しんでいる人に向けてのジョークである。
私などは大笑した。むろん効きのよいジョーク以上ではない、という意見もあるだろうし、否定しないが、しかし、とにかく私のように常々は小説の方が主である者にとって、ともかくおかしいから◎

現代小説という意味では、山崎ナオコーラの作品題名だけ知っていれば「わはは」の歌はわかるが、それさえ知らない人にはわからない。

このあたりを私は境界とする。
「山崎ナオコーラくらいまでは知っている層」に向けて、短歌でも小説でも書くことが生産的ではないかと思う。
「山崎ナオコーラくらいまでは」というのは山崎ナオコーラなどを一例とする現代純文学の意味ね。できれば木下古栗くらいまで、とも言いたいがそこはやや難しいか。
純文学関係にある作家を全然知らない人を中心対象にするのはちょっとな、ということである。

ついでにもうひとつオタクな補足。
催しの中で、江戸雪さんが以下の歌、

ぬるま湯を粘土にかけて混ぜておりジャミラのように悲しい昼は  (笹公人・作)

の、ジャミラについて僅かに言及されたが、ここで補足する。
ジャミラは肌が粘土のようで、しかも水をかけられると死ぬ。
ウルトラマンの指先から放水された多量の水を浴び、地に伏し、もがきながら死んでゆくジャミラの痛ましさ哀れさをも思い起こしつつ読みたい歌である。
しかもその泣き叫ぶ声には、赤子の声を混ぜて用いていた。
一度見た人には忘れがたい「ウルトラマン」中の不条理かつ悲しい一編である。
なお「ジャミラ」はフランス人の名で、もと人間である。自分を宇宙に見捨てた地球人に復讐しに来たのである。そして国際平和の名のもとに抹殺される。

こんなことは「ウルトラマン」を知る人には言うまでもない。
だが、会場にはここまでは知らなかった人も確かにいたと思う。
単に提出するだけではなく、読み手に親切な手引き、をめざすとき、それは「そんなこと知ってる」と言われるかもしれないややださい態度にもなるときがあるだろう。
でも、誰にも目こぼしなく、その面白さを示せるのなら、ださくてもいいじゃないか。

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「いまとここと現代短歌」

11/14は中野サンプラザで行われた「いまとここと現代短歌」という催しに出席した。
自分自身の短歌も過去数百首ほどあるが最近はあまり詠じていない。
が、それでもある一定の共有知識といくらか詠歌の錬磨を経ているので、自分がうまいか下手かは別として、よく通じる話と感じられた。
この共有知識と技法の鍛錬、そして読み方の経験は、その気があれば誰でも手にできるものである。
そのさい、「才能」云々も関係ない。短歌の世界に入りたいという意図だけでよい。
ただしそれらなしでは、そこに入ることはできても楽しくはなかなかならないだろう。

最近ではかなり薄くなった、と言うにしても、短歌の世界にはなるほど確かに外部との壁がある。
口語なら大抵わかるとしても、全く文語やら近代短歌・前衛短歌やらの知識を求める気がないと、長く居る人にはなれないだろう。
いつでも出ていける。しかし知と技を育めば楽しいらしいこともすぐわかるだろう。
少しだけ薄い壁に囲まれていることが短歌の愉しみであり、いつでも出ていけるが面白いから出ないでいる、というのが歌人なのではないか。
「進撃の巨人」のように外が地獄なのでもなく中にいないと死ぬわけでもなく、壁が壊れれば全滅するということもない。ただ好きでそこにいる。

そしてその薄い壁は、当人の意識によってより薄くもあるいはより厚くもなる。
どんどん濃い話をしたければ敢えて高く厚い壁を築いて、そこでよくわかる仲間とともに歌を詠み合い読み合うのもよい。
もっと高さを下げて、入れる人を増やしたいというならそれもよい。

だがその壁が全くないと考えたがるのは間違っている。
短歌は、そこに参加したい人がいくらか以上は学習するというプロセスを経てその世界を鑑賞し創作するものであり、たまにひどくポピュラーな詩歌が多くに読まれても偶然に過ぎない。それをのみ求めることに私は反対する。

ひたすらに開かれなくてはならない、という発想は、そもそもの文学自体の否定に通ずる。
私はあまりに「わかってない」「知ろうとしないままでよしとする」人たちと文学をやりたいとは思わない。

それらの最も基本にあるのは、楽しさの追求である。
シリアスな過酷さを重要視するあまり、傍若無人で無礼な発言を「野生のすばらしさ」などと持ち上げるのは間違いである。
文学の世界の「野生」は野生をよく演出できる技法という意味である。
当人の人間性の低さを誤って称賛してはならない。
ゲームのルールを破ることがよいのではない。それをおもしろく破ることができる人だけが達人なのだ。
一見重く厳しそうであっても、どこかに、読み手・書き手にとっての愉しみが見える営みでなければ、そこは早晩、人のいない広場になってしまうだろう。

私はいつも思うのだ、みんなで楽しくやろうぜ、そのためなら少々苦しくとも学ぶし練習する。
子供が野球を学ぶのとそれは変わらず、そこには抜かしてはならないプロセスがある。それあってこそ楽しめる。

一言付け加え。「楽しいければそれでよい」という意見にも私は賛成しない。本当に文学を楽しむということの得難さだけをここでは念頭に置いている。

なお、短歌の世界にはあまり怖い人がいない、というのが以前からの、そしてやはり今回もの、ごくゆるい感想である。

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有名・無名意識の軋み

ちょっと重いことだが一昨夜気になった件。
ある作家に関する権威と目されている人がその作家に言及していたら無知な人が「お前何様だ」と非難してきた。
それは無知だからだが、それだけでなく、「著名人・権威ある人でなければ言及するな」という意味合いもあった。
それに対して、言われた人は、「『無名者はものを言うな』というのは非生産的である」、と記していて、この人の考えには全面的に賛成である。
一方、この場合の有名無名の判断が、当人の乏しい知識のみでなされていることもさることながら、じゃあ君から見て発言してもいい人って誰か、と問いたくなった。
そこで当人に問いただせばよいかというと、既に語り合うに足りない人であることが確定しているので、無関係でいようと思った。
もし仮にその人から何かこちらへ物言い出してきたら直ちにブロックします。
だがそのことよりやはり心に残るのは、無名者にはものを言う資格がないという本人の勝手な決めつけだ。
それはどう見ても著名人でない当人にとって、じりじりと自分の身を焦がす苛立ちとともに発せられていると私は思う。
つまり「何様?」と問うたその人が、もともと「こんな無名な自分には誰も注目してくれない」ということにひどく不当感をいだいているため、逆に、「お前程度が私以上に偉そうにすんな」という攻撃として表出されてしまうということだ。
ここで大抵の人は「ああ、ダメな人だなあ」となるわけだが、しかし小説家なら、その捻じれに捻じれた、不機嫌な意識のあり方に、より近づいて考えざるをえない。
飽くまでも当人とつきあうのは嫌だが、その、権威が欲しい、そして権威がない(と思える)のに偉そうな奴を非難したい、という意識は他人事ではない。

正しさという意味では「無名者は黙れ」などというのは論外である。
だが、小説はその論外の愚かさを生じさせるものの跡を追うのだ。

なお、誰が見ても有名人である相手には「何様?」という攻撃は起こらない。
(無知ゆえの場合も含み)自分がその相手を知らなかったとき、「無名なのに不当だ」となる。
それは、富豪や大企業の税金逃れには何も言わないのに、生活保護を受けている貧しい人が僅かに多く得ていると聞くと徹底的に憎み非難する態度と似ている。

その人には、大きく強く著名で権威ある状態だけが「公に発言できる資格」であると認識されている。
実際にはそれが自分にないこと、そして自分はこの程度なのに、自分と同等かそれ以下(とその人に認識される)者が自分以上に発言することを許さないという意識がある。

一番平和な解決は、その人がその人の望むほど有名になり、みんなから尊敬されることだ。
そしてこの状態は結果として有名になった人だけが享受している。
そこには努力もあるだろうが他者には見えてこない。ただ運がよかった、ただ最初からよい立場にいた、とそんなことばかり目につくだろう。
ここで、権威を欲しがる人を、では、非難できるのか、ということになると、「そいつがクズなだけ」として終えるのもやはり、私には納得いかない。
権威や著名さの獲得には確かに不公平な何かによる場合もあると感じられるからである。

その不条理に負けてゆく人の愚かさと情けなさを小説としていつか存分に語りたい。

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本日の文学話

文学者にはほぼ誰でもダークサイドがあるものなのだが、たとえば寺山修司(覗き事件)、川端康成(「眠れる美女」事件・自殺前後のいきさつ)、江戸川乱歩・稲垣足穂(少年愛にかかわる秘事)あたりを、知る人から聞いているとダークというよりダーティーな気もしてくる。
そこいくと、三島由紀夫は同性愛の件であれこれ言われるけれども、現在の私から見て、その嗜虐趣味はダークかもしれないが、どこにもダーティという印象はない。「退廃文学を真面目に愛する」人だけあって、真っすぐに思える。
太宰治とかそういう方になるとダークというのでもなく、ダーティとも思えない。もともと紳士の欺瞞からは遠いからか。そのかわり、ダメティ、かな。
澁澤龍彦にもこりゃダメだ的なところは多くあって、伝え聞く、ある場合の女性への態度はかなり酷い。
中井英夫にはやっぱりダーティ部分ありますね。全集のとある解説でも読み取れる。僅かに聞き及ぶところでもかなり酷くてしかもダーティ。
「バンビ」の作者ザルテンは、匿名で、幼女を主人公にしたポルノグラフィーを書いていた、というような、そんなショックがいたるところにありますね、文学。
なお、かつては身分差と社会的階層差別が露骨だった(今はまた拡大しているといわれるがソフトに隠している)から、立場のよい者が最も卑しいことをしてみるのがある種の悦楽だった、ということもありうる。作家は本来はぐれ者だが、成功し有名になると皆手のひら返したように尊敬するし。
でも寺山さんなんかはもうそんなこととは別に誇り高い変態とも言えるか。でも覗きはなあ。やられるとヤだよね。
詩の世界でちょっと乱歩的なグロテスクを表出した萩原朔太郎は、どこまで聞いてもどうもそういうダーティなところがなくて、とても小心なイイ人(その上無駄にイケメン)、ただしこの人も徹底的にダメティ人であった。
最近だと、現役作家のやばい部分は今のところ絶対口にされないだろうけど、この先、ペドフィリアにかかわる性向はかなりチェックされそうである。クスリ・酒・賭博、そんなのは全然ダーティじゃないし。
そこへ行くと近年の作家に関する問題として大きいのはメンヘラー系ではないかと思う。もう絶対関係したくない人の話はたまに聞く。
女性作家で酷いという評判は林芙美子の話が有名か。敵対する相手のことは徹底的に汚い手で貶めたらしく、葬式で川端康成が「こんな人ではありますが亡くなってしまったのでどうかご冥福を祈ってやってください」とかなんとか話したとか。
林芙美子の葬儀に是非と呼ばれて、全然思い入れなく出席していた三島由紀夫が「なんでこんなのに出なきゃなんねえの」と言ったとか。なんだか。
田村俊子はそういう酷さはなかったようだが、今聞くとかなりメンヘラーだったようにも思う。
森茉莉はどうでしょう。この人も三島と似ていて、あああんまり、とは思うところはあっても、また、こりゃつきあいたくねえなあ、とも思うとしても、やっぱり汚れた感じはしない。子供みたいだが子供の酷さは十倍増しくらいはある。
志賀直哉は、あるとき、自分を尊敬して会いに来た斜視の青年に「きみぃ、目があっちとこっちに向いてるからどこ見てるかわかんないよ」と平然と言ったという。超無神経。生まれつきいい家で、資産あり身分あり、イケメン、モテ、作家的地位早くからあり、と揃ったせいともいえるが、やはり素質かな。
なお、志賀直哉はエピソードに満ち満ちた人で、相当晩年、友人たちの集まった場で、鴨居から逆さまにぶら下がり、「はい、コウモリ」と言って見せたとか。

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あいかわらず文学について

いつも話が同じ結論になる人たちっていますね。
その人たちの幸福を侵害する気はないのでいちいち反論はしないが、傍で聞いていてうんざりげっそりするのも自分の場合事実なので、そういう「ああやんなっちゃった」の反動が私の文学でもあります。
そういえば父もその種のルーティーン会話がすごく嫌いで、ありきたりだけの世間話が好きでない人だった。
父は文学者ではないが、一般会社員にしてはとても文学に詳しかった。そういうところがうけつがれてるのだろうか、自分。
先日、「純文学心」といったのはこのあたり。かな。
本来は「文学心」でいいのだけど、ってそのときも書いた。
現生活上から少しだけ違う次元の言語空間が現出するような行為を私は文学と呼びます。

ただし文学・必ずしもオリジナルな言い方を尊ぶのではないという例。
以前、木下古栗に、新聞で繰り返し使われる言い回しには飽き飽きだなあ、って話をしたら、「お、それ、今度使いまわしたい」と彼は言った。敢えて紋切型の言葉を使ってそのことをおちょくろうとする意識に文学心を感じた。

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純文学心

純文学心。
本来なら「文学心」でよいのだが、あえて限定した言い方にする。「純文学なんて」っという人が今も絶えないから。
何を言うかといえば、エンターテインメント作家にも純文学心はある、ありうる、ということ。
じゃあそれは何かといえば、まず、同じことだけをやっていたくない気持ち。
あるジャンルで、そこでは必ず歓迎される、という王道があるとすると、いつもそれだけでいたいという人は案外多くないと思うがどうだろう。ちょっと違ったことをしたい、少し外してみたい、という気持ちはないだろうか。
それが純文学心だ。
特に前衛でなくてもよいし、世に言うジャンルとしての「純文学」だけでもない。
「純文学」っていうと、作者の思惑だけをもとにして読者のことなんか考えていない勝手な面白くない小説、と思っている人もいるかもしれないが、実はエンターテインメントの約束に飽きた読者にはとても面白く読めるものが多い。
それは、ルールにただ従わないでいじってみるという二次的な創作の意識があるからではないか。
純文学心の中のひとつのモチベーションは、二次創作的心性でもある。こういうのを全然持たないエンターテインメントを私はあんまり好まない。
こんなことを考えるのは、なんか「読者のために書く」とかいう言い方が嘘に思えるから。
それと「読み手を意識せず作家主体で書くなんてただのナルシシズムだ」などと言って安易にアート的な作品を非難するのも納得できない。
それらについて「こんな文脈があるからそこに従って批判する」、というのだとしたらそういうのが純文学心を阻害するものだ。
純文学心は既にある何かには従いたくない心である。
新しいことをしたい=純文学心、ということもできる。
そのためには一度は古いことを知らないとできないけれども、とはいえあまりに過去にとらわれる必要もない。
それより、大阪で言う「いらち」な気持ちがどこかにある。

今の自分にとって、ある未知の作品を「エンターテインメント」として差し出されること自体がちょっと残念だ。「未知の作品」でよいと思うのだが。
でもそういう言い方は商業的に成り立つ場ではありえないし、たとえ純文学でも「ほらこんなに面白い」という評判がないとなかなか本にはならない。
いや何か文句が言いたいわけではないのです。「純文学心」、これを「いいもの」としておきたいというだけ。
とてもよいエンターテインメント作品には「純文学心」があるということ、そしてジャンルとしての純文学作品だから常に「純文学心」があるとは限らないということです。

ところで以上は先日書いた町田康の「こぶとりじいさん」関連の発想だったと今わかった。
あれは、表現欲に先導されてどうしても踊りたくて踊った踊りが面白くて、踊って見せることによる報酬だけを目当てに踊った踊りはつまらなかった、という話に、町田版ではなっている。
よく言われる「作家になりたいから何か書く」のでは無理、「どうしても書きたくて、気づいたら作家だった」というのが作家の成り立ち、みたいな。実際の作家誕生がいつもそんなというわけでもないんだけどね。
とはいえ、下手だろうが見栄えが悪かろうが、何かしたいことがあってする、というのが、ものの本来だ。
確かにこういうのはあまり結果を意識してしまうといかんのです。もう何かに憑かれるようにして行うことはなるほど後から見ると成功していることが多い。
ただし、その現場では成功なんて考える必要もないくらい、「今やっていること」に懸命なのだ。
そういう場合、他者に見てもらうことすら、どうでもよくて、そうすると「読者のために書いてます」というのも、本当にそれでいいものになんの? って聞きたい気になる。

というわけです。

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「二十世紀少年読本」とその記憶

林海象監督・三上博史主演、映画「二十世紀少年読本」の音楽から→■■
(浦沢直樹の「20世紀少年」とは別)

足の怪我で軽業ができなくなり、サーカス団から出た青年(三上)は、地方地方で詐欺商売を続け、放浪するが……頼る者はない、行く場所もない。戻る場所もない。
街中に一人いると、ときおり私はこの音楽を思い出して、戦前の街並みの中を寄る辺なく行くような気持ちでひっそりと歩く。

「二十世紀少年読本」については、当時ご存命の淀川長治さんが「前作は遊びだったが、これは本当の映画になっている」というような評価をしておられた。なおこのときの林監督の前作は「夢みるように眠りたい」。

林海象監督の映画は「ZIPANG」も「濱マイク」も近年の「弥勒」もどれも好ましい。
貧しく淋しいところを描いても、世界には不思議いっぱい、というような空気がある。
それでつい私は戦前の昭和を美化したような想像をしてしまうが、いやそんなことはない、酷い時代だったはずだ。でも懐かしい、という感じは続く。
ただし「濱マイク」はほぼ現代、「ZIPANG」も安土桃山期くらいが舞台で、戦前の昭和とは違うのだが、どれも昭和初年に見てきた映画のような気がしてならない。

これからの日本は、戦前のように貧しくて酷いところになっていくのではないかと思うと、やはり映画「二十世紀少年読本」の映像と音楽が思われてならない。
ぼくたち何も生きる理由がないからどうでもいいや、君がよければ一緒に死のうか、という感じの、そんな浮遊悲しいストーリー。

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町田康の『宇治拾遺物語』

『池澤夏樹個人編集・日本文学全集』の古典編(第8巻)に町田康による『宇治拾遺物語』現代語版が入っていてその「こぶとりじいさん」が秀逸だというので読んでみたらやはり秀逸だった。
こぶとられじいさんは鬼の宴会の様子に、踊りたくてたまらなくなり、ただ踊りたい一心で踊りだし、鬼たちはその面白さに感動する。
隣のこぶつけられじいさんは、自分が踊りたいためでなく、それによってこぶをとってもらいたいために踊るのでおもしろくない。
こうして隣のじいさんは鬼たちの不興を買い「もう来なくていいから、これ返しとくわ」ということで、最初のじいさんの分まで、もうひとつよぶんなこぶをつけられてしまう。
鬼たちとじいさんの思惑が違っているのは原作通りだが、その後のところで芸術の神髄みたいな話になっていて(ここが町田さんのオリジナル)、実にいい。

『宇治拾遺物語』にはまた、全説話集中随一のおバカ話といってもよい「中納言師時法師の玉茎検知の事」が入っているが、これも町田訳で読んでみるとやはりよい。
もとがあまりにばかばかしいのでさすがに町田さんもその物語自体に新たな何かを付け加えることはなかった様子だ。
ただ、そこに出てくるインチキ法師について、国の認めた僧侶ではないからこいつはおそらくインディーズの僧らしい、という意味の、原文にない紹介があって、ここでまた笑った。
町田康、何をやってもおもろい男。

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中二病についてふたたび、三島由紀夫・森茉莉 編

中二病というのは便利な言葉だが、長らく抑圧の根拠になったのは困ったことだった。
もともとこれを言い出した伊集院光の真意は「自分の過去を恥ずかしがる」だけだったのに、今では大半、「他者のイタいところを揶揄するために用いる言葉」になってしまっている。
でも便利だから使っちゃうんだな。
それと、一度そういう揶揄の現場を通過すると「はい。中二病ですが。なにか?」と言えてしまうので、心当たりのみなさん、ひとまずあの険しい山を越えましょう。

考えてみればかつて、三島由紀夫や森茉莉の世界に心酔し、「一般人」を軽蔑していた耽美の人たちが、あるとき、いきなり誰かから「ぷっ」と笑われたら、ショックだったと思うんだ。自業自得ではあるが。
だが本当の耽美の求道はここから始まる。
他者は自分の都合のよいようには見てくれない。そこで「はあい、もう馬鹿やめまーす」という人はそれでよいが、「でもやっぱりわたしはこれが好き」な人はもう一歩考え深くなるわけですね。
先行する文豪たちの用意した耽美をそのまま自分のもののように感じて、考えなしにいい気になっていた人は、このとき、ひとつ学ぶのだ、耽美フィクションなんて架空のものなんだから、もともと現実の人たちの強さには勝てない。
それは恐ろしく巧緻な手腕あってようやく他者をそそのかし参加させうるプロパガンダみたいなもので、鍛錬の結果なのだと。
そういう他者への姿勢の極め方は三島由紀夫が既に示していた。
よく読めば三島は全く「いい気」になっていない。森茉莉はちょっとそこまでいってないと思うけど。
なお、茉莉は上流階級の冷酷さを身につけていたところが他と大きく違うだろう、だが実のところ、晩年の「ドッキリチャンネル」等に見えるそれは近年のオタク女子のメンタリティとそうは変わらないようにも思う。

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文学とか。

「虚無への供物」「聖少女」。世界に冠たる中二病文学。
だがこれらを人は「中二病」とは呼ばない。なぜならいずれも中二病らしくない大人のレトリックによって書かれているから。そして魅力的だから。魅力的な中二病文学はただ称賛される。「何やっても受け入れられる、ただしイケメンに限る」に近い感じ。
文学の世界(実は芸術の世界すべてだが)では魅力的でさえあれば何をやってもよいが、魅力的でない作品はどんなに志が正しくても棄てられる。
とはいえ、そこでの「イケメン」が一元的に決められるわけではないことが救い。けっこう蓼食う虫が多い場所でもあるのが文学の豊かさだ。
ただし、読者を誘い込まない文学が棄てられるのは同じ。思想的な重要性とか作家個人への興味とかも発表時期をしばらく過ぎれば意味をなくす。
最後に残るのは語り口や修辞、読み手をのせてしまう勢い、そして何かを思い描かせてしまう喚起性、何かがその言葉にしかないと思わせる不条理な誘い。

純文学には、最低の性悪なのに容姿が美しいため愛されすべての傲慢が許されてしまう美女(ヘテロセクシュアルの男性から見てのたとえ)のような作品が多数ある。
エンターテインメントの場合、そこまでの退廃はあまりなく、どこかで健気であったり律儀であったり真っ当であったりする作品が多い。
でも無垢とか健気とか純真とかそういうところに本当の危険はある。そういうのばかり愛する社会はいつか全体主義に向かうだろう。私も好きなんだけどね。

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清家雪子『月に吠えらんねえ』とそのほかの件

『月に吠えらんねえ』作者・清家雪子さんとデザイナー・芥陽子さんを招いてのトークショーが金沢の石川近代文学館であった。
愛読はしているが金沢は遠いと思っていたら、家人がすべて予約の後、連れて行ってくれた。昨日、参加、無事帰宅。事前にサイン会もあったが、こちらは家人のみ参加した。

『月に吠えらんねえ』は青年誌「アフタヌーン」に連載しているが、何かをゲットするためにストーリーが進む種類の漫画ではない。
どこまでゆくかわからない、心の旅路のようなものを細密に画像化し台詞をつけたもののように思える。
創作者の意識を深くのぞき込むところが優れている。最近は深くのぞき込みすぎて、こちらがのぞき込まれている気がする。

『月に吠えらんねえ』の作者はきわめて知的な人のように見受けられたが、最近の連載ではかなり危ういところまで踏み込んでいる。だがそれはある種の教養と智があってこそと思える。

作者にフェミニストの身振りはあまりなく、むしろフェミニストならまず否定すべき高村光太郎と智恵子の関係を、従来とは異なる、創作者側の視線として描いている。
ただし、フェミ知らずなのでは決してなく、白(白秋の作品からインスパイアされたキャラクター、非常にもてる)についての醒めた記述はあきらかにフェミニズムを通過したものであり、読者にもそれは当然の視線として共有されている。

一頃のようにその女性がフェミニストか否かは今では意味がない。
知的創作物にかかわる女性はたとえフェミニスト的な身振りが全くなくても、必ず一度はフェミニズムかそれによって成立した思想を通過している。
そこを見落としているために、最近のある種の日本映画は失敗している。
対して「マッドマックス 怒りのデス・ロード」の大成功の理由のひとつは、これまでに通過したフェミニズムを成立要素として組み込んでいることによる。
日本ではフェミニズムだけが忌避され、エンターテインメントに組み込まれていない場合が多い。だがフェミは今や人気を招く要素の一つなのだ。

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批評がいらないどころか

すぐに「批評はいらない」呼ばわりをするレベルの低い創作者たちは、実際には「オレをほめてくれる批評以外いらない」の心を隠している。
なお、以前記したように、「批評はいらない」はそれ自体が批評であり、自己否定していることに気づいていない。この言葉を発しているときその人自身が最低の批評屋なのだ。
ところで、何年かおきに「純文学なんていらない」という意見が、主によく売れているエンターテインメント作家から発せられるように思うが、さらに注目するとそういう作家はSF・ミステリの中央には属さないエンターテインメント作家であるように思う。
というのも、SF・ミステリの世界では、まず必ず新作はいろいろと批評されるし、中でよいと認められたものは名作として語り継がれる。
そういうところにいる作家たちは、わざわざ純文学の優遇されよう(売れてないのに評価だけはされ、よく言及される)を嫉妬しないのではないか。
一概には言えないが、ただ確実なのは、作家は誰しも自作への綿密な批評に飢えているということだ。そういう呪縛から離れるには村上春樹級に「高く評価され/よく売れる」の状態がないと難しいだろう。
そして、売れているがSF・ミステリにはあまり属さない作品が多い、かつ「純文学なんか潰せ」発言をする作家というのは、売れることを称賛されても内容の分析などされないことに苛立っているのではないか。それに対し、純文学作品は売れもしないのに毎月、月評や時評でいろいろと言及されている。腹立たしい、となるのではないか。そして純文学がなくなれば自分の作品がもっと丁寧に批評されるはずだ、と考えるのではないか。

しかし、これは実は構造的に無理があって、純文学作品が徹底的に批評されうるのはその作者たちがベストセラーエンターテインメント作家ほどは業界内で権力を持っていないからである。もうひとつ言えば純文学の世界では少なくともエンターテインメントの世界よりは批評家の地位が高い(最近は激下がりではあるが、それでも)。
よく売れる作家は既に権力者である。だから出版社側としても、気を損ねないよう細心の配慮をする。そうなると、内容に立ち入って、批判・否定の出かねない本来の「批評」は避けられ、ただ売り上げへの称賛だけが許される。
というわけで、あんなに売れて、出版社からも厚遇されているはずなのに、ないものねだりだなあ、でもそういうところが小説を書かせるのだなあ、とたまたま、思った。
それと、売れていれば自分は問題ないのにわざわざ貧しい分野が得をしているから許せない、ってこれ、「生活保護全部なくせ」の思想と同じだなあ、ともね。

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ヤスポンじゃなくてユキポンにあげてほしかった、ノーベル賞

毎年、ノーベル賞の特に文学賞が決まる頃になると思うこと。
川端康成にではなくて、三島由紀夫に受賞させてほしかった。
これは私ばかりではなく、他にも同じ意見の人の言葉を読んだことがある。
どういうことかと言えば、そうすれば、二人とも自殺しなかったかもしれないからだ。
三島由紀夫は、1967・8年くらいの頃、「このまま文士やってても結局サエないなあ、武士になって死のうかなあ」と考えていたらしいことが当時のエッセイでわかるが、ある人が言うには、そのころ、『豊饒の海』四部作というこれまでにない長編にとりかかっていて、なかなかこれができず、そのため、発表した作品への反響を聞くことも多くはできず、話題に上ることが以前より少なくなっていることにだんだん焦れてきていたらしい、とのことで、もしそれが本当なら、ここでノーベル賞などを受賞していれば、存分にもてはやされ「やっぱオレ文士やるわ」で、自殺まではなかったかもしれないというのだ。
川端康成については、孤児だったこともあり、周囲の人とのつながりをとても大切にした人で、そのため、有名になってからは義理のある人には決してそれを欠かさず、議員に立候補した知人(結果、落選)のために応援演説までしている。
ノーベル賞受賞などという未曽有の大名誉を得た後は、さぞ、その名を頼ってくる人が多かっただろうし、川端はそれに律儀に答えようとしただろう、出版社ジャーナリズムからも依頼が殺到しただろうし、それに応じようとしていると、もはや自分の時間もなかなかとれなくなっていたのではないか。もともと不眠症だったのが、多忙と人付き合い過多とで悪化し、睡眠薬の量は増え、そのうちに決定的な鬱状態になってもおかしくない。
川端の自殺のきっかけはいろいろ沙汰されているが、実のところ、慌ただしく落ち着かない立場と不眠と義理にせかされ続けたことがその最も大きな理由ではないかと思う。受賞がなかったらそこまではいかなかったはずだ。
川端はノーベル賞を受賞していなくても、もう既に日本文学の重鎮だったのだし、それならむしろ三島に受賞させていればよかったではないか。話題にされることが何より好きな三島であれば、ノーベル賞受賞後は、いよいよ生き生きと作家活動を続けたに違いない。
と、こんなふうに惜しくなるのである。

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『アルケミックな記憶』書影と目次

高原英理『アルケミックな記憶』 アトリエサード発行 書苑新社発売 書影

Photo

装画は永井健一さん、編集は樋口ヒロユキさんにお願いしました。御礼申し上げます。

以下、目次

『アルケミックな記憶』 目次

まえがきに代えて 読むこと、読んで書くこと、読むべきときを待つこと

【1】 好きなもの憶えていること

  1 お化け三昧
  2 骸骨の記憶
  3 貸本漫画の消えそうな記憶(1)怪奇漫画編
  4 貸本漫画の消えそうな記憶(2)少女漫画編
  5 とうに死線を越えて

【2】 自分と自作について

  1 幻想文学新人賞の頃(1)
  2 幻想文学新人賞の頃(2)
  3 著書の履歴
  4 批評行為について
  5 リヴィングデッド・クロニクル

【3】 なんとなくあの時代

  1 大ロマンの復活(1)
  2 大ロマンの復活(2)
  3 我等終末ヲ発見ス、以来四十有余年
  4 日本SF、希望の行く末
  5 テラーとタロー、そしてある論争について

【4】 アンソロジーを編んでみて

  1 『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』成立のこと
  2 ゴシックハートに忠実であれということ
  3 作家の選ぶアンソロジーについて

【5】 失われた先達を求めて

  1 中井家の方へ
  2 澁澤家の方へ

【6】 タルフォィックなはなし、シノブィックなはなし

  1 足穂(A)とそして信夫(B)と
  2 tAruphoic (1)モダニズムという不遜な作業
  3 tAruphoic (2)未来への不安をやりすごすということ
  4 shinoBuic (1)下降する美童たち
  5 shinoBuic (2)男性を学ぶ学校

【7】 思うところあれこれ

  1 意識の杖を持つこと
  2 意識の溝を巡る
  3 詩のための作為と物語のための作為
  4 頽廃いまむかし、あるいは三島由紀夫の投機
  5 かわいいという俗情

あとがきに代えて 自由で無責任でありがとう

以上です。 定価2200円+税 10/14頃店頭で販売。アマゾンでは注文後入荷とのこと。

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詩の発生と小説の発生

以前、当ブログにこんなことを書いた。

(1)夕暮れのたびに取り返しがつかない気持ちになった小学生の頃。 2006/10/11

(2)容姿のよい、人気のある、頭のよい、才能のある、そんな少年たちだけのクラブがあると思っていた中学の頃。 2006/10/06

(1)はその比較を絶する絶対性としての詩の発生である。
(2)は序列と価値の認識が始まることで、ある価値観への過度の傾倒によって、事実を逸脱した憧憬を形成しながら、飽くまでも相対性と限定をあらわにしているという意味で小説の発生といえる。

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ツイッター始めました

これ → 高原英理
1001回記事記念として。主に著書の宣伝のために用います。
書くことはこことあまり変わらないし、リプライとやらも基本しません。
以後、こちらに書くよりはツイートの方が多くなるかもしれません。
それと、準備が整えばツイキャスなんてのもやれるかも。

でもなんかやばくなったらすぐ削除するけどね。

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記事1000回記念  『アルケミックな記憶』10/14発売

エッセイ集『アルケミックな記憶』発行・アトリエサード/発売・書苑新社10/14ごろ店頭発売予定。

 → アトリエサード『アルケミックな記憶』

なお今回が当ブログでの第1000件目の記事でした。おめでとうオレ。

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モダニズムは

ときに暴力的な何かに接触してしまうような気がする。
といって、先例を大切にすることが救済にはならない。(つづく)

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批評行為の主体的な場合

以前、批評行為はすべての人が常に行っていることだ、と書いた。訂正はない。
批評が評論的形式をとらず、物語の作成として働くと、新たな「小説」になる。
小説のなりたちはこれだけではないだろうけれども、少なくとも近代の小説というのは、どこかに批評意識が反映しているのであって、批評と小説は対立するものではない。むしろ小説は先行する物語を意識しつつ批評的に書かれるのが本来のものなのだ。
そして、書き手が主体的な評論は、先行する「作品」をただの「素材」として使い捨てる。実は小説でもそうしたことはあるが、評論でそれをやると素材とされた作品の作家からの反発が大きい。だがこれもモダニズムの行為と等しいと思う。(つづく)

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アンソロジー『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』編のときも

「リテラリーゴシック」というのはゴシック小説ではなく、ゴシックと呼ばれる文化にかかわる者から見て、これはいいと思える文学、という意味である。ゴス者から見て「いい」と思えればなんでもよいので、何かの手本に合わせて決めているのではない。
「ゴシックロマンスではないからこれは違う」とか「ゴシック小説としてはこれは認められない」とか決めつけてくる先行者をまず排除した上で、ゴスの方面に興味のある人たちに読んでいただきたい文学、として差し出したものである。
こういう態度、つまり、先行する何かにあわせて批判・否定する意見を予め排除しておくという発想は20世紀初頭の「前衛」のやり方とも近いものがある。
という意味でこれも前衛の発想。(つづく)

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前衛という発想

もうひとつの要素は前衛という発想について考えた件。
起源や原点を根拠とした権威を否定する姿勢をここでは特にさす。
すると、先行作品を素材として、新たな作品の制作を意図する評論も前衛的行為である。
柄谷行人が「文学のための評定」としての文芸評論を排したのもそうした態度のあらわれである。
それらは左翼的思想として示される場合も多い。
ただし今回はエッセイであるので、批評それ自体ではなく、批評行為ということについて記した。
またそれとともにモダニズムについて。(つづく)

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ゼロ年代の想像力

ゼロ年代の想像力、というキャッチーな言葉は宇野常寛による著作の題名だったかと思うが、便利なのでときおり使わせてもらっている。
伊藤計劃の二長編はそのよい例と思う。詳しくは近刊書で。
それと、『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』がいくらか、いや、相当、受容されるようになったところ。
1960年代的な愚直さ生真面目さと理想をいだく(嘲笑的でない)この本の核にある志向は、80年代から90年代初頭にはまず受け入れられなかったのではないかと思う。いや、当時のことはもうわからないが、それでも、かつて、ある時代意識によって抑圧され、今は再び望まれるようになりつつある傾向のあらわれ、と考えたい。
また、リヴィングデッドのような、もともとアンチ・ロマンティックなモンスターに、にもかかわらず、感傷性や悲劇性を帯びさせてしまう意識もそれである。
などなど、いずれも刊本でお読みいただけると幸いです。
ここしばらく続けてきたような、意識の年代記、とでもいうべき記述が今回のエッセイ集の主要な要素のひとつ。(この項いったん終了)

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嘲笑という方法

1960年代には方法としての嘲笑はなかったのではないかと思う。敵対するときは真剣に言い合うか、罵りあうか、殴り合うか、でなければ無視するか、いずれにしても真正面から対峙する、でなければ無関係を貫く、というのがその頃のスタンダードではなかったかと思う。スタンダードであるから一部例外は多々あったにせよ、ともかく横からや斜め上から「ぷっ」として見せる、そしてそれが攻撃と自分の優位を示す、というやり方は決して当然とはされていなかったはずだ。
70年代、SF的相対主義の普及と笑いへの傾斜によって、何かを批判する代わりに笑って見せるという態度が発見されたのではないかと思う。
80年代、このとき、嘲笑はひとつの方法として確立する。他者を否定する態度として嘲笑すること、それによって明らかに優位を誇示する、というやり方が普及する。
90年代以後もそれはさらに拡大し、無根拠に自己を優位に見せる方法として堕落的進化を遂げる。(つづく)

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異端という語への抵抗と嘲笑

まず「異端」の語は西洋での異端審問みたいなところに発している、それを知っている人は澁澤龍彦も含め、1960年代の「異端文芸」等の言い方には最初相当警戒と自制があったと聞く。
しかし、それに抵抗感を持ちつつも、聖書も何もほとんど意味を持たない多くの日本の読書人にわかりやすく「西洋のダークサイド」を想像させる宣伝文句として用いられることを最終的には肯定し、その後はむしろ積極的に用いている。
それは翻訳だけでなく、「新青年」作家の復権のさいにも、主流ではなく忘れられてはいたが独自の価値を持つ「異端作家」という言い方でいわば敷衍して用いられた。
それだけのことである。
このことを、澁澤の死後にいきなり、「恥ずかしい言葉だ」と見下し、「読者を騙していた」と言い、「異端」などという不正確で大げさな語の「ダサさ」を嘲笑した人たちは、60年代にそれを当人たちの前で言えたのか。同時代に明確な距離を持って、その当時から徹底的に嘲笑揶揄していたのか。
そんな記事は見たことがないのだが、そして、公にはしていなかったがその頃から既にプライヴェートにそういうことを語り合っていた、というのなら、80年代以後もそうしていればよかったではないか。
発言力のある前人が死んだから安心して嘲笑して見せるという態度をとった者を、そのさらに後の者たちは決して潔いとは思うまい。
そしてこの嘲笑という方法が90年代以後の大きな問題となる(つづく)

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とりわけインパクト

それら60年代から00年代にわたる約50年間で最大のインパクトとは何か。
「終末の発見」ではないかと思うがどうだろう。
詳細は刊本で。(つづく)

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ある視点

戦前に「新青年」を中心とした「探偵小説」エコールが成立した。
1960年代はアングラと「異端芸術」と澁澤・三島エコール、70年代はSFと戦前探偵小説復権と「幻想と怪奇」、80年代は現代思想とそれに覆い隠されたアニメオタク文化の成長期、+ホラー映画全盛、90年代以後はメンヘルとゴス、てとこかな(つづく)

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1980年代をどう考えるか

1970年代がサブカル本格始動の時期だとしたら、1980年代はニューアカとポストモダンの時代、と言われることが多いだろうけれども、現在の様子から振り返ってより重要なのは、70年代に芽を蒔かれ、ある程度成長したサブカル(主にアニメ)が、ジャンルの勃興期によくあるように蔑視・差別された時期といえるところではないか。
クールな現代思想と都会的ファッションとノリのよさ等々の「美しい都市生活」を誇示していた(ただし多くは「あまりできないけど誇示したいと思っていた」)層から一斉に嘲笑・軽蔑され「ああはなりたくない」と言われたのが「オタク」だった。
しかし90年代になるとポストモダンと80年代シティカルチャーは流行として魅力を失い、過去と変わらない熱意で支持され続けたアニメとオタクカルチャーが初めて主導権を得た、といったところが私の見る文化的年代記だ。では80年代は(つづく)

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リヴィングデッド

アンデッド、ウォーキングデッド、リヴィングデッド、と呼ばれているけれども「ゾンビ」というのが一番よく通じるのか。
本来の「ゾンビ」はブードゥー教の呪術師が使う「操られ死体」で、勝手に人を襲うというものではないけれども、そんなことはもうわかった上で、わかりやすく「ゾンビ」と呼んでいるわけだが。
「ゾンビ」の題名で日本公開された映画がジョージ・A・ロメロ監督の「ドーン・オブ・ザ・デッド」で、これが大人気だったのでイタリアのルチオ・フルチ監督があからさまな亜流作品を作って、本国では「ゾンビ2」として公開されたというが、日本での公開題名が「サンゲリア」。
これは実に優れた命名で、「サング」はイタリア語で「血」、「~ェリア」と語尾につくのは「~の人」という意味だから「サンゲリア」は「血の人」という意味、と当時のパンフレットに記されていた。
「惨劇」を印象して名付けた、という説もあるが、上記を信じたい。
むろん、その映画自体がホラー映画として優れていたことが、「ゾンビ映画史」に残る理由だが。
実に怖くて暗くて残酷で、理想的なホラー映画だったと今も思う。このへんが80年代の初め(つづく)

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1970年代の重要性

日本ミステリの歴史を見ていると、1950年代後半~60年代は主に社会派推理、1960年代末から70年代いっぱいが「新青年作家リバイバル」の時代となる。で80年代からが「新本格」の時代。
この通称「新本格」は70年代の新青年リバイバルがあってこそである、と、大学でこういう件を伝えるときには語っている。その一番大きな原動力はやはり桃源社の「大ロマンの復活」シリーズ、そして雑誌「幻影城」だ。加えて没後最初の『江戸川乱歩全集』が非常によく売れたこと。
だが1970年代はそれだけではない。小松左京の『日本沈没』がベストセラーとなって以後特に、日本SFの時代が始まる。
それと、SFほど売れはしなかったが、同時期、雑誌「幻想と怪奇」をはじめとして幻想文学・怪奇文学が一斉に翻訳紹介される。
さらに『ノストラダムスの大予言』が売れ、「終末」という概念が俗化する。これはフィクションに「世界の終わり」というヴィジョンを与え、のちにカルト宗教をも生む。
というように、1970年代はそれまでの「『戦後』意識から始まる、地に足のついたリアリズム」を転倒させた時代であったのだ。(つづく)

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著者の名のもとに

小説はもちろんだが、エッセイ集も基本的には「その作者だから」という理由で読まれることが多い。
ただ、経験を語るドキュメントの部分が大きい場合にはその事象への興味から読まれやすい。
むろんドキュメントそれ自体の場合でも作家性に惹かれて選ぶ読者はいるとはいえ、やはりそれはまず特定の知りたいことがあってだ。
その意味では、作家論とかの評論も、その評論家を読むというよりは、評論されている作家作品の解釈を求めて、つまりは好きな作家に近づく補助として読まれる場合は多い。
それはそれでよいのだが、そうした題目によって読まれている間はその著者を十全な「作家」とは言い難い。
自分として最も羨ましいのはどんな駄作でも駄文でも「その作家が書いたものは何でも読みたい」という読者を一定数以上獲得している作家である。
今回のエッセイ集も、70年代文化史とか、ほとんど誰も憶えていないだろう文献とか、一部作家へのストレートな評論でない言及とか、私を知らない人から見ても興味の対象となるようなところはいくつかあるので、そこから手に取ってもらえればよいのだが、できれば自分の書くもの自体に興味を満たれればうれしい、という気分で構成など考えたものである。(つづく)

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文芸評論ではなく

が、しかし、今回のエッセイ集は文芸評論的なことより、文学なら文学にかかわることからの記憶、が主になっているので、だからエッセイ集なのだ。
手にした本、中でもよく憶えてはいないが印象深かった貸本の記憶とか、あるいは妖怪、玩具、かわいいもの等々、また主に1970年代の文化状況的な記憶など。
すると、澁澤龍彦・中井英夫に関する記憶の記述が欠かせないことになり、それらは「失われた先達をもとめて」という章として真ん中より少し後あたりに置いた。内容は「中井家の方へ」「澁澤家の方へ」という二節でできている。
おわかりのとおり、「失われた時をもとめて」の最初のあたりを模しているわけである。
が、それはよいとして、このお二人についての記憶というのは私には宝のようなものだが、しかし、既にデビュー(というのが幻想文学新人賞受賞以後とするなら)して30年近く経った自分が、未だに先達の名のもとに「……の後継」というような(ただし、これは私が言いだしたのではない)言葉によってしか認知されないとしたらまことに情けないことでもあり、実際のところ確かに情けないのではあるが、とはいえ、ともかくも(私の文業をいくらか知る人から見れば)私にもいくつかはある見どころの中の、それはひとつであるとして、ただそこだけを強調しないよう、編集の方と相談はした。
最初、「澁澤家の方へ」を全体の末尾に持ってくるようにしては、という意見もあったが、そうすると上記のように、ただ澁澤・中井のネームバリューにすがって仕事をしているようなニュアンスばかりが強調されるので、それはやめ、中ほどに置くことで、「大切だが、それも記憶の中のひとつ」の意味をそれとなく示すことにした。
あと、これもいろいろ肯定も批判もあるだろうけれども、「文学的ゴシックの旗手」という語が編集側から提案されたので、帯文に使わせてもらうことにした。そうだな、これなら先駆者にぶら下がってばかり、という意味にはならない。
と、以上のように受け取ってもらえるかどうかはわからないが、私に対して、ありがたくも「澁澤・中井の後継としても可」と見てくださるみなさま、そして、「こやつごときが澁澤・中井に続くなどとは許せない。ききー」とお怒りのみなさま、まま、ここはそういうわけで、ただ淡々と記憶を語りたかっただけなのだ、ということをおわかりいただければ幸いです。(つづく)

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心から楽しみたい

今回のエッセイ集のテーマは文学に限らない。
が、文学への言及部分では澁澤龍彦・中井英夫のほかに稲垣足穂・折口信夫・三島由紀夫・江戸川乱歩が特に多く言及対象になっている。相変わらずである。
私としてはそれで十分だったのだが、「評論家」枠で仕事が来ていたときは、他の偉い評論家があんまり言及しない新刊本の書評ばかり依頼されて、そこには確かに目を見張る作品もごく少数あったが、しかしだいたい六割以上は残念な気がした。いろいろ好意的に読むことはできるが、それでも「なんか心からは面白くない」のである。そのうち私は下手な作品の取柄を見つけることがけっこううまくなった。
私が「評論家」を名乗るのをやめたのはそれからしばらくしてである。(つづく)

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三島由紀夫による名解説

1970年、中央公論社刊『日本の文学34 内田百閒・牧野信一・稲垣足穂』は巻末の解説を三島由紀夫が書いていて、この百閒と足穂に関しての解説が大変優れたものである、という話が今回のエッセイ集には書下ろしとして収録される。
この巻の少なくとも百閒と足穂に関しては三島自身が収録作品を決めたようである。
ところが牧野信一についての三島の解説はややおざなりで、どうも百閒・足穂には及ばない、できれば牧野は抜いて二人だけの巻にしたかった、と考えていたように私には思われる。
最近、機会あって牧野の「ゼーロン」を読み返してみたが、やはり好きにはなれない。好きでない以上に、この作品の方法には私としてはどうしても疑問と限界を感じてしまう。
ある種のアンチ澁澤・アンチ三島、そして「自己甘やかしの文学、ナルシシズムはいかん」と一喝したがる評者らは、牧野の惨憺たる道化ぶり(惨憺たるというのは語り手が懸命に道化ているのに読み手は笑えないから)を、自己愛からの脱却の方法として高く評価するらしいのだけれど、やっぱりあんまりうまくない芸を見せられているようで、そのイデオロギーとは別に、私にはただおもしろくなかった。こういう方向なら何より太宰治でしょう。
私は太宰もそんなには好きでないが、しかし、あの芸のうまさには感服する。そしてその芸は三島級に強烈な自己愛が磨かせたのであって、その歪さがよいのである。牧野にはまたまだそういう歪さの自覚が足りなかったのではと思う。
で、作家に対して「小さな自己を捨てよ、大人になれ」とか説教してもいいものはできないと思うのだった。(つづく)

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小説を書く

エッセイとか随筆だと体験と思いつきで一篇書き終えられるところ、小説、ということになると、随筆まがいでもかまわない、限りなく自由でよい、と言われるにしても、やっぱりフイクションなら「現実」(と自分が認知しているもの)に負けないフイクションでなければ書かれる意味がない、と考えてしまうためか、一回一回が勝負という気になる。
たとえ過去にいくらかよいと思える小説を書いたと自負していても、それと同じかそれ以上の作をなせるという保証がないので、書き続ける間もずっと崖っぷちにいる気分である。
こうして書かれる小説がうまくいっている場合、随筆より評価が高いのも当然のような気もするが、しかし、それでも、手間をかけた割には大しておもしろくない小説よりは、気楽に書かれてしかもおもしろい随筆の方がいいに決まっている。
苦労の量は問題でなく、要は成果である、というのはどこでも同じだ。
それでも自分は最終的に小説だな、とどこかで感じいて、それはフィクションを何かに導かれるように書き続けたときのある至福の記憶によるのだろうか、今ではそのモティベーションの意味もよくわからないが、随筆がそれでも自分の体験という「現実」の後にあるものという建前にあるのに対し、小説は、理想的には、現実の前にある、つまり自分が何か知らないことを創り出す、という、おそらく幻想によってだろう。幻想だとしても、それは消えることはない。
中井英夫があれほど小説に、特に「優れた小説を作ること」にこだわったのはこの幻想があってのことではないか。
澁澤龍彦は長らくエッセイストだったが最晩年、再び小説に志し始め、それがある程度以上の境地に達しかかるときに亡くなってしまったのは残念だ。だがそのコースと達成はとても望ましいと思う。
というわけで、澁澤道というのは、ここ数日書いてきたことを続けて読んでいただければおわかりだろう。正確には近く刊行される私のエッセイ集をお読みください。

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文人

以前、創元ライブラリ版『中井英夫全集』に「文人と幻想文学者の間」という評論を書いた。ここに「文人」の意味を示しているが、それは本文を読んでいただくとして、文人に最も似合う文学ジャンルというのがすなわち随筆である。
澁澤龍彦には随筆とエッセイとをやや異なるものとしている文があるがここでは特に区別しない。
中井英夫も随筆はうまかった。というか、もともと文章ならなんでも読ませる人だった。
そういう人が、無理やりに「洒落たオチ」や「物語のうまさ」にこだわってストーリーを書きあぐねていたのであれば、もっともっと、自由な随筆を多く残してくれればよかったと思う。特に晩年。
何よりも「作家」でありたければ小説を書き続けねばならないという強迫観念に近いものを持っていた人なのが残念である。
とはいえ、今も、「作家」でありたければ、代表的な小説をひとつならず、いくつも発表していることがその条件と考えられがちで、随筆だけだと「小説はまだですか」と言われたりもする(らしい。私にはそういう経験はないから)。
その考え方に必ずしも賛成するつもりはないが、ただ、どういう経緯であれ、記名の文章を世に問おうとする意志のある人なら「作家」とされていることは重要だ。そうでないと、書き手としての自主性が認められにくいからだ。
ということで澁澤道(つづく)

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事実の記述

批評は多くドキュメントと分類される。「作品」と思われていないということだ。
これがいやで、先行作品を素材に用いた創作、と考えるべきである。
のだが、ジャンル分けの決定勢力は大きくて、個人の異議申し立てでは変更できない。
ではエッセイはどうかというとやっぱりドキュメント枠なのだが、こちらは飽くまでも書き手主体というニュアンスが徹底しているので、とても楽だ。事実? ふーん。
ところで、澁澤道だが(つづく)

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澁澤道

連日ではないかもしないが、必要の際リンク先にできるようなことをぽつぽつ書いていきますわあ。

刊行予定のエッセイ集に「澁澤道」という言葉があってこれは既に「トーキングヘッズ」連載中にも用いていたから読んでおられた方は知っている。が、そもそもこの連載がそんなに読まれてないからおそらく今回の単行本で初めて知る方がほとんどだろう。
これまで私以外にこの語を考えた人はいないと思う。どんな意味かというと(後は次回)。

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