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ムーランルージュ

リアルタイム的コメント その5

(下の方の1から順にお読みください)

承前

著書としての『ゴシックハート』は「本格ゴシック評論」と銘打って
刊行していただいて、
この刊行のされ方には大変感謝しているのだが、ただ、
厳密には、私が真に評論と考えているものは
前著『無垢の力――〈少年〉表象文学論』だけで、
(その意味では『少女領域』も厳密な意味では評論的でないところが多い)
『ゴシックハート』はどちらかといえば怪奇や暗さと死に惹かれる意識の様相を
できるだけ冷静に記録してみたものというのが正しく、
そうした意識への真っ向からの批判は敢えて避けたので、その意味で、
自己相対化に富んだいわば「真の批評的な精神」は乏しいと言ってよいだろう。

跡上氏の用いる「ゴシックハート」だけを私の示したものとされることには
とりあえず反対しておくが、
ただし、『ゴシックハート』を読んでくださった方による見解として
このような批判がなされることに文句はない。
批判はこのようにして行うべきであるとも思う。

もうひとつ、「ゴシックハート」が既にひとつの一般名詞として
流通していることがありがたいような、こそばゆいような。

何より、私は、誰かが私の言葉に反応してくれるということが
嬉しくてならないので、
あてこすりめいたものや、著者名と書名を明確にしないまま行なわれる
卑怯な攻撃以外ならば、批判も歓迎する。
礼儀とルールを守る書き方ならばさらにありがたい。

特に今回の跡上氏による格式の高い批判は、
実のところ直接私へ向けてのものとは言えないが、
なんだかかゆいところを掻いてもらったような気さえする。

跡上氏は澁澤龍彦の研究家であり、かつセクシュアリティ問題に関しても、
さらには三島由紀夫に関しても詳しい学者の方である。
今後、期待して注目したい。


……もっと私を語って……

(この項終了)

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ヌンクァム

リアルタイム的コメント その4

承前

また、
私の記す「ゴシックハート」とは全体としての判断・意識の中の
より極端な志向だけをさしているので、もし跡上氏の用いたように
ただ死への魅惑、ただ厭世、ただ自己愛、ただ耽美だけに
我を忘れる意識が他を覆い隠してしまう、というのであれば
私としても、ともあれ批評的精神を意図する者として
やはりそれを肯定することはできないが、とはいえ、
私もまた、著書に記すとおり、ユーモアに欠けた脆弱な
意識の持ち主であることを隠すつもりもない。
特にbk1の著者による紹介などではあからさまに厭世と否定の意識を
記した。
それは、誰しもある局面では感じることのある生きづらさについて、
解決の見通しも加えず、いわば「かくあるべし」ではなく「ただかくある」
として提示したに過ぎず、倫理的に、あるいは生き方として
肯定されるものとは考えていない。
だからこそ「ゴシックハート」はどちらかと言えば悪者の意識に近い、
と後記にも書いた。悪者というのが正確でないなら「堕落者」でもよい。

(つづく)

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ルイ・フェルディナン・セリーヌ

リアルタイム的コメント その3

承前

ここで述べられているのは、ちょうど、
「マルクスには多くの未知の可能性があったが、
それを神格化するマルクス主義者はその可能性を排除し、
マルクスを読むこと本来の可能性を狭めてしまった」
というのと同じく、
澁澤龍彦の著作からはこの先も豊饒な意味と価値が見出されるはずだが、
澁澤崇拝からは貧しい成果しかありえない、
というものである。

私自身、かつて「別冊幻想文学 澁澤龍彦スペシャル」に掲載した
「澁澤=サドの遊戯作法」
という澁澤龍彦とサドをめぐる批評で、
澁澤晩年の境地の「かたくなでない自由」について記しており、
「澁澤といえば暗黒の貴公子」という短絡にはもともと批判的であるので、
その澁澤への態度はさほど跡上氏とも変わらない。
ただし、『ゴシックハート』にその態度は多く反映されておらず、
これを読んだ方が私もまた偏狭な澁澤主義者と感じるならば
それは仕方のないことだ。
だがここで跡上氏は私に対しての批判をしているというのではなく、
私が「ゴシックハート」と命名した意識を優先することへの批判、
と考えるのが正しい。

(つづく)

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ルイス・キャロル

リアルタイム的コメント その2

承前

ところで、今回、『ホラー・ジャパネスクの現在』に
跡上史郎氏による
「澁澤龍彦 死後の生――ゴシック/セクシャル・マイノリティ/サブカルチャー」
という澁澤龍彦について主に記した記事が掲載されているが、その中に
自著『ゴシックハート』について言及したところがあり、しかも小見出しには
「ゴシックハートと小さな三島由紀夫たち」「ゴシックハートを超えて」
とある。
この小見出しからもわかるとおり、
跡上氏は、私が「ゴシックハート」と呼んだ心性に対しては批判的である。
そして結論から言えば、その批判は、私から見ても正しい。

簡略に跡上氏の見解を紹介すると、
澁澤龍彦については、
暗黒・異端・そしてゴスの元締め、といったイメージで語られる部分と、
後年、当人自身がそうした重苦しいイメージに辟易しつつ提示した
軽妙な、あるいはユーモアに富んだ部分、という少なくとも二つの面があり、
その死後、澁澤に対する批評は後者の可能性を強調する方向で
進んだにもかかわらず、
現在、ゴシックと耽美を愛する読者からは相変わらず
「黒い貴公子」として崇拝されていることが多い。
むろん、こうした部分を全く見ないで澁澤を語るのは間違いであるし、
またこの部分あっての澁澤、そしてその人気でもあるのだが、
その硬直しがちな部分だけを見て陶酔し崇拝する、
自己相対化とユーモアに欠けた態度を跡上氏は「ゴシックハート」と呼んで否定し、その視線だけで澁澤を崇拝することを批判している。

(つづく)

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レーモン・ルーセル

今回はリアルタイムでのコメント(ちょとだけ嬉しいことあり)

その1

青弓社から「ナイトメア叢書」という叢書が創刊され、
その第1巻として『ホラー・ジャパネスクの現在』が
2005年11月23日、刊行された。
編者は一柳廣孝・吉田司雄。
執筆者から、私のいくらか知る人をあげると
平山夢明(インタビュー)、芳川泰久、稲生平太郎、
城殿智行、長山靖生、など。
一柳氏による巻頭の言葉にも明らかなとおり、この叢書は
「幻想文学」誌の創った幻想文学批評の歴史を引き継ぎ、
さらにより広い範囲と成果を期すものである。
この後も、「近代幻想文学史の再構築」「妖怪は繁殖する」
といった特集が予定されている。
志の高い企画を大いに歓迎したい。
またこの叢書が末永く継続することをお祈りする。

できれば私が連載を持つ新聞・雑誌等で紹介したいと考えています。

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