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ルイ・フェルディナン・セリーヌ

リアルタイム的コメント その3

承前

ここで述べられているのは、ちょうど、
「マルクスには多くの未知の可能性があったが、
それを神格化するマルクス主義者はその可能性を排除し、
マルクスを読むこと本来の可能性を狭めてしまった」
というのと同じく、
澁澤龍彦の著作からはこの先も豊饒な意味と価値が見出されるはずだが、
澁澤崇拝からは貧しい成果しかありえない、
というものである。

私自身、かつて「別冊幻想文学 澁澤龍彦スペシャル」に掲載した
「澁澤=サドの遊戯作法」
という澁澤龍彦とサドをめぐる批評で、
澁澤晩年の境地の「かたくなでない自由」について記しており、
「澁澤といえば暗黒の貴公子」という短絡にはもともと批判的であるので、
その澁澤への態度はさほど跡上氏とも変わらない。
ただし、『ゴシックハート』にその態度は多く反映されておらず、
これを読んだ方が私もまた偏狭な澁澤主義者と感じるならば
それは仕方のないことだ。
だがここで跡上氏は私に対しての批判をしているというのではなく、
私が「ゴシックハート」と命名した意識を優先することへの批判、
と考えるのが正しい。

(つづく)

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