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首 猛夫

『人造美女は可能か?』出版記念パーティに出席のさい、ある書店の方に何か案はないかと問われて「少年愛ブックフェア」と「リテラリー・ゴシック・フェア」の話をする。
実現するかどうかはわからない。

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ドリトル先生月へ行く

最近、ノイローゼという語を聞かない。神経症という言い方もあまり聞かなくなった。
代わりに鬱病、パニック障害、境界例、統合失調、解離性障害といった言い方で示されることが増えたみたい。
そこには軽度の場合も含まれるが、こういう用語だとそれがあきらかに障害であったり病気であったりすることが明確に示される。
聞いた側は「でもたいしたことない、気のせいだ」とはもう言えなくなっている。
振り返って二十年以上前、何か暗くしていたり辛そうにしていたり、行動がおかしかったりすると「そんなの神経だよ」といわれたりしたものだ。
「ノイローゼ」という言い方だと今でも「ただのノイローゼだろ」みたいな認識があって、鬱病とかパニック障害だとか言われないうちは相手も本気でそれを病気と思ってくれないような気がする。
「それはノイローゼ」多用時代はそう言われた人はとても悔しかったはずだ。風邪をひいて熱があれば「仕事休んでいいよ」と言われるのに心がやられているときは「気にするな」ではね。しかも本当にもっと大変なときも「たかがノイローゼ」みたいに言われるんじゃさ、本人が勝手に悩んでるみたいに思われてたですね。
それが今は別のもっと深刻な症例名を得て確かに「病気」と認知されケアされるようになったということかな。
そこから生じる問題もあるはずだがかつてより繊細な認識になっているとは言える。

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ジョージ・マクドナルド

以前「ダ・ヴィンチ」に掲載されたものですが怪談についての記憶としてここに再録します。初めて感銘を覚えた怪談本は? という問いへの回答です。昨日あげた本をもう少し詳しく記しています。

もっとも印象深かった怪談本

高原英理

 講談社刊『世界の名作怪奇館』第5巻日本編『まぼろしの雪女』(1970)は小泉八雲「雪女」「鳥取のふとんの話」「耳なし芳一の話」、芥川龍之介「妖婆」、岡本綺堂「西瓜」、上田秋成「蛇性の婬」、江戸川乱歩「鏡地獄」を収録。保永貞夫訳・解説。創作中心だがいずれも怪談と呼んでさしつかえあるまい。児童書なのでリライトではあるものの、後に原典にあたっても印象は変わらず二度楽しめた思いが強い。解説も挿し絵もよかった。特に綺堂の「西瓜」が、明白な因果によらない、といって全く偶然でもない、いわば捻じれの位置にあるような因果関係で怪異が起こる。本当に不思議で水際だっていて凡百の因果話を色褪せさせた。

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スキュデリー嬢

東雅夫氏がご自身のブログで、これからは「怪談文芸ムーブメント」を、と書いておられる。私にはそれがどれほどの流行なのかはわからないが発展することを祈ろう。

自分が怪談ということを意識したのは岡本綺堂の『青蛙堂鬼談』から。それと少年少女向けに講談社から出ていた怪奇小説傑作選みたいな本に載っていた綺堂の『西瓜』だな。これは今でも怪談の模範と思う。

えぐいホラーはヤっていう人は昔も今もいるが、怪談嫌いな人ってそんなにいないと思う。怖さより懐かしさに反応する人もいるし。

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ジュデックス

血液型でもの言うのもうやめようよ

血液型占いを信じるかどうか以前にたとえば日本では一番多いはずのA型の性格として
「堅実で几帳面で心配性で発想の飛躍がなくて大胆さがなくて予定通りが好きで堅苦しくて視野狭窄になりやすく信頼はできるが本人はいつも小さくまとまって不満そうな小物」
っていうようなキャラクター(確かにいるな、こういう人)をあてがわれて喜ぶ人の顔が見たい。
そういうつまんない役割を仕方なく全うしなければならないことがこの社会には多くて、見回せば日本にはA型が多いから、理由と結果を逆にしてA型は上のような性格って言い出した人がいるだけでは?
たとえば人は立場がよくなればなるほど約束の時間に遅れても許されるから、そうなるとルーズが常態になりますね。
つまり、社会的地位の高いA型はA型でない。

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イマージュ

ある日の師弟対談。弟子の許可を得て採録。

「師匠、ゴスプレで伺うべきですか?」

「弟子よ、ゴスはコスプレではありません。
ゴスは取り換え不可能な憧れであります。
よってプレイとはなりえない命懸けのものであります。
できれば真剣な心でゴスしてきてください」

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デイ・アフター・デイ

高根沢紀子編『現代女性作家読本⑦ 多和田葉子』(鼎書房)が刊行された。
大分前に原稿を送ったもので、今回は『三人関係』について記しています。
最近の私のやり方は「外部事情は一切関知せず、この作品だけから私が想像しうる〈作者〉というフィクションを仮定した上で、その意図と欲望・願望を考える」ということね。

ところで私は、「死ぬのではない、死を生きるのだ」とかいうように、実質的な意味を成立させない寝言みたいな批評が大嫌いだが、同時に、実際の作者の経歴や作品外の事実報告をそのままナイーブに作品の解釈の前提とする無自覚と無恥も強く嫌う。
かといって、どう見ても「作者の意図」らしいものが見える作品もあり、そういう場合、メタレヴェルでの方向性を作品に書かれている内容だけから考える、という批評の方法が私には面白い。

先ごろ書いてミネルヴァ書房へ送った川端康成の『みづうみ』の解説もこの態度だった。
以前「ユリイカ」に掲載された三島由紀夫の『豊饒の海』についての記述からこのやり方は始まっている。

こういうやり方が有効なものと有効でないものがあると思うが、機会があれば何度でも用いたい。
私はそんな、条件付きでの(つまりあるルールを固く重んじての)詮索のようなことが好きなのだなと思う。

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ルルイエの地で

夕暮れのたびに取り返しがつかない気持ちになった小学生の頃。

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きっと来る

容姿のよい、人気のある、頭のよい、才能のある、そんな少年たちだけのクラブがあると思っていた中学の頃。

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リーマンの素数公式

遥か大昔、浅田彰氏が「スキゾとパラノ」と言っていたころのこと。
同氏は「自分はどうしても親がサラリーマンの子たちとは合わなかった」という経験をもとに「自分はスキゾキッズで彼らはパラノイアだ、でもパラノイアにはもう未来がない」といった内容を語っていたことを思い出す。
でもさー、医者の息子であった浅田氏の言うそれって性格の差ではなくて、階級の差だったんじゃないの?
と言ってみるテスト。
左翼と自認する人は今は貴重だと思いますが、しかし左翼なら、階級差で説明のつくところを自分の資質(が選ばれているという自認)で説明するのはやめないと。
なんてことを20年も経ってから今更ですが、思います。

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あわもり

自分の態度についての指針

よくTVでの街頭アンケートやインタビューに答える素人の人が、何か意見らしいものを言った後、自分で「うん」と返答をしてるの。とか。
おばさんに多いのだが「わたしって……だからさぁ」などと言った後、自分で大笑いしてるの。
小説の地の文で「そう、それは」と語り手の一人合点の語である「そう」を冒頭に多用するの。
こういうことって自分ではしたくないと思うのですが、しかしね、いきなり街頭アンケートされたら「……なんだよ、うん」とか「私は……ですからね、わっはははは」とやってしまいそうで怖い。
文章での「そう、それは……なのだ」とかは控えてるけど。

ところで、マスコミに素人としてのかかわりは持ちたくないものですね。インタビューとかであれこれうるさく言ってくる映像系マスコミには中指を立てて見せれば放映はできないだろうから即あきらめるのでは?

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