見ず知らず
以下、今年、三省堂版高等学校国語教科書用指導書への掲載を要請され、許可した部分
濃厚にあるはずの内面の葛藤を、しかしできるだけ少なく表出することが小川洋子のひとつの方法である。その言葉はいつも「大騒ぎ」を拒絶している。
感情・表情を剥き出しにすることは自己主張の方法としては意味があるが、傍観者にその者を愛させるには圧倒的にマイナスだ。それがどれほど広くあてはまるかは知らないが、少なくとも私にとって、事実として悲しいことがあったとしても、過剰な言葉を発し、大声で悲しみをわめきたてる人には到底共感できない。
いや、たとえば報道にそうした映像が無用というのではない。物語として伝えるときの話だ。そこで主人公を可憐なものと感じさせたければできるだけ無言無表情、抑えた僅かなしぐさや慎しい一言二言によって悲しみを示すべきだと思う。そうしないと「ぼくはこんなに悲しいんだー」式の滑稽劇になる。滑稽の好きな人は大いに大袈裟な表現を心掛ければよいだろう。
むろん、さまざまに目立つ行為をして注目を集めることはときに生きる上で必要不可欠である。赤子が大声で泣くのはそうしないと放っておかれて死ぬかもしれないからだ。
そして成人した後も、たとえ見苦しいと感じられたとしても、自己アピールをしなければ認知されない場面は多い。
だが、むしろそれだからこそ、パセティックな方向性のある物語の主人公を実際にありがちな自己主張者とすることは嫌われる。われわれはそのとき、生活上で見る他者のそして自己の見苦しさに重ねてそれを厭うからだ。よくいるだろう、何かつらいことがあったとき、その件には関係もない周囲の人に延々と感情的な愚痴を聞かせる醜い人々が。静かな悲しみを描こうとするフィクションではあれが最も嫌われる。
そうした物語では不幸な者自身が自己説明してはならない。説明は脇役に受け持たせる必要がある。可哀想さが可憐さとなり、うるわしさとして受け取られるためには、当事者は自ら語る主体ではなく、他者によって語られる客体でなければならないからだ。
私はフィクション上での可憐なうるわしさの起源を「無垢への憧憬」と呼ぶ(『無垢の力 ――〈少年〉表象文学論』参照)。
「自分・ぼく・わたし」を感じさせない空虚な内面を持つ少年少女たちがその客体性ゆえに愛されてきた。そこでは、自我とその欲望をあらわにすることは醜いことなのだ。主体そのものも、そこではできるだけないほうがよい。無垢への憧憬にとって主体は汚れなのである。
小川洋子の小説にはしばしば身体的に損なわれた人、そして精神的に障害を持つ人々が登場する。私には、そうした能力の限定が、描かれる生の純度を増すためにあると思われる。
フィクションとしての生の純度を上げていった極限が「無垢」である。
「小川洋子の記憶」より
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