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手土産にいかがなるらむ

以前、「群像」に掲載された短いエッセイがあって、「桜の下に埋めたいもの」というテーマで書いてほしいという依頼によるものだった。
私を含め、三人くらいの作家が同じテーマで書くことになっていた。

もちろんそれは死体です、という展開は作家やってる執筆者なら教養として知った上で、かつ、恥かしかったこととか、あまり思い出したくないこととか、そういうふうなことを書くのがうっすら期待されていたみたい。

が、基本、自由なので、私は桜の木にまつわるフィクションが生成する場面を切り取ったような「思惑」という小文を書いた。

これは小説と言ってもよいが、飽くまでもエッセイとして始まりつつそこから離陸してゆくところをとらえてもいる。

8/30のソロトークでは「評論を書くことと小説を書くこと」という話もしますが、フィクションはどこから来るのか、というところにも触れたい。
たとえば、古井由吉が『私という白道』というエッセイで書いているように、出来る限り嘘を排除してゆくうちにどうしても混じりこんでしまう嘘、というようなぎりぎりの、語ることの必然として現れるフィクションといった話になるとおもしろいのですが。

ともかくその小さな実践として、また、小説の誕生の瞬間を伝えるものとして
8/30(土)、19:00~、パラボリカ・ビス(最寄駅・浅草橋)においでいただける方には、この「思惑」を印刷してお配りしたいと思います。

http://www.yaso-peyotl.com/archives/2008/08/parabolicabis_summer_events_1.html

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静けさの極まりて

さらに続ける8/30の話題の件

もうひとつ忘れていたテーマ

■澁澤龍彦・中井英夫・塚本邦雄・三島由紀夫・稲垣足穂、といった作家とどうつきあうか

これも語ってみたいと、最近あるきっかけから思った。
上の作家たちについては、とりわけその熱心な読者であることで何か特別な存在性を得られるかのように感じてしまう人がいる反面、いったん否定的になると今度はいかにも完全に無価値であることを声高に言いたがる、という人が今も絶えないように思います。
全肯定と全否定は何も考えていない点で同じですね。
「絶対」とか「完全に」という思い入れから発するものの言い方、あるいは「これからはこれだ」とか「こんなものもう終わっている」という時事的煽りのような言い方をまず用いないようにしたい。
たとえば澁澤なら澁澤の、古びたところと古びてないところ、あるいは優れたところと駄目なところ、といった具体的な長短を冷静に考えてみればよいだけのことだ。
また、これらの作家について語るときは、ともすれば「こんなにわかってるぜ、自分は」という自己顕示が目的となりやすいので、それを自らにさせないような視線も大切と考えています。

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果てもなし

8/30(土)19:00~、パラボリカ・ビスでお話しする予定のこと

■文芸批評の現在

■八〇年代の文学と文学以外の良かったこと悪かったこと

■今も続く(らしい)オタクとサブカルの微妙な対立をどう考えるか

■「差別の美」とゴスの現在

■幻想文学の良いところ悪いところ

■批評を書くことと小説を書くこと

飽くまでも現在考えている予定です。あとは今野裕一さんとのやりとり次第で、どのあたりが主となるかわかりません。
もしおいでいただける方で、これは聞きたいというテーマがありましたらその場でご遠慮なくおっしゃってください。
なお、当日はささやかながらお土産を用意しようと考えています。

http://heibonshatoday.blogspot.com/2008/08/blog-post_7031.html

http://www.yaso-peyotl.com/archives/2008/08/parabolicabis_summer_events_1.html

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水脈ひくは

8/11に記載の「八〇年代日本文学の幻影たち」(←この題名が正式のものとなりました)について

新書館の季刊誌「大航海」編集部から依頼あり、「八〇年代日本文学の幻影たち」を提出、9月刊行予定。

今、自分にとっていちばん優先されるのはフィクションですが、と告げた上で引き受けたのだが、ほとんど苦痛なく書けたのはすべて記憶だけによって書いたからで、それは、私にとって、何か書くことが、自分の記憶から発すること、つまり、身になっていることを細密に語りなおすという意味だからだ。
逆に私が今一番苦痛なのは「これから読んで感想を言う約束」だ。
身になっていないものについて知ったふりをするのがつらくてならない。
既に読んでしまって、記憶としてどこかに場所があるものについてならたとえほんの片手間でもきわめて整理された言葉に出来る。
それは自分の世界に組み込まれているからだ。
私にとって過去は喜びの源泉だが未来は常に恐ろしい。
しかし具体的でない期待は常に未来にある。
未来を具体化することはすべてを劣化させることだ。
気がつかないまま、来てしまっている未来を現在と言い過去と言う。
それらはとても親しい。
意識して待つ未来はいつも恐ろしくて、また待つことが苛立たしい。

私は村上龍の『コインロッカー・ベイビーズ』があんまり好きでなくて、村上春樹の80年代ころの作品は好きで、ほかに池澤夏樹、日野啓三、山本昌代、増田みず子、大原まり子、松浦理英子、山口雅也、中森明夫、澁澤龍彦、中井英夫、古井由吉、柄谷行人、穂村弘、らの当時発表作を80年代の粋としています。
田中康夫、高橋源一郎、島田雅彦、よしもとばなな、山田詠美、といった80年代スタンダードも皆だいたい一作以上は読んだことがあるから言及対象。中上健次は『枯木灘』が80年代以前の作なので名前だけ登場。
それと「現代思想エコール」のこと、あと、当時の稲垣足穂リバイバルのこと、ルーセル『ロクス・ソルス』、ガスカール『箱舟』、レイモ『夜の魂』の翻訳が当時刊行されたこと、これは実はいくつかの国内新作作品よりも重要なことだったと思う、とか。

自分が読んだことのあるものについてしか書きませんがいいですか? という問いにOKがきたので、こんなところです。

あとみなさん、80年代と言うとき、1981年から1990年までなの、知ってました? 1980年はまだ70年代なんですって。

「八〇年代日本文学の幻影たち」での言及作品リスト、ほぼ言及順

柄谷行人『日本近代文学の起源』(八〇)
田中康夫『なんとなく、クリスタル』(八〇)
高橋源一郎『さようなら、ギャングたち』(八一)
村上春樹『羊をめぐる冒険』(八二)村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(八五)『ノルウェイの森』(八七)『ダンス・ダンス・ダンス』(八八)
島田雅彦『優しいサヨクのための嬉遊曲』(八三)
澁澤龍彦『唐草物語』(八一)『ねむり姫』(八三)『うつろ舟』(八六)『高丘親王航海記』(八七)
中井英夫『とらんぷ譚』(八〇)『金と泥の日々』(八四)
古井由吉『山躁賦』(八二)『仮往生伝試文』(八九)
笙野頼子『虚空人魚』(九〇)
池澤夏樹『スティル・ライフ』(八八)『帰ってきた男』(九〇)『真昼のプリニウス』(八九)
日野啓三『天窓のあるガレージ』(八二)『ふしぎな球』(八二)『階段のある空』(八三)『夢を走る』(八四)『砂の町』(八四)『石の花』(八四)『星の流れが聞こえるとき』(八四)
レーモン・ルーセル『ロクス・ソルス』(岡谷公二訳、八七)
ピエール・ガスカール『箱舟』(有田忠郎訳、八七)
チェット・レイモ『夜の魂』(山下知生訳、八八)
長野まゆみ『少年アリス』(八八)『野ばら』(九〇)
村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』(八〇)
前田愛『都市空間のなかの文学』(八二)
松山巌『乱歩と東京』(八四)
綾辻行人『水車館の殺人』(八八)
山口雅也『生ける屍の死』(八九)
いとうせいこう『ノーライフキング』(八八)
中森明夫『オシャレ泥棒』(八八)
よしもとばなな『キッチン』(八七)『TUGUMI』(八九)
大原まり子『ハイブリッド・チャイルド』(九〇)
川崎賢子『少女日和』(九〇)
山田詠美『ベッドタイムアイズ』(八五)
山本昌代『応為坦々録』(八四)『逆髪』(八五)『江戸役者異聞』(八六)『デンデラ野』(八六)
増田みず子『シングル・セル』(八六)
松浦理英子『ナチュラル・ウーマン』(八七)
穂村弘『シンジケート』(九〇)

「八〇年代は八一~九〇年と考える」としてのリスト、ただし八〇年発表のものも重要と思う作は入れました。

これまでに読んだものだけに限定したので、見落としはたくさんありますが、ある程度は網羅してんじゃないかな。

8/30では、まだこれ刊行前ですが、当日、80年代の日本文学についてもいくらか触れたいと思っています。

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夜を深み

当ブログ8月11日の記述にある『ミネルヴァ評論叢書〈文学の在り処〉別巻3 名作は隠れている』について。

これは批評の競作集で、著名作家の作品の中、従来それほどは知られていなかったがある点で興味深い作品、あるいは謎めいた作とされてきたものや新たに見いだされた謎のあるものを探りつつ読む、というちょっと面白い試み。
以前からここでは「ミネルヴァ評論叢書〈文学の在り処〉」というシリーズの刊行が続いていて、中に「別巻」が全4巻として予定され、その第3巻がこれ。
「名作はこうして始まる」1・2、というのが第1巻・第2巻として既刊。第4巻の予定は確か「名作はこうして終わる」。
この第3巻に、川端康成の「みずうみ」についての「謎を探る」という趣旨で評論を書きました。

実はこの評論は2006年に依頼されてその年の夏、締切どおりに提出したが、事情で2年以上刊行が遅れていたもの。
このたびようやくゲラが来ましたので秋には刊行される様子です。

思えば、テクストを複数回熟読して、参考文献をすべて読み、その上でいくつかメモを取り、なにがしかを記してゆくという、本当の意味での批評行為はこのときが最後となった。
それはそれなりに面白いのだが、短い原稿ひとつのために数週間は他のことができず、またそこまで力を入れるようなモチベーションが今は既にないので、こうした緻密な評論はもうやることはないでしょう。
過去の未刊の評論がこの先刊行されるような場合を別にすると、この仕事が私の批評への別れとなるものです。
この仕事より後では、厳密な照合から始めることはせず、原則として既にある記憶に頼るだけで、たとえそれが著しく批評的なものであっても、私の基準からすれば「エッセイ」しか書いていないことになります。

それにしても、評論という営みは上記のように手間と時間ばかりかかって、いかによいものが書けたと思っても、小説と比べればなかなか得られるものが少ない。しかも私の場合、一般の文芸評論家がめざすような仕事はしておらず、また他の多くの評論家たちの興味に沿うようなテーマについて書くこともなかったため孤立していて、評価の機会も少なかった。
にもかかわらず、こうした仕事を私は十二年ほども続けてきたことになるのだが、どうしてだろう、その時期、私は評論を書かないではいられなかったようだ。
今ではほぼその必要も減じていて再び小説の方が優先されることになったので、この先は特に依頼され引き受けた場合以外、自分から新たに評論を書くことはもうないと思う。
もともとは小説家であろうとしていた私がどうして一時期、評論ばかり書こうとしたのか、最近、いくらか気づいたことがあるので8/30にお話します。
私一人の問題ではなく、批評を行うあらゆる人に少しずつあてはまることではないかと思います。
8/30にはゴスの話も幻想文学の話もするでしょうけれども、何よりこうした「なぜ書く」ということを中心に考えてみたいものです。

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永らへよ

ここはしばらく、公刊される記事とイベントについての補足を記す場とします。

まず
アトリエサード刊 トーキングヘッズ叢書
TH No.35「変性男子~HENSEI☆DANSHI」発売中

http://atelierthird.jugem.jp/?eid=54

「下降する美童たち」という題で折口信夫と山崎俊夫のことを書いています。
これを依頼されたときは「特集・美童」あるいは「美童・変成男子」と聞いていたが、最終的に「変性男子」となった。
「変成男子(へんじょうなんし)」というのは、行い正しい女性が生まれ変わって男性になるという和製仏教の教えからきたものですが、「変性男子(へんせいだんし)」はこの特集で新たに用いた語のようで、女子が生まれ変わったような男子、という意味も許容しつつ、基本的には女性的なものを自らに望む男性、といった意味が大きいようですね。あとは本誌をどうぞ。少女系人形とともに綺麗な女装男子の写真もあります。

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匂う華かな

夏以後の刊行予定

以下にこんなのが掲載されます。 のメモ

■1■アトリエサード 「トーキングヘッズ叢書35 変性男子」 既刊
  「下降する美童たち」

■2■新書館 「大航海 特集八〇年代」 9月刊
  「八〇年代日本文学の幻影」

■3■文藝春秋 「文學界」10月号 9月刊
  「グレー・グレー」 ← これは小説

■4■ミネルヴァ書房
『ミネルヴァ評論叢書〈文学の在り処〉別巻3 名作は隠れている』  10月頃刊行予定
  「川端康成の『みずうみ』について」 

なお、8/30のパラボリカ・ビスでは『月光果樹園』についての話が主ですが、上の各記事についても触れる予定です。

http://www.yaso-peyotl.com/archives/2008/08/parabolicabis_summer_events_1.html

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きみゆえに

しばらくお休みいたしました。
まずはお知らせ申しあげます。

http://www.yaso-peyotl.com/archives/2008/08/parabolicabis_summer_events_1.html

8/30(土)のとこね。

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