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庭には二羽

「うずら」という名
なんかかわいいと思います。

それと、ヤマネは俗称「まりねずみ」とも言うそうです。
「まりねずみ」 ……想像すると、……くっ。

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野は風に

いつか見た映画だったか、とても見栄えのしない女性が非常に理不尽な目に遭って
「ひどいわー」
と泣いている場面。
当人に非もない不幸で、大変に気の毒なのだが、そのみすぼらしさから、この女性がその物語の中では端役もしくは引き立て役であることを見る側がなんとなくわかっている、だから、そのひどい理不尽に見合うような望ましい解決など彼女には与えられないこともわかっている。

日常で見かける不幸ってこんな感じのものがとても多いように思う。

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夜たけなはの

「デトロイト・メタル・シティ」

スーパーいいっすね。

ところで、今も「オシャレ系」ってあるの? で、やっぱりオザケンとカヒミ・カリィなの?

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黎明かとよ

たまーにこんなこと書いてみようかなの話。

なんか人死に事件があったとき、
「死んだのが貧乏人だったからよかったものの、経団連の人だったりしたら大変なことになるところだった」
ていう発言、そろそろ、しましょうよ、もうじき首相になる(だろう)人。

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懐かしあはれ

以前、飯田有子さんという歌人の方の『林檎貫通式』という歌集について何かコメントして、と言われてネット上に書いたものがあって、今見てもあまり間違ってはいないと思われたので、ここにまとめて再掲してみます。
もとは四分割されていたものですが、ひとまとまりとして読める形としています。
なお万一、これが何かの本に収録されるときは削除します。

ともかく、今回の趣旨は飯田有子さんの歌がイイ、ということでまあひとつ。
まずは引用歌をご鑑賞ください。

以下本文

【1】 『少女領域』の著者から

 もし飯田有子を、自著に取り上げた作家になぞらえるなら、尾崎翠と思う。なお、自著ではいずれの作家も自由と高慢をともに求める少女型意識の表出者としているが、その希求の形が自尊的求道をとるか解放のヴィジョンに向かうかで一応の分割ができる。野溝七生子・森茉莉・倉橋由美子らは高慢系、尾崎翠・大原まり子は自由系である。
 私としては、少女という語について、それを本質とも原理とも語りたくない。まして「少女性」というものが実体としてあるわけではない。それは歴史的な役割・型のひとつであり、子供という区分が異なる近代以前には現在考えられるような形では存在しなかった。しかも表現される場合それはただ意識の形態として便宜上存在するものである。つまり、男性も成人女性も含めたすべての人が可能態として常にとりうる意識の自由として「表現される少女」はある。定義するならそれは今あることへの抵抗を示すことによる自由への希求である。よって、実際の少女自身を語る場合においてそれはむしろ「少女」という役割への抵抗として表れる。

■1 わたくしは少女ではなく土踏まずもたない夏の皇帝だった

■2 婦人用トイレ表示がきらいきらいあたしはケンカ強い強い

 上記の歌がいずれも少女であることへの抵抗として書かれていることによって紛れもなく少女という意識を記していることに注目せよ。
 その場合、飯田は、野溝や森のように序列構築的に自尊を誇示することがなく、確かに強烈な自尊の意識はありながらも、それを主義や主張で語ることはない。むしろ尾崎がそうであったように、気弱さと小ささへの親和とともに、偉い/偉くない、強い/強くない、という区別の裏をかくように序列を忘却し、遠近法そのものをほころびさせるような態度を示す。2では「あたしはケンカ強い強い」と言いつつ、それは真に暴力的な強さに共感を示さないために記されていることに気付かねばならない。

【2】 嫌悪の共同体

■3 球体にうずまる川面いやでしょう流れっぱなしよいやでしょう

■4 さてごはんにかけたらいやなものの第一位はdrrrr除光液でした

 飯田に顕著な手法のひとつは、ある種の「嫌悪の共同体」を現出させる点にある。むろんそれは「ここにあることの居心地の悪さ」を動機としているが、歌一首を読む時間しか持続せず、決して永続と固定を予感させるようなものでない、いわばたまゆらのイリュージョンである。しかしそれを共感した者は、その短い間だけ、ある想像の共同体に参加している。そのとき「いやだ」と思う意識は遠からず「この世界の不条理」をも感じ取るだろう、ただし、飯田はここでも、その嫌悪を語ることの快さと速度において、教条的な言葉への抵抗を示している。「もともとこの世界というのは嫌なものなのだ」といった安易で愚鈍な重力を発生させないうちに、素早く嫌悪感を伝え終えることが飯田の手法のめざすところである。

【3】 エクリチュール・フェミニン

「エクリチュール・フェミニン」とは、ジュリア・クリステヴァ、リュス・イリガライ、エレーヌ・シクスーらが提唱する、「男性の支配する権力としての言葉」によらない書き方、を言うそうだが、それがいかなるものかはなかなか正確には示されない。そもそも「客観」という「男性」たちの歴史的規範に沿った「正確」を否定するものでもある。具体的にはモニク・ウィティッグやジャン・ジュネなどの散文が例示され、ジュネをみればわかるようにそれは作者の性別に関係がない。一応めやすとなるものは西洋近代・男性的とされる論理によらないこと、西洋近代的主体を信じないこと、意味に従属しないこと、二項対立的価値に収束しないこと、ニュアンスを重視すること、など。
 短歌においてエクリチュール・フェミニンへの可能性を考えうる要素としては「調べ」と言われるものがあたるのではないかと思う。それは意味と論理でなく語調で人を魅惑し説得する。
 また大辻隆弘氏が言われるように、おそらくその要諦は自立語ではなく付属語にある。意味伝達的な自立語ではなく、語の関係を示すのみの付属語が魅惑の根拠となっている歌が『林檎貫通式』にもある。

■5 生ごみくさい朝のすずらん通りですわれわれは双子ではありませんのです

 ここから自立語のみを取り並べてみる。ただし、否定は意味的に重要なので「ない」だけは加える。

 生ごみくさい・朝・すずらん通り・われわれ・双子・ない

 意味はこれで理解可能である。ミニマムの散文として言い換えると「生ごみくさい朝のすずらん通りだ。われわれは双子でない。」
 しかしこれは、引用歌ほどにはわれわれを魅惑しない。
 ならば5の歌の魅力は「です」の並列と「ありませんのです」というやや例外的な語調、そして「では」の部分に加えられた副助詞「は」によっていることになる。それらはすべて助詞・助動詞であり、これが並列・脚韻という形式感を確保した上で「……では……ませんのです」という言い方の異例さの突出によって、形式的に伝達される意味以上の何かがあるという予感を伝える身振りとなっていると思われる。その予感を与えられて後、読み手は、双子でないとわざわざ言わねばならない関係と、おそらく夏であろう、ごみの臭いの漂う暑い朝の商店街の徘徊の意味とを詮索することとなる。

【4】 僅かに先の、しかし絶対的な未来

「飯田有子はセンスがよい」と言ってみるとして、「センスのよさ」は定義可能だろうか。私の考えでは、それは現在という意識の実存も含めたあらゆる過去の勢力からの逃走の姿勢として示される。必然的に、ある「モード」に敏感となるが、ただし、「流行を追う」のでは決してなく、「未だ見ぬ流行」に魅惑されるものだ。それゆえ取り違えと失敗も多い筈だが、しかし、失敗しても、それが失敗とわかるのは実質的には本人だけである。
「センスのよい人」において、本当の満足はない。その幻の満足はごくごく僅かに先の、しかし絶対的に今と隔たった未来にのみあるからである。飯田にとってはしかしその隔たりこそがありうべき永遠と感知され、強烈に憧憬されるのではないのか。

■6 新発売のファンタのげっぷしつつみな人工呼吸にあこがれている

■7 北半球じゅうの猫の目いっせいに細められたら春のはじまり

以上です。

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知るは華

以前、私をよく知るある人が言った、

「出版業界に全然後ろ盾がないだけでなく、まるで人望もなく、特殊技能も専門知識もない者が、それでもこんなに本出しているというのは、お前はよっぽど運がいいのだな」

という言葉、しみじみと納得です。 はい私は運だけでここまできました。

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極めよかし

あまり言葉のかけたさに あれ見さいなう 空行く雲の早さよ
『閑吟集』

文学っていつもこういう感じだと思う。

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名も高き

そしてこれだ。

http://blog.bk1.jp/genyo/archives/2008/09/post_1424.php

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求道かな

「片腕マシンガール」(映画・井口昇監督作品)

いいっすね。応援します。東京では本日までの上映。

自分の場合、子ネコとかのかわいいの見たときと、残酷シーンへの反応ポイントが近い気がする。

次は「東京残酷警察」だ。

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桃揺らぐ

批評の三態(試案。ほかにもあるかな)

(1) 歴史にそれを書き残すという誇りと責任のもとに書かれた批評。
 これは文学の歴史に真の正統があるという確信を持てた時代に、批評家がその正統を決定する神聖な仕事として胸を張って行なった批評。今はないと思う。

(2) 作家のための、作家がよい作品を書くことだけを願って書かれる批評。
 ひたすらな愛による批評。今も存在しているが、現在、この貴重な批評行為は「批評家」のものではなく「書評家」のものになりつつあるのではないかと思えることがある。

(3) 自分にとって本質的なものを探すための批評
 書き手にとって一番必要なものが何か見極めることが批評として行われる場合。
 文学史のためでもなく作家のためでもない。
 よく本を読む人でも、自分がその作品の見せる何かのようにありたいことと、自分にとって本質的であることはなかなかすぐには見分けがつきにくい。それが好きであることも、その何かに強く憧れることも事実だが、しかし、批評するうち、どうしてもこれだけはと思えるものに気づくときがある。何度も読み、構造を知ると、その魅力も失せてしまう作品がある。それは当人にとって本質的でないものだったのだ。一方、華やかさや憧れに促されるのでなく、好ましくあり続ける作品がある。そこでようやく本質的なものが見える。これはいわば、自分に似合わない思想や憧れを捨てる修業の軌跡と言える。

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遥かにも

「文學界」にわたしてあった50枚ほどの小説が10月号に掲載されることとなりました。
9月初めに出ます。
題名は「グレー・グレー」
「ゴシックストーリーズ」第一作ということになります。
ただし掲載予定の小説はゴスなシチュエーションだけど恐怖でも怪奇でもない、デスペラート・リリカルな物語です。
それと飽くまでも純文です。
ちょっと『うさと私』ダーク版という感じ。

どうかご記憶ください。
ひとまず予告。

まあこれが現在の私のいけるとこまでいったものってとこですかね。
きっとたいていの人は読めば好きになれるよ。
立ち読みでもいいから読んでみてね。

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無比なるは

8/30、悪天候にもかかわらず予想を上まわって多くの方においでいただき、まことにありがとうございました。
十分にお話しできなかった部分はごめんなさい。不足のところはこの先も機会あるごとに補ってゆくつもりです。

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