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頭も高き

昨日は早稲田大学で批評祭りでしたが、いずれ記録が「早稲田文学」に掲載されるというし、ネット上にもさまざまなレポートが出るだろうから内容報告は他の方に任せます。

やはり事実として文芸批評というものが特別のジャンルとして歓迎されたのは80年代くらいだけで、それ以前も以後もほぼ、文芸誌のための下仕事のようなものだ的状況であることを再確認した。
だから自分のメディアを持たないと自由な批評なんてできないんだよ。

書評・レビューの話になるときわめて実務的なわかりやすさになる。

文芸評論家としての渡部直巳と福田和也の話はそれぞれに誠実であるとしても、どこかで文学史への強い信仰がある。
それは「批評は小説よりも高級である」という福田の言葉に最もよく表される。
なぜ批評は小説より高級と言うかといえば、それがもともと稗史たる小説を文学史という正史に組織しなおす契機を隠し持っている、と暗黙の内に確信されているからだ。
つまり、以前、私が、もう今はないと告げた種類の批評家のメンタリティがこの二人の中には歴然として存在する。

ところで私がここで最も切実なものとして聞いたのは池田雄一の
「もっとゆっくり話せる場でやろうよ」
という意味の発言でした。
東浩紀をはじめとする早口の人たちの間で、これは耳を傾けるべき言葉じゃないのかな。

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山なす心果てるもあらず

本日、早稲田大学で「十時間連続公開シンポジウム 文芸批評と小説あるいはメディアの現在から未来をめぐって」開催ですね。

http://d.hatena.ne.jp/wasebun/20081008/p1

振り返ってみると、自分は小説から始め、次に詩を書いたという変な順序で、その後、批評をやった。
そして今また小説というのも自分の意識の生理のようなものに従った結果です。

フィクションを書くことにおいてさえ、というよりフィクションを書くからこそどうも自由になれない、という状態を脱するためにすべてをあからさまにしてみようとした行為が自分の批評だった今思えば。ということでいくらかやれることとやっても意味のないこととが知れてきたので再びフィクションにかかわろうと決めている。 とても遅い歩み。
だから自分にとって批評とは文学上の修業なのだ、と『月光果樹園』の後書きに書いたのは誇張でない。
この先も、なんかうまくいってないな自分、どうしてだろう、と考えるときにはいつも批評に立ち戻るだろう。けれども、それはもう依頼されて行なうものではない。
さいわい、同期にデビューした批評家の人々と比べると私は破格に多くの著書を持つことができた。それなりに読者は獲得できていると言っていいのかどうか。
たとえば「俺の書いたものは全部排泄物だ」と露悪的に言う作家やアーティストの示すような意味で、私が自分の必要のために書いた批評が、他者に何らかの別の意味の価値として受容されているのならいいが。
なににせよ、必要とされるのはありがたいことです。

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淋漓たるや

厭なものばかりあげてないで、今日は最近見て、なんか目新しくていいなと思った表現(というより表記)

オヌヌメ

「マーラーの5番の演奏でオヌヌメは?」みたいにして使われているのをネットで見た。
一見「オススメ」とかわらない字ずらなのに発音すると「ス」のさっぱり感が全部消えて、ヌルヌルとかに通じるキレの悪い粘着感が語感を逆転させていておもしろかった。

これは新聞雑誌で不特定多数が使い倒す、というようなこともないだろうし。

そういえば、昨日・一昨日のやんなっちゃうな感は、「不特定多数がやたら無反省に使う」という要因も腹立つ感じを増していた。

それと、私は「察してもらう」ことを前提にするもってまわった言い方が嫌い。
「呆れてものも言えない」みたいなの。
何かに強く憤慨したとき、それへの的確な批判の努力(面倒だから)をせず、「自分はこんな態度を示していますよ、これはそのことに怒っているんですよ、そこわかってね」という意図で、読み手に憤慨の度だけ共感してもらおうという態度がとにかく厭。
その何かが気に入らないなら思わせぶりとかしてないで「わたしは厭だ」「わたしは怒っている」と意見をはっきり言え。

あ また厭系の語の話にもどっちゃった。

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劣勢なりとも明日があり

下に続けて

でも結局、使い方てとこもあって、「ひよこのしっぽが見え隠れ」ならラブリーでいいんだけど。
「思惑が見え隠れ」とかいう言い方、聞き飽きてうんざりだよ。「結論ありき」もさ。
あと「ガラガラポン」も一時よく使われててやだった。
それと、なんか肥満関係の話があるとすぐ「メタボ」をつけるのも厭。
ところで以前(といっても今年のこと)TVで、ある、やや年配の世間慣れしてなさそうな女優だったか女性タレントだったか、が、「ルンルン気分で」と言っていて、なるほどこの人の中では時間が経過していないのだなと思ったりもした。
でもやっぱり今、まだ「ルンルン」は使いたくないな。あと数十年してもう一度耳に新しくならないと。

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ものものしげに告ぐなかれ

昔、フローベールが『紋切り型辞典』ての書いた(んだったかなー?)のに近い発想で、
でももっと肌合い的な、レトリックのレベルでの、もう、いつもこれ見るとやんなっちゃうなー的表現を連続してあげてゆく、というの。
その言い方に現れる「俗への媚び」「考えのなさ」に敵意を持つ人にはなかなかいい仕事ではないかという思いつき。

古くは「独断と偏見で」とか、「私の毒書法」とか、「『非』常識のススメ」(これ、自分だけは常識的でないと思ってるのと、言ってることが結局ぬるい体制順応案だとかもコミだけど)とかねー、新聞雑誌で「……が見え隠れ」とか「…ありき」とかさ、

その列挙を自分でやれと言われると思いつきだけに根気ないんだけどさ。

『現代日本あーあ、やっちゃった表現辞典』

誰かやんないっすか。 

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檸檬爆発するとても

続けて映画の「おろち」を見た。

難はあるかもしれないんだけどこれだけ原作をリスペクトした映画化はあまりなかったと思う。
まっすぐで真剣で、どっかで「なんちゃって」が入るような姿勢※では作ってない。

ので応援します。

ただ、私としては「血」と「姉妹」をない交ぜにする必要は感じない。
でもなんとか原作の不自然さをリアリズムに近づけつつ、かつゴシックロマンスの味わいはなくしていないのがイイ。
途中、少しだけ「洗礼」の香りも混ざる。

最初期の映像化作品「蛇娘と白髪魔」なんかも悪くはないんだが、こけおどしの「お化け映画」(という当時の「子供向け」的位置づけ)として作られていること、それと、たとえ異常なシチュエーションを前提としていたとしても、やはり現実問題としてこうした行為や結果はありえない、の連続のため、どうしても本当の意味でのシリアスさに欠けてしまうこと、とか、楳図かずお作品の映画化はたいへん難しい。
それをよくやったと思う。
ちょっと背景とか舞台のシチュエーションなんかが韓国ホラーの「箪笥」にも似ている。
少女趣味と怪奇は昔からとても相性がいいですね。

※ ここのところ、最初、「B級の意識」と書いていて、過ちなので変更した。
「B級映画」という場合、「二流」という意味でないことはわきまえていたつもりだが、なんとなく「B級」を劣るような言い方にしたので間違い。ごめんなさい。また一方で「なんちゃって」のところがよさになる場合もあるし、私自身B級映画は好きなのだし、以後注意したい。

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よろしく過激たれ

「東京残酷警察」の検索でおいでの方がいらっしゃるらしいのでもう少し調子に乗って

犬女カコイイ
2パワード「血だるま剣法」だね。
ラスト近いワンシーンを見ると、もし続編が作られるとしたらヒロインの相棒になる?
それも歓迎。
板尾さんもイイ味と思います。これもラストのところが好き。
「片腕マシンガール」もそうだったが、戦闘美少女は世界に冠たる日本文化だ。
そこによりエスカレートした寄る辺なさと無残を強調することが今後の発展の指針と思います。
ところで、最近は映画ですら、内的独白とすべきところを無理に対話や独り言の台詞として口に出して説明させるバカ脚本がありますが、「東京残酷警察」にはそういったところはなくて、スタイリッシュでした。
戦闘美少女は寡黙であれ。

応援します。

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薔薇窓よ

「東京残酷警察」を見る。

一部、腰が抜けそうな「おい!」のところはあったものの、やっぱり応援します。

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栄えあらば

『ゴシックスピリット』を執筆中、最も意識させられたのは、たとえば聖なるものと邪悪の対立といった、ゴシックの世界を支える大きなテーマより、そうした世界観のもと常に栄光と悲惨の極端な乖離を夢見てしまう、我々自身のどうしようもない差別好きということだった。いや、ゴスを望む人が差別主義者だというのではない。ゴスに心傾ける人々はむしろ損なわれ差別される側の意識の方に肩入れし易いように思う。ただその人々の思い描く、非現実的な物語の成立条件として差別的状況が好んで用いられるという意味である。

「差別の美的な配備」冒頭

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世の終はれるときまでは

「yaso 夜想 特集ヴィクトリアン」(ステュディオ・パラボリカ刊)発売中

「差別の美的な配備」という文をうしろの方に掲載。
『ゴシックハート』『ゴシックスピリット』の後の展開をお読みになりたい方へ。
以前「トーキングヘッズ叢書 ネオ・ゴシック・ヴィジョン」の鼎談のさい少し触れたことをより広く詳細に記した。

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わごりょもよ

詩集という本も詩という情報も売買できるが詩は売買できない。

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