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つつがなく

「K-20 怪人二十面相・伝」、すごイイ! 
今年最後に最高のものを観た。

明るいCASSHERNてとこですね。
もともと北村想の原作もいいんだがそれを相当変えた脚本がまたうまい。
と思うと脚本も佐藤嗣麻子監督がやっていた。
若干「ダークナイト」的な面もあるし、飛び出すワイヤーはバットマンとほぼ同じだ。
それと宮崎アニメの趣がけっこうあるね。松たか子から「おじさま、わたしも泥棒になります」ってな台詞が出るかと思った(そのままはなかったけど)。

さてそのシチュエーションが「CASSHERN」の親戚なんだが、それも含め、今年「夜想」ヴィクトリアン特集に書いた「差別の美的配備」のままだ。
といって、言い当てているぞとか理論化してるぞとかはどうでもよくて、やっぱり現在、自分の心に忠実に高度な物語を実行しようとすれば格差・階級の無残さの強調、という方法だと思っていたところに、高度なクリエイターと通じるものがあって嬉しいというのです。
近く出来上がるだろう自分の乱歩的物語はそのところを存分に生かしていることでもあるし、いつか佐藤嗣麻子監督とともに仕事ができればいいのにと空想した。
おっと、そこで笑った君、ともかく下手でも作品を作って出さなければ嘲笑うだけでは未来がないよ。
今がどうでも志は高く、だ。

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凛とありつつ

質的志向と量的志向、という意識の向かい方がある。
すると「本質」は質的志向の側にあるかのように短絡して考える者がほとんどだが違う。
「本質」の尊さを語るのは常に「地と模様」の差に敏感な量的志向の側である。
すると今度は、だからそれは自ら本質を持たない者の羨みゆえなのだという意見が出る。それも違う。
実のところ、もし「本質」があるのであれば、それは志向の差にかかわらずあるのであって、それを認識者の意識の形態によって予め差別するのは最も「本質」的でない。
早い話が、優れたものはいかなる形でも優れたものになりうるのであって、その作者の性格や視線の向きによって優劣が決まるのではない。

決してやってはいけない行いは、「あの人には本質を得る能力があり、この人にはない」と決めつけることだ。

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似て非なり

素敵、ということに本来、普遍性はない。それはそのときその場だけで最高の輝きを見せたものを言う。本当に素敵な人とはあらゆる瞬間に新たな輝きを見せる人だ。
だから永遠の素敵というのはない。
だが、その果敢なさに耐えられない意識は、強烈で生々しい実生活上での憧れとは隔たった様式としての憧れを編み出してゆく。
それがたとえばバレエや宝塚や、あるいはある種の華やかさを描く芝居、映画、漫画、文学等となる。
様式化された素敵は生身から解放されて普遍性を得るが、本当にセンスのよい素敵な人からすれば馬鹿みたいなダサさの極みだ。一度限りで輝きを失うべき行いを練習によって得ようとするなんて。
だが私は愛する、生身ならば常に発生する妬ましさと生々しさをすべて捨象した様式だけの輝きを。すなわち夢を。

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零度の場所に

とても小さい人の気持ちでいる日もある。30センチくらいとか5センチとかはときによって違う。

菫程な小さき人に生まれたし 夏目漱石

でも、それが嫌なわけではないが、といって、あえてそうなりたい、というのでもない。ただ、なんか小さく生きているな、今、って感じ。

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望み望まれ

当人にとって望ましい踏み外しというのはないけれども、踏み外すことがなければ成立しない部分を常に持つこと、それは望みとは別の必然性があって、それなしに意識は存在しないこと。たとえば恋愛が究極的には好き嫌いで決まっていないというようなこと。事故ということ。

あじさい色のもののふるなり。という詩句が好き。

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なにとかの

石田徹也展、いいすね。

http://www.tetsuyaishida.jp/announce/nerima/index.html

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晩方の行方かな

冬虫夏草の標本など見ていて、それが蝉の幼虫から出たものであったりすると、何年も地下にいて来年は羽化するという時期に死んでしまった幼虫がいたのだろうな、などということばかり考えてしまう。
人間の意識のないものにそれを投影するのは愚かだが、そうするのが人の意識と言うものでもある。
来年は羽根が生える、空を飛ぼう、と期待に溢れていた幼虫がふと気づくと、否、気づくことはありえないのだが、あるとき昆虫でなくなっていて、菌になってしまっている。
しかしそれは羽化にも劣らない、別の飛躍なのだ。
意識があれば無念とも思うかも知れないが、メタモルフォーゼの不思議は形が変わることだけでなく、意識の無効を知らせることにもあるのではないか。

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見ずの番

幼少時、『少女探偵シルクちゃんハットちゃん』という貸本漫画を読んだ記憶がある。
シルクちゃんとハットちゃんという二人の少女がタキシード・ステッキにシルクハットという衣装で探偵をやるというもので、当時は少女探偵というのがまだめずらしかったように思う。
衣装とステッキにはいくつかの仕掛けがあって、それを用いて危機を脱するところは僅かに007のテイストもあった。
今考えれば宝塚、あるいはなんかのレビューのような格好での探偵というのはややどうかとも思えるが、ひとつには当時まだ西洋の19世紀的な衣装が憧れであったのと、男子一人でも男女二人でもなく少女二人が男子のような活躍をするところが心惹いたように思う。

ところで、長らく『シルクちゃんハットちゃん』の作者を知ることができなかったが、たまたま昨日検索してみて、横山まさみち氏の初期作品とわかった。
しかも横山氏は『やる気まんまん』の作者でもあったことを知った。
 ガーン

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手を速み

菌類の論理というべき有機的な一見無目的なしかしなくてはならない方針

ところで、ある日、庭に白い丸い大きな塊がいきなりいくつか出たという話。
「オニフスベ」といってこれも菌類なのだそうだが、根付いて生えるのでなく、転がりながら胞子を撒く。
一度見てみたいもののひとつ。
以前、中国で見つかったという「太歳(たいさい)」へのそれと同じ興味の方向。

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バッハにならいて

佐藤弓生出演のお知らせ

■西荻ブックマークのサイトでは「佐藤弓生さんをお招きして」とかなんとかなってるらしいす。
以下のとおり

◆第28回西荻ブックマーク「超短編の世界」
http://s1.shard.jp/nishiogi/nbm2.htm

2008年12月14日(日)16:30受付/17:00開演
西荻窪「こけしや」別館2階
http://www.kokeshiya.com/
\1,500 定員100名

超短編はたった500文字のみじかいみじかい物語。ことばの重力を逃れて自由に飛びまわるその物語は、ちょっと妖しく、オモシロイ。短くなければ表現できない不思議な世界を、どうぞお楽しみください。

第1部 トークショー
  進行 松本楽志・タカスギシンタロ/ゲスト 佐藤弓生

第2部 超短編作家による朗読会(ゲスト朗読 迫水由季[Cafe凛堂])
  超短編朗読作家 (順不同、敬称略)
   やまなかしほ
   マンジュ(圓眞美)
   五十嵐彪太
   松本楽志
   タカスギシンタロ(ベース:シライシケン)
   佐藤弓生
   赤井都

■お奨めします。

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ともすれば

最近なにか聞いたり見たりしたのがきっかけで気づいたこと

■人は過去の記憶と未来の予想はできるが現在を知ることはできない。

■好ましい音楽は時間の経過に意味を与えることでそれを耐え易くする。

■視界にある真偽と正反を意識していると真の正ばかり気になるが実は本当によいものは斜め上からくる。

■自己の資質が他者に驚きをもって受け取られるとき本人にはその驚きの意味がわからない。

■望ましいものは意図していないところで見つかることが多いが、そうした望ましさによって導かれたよい結果が当初の意識の求めたものであることは少ない。

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