« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »

かの夕べ

懐かしいというにもいくつか種類があって、あきらかに自己の体験の外にある、過去に知った想像への懐かしさというのが実は一番根強い気がする。
それはいつも、こんなものだ、と言い切れない。
なのに思いもかけないところで不自然な価値の決定を導く。
長らく、60年代のアヴァンギャルドアートに何かの決定的な感じがあって、今も脱してはいない。
そこには孤児のさみしさが漂っていて、都会の夜に隠れて輝かしい、あるいは恐ろしい、闇に向かって走り続けるような徒労と危険とが待っている。
最初にそうした危うさを教えたのは寺山だろうか。三島だろうか。実質、何だったのかわかりはしない。その頃の私の意識は未だ幼少期を少し過ぎた程度である。
空気、と言うしかないので今はそう記しておく。60年代の都市の夜の空気がひどく懐かしい。なお、私は田舎育ちでその頃、都市の夜など知りはしない。

| | トラックバック (0)

デウスありしか

松本清張と山本周五郎とは、いずれも小学校卒業後すぐ世間に出ざせるを得なかった苦労人で、社会の下積みにある人々の事情を巧みに描くという点でも共通するが、その意識の向き方が陰と陽とでも言うべき形に対照的だ。
というようなことは既に誰かがどこかで指摘していることだろう。
が、勝手に続けてみれば、松本清張の描く、世に容れられない者の怨念と、既得権によって苦労なく世を支配する者たちへの憤怒は、共感も含め、一読忘れられないけれども、自分としてはどこまでもついてゆける世界ではない。
山本周五郎がときおり描く「日日平安」のような物語は、こういう話だけで何か語り終えうるものでないとは思うものの、ともかくときおり訪れる馴染みの店の奥の壁際の狭い席での語り合いのような楽しさがある。
それをも「癒し」と呼ぶなら仕方のないことだが、安らぎというよりはむしろ期待感のような感じで、こうした先行きへの楽しみのようなもの、ごくたまにこの世界にはとんでもなくよいこともあるかもしれないよと囁いてくれる、よい予感への確信の痕跡のようなものが全くない文物と長いつきあいはできそうにない。
思えば尾崎翠や龍膽寺雄、そして小山清や中勘助は言うまでもなく、足穂、乱歩も、野溝七生子、森茉莉、倉橋由美子、三島や塚本ですら、ある何かの恩寵のようなもの、あるいは漫画のような都合のよさへの無意識的な確信を、どこかに秘めているからこそ、いかに無残なあるいは悲惨な展開となっても究極的にはある期待感が漂うのではないのかと思う。
なお、漫画でいうなら高橋葉介の諸作がその種の楽しさを与えてくれる物語の典型だ。

| | トラックバック (0)

知りもせで

非常に貴重なものを得ようと大冒険を続け、遂に手にしたはいいが、その後、何かの理由で一切の手柄をなくして帰還する、というストーリー。
アクション映画にも、ハードボイルドもの、あるいは「ルパン三世」といったような漫画・アニメにもよくありそうだ。
多くは、それでもよしとする主人公の、過程での非凡な活躍を礼賛する形となる。
文学でいうならヘミングウェイの『老人と海』がその典型だ。
結果に対する意味合いが全然逆だが、北杜夫の『谿間にて』も主となる物語の構造は同じ。
でもこちらの方が、つまり、『谿間にて』のように、失ったこと自体への無念、あるいはもともと得ることの出来なかったものへの執念、というような意識の向き方の方が、より一般的ではあるだろう。
冒険と危険の報酬として多大の富を得る、というのが本来の原初的な物語だとしても、その願望充足の露骨さと凡庸さに耐え得ない意識は、「過程の非凡さ」だけを価値とする。
しかし、考えてみれば私たちはどれほど成功したかに見えても必ず死ぬ、つまり必ず、無一物に戻る。
ならば、獲得物ではなく、その獲得の過程での輝かしい躍動のみを讃える態度は最も理にかなっている。

| | トラックバック (0)

凛々とあれかし

しばらく都内を離れていて、某所で発見した名前。

「ホテル・ビーエル」

HOTEL B.L. とわざわざ下にあった。

まさか……

| | トラックバック (0)

求めうったえたり

さくらももこの「ちびまる子ちゃん」のTVアニメ放映時のエピソードで忘れがたいものがある。
クラス中の憧れの子(男子だったか女子だったか忘れた)の家でパーティがある。まる子も誘われたが、その日、みぎわさんの誕生パーティにゆく約束をしていて断らざるをえない。
みぎわさんは普段ブス系の役どころに描かれる、成績はよいが思い込みの激しい、ロマンティシズムに浸り易い、ときに押しの強さから周囲に敬遠されがちの女子である。
まる子は、その日、他の皆が憧れの子のもとで集まっていることに激しく羨ましさを覚え、内心、自分ばかりがみぎわさんのような冴えない友人のところにゆかねばならないのをうとましがる。
しかし約束は守らねばならず、ともに招かれた親友のたまちゃんと、みぎわさんの家を訪れる。そこにはもう一人、普段、ひょうきん者としての役回りにあるはまじが来ていた。
ここからみぎわさんの家でのこじんまりとしたパーティの様子が描かれるが、みぎわさんというのが意外にもてなし上手であるというニュアンスだったように私の記憶にはある。
ともかく興味深い会話がかわされる様子だった。しかもはまじが大変面白いことを連発して言うので皆楽しく笑う、といったものだ。
結果的に、最もくつろぎ、また無駄な背伸びなく、とても快適な時間を過ごせたのだった、なんかみぎわさんのパーティに来てよかった、という意味でこのエピソードは終わる。
ここで考えてしまったのは

名目の名誉か、実質の楽しさか

というようなことだった。
皆に人気のある人美しい人のところへ招かれるのはいわば格好のよい者の友人と遇されることで、それは誰しも望ましいことだ。
だが、実質、それだけで楽しいだろうか。
たとえば、少々大人の話になるが、ここで一女子が、格好のよい男子のステディとして遇されるとかならそれは実質を伴った喜びだろう、だが、一「囲む人」としてそこにいるだけのことでしかないなら、より楽しい場が他にあってもおかしくない。
さらに言うなら、人気者を囲む友人の一人でしかないことは、ごく小さい集まりでの、一人一人が等量の重要さをもって語り合う場で面白い話ができたときに比べれば実質の楽しさが著しく劣る。

私たちはよく幻惑される。
優れた、周囲から愛されることの多い、また容姿等にも優れた人の仲間であることを求めるあまり、本当にくつろぎ自らに無理のない場を見逃していはしないだろうか。
小さな、地味なコミュニティ、誰といって華麗な存在のいない場でこそ発生する価値ある時間を劣ったものと考えてはならない。

| | トラックバック (0)

麗姿かも

華やかな場にいたがる人は少なくないと思う。
だが華やかな場に似合う人はとても稀だ。
なんとなく背伸びして無理してイケてる仲間の一人であるような顔をしてるけど、傍から見ればかわいそーな感じの人、というのをたまに見かける。
だが、この種の人があるとき、腹をくくって華やかさへの未練を捨てて人の振り向かないようなことをやろうとすると、とてもよい未来が開けたり、とかいうことはありそうだ。
きっとそういう可能性はある。だが、多くの人が別の可能性よりも目先の見栄えに幻惑されたまま失敗するのではないか。
書かれるフィクションにも華やかと地味との差ははっきりあって、身につかない華やかさ(というよりその時代の風向きによって華やからしく見えている道具立てやシチュエーションというべきかな)ばかり追っても自分の世界は全然豊かにならない。
捨てること思い切ることが大切だ。
だが、よほど見極めた本気を出さないとそれは難しい。
いい人好きな人から依頼される嫌いな仕事を断るのが難しい、というのにちょっと似ている。

| | トラックバック (0)

リリスよ眠れ

角田光代さんと穂村弘さんの初期の戦略は「えーわかんなーい」だった。
ともかく自分は無知である、だから教えて、という、非常に謙虚な、そしてストレスの少ない態度だ。
これでいけば、大して知りもしないのに知ったかぶりをした結果大恥をかく、とか、何かを独断的に決め付けて心の狭さを見透かされる、といったリスクを免れることができる。
何より無理をしないでよいから楽だ。
だが、その後10年以上を経て、さすがにこの二人も、すべてにわたって「知らない」を貫くことは難しくなったのではないだろうか。「こんなこと作家なら知っていてあたりまえ」というような脅迫もときおりあるに違いない。といって、むろん、今から無理に「訳知り」のふりをしたがる人々なのではない。

知っていることはここまでだ、というそのレヴェルの判断は結局自分に委ねられる。
僅かにでも自分をよりよく見せたいという欲望にとらわれがちの人が発言力のある立場に立つと容易く堕落してしまう。このときから、その人にとって、書くことが自己をよく見せるという目的のための手段になってしまうからだ。
「自分を偉く見せたい」という欲望をどうやって継続的に萎えさせておくか、そういうレッスンが必要な書き手はけっこう多い。
「ものを知っていることを誇示して偉ぶりたい」というのは最も判り易い例だが、創作に有害な「とらわれ」はこれだけではない。この無駄に足をとられがちの人がそれを捨てるにはかなり作為的なプロセスが必要な気がする。

| | トラックバック (0)

はらりはらり

知りもしないことを憶測で批判するというのが最低だ。
新たなものへの知的好奇心を減退させた年配者が、「最近流行のものにろくなものはない」と決めつける、といったような例を見れば納得ゆくだろう。
で、自分は、というと、かなり多く、なんとなくこのジャンルはもういいや、と思う場合がある。
それは実際にすべて知った上で言うわけでないから、そのジャンルの価値を否定する資格はない。
とはいえ、たとえば70年代の左翼文学とか、ほとんど読んだことはないが、といってこれからしっかり読んで批判するとか肯定するとかいうような必要もまるで感じないわけで、読んでみればなにかの新たな驚きを得ることはあるだろうけれども、今の自分が心から楽しめるものでないことはほぼ確実と思う。
このように、ある憶測もしくは勘(といってもかなり確実な)によってリストラしているジャンルについて、厳に慎まねばならないのは、「気が進まないんです」は言ってもいいが「そんなもの価値はない」と断言してはならないばかりか「嫌いだ」も言ってはならないということだ。読んでないんだから。
思えば当たり前のことだ。だが、よくよく見てゆくと、日常、よく知らないがどう考えても好きになれそうにないから遠ざけている、という事柄はけっこうありそうに思う。
好きになれそうもないことに私はかなり敏感なつもりで、自分に必要かどうかは相当はっきりと決めているが、だからといって調子に乗ってそれを普遍的な価値の有無として語ってはならず、それらについては「知らないから何も言えない」という態度を貫かねばならない。
この無言というのが意外に難しくて、自分の場合、こうした意識が強まるにつれ、評論を続けることが苦しくなったように思う。

| | トラックバック (0)

雲行く先は

新ジャンル発見

ゴスヒー

「ゴシックヒーリング」だって。
そういえばコクトー・ツインズとかデッド・カン・ダンスとか、4AD系のいくつかも今聴けばこれだ。
その後、デスメタルからゴシックメタルが発生したのも教会音楽的な技法への接近だし、その教会音楽というのがヒーリングの基本であったりするわけで、とすれば教会音楽を祖先とするクラシックの一郭(シューベルトとかブルックナーとか)にも現代音楽の一部(ペルトとかタヴナーとか)にも「ゴシックヒーリング」的な傾向が見いだされるのは自然なことと言える。
新ジャンルとはいうが、こうなると、もともとヨーロッパ音楽に根づく広大なゴシックエリアがあって、時代状況的に呼び名を変えているだけのことではないかと思える。
私は最新のゴシックメタルにさほど詳しいわけでもないし、そうした言及は誰かに任せたいところだが、この先、音楽の分野からゴスを解説しようとする方には、ジョスカン・デ・プレ、パレストリーナあたりから始めていただくことを是非お願いする。

| | トラックバック (0)

矢のごとく

「優れたものは必ず認められる」という考え方はいわば神秘主義である。
それゆえ、意思的意識的部分だけでは話がすまない創作の作業の間、この信仰が不可欠である。

ところが、実際にできあがったものを世に問う局面にくると、この神秘主義がひどく邪魔をする。「優れているのに認められていない」ものが世に多くありすぎるからである。それを不当と言えば言うほど不利になる。
このとき信仰を捨てる人はクリエイターをやめることになるし、信仰に殉ずる態度をとる人の多くは「優れているのに認められていない」人の仲間入りとなる。

「本当はこうではない」という確信を持ちながら、「仮の価値」にあわせて行動せざるをえない、創作家の、仕方なしの宣伝・営業活動は、どこか、異教徒との妥協的取引に似ている。
いや、創作家に限らず「異教徒との妥協的取引」はすべての人間関係の基本だ。いつかこれから逃れられる、と思ってはいけないものだ。

| | トラックバック (0)

めくるめく夢なりや

80年代に都市部で20代を過ごした人の中には、それ以後の社会的な変化に耐え得ない人がいるのではないかと思うがどうだろう。

80年代、都市での、それ以前よりは格段に豊かな生活が残した記憶は、いわばパンドラの箱を開いてしまった。
70年代までの、社会による有無を言わせない個への制約に対し、80年代にあった一部の文化は、どこまでも個の主張をせよと教えた。
その意見自体が過ちというのではなく、人の自己実現とは究極的にはそうした方向を理想とせざるをえないものだが、そのことが正常に成り立つのは物質的情報的優位にある場合だけで、貧しさを勘定に入れた世界観ではない。
しばらくの「優雅な生活意識」の真似事によって、身の程知らずの自意識がそれ以前より多く発生してしまったのだ。
しかもこの意識は不可逆で、一度知ってしまうと後戻りできない。
つまり80年代都市的理想生活に心酔した人にとって、その記憶は、少し後になるともう実際にはほとんど害ばかりで、ただ抽象的な希望が残っているだけだ。パンドラの箱にたとえた所以である。

以上は穂村弘氏との対談を経て考えたこと。
なお、穂村氏はアーティストとしてその意識を価値あるものとして提示でき、その成功から賞賛される存在となっている。だが私も含め、この意識の持ち方は一歩過てば最悪なものになっていそうではある。

なお、稲垣足穂の発想にもこの意識の持ち方に近いものを感じる。それは一時、彼を最低の場にまで陥れたが、しかし足穂はそこから生還した。偉大だ。

| | トラックバック (0)

名を惜しめ

最近の嫌いな表現

「疑問符がつく」

「それは疑問である(と私は思う)」の意味で使うわけだが、本来の「疑問だ・疑問に思う」とくらべて、「私は思う」の意味合いが薄れたようなニュアンスを感じさせる。
しかもその態度がなんとなくクールであると当人が思いなしているようにも感じられる。この言い方を使うことが、ストレートに「疑問だと思う」と言うよりも「洒落た表現」のつもりになっているのだとしたらそのセンスも激しく厭だ。
そこでは、一般的な視点としてそれは疑わしい、という意味が強調され、あたかも客観そのものから見下ろそうとしている。
つまり、客観というフィクションが最高の権威であるかのような思い込みのもとに、できるだけ「私」の責任を薄くし、かつ、「これは公の言葉である」「みんなそう言ってるぜ」という脅かしをも内に含ませ、結果的に、それを書く人間が優位にあるかのように読み手に錯覚させることを、この表現を使う者は望んでいる、と私には感じられる。
意見を書くときは常に「私はこう思う」として責任を負うべきだ。
責任を避ける表現を、私は憎む。
この言い方を用いる人というのは、言いたいことは言うが自分の責任は追及されたくないという意識にあるのではないのか。
だとしたら卑怯者だ。

| | トラックバック (0)

« 2009年1月 | トップページ | 2009年3月 »