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夜のふけたるは

かつて「Jブンガク」作家リストには加われなかった(何年前の話だそれ)私ですが
このたび《 STRANGE FICTION 》作家の一人として「SFマガジン」5月臨時増刊号での「STRANGEな作家」111人の中にご紹介いただいています。
主に『神野悪五郎只今退散仕る』に関して、また近刊『抒情的恐怖群』の予告まで記していただいて、至れり尽くせりの紹介でした。
お書きくださった方およびここに私を加えるべきとご判断くださった方に深く御礼申しあげます。

http://www.hayakawa-online.co.jp/product/books/720925.html

以下、上記書より。

SFマガジン2009年5月増刊号 STRANGE FICTION
刊行日:2009/03/30 1,200円

異才・奇才が集う文芸誌

《短篇創作》
「アナトーリとぼく」佐藤亜紀 「爽やかなマグロ漁」/「寝心地」/「虎と戦いたい」木下古栗「坂の中の坂」田中哲弥「蛇口」遠藤徹「罪」佐藤哲也「均衡点」平山瑞穂「抜け穴の噺」北野勇作「花いちもんめ」谷崎由依「空地」大谷能生「墓標天球」円城塔

《111人作家ガイド》
青木淳悟、青山真治、朝倉祐弥、浅暮三文、東浩紀、阿部和重、荒山徹、伊井直行、池上永一、池永陽、伊坂幸太郎、いしいしんじ、石黒達昌、磯崎憲一郎、伊藤計劃、井村恭一、入間人間、打海文三、宇月原晴明、海猫沢めろん、円城塔、遠藤徹、大谷能生、大槻ケンヂ、岡田利規、小川洋子、奥泉光、乙一、小野不由美、小野正嗣、恩田陸、鹿島田真希、粕谷知世、金原ひとみ、樺山三英、川上弘美、川上未映子、北野勇作、木下古栗、桐野夏生、栗田有起、小林恭二、桜庭一樹、酒見賢一、佐藤亜紀、佐藤哲也、佐藤友哉、沢村凛、篠田節子、柴崎友香、島田雅彦、殊能将之、十文字青、笙野頼子、真藤順丈、杉井光、諏訪哲史、瀬川深、曽根圭介、高野史緒、高橋源一郎、高原英理、田中慎弥、田中哲弥、田中ロミオ、谷崎由依、多和田葉子、辻村深月、恒川光太郎、津原泰水、戸梶圭太、飛浩隆、中井拓志、長嶋有、中原昌也、梨木香歩、西尾維新、西崎憲、蜂飼耳、初野晴、坂東眞砂子、東直子、東山彰良、久間十義、平野啓一郎、平山瑞穂、深堀骨、福永信、藤谷治、藤野可織、古川日出男、古野まほろ、星野智幸、舞城王太郎、前田司郎、万城目学、町田康、松浦理英子、松尾スズキ、間宮緑、三浦しをん、三崎亜記、村上春樹、本谷有希子、森田季節、森見登美彦、山崎ナオコーラ、山之口洋、横田創、吉村萬壱、米澤穂信

《インタビュー》瀬川深

以上、コピー・ペースト終わり。

今だから一層贔屓目にも思うが、もう半ば忘れられた「Jブンガク」よりずっと楽しそうで、クリエイティブな感じ。
よく見れば必ずしも「若者」限定でもないし、何よりジャンルではなくて想像力の優位を基準にしているところが居心地いい。
それと中には知ってる人もけっこういてお友達的にとても嬉しい。
こういうとき自分だけ仲間はずれは激しく悲しいよね。

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夢想弥生よ

四月刊行予定の『抒情的恐怖群』の帯に最高の推薦文をいただくことになりました。
『うさと私』のときの谷川俊太郎さんによるそれと並ぶ生涯の栄誉御礼。
どなたからのお言葉かはいずれお知らせします。

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繰り出さむ

早くも、オンライン書店 本やタウンでの近刊紹介に出てました。

http://www.honya-town.co.jp/hst/HTNewpub?week=0&genre=1

以下、上のサイトより

抒情的恐怖群
高原英理 著

毎日新聞社 4月中旬 税込価格:1,785円 ISBN:9784620107387

「都市伝説、土地の怪談、現代の妖怪談、恐ろしくも美しい官能的ホラー。ますます充実する著者の最新短編集。」

とのこと。 ↑当たり前ですがこれ、私の考えた言葉ではありません。
面映いですがありがたいご紹介でした。

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森深く

『抒情的恐怖群』(毎日新聞社)の装丁は中島浩さんにお願いすることになりました。
また、表紙にはアーティストの西尾康之さんによる立体作品の写真を使用させていただくことになりました。

私の知る中島浩さんのお仕事で特に好きなのは寺山修司の未発表歌集『月蝕書簡』と谺健二の『赫い月照』(初版単行本)。

http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4000227718/sr=1-1/qid=1237795878/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books&qid=1237795878&sr=1-1

http://www.amazon.co.jp/gp/product/images/4062117614/sr=1-2/qid=1237795972/ref=dp_image_0?ie=UTF8&n=465392&s=books&qid=1237795972&sr=1-2

西尾康之さんは今注目されているアーティストのお一人ですね。
こんな感じ。

http://www.takahashi-collection.com/kako/nishio.html

とても果報なことと思います。

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さてもさても

東中野のビタミン・ティーというアート・ギャラリー・ショップで今、「化け見世」という展示・即売が行われている。以下のとおり。

http://www.vitamin-tee.jp/index.html

ここに佐藤弓生とともに出向いて、出品しておられる日本物怪観光の天野行雄さんと少し話す。
心から妖怪玩具作りを楽しみ精進しておられるひたむきさと邪気のなさに、

わたしみたいなものは
顔がなくなるようなきがした (by八木重吉、再び借用)

おっと、これではのっぺらぼう差別ですね、ともかく自らを省みて恥ずかしくなった、という報告。

「化け見世」は楽しいのでみなさんおいでになるといいと思います。ただ欲しかったもののいくつかは早くも売約済みでした。

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蜘蛛集う朝

『抒情的恐怖群』収録作の題名は、既発表の「グレー・グレー」だけが「・」も入れると七文字、他はすべて三文字しかも大方漢字、なのでなんとなく違和感あるかなとも思っていたが、ゲラで目次を見るとこんな様子。

 町の底(まちのそこ)
 呪い田(のろいた)
 樹下譚(じゅかたん)
 グレー・グレー(ぐれー・ぐれー)
 影女抄(えいじょしょう)
 帰省録(きせいろく)
 緋の間(ひのま)

( )とふりがなのおかげで、素のままよりは差が目立たなくなっている。
「グレー・グレー」にまでひらがなのふりがながついていて、やはり一番文字数が多いが、隣の「影女抄」とそのふりがながそれに次いで長く、「帰省録」「緋の間」、とだんだん短くなっているので案外「グレー・グレー」の長さが気にならない(と私には感じられた)。
できれば「町の底」からも順に読みが長くなっていればもっと効果的だったかも知れないが、そこまで無理をする理由もない。
ともかく、この目次を巧みに組んでくださった方に大感謝。プロの技だ。

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できうべく

まずまず人気のあるらしい作家と、評論家との対談。
作家がいきなりなにか突拍子のないような、有体に言えばいきあたりばったりのいい加減な、しかしインパクトだけはあるようなことを言う。すると評論家がその都度、間に合わせの理由を告げて解説する。ところが作家はまたそれを裏切るようなことを言い、するとまた評論家は間に合わせの理屈でなんとかかんとか言う。だいたいその連続。
すぐに、「ええ、だからそれはね……」という、いかにもなんでも予め知っていたかのような口調でコメントする評論家。
結果として、「評論家って、芸の下手な猿みたいだな」という印象。
逆に作家は「不思議ちゃん」ぶることに懸命なのが後から考えればイタいとも言える。しかしそういうとらえ方は、そこに来ているその作家のファンならやらないから、「自由な作家」という意味は持続し、それとともに、評論家についてはやっぱり「結局作家にはどこまでも及ばない解説屋さん」という印象が残る。

すべて演出されているとまでは言わないが、これはつまり、両方が望まれている役割に忠実であるというだけのことで、すると逆にこんな道化役を全うしたその評論家はとてもよい仕事をしていたのだ、とも言える。その評論家の「いつも裏をかかれる後追い解説屋さん」の格好悪さがあってこそ、その作家は「自由」そうに見えるだけで、実のところたいしたことも言っていない。
ところがそのときに配布された印刷物には作家の派手な宣伝ばかりで、本当の功労者であるその評論家については端のほうに小さく名が出ている程度。
この扱いで、ここまでなんだかなーな役割を嫌がりもせずやれるその評論家は、けっこう腹の据わった立派な人なのかもしれない。
しかしこういう茶番劇が記憶に残るため、「評論家」というのは常に作家の後追いをする滑稽な人という位置づけがどんどん固定してゆく。
個別の極端な例が全体の意味を決めてゆく。

最近、ある人から、「あなたの評論のファンですが、あなたは最近、過去のご自分の評論についてあまり価値を認めないようなマイナスのことを書いたり語ったりしておられて残念です」という意味のことを言われた。
かつての自分の評論の仕事を貶める気はなく、よい仕事をしたと今も思っているのだが、どうも、いつもあの対比の場面が見えてしまう。
それは決して評論家の本来の意味ではないのに、大きなメディアが特定の作家をスター視したがり、その手段として評論家を使おうとし、幾人かの評論家がおとなしくその申し出に従うことが増えてきたためか、今では「評論家」は嘲笑の対象にしかならないような意味合いが、私の中でさえ、増している。いや、そういう役割への嫌悪が増している、と言うべきだ。
むろん「心ある人」の視線は全然違う。
だが明らかに今、評論・批評は、私がかつて考えていた理想の位置づけを失っている。そんなものもともとなかったのだ、と言われるならそうだろう。
今も評論はあるべきと思うけれども、いつも便利に利用される「評論家」の振る舞いは厭だ、と思うことが増えている。
そして、いかにマイナーではあっても、私も一度は評論家を名乗った者なのだから、「心ない人」たちから「あ、あれが間抜けの解説屋さん」と言われることは覚悟せねばならないのだ。
こういったことから、ともすれば評論についての言及がアンビバレントなものになっていたとしたら改めねばなりませんね。
でもなー。

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桃の山まで

『抒情的恐怖群』、毎日新聞社より4月刊行予定。予価1700円。

もうじき校了。

ところで突然ですがここから、ロバのことを少し。

ロバの性格は馬より犬に似ていて、愛されると大変なつく。
ロバはかまってもらえないことが一番つらい。
ロバは恐れることを知らないので、激しく叱責されると対応できずに呆然として動きを止めてしまう。
ロバに怒っていた人はそれを見て馬鹿にされたように思い、一層ひどく虐待することがある。
ロバはおとなしい。
馬にはしないようなひどい仕打ちでもロバには平気でする人がいる。
虐待されたロバを救って引き取る「ピースフルヴァレー・ドンキー・レスキュー」というロバ園がある。
そこの係員は十分にロバを可愛がってくれる飼い主を探していて、みつかると一頭ずつひきわたす。
        以上、「アニマル・プラネット」から

ロバ……

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魔の山も

かわいい至上主義

ひよこ かえる うさぎー(できればドヴォルザークの交響曲第9番3楽章の3フレーズ目のメロディーで)

ちょっと前、うちではやってた「3かわトリオ」(トリオですでに3じゃん)

いやむろんねこもパンダもカピバラもいぬもペンギンも……ね。
って、まあそれだけ。

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鹿の山

ふと二年前の夏を思い出す、といったことを二日前に書いたが、それは懐かしいというより、ややしばらくのため息のような慰安のようなものだ。
自分の場合、懐かしさはいつもかつて知ったフィクションとそこからの想像の中だけにあり、実際の過去を懐かしむことは少ない。おそらく自分自身に関する限り、時を遡るほど最低で、そのうち多くのことが年とともに「いくらかまし」になってきたと感じているからだろう。
無知と事故とそれによる失態ばかりの実際の過去に対し、かつて見た読んだ聞いた空想的な世界の有様はいずれも懐かしい。

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うさぎ背負いし

生まれ育ちのよさゆえにアーティストや芸術的な著述家になれた人はけっこう多く、世にはその予めよい条件から始めたことを否定的にとらえる向きもあるが、しかし、そうした経緯で公に意見を提示できる立場となった人が飽くまでも、広い意味でのアートに貢献する、もしくは芸術的なもの・表現者を擁護するのであれば、私はその人を尊敬するにやぶさかでない。
だが、仮にかつての上流階級出身で後に芸術をめぐる著述家となったような人が、僅かでも芸術的価値よりも社会的身分地位を優先したようなことを言うとしたら、表現それ自体の価値もしくは好悪以前に、「相応の身分の有無、もしくは自己より高い身分の者への敬意の有無」をもって表現の価値の条件としていたことになる。
そういうことならば、単に生まれ育ちがよかったため幅をきかせ、スノッブたちからの尊敬を得ることで楽々と著述家になれただけの人であると言わざるをえず、そこにいかに高度な知識が開陳されているとしても、実のところ、アーティストの敵である。
一方、たとえば、これ以上ないほどよい条件で生まれ育ち、晩年に作家となった森茉莉の我侭勝手な芸術至上主義には諸手を挙げて賛成するものだ。
生まれのよさ育ちのよさが、その人の身分地位それ自体とは別の価値を作り出すのでなければ、ただただ自己肯定の卑しさを見せつけるだけのこととなる。

※ なお、上記の否定的な件のところで改めて事実を確認してみたが十分に確認できなかったので個有名は削除した。

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薔薇のさきわう地の向こう

二年前の夏、比較的危険性の少ない手術を受けて一週間ほど入院した。
設備のよい病院だった。窓からは晴れた空が見えた。
入院療養中も苦痛はあまりなかった。
就寝すべき時間が早いので毎晩9時ころに睡眠薬をもらって飲んだ。すぐ眠った。
起きている間も横たわって、テレビも見ず本も読まず、持参したCDプレイヤーで同じく持参したCDの音楽ばかり聴き続けた。静かな曲ばかりだった。他は一切何もしなかった。
自ら志して真剣に何かし続けることはとてもつらい。
そんなときいつも二年前の夏が思い出される。

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きよらなりせば

『抒情的恐怖群』収録作品題名、以下

「町の底」
「呪い田」
「樹下譚」
「グレー・グレー」
「影女抄」
「帰省録」
「緋の間」

以上の七編。「グレー・グレー」のみ「文學界」2008年10月号に既発表。
他は書き下ろし。

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野放図なるぞよき

やなぎみわ展、イイよ。
東京都写真美術館で開催中。

http://www.syabi.com/details/yanagi.html

これにあわせて今月、やなぎみわ『マイ・グランドマザーズ』(淡交社刊)も刊行されている。(版元のサイトやアマゾンではまだ記載がないみたい)

ケルト伝説の一場面みたいな「ARIKO」、これも森の神話の一場面みたいな「MITSUE」「TSUMUGI」、墓でファッションショーの「ERIKO」、おたくを看取る契約ロリ老婆「MIKIKO」、キグルミ社長「MINAMI」、世界を眺める「MIE」、眼光婆婆「KWANYI」、特にこんなのが好き。
かこいいパンク婆もいっぱいで、楽しくなる感じす。

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とほき世の

予定外という要素がうまく働くことが創作には必要なのでないかと思う。むろん、うまく働いているかどうかの判断は鑑賞する人に委ねられる。

書き下ろし短篇集という話をもらったとき、ぼんやりと考えていた方向もあったが、ひとつひとつと書いているうちにやや規格外の作もできてしまった。
できに不満というわけではない。収録作はいずれも互いに親密な関係にある。けれども全篇をひとつのテーマでは括りにくい。
翻って全体をみれば抒情の要素と恐怖の要素があって、その配分の違いが作品の差にもなっているようなので書名を『抒情的恐怖群』とした。

親密な関係と記したが、それはたとえば、作品Aのある部分と作品Bの一部に関係の深いところがあって、またテーマについてはBはCに近く、そしてCの別のある要素がDと共通、しかしAとC、BとDはあまり似ておらず、全体にわたって共通なものはない、個々は独立に見える、というようなもので、確か、ヴィトゲンシュタインがこういうのを「家族的類似性」とか言っていたように思う、そんな関係。

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かよい路と

近く刊行予定短篇集、書名は『抒情的恐怖群』。

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空即是色なるかならぬか

卑怯者は常にメタレヴェルにいる。
言うまでもないがメタレヴェルの語りをなす者すべて卑怯ということなのではない。
だが、少なくとも、ある意味行為の実際の効果や受け取られ方の微差の認識、そこに至る政治的条件の測定といった実質的な作業から逃げようとする者は決まって非参加的・俯瞰的視線で語ろうとする。
あたかも党派を超えた清潔な真理の代弁者であるかのような態度をとる。
政治性と党派性のない思考がありえないことを知らないふりでいる。
常に高みから現状の不備を問うことだけで終わらせ、精一杯の下手な答えを出そうとあがく無様さを免れようとする。
それを私は卑怯者と呼ぶ。

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爛々とゆく

吸血鬼もフランケンシュタインのモンスターも、後の時代となって語りなおされるに従い、美的にあるいは悲劇的に、そして鑑賞者の自己投影を許すものとなることが増えた。
(より歴史の古い悪魔は既にミルトンの頃、憂い顔の美青年として語られていた)
モンスターの中では比較的新顔であるところのリヴィング・デッドも、80年代にはただ恐ろしく汚く忌まわしいだけのものだったが、二十数年を経ていくらかずつ、ロマンティックな語られ方が始まっているようだ。
といったことを次の「トーキングヘッズ叢書」に書くかも、の話。

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別天地から

昨年後半以後に書いた短篇を中心に一冊刊行されることが決定した。
一作だけは既に公になっているがほかは書き下ろし。4月頃刊行予定。

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