« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »

時じくの

このほど大江健三郎賞に続いて伊藤整文学賞も受賞の安藤礼二さんとは、最近、お会いするたび批評と小説を区別しないジャンルを夢見ているといった話をする。
最新刊『霊獣』(新潮社)では見事実践なさってますね。刊行おめでとう。

安藤さんとはその方法・方向・資質が全く異なるものの、言及対象・創作の源泉とする作家作品が自分と相当重なっていて、フィクション/クリティックの通底という意識に関しても近い。
私などと比べられるのはご本人には不本意かも知れないが、私としては以前からなんとなく「いいライバル」のつもりでいる。

現在回答制作中『抒情的恐怖群』をめぐるインタビュー、7月下旬に記事として出ます。

| | トラックバック (0)

烈々と

私がその感受性と才能を信頼する、ある優れた女性の歌人が、どこかで、
「わたしは尾崎翠をよいと思わなかった」
というようなことを書いていた。
それを知った佐藤弓生は
「こんなことを人に言うと、なんか、文学がわかってない人と言われそうなのに、その人はえらい」
と言った。
なお、書評家の千野帽子氏の信頼する、あるお知り合いにも尾崎翠はあまり面白くないと言う人がおられるそうだ。
何を面白いと感じるか、何が好きか、それを明確にして世界に対峙できることは優れている、と宣言する人たちの間で、尾崎翠を愛していると言う人は比較的多い。
最近はさらによく知られてきていて、だんだんカルト作家のような受け容れ方もされ始めている。
しかも、少女漫画の優れた先駆だとか、少女の必読本だとかいう意味合いで絶賛する向きが多いため、尾崎翠をあまり好きになれないと明言する人がいると、「えー、センス悪っ」と軽蔑されそうな趨勢だ。
ここが駄目なところだなと思うのは、そういう軽蔑や嘲笑は尾崎翠的なものから最も遠いということだ。
何より、好き嫌いをはっきりさせて世界に対峙しようとしている勇気ある人は、軽蔑されかかっている相手その人ではないか。
尾崎翠がわからない人は少女の心を持っていない人、などと言う、そんな「少女心」など豚に食わせろ。
その歌人の言葉を思い出すたび、こういった他者の思考への許容についてなるべく居心地悪く意識しなおそうと思うものだ。

| | トラックバック (0)

知れ

最近感じるのは、フィクションに対し、「共感を求める読者は二流三流」「常に驚きと断絶を求める読者が選ばれた読者」という意見の優勢化の兆し。
物語より詩を求める人やかなり高度な読書家がだいたいこういうことを言う。それがあまりに優勢とならない限りはよい意見だ。
私も六割方はそうだと思う。とりわけ「泣ける本」で売るのは高級な商売ではない。
だが、こういう言い方があまり不用意になされると、「これは共感のための本」、「これは驚異のための本」と、書物を分けてしまう単純な人が出てきそうで、そうなるとなんだか二十数年前の「ネクラ」「ネアカ」みたいな無自覚な差別主義が始まりそうで、厭だ。
私の周囲にはまだそういう人はいないようだが、しかしこの先、「共感ではなく驚異を求めることが本当のアートだ」という単純な物言いに唆された人が「この小説は共感を求めているところがあるから文学ではない」とか言い出すとしたらもううんざりである。
それが過ちなのは、もともとの視点からしてもそれは読者の問題、すなわち、読み方の問題であって、作品自体を固定的に「共感/驚異」と二分割できるのではないということによる。
また、ある作品を「共感を迫る二流三流以下作品」と決めるのは、そのようにしか読めないその読者であって、私から言わせれば、たとえばひとまず共感より驚異がすばらしいと感じる感受性を認めるとしても、そういう場合にも真に優れた読者は、一見、共感誘導的小説からも驚異を見つけ出すことができる。能動的に読むとはそういうことだ。
しかも、あらゆるフィクションは常に共感可能部分と驚異発生部分とを含んでいて、その割合の差があるに過ぎない。
何かを根拠にすぐ単純に序列化したがる、そのときに突出するのは「こんなに選別できる自分」の自覚を求め安易にそれを用意しようとする、当人の事情だろう。
さらに言うなら、ときに共感的な部分を散りばめつつ、あるときにはっとさせる、そういう小説が幅のある小説なのではないか。詩ではなく、小説なのであれば、だ。小説を貧しくするドグマには反対する。
「すべて」を読むことはできない。作品という「外から来るもの」に何を見いだすか、そこに読む側の願望が映し出される。

| | トラックバック (0)

先日5/13、佐藤弓生がパネリストに参加するというので「対決!現代短歌の前線」という連続公開講座の第二回を聴講してきた(於 神田・学士会館)。
パネリストはほかに阿木津英、藤原龍一郎、荻原裕幸、の各氏。司会・松平盟子氏。
この回は「モダンvsポストモダン」というものだが、この「対決」が対決になりえないことは、つまり、世に言う「ポストモダン」がそもそもモダン的対決の図式を解体する態度として語られたものであることは、いくらかでも批評を知る人には自明である。
さらに言うなら、建築ではなく文学のポストモダンというのは未だにいい加減な認識しかなく、せいぜい高橋源一郎の『さようなら、ギャングたち』を頂点としたサブカル取り込み・80年代風俗取り込みをさすことが多く、それでは現代思想で言われたものとも違う。
もうひとつ言えば短歌にモダン・前衛・ニューウェーブ等の歴史的な流派の区別はあっても「ポストモダン」はなかったし、それは流派にはなりえない。
すなわち、この講座はもともと「ポストモダン」ということをよく考えていない人が(苦し紛れに?)企画したものであると推測され、その意味で、もはやそこに論理的な成果を期待してはいなかった。
むしろ企画者はその、知る人には噴飯ものの「対決」を故意に用意することで、パネリストに「何か」を語らせることを意図しているのであるとわかる、そういう企画だ。
その期待には十分応えるもので、題目の無理矛盾を別にして、阿木津・藤原両氏の明確な立場表明が聞きものであったのと、おそらく最も「ポストモダン」には意識的であろう荻原氏の、やや居心地悪げな解説とが大変興味深かった。
参加者にこういうことを言わせたのであればともあれ成功としてよいだろう。
なお、佐藤弓生の発言についての私からの感想は省く。
中で私が最も興味深く聞いたのは、斉藤斎藤という若手歌人の歌について、阿木津・藤原両氏が否定的に評し、かつ、藤原氏が「自分なら(修辞・形式を)もうちょっと整えたい」といった発言をしたのに対し、荻原氏が「斉藤氏はその、『ちょっと整える』をしたくないのでしょう」とコメントしたところだ。
たまたまどこかで出会ってしまった「生の詩」を、できるだけそのまま、ときには敢えて粗野で下手な形を厭わず書き残そうとする態度と、それを一旦自らの中に取り込んだ後に自らの理念もしくは美意識にあわせて形を整えて定着しようとする態度には永遠の隔たりがある。
対決というなら、この態度の違い以上の対決はないと思う。
この問題に気づかせてもらえただけでも当講座を聴講してよかったと思った。

ところで、以前からときおり告げております毎日新聞社の「本の時間」6月号のことが発行元のサイトにアップされました。以下がそれ

http://mainichi.jp/enta/book/honnojikan/

| | トラックバック (0)

徹し

承前。

過ちといっても、それを経験することによって、後に、高度な成功をもたらすような失敗はここでいう「優れた過ち」ではない。それはむしろ、成功の序曲のようなものだから、失敗に価値を見ない人でも「これあってこその得がたい経験」と記憶することができる。
ここに考える「優れた過ち」とは、自体、どう見直してみても成功には結びつかない過ち、無様だった記憶、自らの恥辱でしかないもの、でありながら、それを語ることが一般社会での成功とは別の真実を切り開いてしまうような出来事をいう。
文学はこういった優れた過ちを描くことで深みと幅を広げてきた。
夏目漱石は『吾輩は猫である』『坊っちゃん』から『それから』『こころ』、『明暗』に至るまで、当人の生活史的事実との関係はともあれ、何らかの挫折、失敗、悔いといった意識の形を記し、その思索が歓迎されてきた。
しかし、無残な記憶は、それを記憶していればいるだけ自己を損なう可能性が増える。そして記憶に苛まれている人に、「その程度で壊れる自尊心など本物ではない」などと言うことはただの傲慢である。「鉄の自尊心」など、ありあまる条件のよさを背景に持たねば成立しない、つまり、自分ひとりで作り出せるものでは全くない。そして、何にせよ自信のない態度、誇りに欠ける態度は再度の手痛い失敗をもたらし易い。それが嘘でも浅はかな思い込みによる自信であっても、人の生活には、自己の無様さを忘れることによる僅かな誇りが、ないよりあるほうがましなのだ。
ならばときに文学者が社会人として失格である場合が見られるのは、その社会的には無駄でしかない過ちの様相にばかり執着してしまった結果だろう。
しかし、逆に、ある文学者は、自らのあるいは他人の、酷い、恥辱に満ちた、醜い記憶を、それゆえに何か恐るべき人間の謎として表出し、その次第によって世俗の成功まで勝ち取る。
いずれの場合も、世の成功を求めて生きることとは別の何かに引き寄せられた結果だ。

| | トラックバック (0)

寛ぎて

記憶とはそれに何かの価値を見ることによって残るのではないかと思う。
自らの過ちを語ることのきわめて少ない人がいる。語らないのではなく、語れないのだ。
むろん失敗を経験していないのではない。おそらく人並みに無念な過ちはたくさんあっただろう。
だがそうした人は過ちに全く価値を見いださないために過ちの記憶が容易く忘却される。
その人の記憶は何らかの意味で成功した瞬間だけによって成り立ち、結果的に「うまくいった人生」の形にばかり整備される。
それをナルシシズムと呼んでよいものかどうか。見栄を張ろうとした意図の結果ではないからだ。
ひとりでにそうなってしまうのは自分をよく見せたいからというよりは、その人にとって優れたものが成功だけだからだ。
「優れた過ち」というものがあることを知らないのである。

| | トラックバック (0)

狂おしく

「プレゼント用意しました」という語をたまたま見て想像したこと。
100個用意して3人が祝いに来てくれた。
嬉しいか? 悲しいか?
まず100個用意するという現状の読み間違いが悲しいが、しかしゼロ人ではなく、確かに3人来てくれたのだとしたらその3人はこの世界に自分をつなぎとめに来てくれた天使たち、あるいは星に導かれてキリストの生誕を祝いに来た東方の博士たちのようなものだ。
そこを心から喜べない人に明日はないと思う。
ただ、問題は100個用意して一人も来てくれなかったときだ。

| | トラックバック (0)

つつましく

穂村弘が以前「村上春樹を読んでとても苦しいところに追い詰められた。登場人物も読者も傷つかない、素敵なものだけでできている世界を見せられて、それ以外のルートが見えなくなった」というようなことを言った。
私も村上春樹は読んだが、彼のように苦しいところに追い詰められたという記憶はない。
ただ、今思えばある時期、池澤夏樹の『スティル・ライフ』が私にとっては躓きの石であったことが感じられる。
それは素敵な世界だからというよりも、限りなく自由を求めて都市を浮遊する存在を理想として描くことができるかも知れないという期待を持たされたからだ。そしてその期待は、「描くべきよきもの」を強固に規定した。
だが、実は『スティル・ライフ』はごく危うい均衡によってだけ成立する幻で、全く幻でしかなく、その唆す理想的意識を『スティル・ライフ』の作者以外がもう一度示すことはできないものだ。
私にはそれがわからず、いつまでも都市の自由を最高の境地として描こうとする願望が残り、それが私の書くフィクションをドグマティックにしていた。つまりそれはプロパガンダ小説のようなもので、理想として描くべき何ものかが予め決定していたから、本当に小説を書くという行為に至ることができなかったのだ。
ようやくそれを免れたのは自覚によってではなく、実社会とその状況が、80年代的な「都市の浮遊生活の自由」など根底から許さなくなったことによる。世界の根元的な不自由が身に感じられてようやくその幻の理想から解放された。
私の場合は、80年代的・ブルジョワ左翼的な「高級な自由」への憧れが、予め目的を定めずに書く行為そのものの自由を阻害していたのだ。
といって、今、池澤夏樹を否定する気はまったくない。今も池澤夏樹は優れた作家であると思うし『スティル・ライフ』は優れた作品だと思う。不景気になった状況こそが「本来の現実」とも思わない。もともと自由の幻影を望むのは人の本来のあり方だ。その幻に幻惑された人を多く生産したからその作者を非難すべきとは思わない。
ナチスに利用される余地を持ったニーチェの思想のように、ある突出したものはそれによって堕落させられる劣等な人々を常に生む。
ともあれ、今、なんとか書くことをやり直している。
幻は忘れない。だが信じもしない。

なお、毎日新聞社の「本の時間」6月号はもう各書店に置いてあるそうです。ご興味のある方はご覧ください。内容についても記そうと思ったが、ここでは敢えて書かないことにしました。

| | トラックバック (0)

縷々語りつつ

シーソーゲーム的ストーリーに耐えられない。
目的とするものとルールがはっきりしていて、その物語要請上、ほぼ結果がわかっている、あるいはせいぜい勝ちか負けか、どちらかありえかないようなラストに向けて、鑑賞者が自己投影すべき登場人物がさんざん苦労するという手順が面倒極まりない。
こういうものはゲームとして実践するには面白いだろう。それは結末に至る過程で、すべてその判断と動きが参加者の裁量のもとにあり、勝つも負けるも当人の判断と技によっているからだ。いわば駄目なゲームは参加者の責任であることが予め認められている。
だが、読む物語というものは読者の裁量には委ねられておらず、作者というプロデューサーがある意図のためにわざわざ行ってみせるゲームを横から覗いているという形になる。すると、見え透いた焦らしやためにする苦労といった、「下手なゲーム構成」に対し鑑賞者は常に不満を言いたくなる。
「俺ならそんな馬鹿な話は信じない」「そもそもそういうくだらない理由のために俺は動かない」「俺ならそこで相手をすぐ押さえる、逃げる猶予など与えない」等々。そういった不満がまったくないゲーム的物語展開はあまり見たことがない。
しかも物語のうまくない作者ほど不自然かつ理不尽なそして唐突なシチュエーションを用意し、読者が感情移入することを予期される登場人物が無駄な困難に苦しみ、たいていその感情的対価は後になっても与えられず、不愉快は解消しない。しかもルールと世界は既に決定していて変化しないため、ただ結末に至るまでの面倒な請負仕事のようにしか思われない。

望ましいのは、広い意味での探求を前提とし、探れば探るほど敵味方や良し悪しといった単純な世界のルールが思いもかけない形に変容してゆく過程を、ひとつひとつ納得ある言葉で語ってゆき、そのため細部には当然の感があるのに進めば進むほど世界の奥深さが見えてきて震撼する、新たに見えてくる世界の異変への驚きがきわだってゆく、そして終わりも決定はせず、さらに進めばさらに驚異が待つだろうことを伝えつつ、ひとまず仮初の結末で終結する、そんな物語だ。
それは徹底してゆけばもはや物語という形式からも離れてゆくのではないかと思う。究極には物語が詩である地点を目指しているのではないかと思う。

| | トラックバック (0)

ずっと待っている

私の監修するフリーペーパー「COMMUNIO」編集部からのお知らせ。
これまでの「COMMUNIO」がすべて読めます。さらに新たな記事もあります。
私に関する紹介がちょと気恥ずかしいが、そのままコピーペーストします。

(と、先に書きましたが、私の紹介部分は適当に修正しておくことにしました)

ゴシックカルチャー研究会発行・高原英理監修のフリーペーパー「COMMUNIO」5年分の集大成。
「COMMUNIO COFFIN」発刊のお知らせ。

 創刊号の特集「ゴシックとは何か?」を皮切りに、メンタルヘルス、人形、身体、廃墟、エロティシズム、自殺、アナーキズム、ロリータなど、様々なテーマをGOTHという視点で縦横無尽に論じてきた、ゴシックカルチャー研究会発行のフリーペーパー「COMMUNIO」が、集大成となって復活する。監修に高原英理を冠し、豪華ゲスト陣に、『リストカットシンドローム』の著者ロブ@大月、人形作家の安藤早苗、芥川賞作家の藤沢周、ゴシックに深い造詣を持つ医師の高柳カヨ子、画家にして装丁家の建石修志、『S&Mスナイパー』の元編集長渡邊安治、SF&ファンタジー評論家の小谷真理、『死想の血統 ゴシック・ロリータの系譜学』著者、樋口ヒロユキを迎えて配布してきた7冊を1冊に纏め上げ、「COMMUNIO  COFFIN」と銘打って復刊した。「COMMUNIO COFFIN」限定収録として、高原英理序文「ゴシック・ビス」、雨宮処凛×鶴見済特別対談「自殺からアナーキズムへ」収録。第八回文学フリマ限定200部のみ、定価1500円にて販売。

序文 ゴシック・ビス 高原英理

1 ゴシックとは何か  ~ゴシックハートとメンタルヘルス~   対談 高原英理×ロブ@大月
2 人形          ~人形愛への衝動~          インタビュー 安藤早苗
3 変容する身体    ~特別寄稿 藤沢周・高柳カヨ子~  
4 廃墟          ~ゴシックと廃墟の相互作用~    対談   高原英理×建石修志
5 エロティシズム    ~エロティシズムとゴシックの蜜月~ インタビュー 渡邉安治
6 浸蝕          ~トランスローカルゴシック~     インタビュー 小谷真理
7 血統を受け継ぎし者達へ ~ゴシック・ロリータ・日本~  対談 高原英理×樋口ヒロユキ     
8 自殺からアナーキズムへ COFFIN特別対談  雨宮処凛×鶴見済

「第八回文学フリマ」
開催日 2009年 5月10日(日)
時間 開場11:00~終了16:00(予定)
会場 大田区産業プラザPiO (会場での販売場所の位置はE-52 ゴシックカルチャー研究会です)
(京浜急行本線 京急蒲田駅 徒歩 3分、JR京浜東北線 蒲田駅 徒歩13分)

文学フリマ公式HP
http://bunfree.net/
会場アクセス↓
http://bunfree.net/?%C3%CF%BF%DE

| | トラックバック (0)

« 2009年4月 | トップページ | 2009年6月 »