« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »

銀色の夏来たるらし

ここしばらくの自分の記述に共通なのは、フィクションあるいは詩的な何かを書こうとするにおいて自分は自分の意識を信じない、ということのようだ。
ただ、コンシャスネス、といえば方向性が常に決まっているものとしての意識だが、私の場合、視線はあっても方向性の乏しいような意識はよしとする。
まるで無意識では表出できないし、といって、強い自己主張を持った明確な意識のままでは自分の場合、小説には無力、ということが長くかかってようやくわかってきた気がする。
この微妙なところを巧く衝いて、半覚半眠のような位置で魔術的に言葉を拾うこと。
その心の特殊な使い方とでもいうものがなんとなく、錬金術師の修業のように思えてならない。
錬金術は物質を扱いながら、ある精神的な陶冶を必ず求めた。
詩人・小説家はまるで物質的なものを手にするのではないのに、その心の技のようなものをどこかで学んでゆくように思う。
なお、それは名技への求道であって、世に考えられる人間的成長とは異なる。

| | トラックバック (0)

帝名定まらず、絵師のもと集ひたる暮れ谷生のほの萌え木

そのときの都合で気になっていることって、自分の場合、全然テーマにならない。
というより自分の意見とか主張とかってフィクションを書くときには無用無駄邪魔。
そういうのが無意識に潜った頃、微妙な形で出てくるのは面白いんだけど。
思いつめて続けるテーマもそのままではあんまりうまくゆかない。
不意打ち的に、あ、これ、という思いつきに沿って始める、続ける、のが一番面白くなる秘訣、自分の場合。
そこでは語る「私」の重みをできるだけ減らすのも秘訣。

今月出た東京創元社の「ミステリーズ!」35号で、翻訳家・エッセイストの宮脇孝雄さんが『抒情的恐怖群』を評してくださった。
末尾では泉鏡花との比較まであって、心からありがたい評だった。
そこで宮脇さんは、私の今回の短篇の中、

「面白いのは、とても影の薄い、月光のような『幽霊の一人称』とでも呼びたくなる『私』の視点で語られた一群の物語だ」

とご指摘である。
よくお読みの方は違う。
「幽霊の一人称」という語はよく記憶させていただこうと思った。

| | トラックバック (0)

かくかくありて

昨日に続けて考えてみると、何か意図をもって策動して成功したこともない。
後で、よかった、と思えるようなことって、気づかずにいたら向こうからやってきた場合がほとんどで、それ以外も、なんとなく予感できてはいたが特に手立てを講じたことではない、という感じ。
むろんすべてが、というわけではないだろうがあまり思い当たらない。
それと何か発表するにあたっては時に営業的努力もしたが、それは策動とか立ち回るとかではない、ごく当たり前の営みでしょう。
自分の意志と才覚と策でばりばり現在を切り開いてきた人もいるのでしょうね。
でも自分はどうも凄みのある人間観察ができないせいか、事実上、抜け目なくやろうとするよりは、間抜けな態度でいたほうがむしろ得をするらしいとここ数年感じるばかり。

| | トラックバック (0)

いるのか、いないのか

上は中公文庫BIBLIO版・今野圓輔著『怪談 民俗学の立場から』の帯にあった文言。
これに鳥山石燕の「骸骨」の絵がぴったしだった。

ところで、「自分なんか」という感じ方はしたことがない。
一方、こんな待遇じゃここにいる気はしない、と思って去ったことはたびたびあった。
そこで腰を低くして「はいはい」と言っておれば、いつか周囲から盛り立てられてよい立場になったのかは不明。
でもこれまでの経験で言えるのは、人間関係的な配慮をしている暇があるのなら、新たな原稿を一枚でも多く書け、ということ。
少なくとも自分の場合、新たな作品を提出することでしか未来は開けなかった。

| | トラックバック (0)

多々ある中のたたずまい

たまーに飛行船が飛んでいるのを見ると大変得した気分になる。
昔みたいに水素ではなくヘリウムを入れているのだからヒンデンブルクのような爆発事故は起こらないはずだし、もっと多く使われてもいいんじゃないかと思うがスピードの問題か?
実態はよくは知らないが、安全性に問題がないとして、もし十分な金が使えるなら、自家用飛行船が欲しい。とても欲しい。

| | トラックバック (0)

リトミカ・オスティナータ

長らくプロフィールが途中までのまま、かつ、いい加減だったので、ある程度正確に、また無駄を省き、書き直しました。
また折を見ては書き足し書き直します。
で、ひとまず今はこの形。

http://homepage3.nifty.com/annabel/takahara.htm

| | トラックバック (0)

乱ありてなお森々たり

過去は悔いばかり未来は怯えばかり現在はなく過去ならぬ栄光未来ならぬ期待のみ。

| | トラックバック (0)

海もあらん空もあらん

「それはなかなか経済だね」
という言い方って今はしないが、意味はわかる。ちょっと古臭いのがかえってよい。
明治末期から大正くらいの感じがするのだが確かかどうかはわからない。

ところで「ご時勢」という言い方はなんとなく昭和中期、高度成長期の新聞雑誌にとりわけよくあったような気がするがどうだろう。
今も現役の語である。意外によくみかける。
だが嫌い。
ことさらに「われわれ庶民は」と代弁する人が、自分の階級闘争的な怨恨を勝手に「普通の人」全員に託して語ろうとするヤな感じに近いか。お前の仲間であるなんて認めた覚えはない。
「このご時勢、……」というときの語りの姿勢は、なんか、オートマチックに「われわれ=庶民=弱者」と決めて疑わないそのオピニオンリーダーの態度に近い無神経さを感じさせる。「お上」とかの言い方も。

もっと使うのがおもしろい「昭和語」、捜しています。

| | トラックバック (0)

陸続と立ち上がる黄昏の塔

長らく、自信満々というのはあまりよいニュアンスでとらえなかったし、今もそうだ。
「自信満々」を強く感じさせる人たちのあまりの浅薄な自慢根性が厭だったという記憶による。
だが最近、美術評論家の樋口ヒロユキさんが「アーティストとして成功する人にはたいてい無根拠な自信がある」と言っておられるのを知って、このときふと、私がこれまで嫌悪してきたのは「自信のある人」ではなくて、「自信ありげにふるまおうとしているだけの、実はしょぼい見栄っ張り」ばかりだったことにようやく気づいた。
その証拠に、そういった人々の中で成功した人を見たことがない。
語る話みな自慢という人があるとき「三日で流し書きした原稿を○○文学賞に送ったら、一次予選通ってた。こんな程度でも一次予選通るんだよ俺は」と言っていたが、そんなに実力があるんなら三日でなく半年くらいかけて書いて二次予選通過しろよ、と後になって思った(私の常としてその場での適当な突っ込みは思いつかない)。
もう20年くらい前の話。その人は今も作家デビューはしていない。
さて、そして、本当に自信ある人は決してこれ見よがしな自信ある態度というのをとらない。
見せようとするための自信は自信でない。
こんな当然のことを書くのは、駄目な勘違い例を意識し嫌悪し過ぎることによって、本物を逃してしまわないようにするためだ。
で、確かに無根拠な自信は必要だね、という話。
樋口さんありがとう

| | トラックバック (0)

笑みたまえその翳り

他者に見え感じられていて、自分に見えていないこと、感じていないことはきっとある。
きっとあると思うのにそれがあることすら推測でしかわからない。
他者に感じられ自分には感じられないものがあることを私は詩や小説で学んだように思う。
文学はときに自分には得られないものの実在を示唆した。
証明はしない。ただ唆すだけだ。それはある、お前に見いだせないものが必ずあると。

| | トラックバック (0)

懐かしくうろ憶え

最近、日本で、整合性のない、説明のつきにくい事件やアクションが起こる小説が増えていると思う、と言う高橋源一郎氏の言葉に対する、柴田元幸氏の言葉

 それはアメリカもまったく一緒ですね。これはたとえば「世の中はそんなに甘いものじゃない」という言い方が説得力を持たなくなったということと根はひとつじゃないかと思うんです。「甘いものじゃない」という言い方をするということは、世の中はきちんとしたものだという前提に立っているわけです。
 でももう誰もこの世の中がきちんと成り立っているなんて思わなくなったし、もう「世の中そんなに甘いものじゃないよ」という言い方を誰も信じなくなった。そういうふうに世の中は筋が通ったものであるはずだという発想がもう説得力を持たないということと、こういう整合性を信じない小説が出てくるということはすごくつながっている気がするんです。

        (『柴田さんと高橋さんの小説の書き方、読み方、訳し方』p.75)

てことだと本日思うので賛成。

と、昨夜書いたら、本日昼、あんまりタイミングよくこんな記事が出てたので貼っとく。

http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20090605-00582/1.htm/a>

| | トラックバック (0)

求めゆく心かな

共感/驚き問題をもう少し。
「共感を求める読者は二流三流」「常に驚きと断絶を求める読者が選ばれた読者」などという言い方は心ある読書人はしないから、これは心無い人が勝手に決め付けるときの言葉を先取りしたものとお考えください。
それにしても、相当ものわかりのよい頭の鋭い人でもけっこう独断的に「でもこれ、あんま高級じゃないな」と思いがちな匂いのようなものがあって、それがどうも「押し付けがましい親しさ」といったところではないかと思う。
そういうのを嫌う人は、たとえば刺刺しい・違和感一杯、といった世界が、しかしそこにあるチャーミングな一部分によって読ませるようなものになっているとき、激しく心惹かれるのではないか。違うだろうか。
いつか、ずっと前、「詩的なものに全く対立するセンスの悪さ」をたとえるのに、「酒場で上機嫌になって大声で話している赤ら顔のおじさん」という表現を使った人がいて、そのたとえはある程度言い当てているとは思ったが、しかし、その種のオヤジ的な無神経を責め過ぎることを、1990年代半ば以後、私は疑問に思い始めた。
そういうのは実は私も嫌いで、また、やたら馴れ馴れしい態度というのも厭だが、といって、表現である限り、他者に向けて勝手に語りかけているという意味では「孤高の詩人」だって変らないのだ。
表現者は常に、自分も上機嫌で語り続ける見苦しいおっさんであることを忘れるな、ということだな、という話、になると共感/驚きの話からやや遠ざかってしまうのだが、やっぱりどこか深い所で通底している問題なのだと思う。
この件、またいずれ。

| | トラックバック (0)

瑠璃の色かも

あ 5/29に記した、「公開予定のインタビュー」は、6/2に掲げた記事とはまた別です。
こちらはやっぱり7月下旬ね。

あ、もうひとつ言い忘れてた、前号の連載終了でそのまま退場を考えていた「幽」ですが、編集部からのお勧めがあって、ひとまわり規模を小さくした新連載を始めることになりました。
江戸の怪談実話について、気楽に紹介・見解を記しています。
枯木も山のにぎわいとはまったくこのことですが、ご興味あらばどうぞ。
「幽」も、今回から7月の刊行、とのことでした。

| | トラックバック (0)

野ぞ彩らる

もうネット上に出てました。
小谷さんありがとう。

http://mainichi.jp/enta/book/interview/news/20090601org00m040036000c.html

| | トラックバック (0)

« 2009年5月 | トップページ | 2009年7月 »