「寂しき帝王」と呼ばれた、という塚本邦雄だが、それはいわゆる「人間嫌い」のゆえではなく、当人のあまりの愛憎の激しさに恐れをなした人が多かったからではないか、という内容のことを小林幹也氏が歌誌「歌壇」に書いておられる、と佐藤弓生に教えられた。
(「塚本邦雄は〈寂しき帝王〉か?」歌壇2009年8月号掲載)
実際はもっと繊細な書き方なので、できれば本文にあたっていただきたいが、今、メモ的・単純に思うのは、かつてここに記した、統合失調的性格の人の孤独への強さとは真逆の性格を思わせることだ。
そもそも本人が孤独自体をマイナスととらえていなければ周囲からも「寂しき」とは言われまい。
私の考えるところでは、たとえば塚本邦雄のように、どこか強烈に才能主義、エリート的もしくは貴族主義的な印象を与えるアーティストというのは「選別する」ということに最大のウェイトを置く。
そのさい、一方で「才能のない屑は顔も見たくない」という激しい軽蔑感を見せもするが、「何か光るところが見えるのであれば社会的立場などという愚劣な慣習を無視して強く同盟したい」という意図にもなる。
これは気に入った人とだけいたい、というごく当然の人恋しさが理由である。ただその求める度合いの強さが通常と違う。
しかしまたそれは才能最優先主義であるとともに野蛮な差別主義であり、自らがその天才たちの頂点に立つべきであるという、傲慢でもあるような自負をもたらし、塚本は確かに頂点に立てた人である。
そのような絶対選別主義、それとともに「才能ある者だけの帝国(アルカディア)に住みたい」という願望とが、こうした態度を作り出したのではないか。
こういった態度は19世紀のヨーロッパで、たとえば耽美主義のような幻影をもたらしたが、とりたてて「耽美」である必要もない。結局は判定する「帝王」の眼にかなうかどうかだけである。
その差別は絶対的で峻厳だが、しかし、ときに、塚本が望ましいと認めた相手に「そこまで執着されるのはわずらわしい」と感じさせる場合もあったものだろう、誰もが「帝王に選別されること」だけを優先するわけではないからだ。そして誰もが帝国の権威に服するわけでもないからだ。小林氏はそんなことを想像させる例もあげておられる。
やはり寂しいことだ。天才であり帝王だが、その帝国に長く住めた国民は少なかった様子である。
とはいえ、寺山修司や岡井隆や葛原妙子、あるいは三島由紀夫、中井英夫、等々、そういった天才たちとの相当深い同盟関係を持つことの出来た塚本邦雄は幸せなアーティストであった。
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