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ともしくはあらず

(承前)

物語のための作為というのは早い話がストーリーに矛盾のないよう配慮する、いわば辻褄あわせだ。
この辻褄あわせがなかなか楽しくもあり、おおむね面倒だがどちらかといえば好きな方で、その点でも私は物語という「凡庸への意志」を肯定している。

とはいえ、数ヶ月以上、くる日もくる日も辻褄あわせを続けていると、その仕事が一段落したあたりで、何か小さくてよいから隙間のような、物語的でない、断片的な言葉の恣意に任せた行いを制限なくやれる境地が望ましくなるのも事実で、これが私にとっての詩への傾きをもたらし、かつストーリー的でない小説への接近となる。

物語的仕事の後にはたいてい、できるだけ詩に近づこうとする試みがしばらく続く。
だが、あるところまでくるといつしかまた物語に戻ってゆく。
これが自分の、書くことのサイクルなのだろうかとも思う。

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そぐわしくあること

詩のための作為と物語のための作為
が異なるということ。

ストーリーの整合性のための作為

詩の偶然性をよりきわただせるための仕掛けのための作為

そんなことを考えて次号の「トーキングヘッズ叢書 40」に記す。

今回の特集は「巫女」ということらしいが、直接の関係はなしの前提。

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今なればこそ

それにしても昔はストーリーをあたため育てるってことが本当にうまくできなかったなあ。

……ってこれじゃツイッターだな。

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留守ならずただ二億年の不在

戦前の「新青年」的探偵小説を少し未来の話として、江戸川乱歩・横溝正史・海野十三・国枝史郎、入ってる、みたいな

菌類に侵され共存しつつ、意識って何

なんだか可愛いことばかり言うお化け

記憶が自分のものである保証はない、自分の知りえない記憶

ここしばらくこんなことばかり考えていてです、そのうち、ひとつずつ。

そういえば穂村さんとの対談、どう進展するのか、よくわからない。
中止にはならないのだそうだけど。

以上、少し先の話、など。

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忽然と現はるる

「元風俗ライターの民主・田中美絵子氏、映画「盲獣Vs一寸法師」で脱いでいた」
(サンケイスポーツ)
http://www.sanspo.com/shakai/news/090909/sha0909090509000-n1.htm
http://www.sanspo.com/shakai/news/090909/sha0909090509000-n2.htm

脱いでいたかどうかはどうでもよいのです。
「盲獣Vs一寸法師」に出演しておられたとは好感度200%アップですね。
応援します。

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帝王にして孤

「寂しき帝王」と呼ばれた、という塚本邦雄だが、それはいわゆる「人間嫌い」のゆえではなく、当人のあまりの愛憎の激しさに恐れをなした人が多かったからではないか、という内容のことを小林幹也氏が歌誌「歌壇」に書いておられる、と佐藤弓生に教えられた。
(「塚本邦雄は〈寂しき帝王〉か?」歌壇2009年8月号掲載)

実際はもっと繊細な書き方なので、できれば本文にあたっていただきたいが、今、メモ的・単純に思うのは、かつてここに記した、統合失調的性格の人の孤独への強さとは真逆の性格を思わせることだ。

そもそも本人が孤独自体をマイナスととらえていなければ周囲からも「寂しき」とは言われまい。

私の考えるところでは、たとえば塚本邦雄のように、どこか強烈に才能主義、エリート的もしくは貴族主義的な印象を与えるアーティストというのは「選別する」ということに最大のウェイトを置く。
そのさい、一方で「才能のない屑は顔も見たくない」という激しい軽蔑感を見せもするが、「何か光るところが見えるのであれば社会的立場などという愚劣な慣習を無視して強く同盟したい」という意図にもなる。
これは気に入った人とだけいたい、というごく当然の人恋しさが理由である。ただその求める度合いの強さが通常と違う。
しかしまたそれは才能最優先主義であるとともに野蛮な差別主義であり、自らがその天才たちの頂点に立つべきであるという、傲慢でもあるような自負をもたらし、塚本は確かに頂点に立てた人である。
そのような絶対選別主義、それとともに「才能ある者だけの帝国(アルカディア)に住みたい」という願望とが、こうした態度を作り出したのではないか。

こういった態度は19世紀のヨーロッパで、たとえば耽美主義のような幻影をもたらしたが、とりたてて「耽美」である必要もない。結局は判定する「帝王」の眼にかなうかどうかだけである。
その差別は絶対的で峻厳だが、しかし、ときに、塚本が望ましいと認めた相手に「そこまで執着されるのはわずらわしい」と感じさせる場合もあったものだろう、誰もが「帝王に選別されること」だけを優先するわけではないからだ。そして誰もが帝国の権威に服するわけでもないからだ。小林氏はそんなことを想像させる例もあげておられる。

やはり寂しいことだ。天才であり帝王だが、その帝国に長く住めた国民は少なかった様子である。

とはいえ、寺山修司や岡井隆や葛原妙子、あるいは三島由紀夫、中井英夫、等々、そういった天才たちとの相当深い同盟関係を持つことの出来た塚本邦雄は幸せなアーティストであった。

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求む者ありて

狭い庭によく繁った樹木が門番のように立ち、夜、古い西洋館の瀟洒な窓からもれる光とともに枝葉が翳り揺れる、そんな様子が幾度も思い出されるのは、どこで見たものか、何がよかったのか。

ドイツ人には森を愛する人が多い、と記した本があったが本当だろうか。

ブルックナーの音楽のやや人離れした感じは岩山のようでもあるが、一面、フリードリヒの描く「樫の森の修道院」の修道院を囲む複雑怪奇な樹木を思わせるようなところもある。

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