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日輪のごとく

久しく待たれていた東雅夫・石堂藍両氏編の『日本幻想作家事典』が遂に国書刊行会から刊行されたが、その短歌の項に関して若干の協力をしたことから佐藤弓生にも一冊いただけることとなり、本日到着。
それを私も覗かせてもらっているわけだが、こういうとき、何のかの言いながらも自分についての項目が(あるとして、だが)いかなる記述となっているか気にならない著述者はいないと思う。
いわんや至って俗物であり凡庸人である私においてをや、いささか不安となりながらも自らの筆名を探して見たというわけです。
すると、驚くべきほどに至れり尽くせりの記述があって、大変にありがたい。
執筆者に御礼申し上げます。
で、以下、引用。

高原英理(たかはら・えいり 一九五九~)本名加藤幹也。別名に秋里光彦。三重県桑名市生。立教大学文学部日本文学科卒。八五年「少女のための鏖殺作法」(加藤名義)で第一回幻想文学新人賞を受賞。以後『幻想文学』誌等に、「海ゆかば」の歌詞を即物的に現実化したグロテスクな光景を中心に据えながら、読者を幻惑に導く迷宮構造の傑作短篇「水漬く屍、草生す屍」(八六)、核戦争ですべての生命は滅び、天上界から来たMには新宿のビル街が廃墟に見えるにもかかわらず、生に執着する人々は世界がまだそこにあると信じ込んでいる「六月の夜の都会の空」(八七)、土俗ホラー「かごめ魍魎」(八八)などの短篇を発表。硬質なイメージで構築された異世界ファンタジーから陰惨なホラーまで多彩な作風を示す。著書にホラー短篇集『闇の司』(〇一・ハルキ・ホラー文庫、秋里名義)、『稲生物怪録』をもとに、妖怪の試練に耐えた現代の姉妹が、卑小な怨恨から亡霊となって妖怪に取り憑き、その力を増大させて人々を操ろうとする悪霊に立ち向かう長篇ファンタジー『神野悪五郎只今退散仕る』(〇七・毎日新聞社)がある。また、「語りの事故現場」(九六)が群像新人賞評論部門で優秀作となり、以後は評論活動でも知られるようになる。評論集に、尾崎翠『第七官界彷徨』ほか、自由な自分を守るために戦う女性たちを描いた作品を紹介・分析することで、女性が強いられてきたものを逆照射すると同時に、未来の少女像までをも幻視する『少女領域』(九九・国書刊行会)、三島由紀夫論を中心に、少年愛=自己愛を奏でる作品群を取り上げ、近代文学の中で抑圧されてきたものを抉り出した『無垢の力』(〇三・講談社)、〈ゴシック〉というタームで様々な文学・文化・現象を読み解いた評論『ゴシックハート』(〇四・講談社)『ゴシックスピリット』(〇七・朝日新聞社)、折りに触れて書き綴ってきた幻想作家をめぐるエッセーを集めた『月光果樹園』(〇八・平凡社)がある。
【抒情的恐怖群】短篇集。〇九年毎日新聞社刊。〇八年『文學界』掲載の「グレー・グレー」を除き書き下ろし。〈顔が半分しかない少年〉の都市伝説を探求するうち、おぞましい町の機構に取り込まれていく、都市幻想の白眉ともいうべき「町の底」、呪いの伝染と妖怪とをミックスし、さらに語り手の惑乱という要素を付け加えた「呪い田」、木陰で見る夢が現実になるという童話を遠く木霊させた記憶改変物の「樹下譚」、ゾンビとして生きることのリアルを追究しつつ哀切な愛の物語に仕立てた「グレー・グレー」、闇から生まれた女を伴侶とし、〈夜の夢こそまこと〉を生きる女を描く「影女抄」、不吉な場所としての石舞台を生々しく描いた「帰省録」、人面疽テーマの面目を新たにした「緋の間」の全七篇を収録。人肉嗜食、人体損壊、呪物、霊など、ホラーの古典的素材を昇華させ、巧緻な語りの技術で幻惑的な幻想小説に仕上げている。短篇作家としての高原の美質が発揮された作品集である。

以上、引用終わり。これが以後、私についてのスタンダードな紹介となると思えば嬉しいことだ。
それにしても、この事典が出る前に、今のところ会心の作品集と考えている『抒情的恐怖群』を刊行できて本当によかったと思うのです。

なお、佐藤弓生の項は以下のとおり。

佐藤弓生(さとう・ゆみお 一九六四~)歌人。石川県金沢市生。関西学院大学社会学部卒。夫は小説家・評論家の高原英理。九八年より『かばん』会員。詩人として出発し、『新集・月的現象』(九一・沖積舎)『アクリリック・サマー』(〇一・沖積舎)を上梓。短歌へと移り、〇一年「眼鏡屋は夕ぐれのため」で角川短歌賞受賞。モダニスティック、感覚的、瞑想的と評され、ファンタジー小説や少女漫画の雰囲気を持つ歌も多い。歌集に『世界が海におおわれるまで』(〇一・同)『眼鏡屋は夕ぐれのため』(〇六・角川書店)。〈まっくらな野をゆくママでありました首に稲妻ひとすじつけて〉〈どんなにかさびしい白い指先で置きたまいしか地球に富士を〉
 英米文学の翻訳も手がけ、P・W・ジョイス「メイルドゥーンの航海」(九二)、ヴァージニア・ウルフ「鏡の中の貴婦人」(九八)などがある。

以上引用終わり。

上の引用について、著作権上の問題があります場合はご連絡ください。削除いたします。

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しかしてゆえに

なんか、「私の作品のここが読めてない」と言って評者を憎む人もいますね。
そういう意識もあってしかるべきとは思いますが、といって、私としては、悪口でも明らかな誤読でもまず言及対象になっているということの方が重要だ。
そりゃあさあ、こいつ本気で読んでないな、義務的に触れてるだけだな、と思われるときは気分悪いわけだし、今どきその基準かい、とかヤんなることもいくらでもあるわけだけども、私の経験でも、依頼されて書いた書評のいくつかは確実に「義理で仕方なく読んでみたらやっぱりつまんなかったけど、頼まれてのことだし、ここで悪いところだけあげつらうのはなんか紹介的書評の意味がないので、無理にでもいいところをあげておきました」というものだ。
書評も素晴らしいものは決してこうではないが、しかし、結果的に仕方なくいいところ捜しましたというのも必ず出てしまうのである。
そこには義務感はあっても愛はないので、とかくいい加減な粗雑な、勝手な基準に沿った読みにもなり易い。
しかし、それというのも、その作品をなんとかして書評の対象にして、少しでも読者を増やしてやりたいという編集の方々の熱望に誰かが従ってくれた結果なので、そういう配慮がたまに裏目に出たとしても、「この尊い私の作品をないがしろにしたな」と怒るのは傲慢に過ぎるというものである。
もともと文学作品なんてなくても困らないもので、とことん無視されても仕方ないのであって、何にせよあれこれ言ってもらえるのが花とわきまえるべし、というのが今のところの自分の、いわばモラル?みたいなもの。

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やはり、というべし

やはり、だ。
以前と変らず好きな作家作品について何か記すことは今もあるが、しかし、自分の仕事の動向を離れて、全く無私の心持ちで無関係のすぐれた作家や作品を紹介するというようなことは自分にはもうできないのだなと最近感じる。
かつて「文學界」で「新人月評」をやっていた頃はその気持ちが少しはあった。
ごく粗くいえば、評した作品のおよそ一割が自分も気に入り、私の考えるところでの「客観的価値」もあると思えるものだったが、他は約三割程度がいくらか気に入るところはあるがあまり「客観的」には評価されないだろうと思えるもの。
逆に「純文学」にとっては価値を認めるべきだろうが私には好きになれないという作品が三割~四割くらい。
自分として認め難く、技量にも欠けるのが一割くらい。
残りは可もなく不可もないといったところか。
自分として気に入らず技量にも欠けるという約一割の作品だけにはやや冷たく短い言葉で済ませたが、それでも否定はしていない。他も、特に批判は控え、たとえ自分があまり好きになれなくても何かの見所を捜し、指摘した。これからの作家にはできるだけ励ましを与えるつもりでいた。
思えばあの頃は、自分に求められている「よいトレーナー」の役割を甘受していたわけだ。
それはとても尊いことだと思う。今もそうして新人を励ましておられる方はいる。
そうやっていつまでも新人を暖かく発掘し励まそうとし続けられる人こそが本当の文学の批評家であるのだ。こういう人を業界は大切にすべきだ。
どうでもよい作家の宣伝のための対談相手などさせてはいけないと思う。
作家などいくらでもいるのだから、数少ない、貴重な真の文学批評家こそを催しなら催しの主体とすべきだ。
それに対して作家は「でも創作家あっての評論家だ」などという幼稚な優越の幻影を捨てるべきだ。少なくともそのようなことを言う君などいなくても真の文学批評家は存在する。
むしろ、文学などにこだわらず世界すべてを評することがいくらでもできる批評家評論家が、わざわざ文学という狭い世界に留まってくれ、あまつさえこの小さな一作家に言及してくれているということに喜びと感謝をいだかねばならないと思う。

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獏に食わしむや

何にしても現段階で小説の単著が三冊しかないわけだから全貌なんて見せようもなく、わかってもらえようもないわけで、地道に刊行を続けるしかないのだが、とはいえ、この場ではこんな面もありますといったことを記す。
『闇の司』と『抒情的恐怖群』とはホラーノヴェルとされる形で刊行されており、前者に収録の表題作および「水漬く屍、草生す屍」は和風ホラーの典型と言いたいと思う。
後者に収録の「グレー・グレー」は純文学誌に掲載されたもので、そこの編集の方から「ラヴストーリー」と指摘していただいた。
同じく後者収録の「樹下譚」も「影女抄」もある種のラヴストーリーとは言える。
ホラーノヴェルの名に恥じないのは「町の底」と「呪い田」。他はダークな幻想小説とする方が据わりがよいところもある。
『神野悪五郎只今退散仕る』は、妖怪は出るし怪奇な場面もあるが怖い話ではない。ホラーとは言えず便宜的に「妖怪小説」としてみるものの、そういうジャンルが確立しているわけではない。
妖怪をテーマにしたメルヘン的なファンタジー、とするしかない。
実は私がこれまでに発表して単著としての単行本に未収録の短篇というのはどちらかというとファンタジーとすべきものが多い。幻想小説と呼ぶのは間違いでないが分類したことにはなりにくい。
「少女のための鏖殺作法」「黄昏黙示録(これは改題の予定)」「青色夢硝子」「憧憬双曲線」「クリスタリジーレナー」「猫書店」いずれもファンタジーだ。
「日の暮れ語り」「よくない道」は明確なホラー。
「かごめ魍魎」はホラーとも言えるが苦く怖いファンタジーでもある。
「六月の夜の都会の空」「たゞうたかたの」は作家をモティーフにしたパスティーシュ。
純文学誌に掲載の「石性感情」も純文ではあるが、一面ローファンタジーとも言える。
他にも若干あることはあるが大方はこんな様子で、こう見てくるとまだまだやってないことの多いのが残念に思えてくる。
やはり続けるだけのことだ、と再び記さざるをえない。

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度も強ければ

幼稚さということでは、これは素質のようなものだと記したが、つまり、その気で警戒的に話しているかぎりそういうところはあまり出ないが、いい気になって、あるいはリラックスして、あるいはある点でそれも仕方なしと開き直って話すようなとき、周りとかバランスとかを忘れて子供のような視野の狭さを示すときがあるという意味。
大学で教えているようなときはまず見せないところだが、私には根にこういう幼稚さ・夢中になるあまりの周りの見えなさがある。
たまにそれを面白がって突っ込んでくれる人もいて、お笑いになるのであればそれでよいのだが、一方で「これはいい引き立て役だ」とばかり、自分のシャープさ批判意識の鋭さを強調するために幼稚モードの私と自分との差を強調しようとする人もいて、そういうときは対話が成立しない。
するとやはりそのあたりで対話すべき他者は選ばないといけないなと思ったりもする。
さらに後で考えるのは、リアルタイムのその場で格好のつけられる人はそれが才能だが、といって、周囲の鈍臭そうな誰かを踏み台にして目立とうとするのはやはり三流以下の人だということだ。

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蜘蛛の脚長けれど

純文学の価値を好みで決めるというのが実のところなかなか難しい。
完全にエンターテインメントと並行に置くような言い方をすれば簡単だが、純文学はただ愉しませるものではないというのが建前で、といって、読むのがつらいだけであればわざわざ時間をかけ集中力を向けて読む気にはならない。
実際には江戸川乱歩を読むような調子で読んでいたりもするのだが、ただ相当に注意深く読もうとする若干の作家だけはやや区別されるか。
といって、その注意深い読書の喜びが江戸川乱歩の面白さを上回っているかというと必ずしもそうではない。
ただ、何か新たなことが生じはしないか、これまで考えもしなかった異質な喜びがありはしないか、という期待はある。
それと、これも結果としてだが、私にとって純文学はただ読むだけのものではなく、それに影響されることで自分の作品を制作するという場合がけっこう多いことに気づく。
いやしかし、読んでいるとき、利用しようと考えているわけではない。
それでは愉しめない。
いやいや、愉しむことが第一の目的ではないのだが。
と、こんなふうに、考え始めると焦点が常にずれる、それが私にとっての純文学らしいです。

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縷紅草 (るこうそう)ひらく

かねてそうではないかと思っていたことだが、どうも人より何かが遅い。
身体的な年齢は他と変らず重ねている。
また、よく自らをさして「精神年齢が云々」という言い方で自己の幼稚さを強調してみせる人がいるが、そのような意味の受けを狙うつもりもない。
自分も幼稚なのは認めるが、それは一生にわたる素質なのであって成長していないのではない。幼稚なりに知るべきことは知った。
ただ、あるべき時間の経過がどうもいくらか遅くやってくるように思える。
具体的には、この齢になってようやく新人研修を終えた、というような感じか。
だからといって、一般の新人さんたちと同じく先が十分長いということにはならないのが困ったものだ。
そのためいくつか、もはややれない、やる余裕のない仕事がある。
そこだけは齢相応である。
と、ここしばらくの感想。

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きわやかなる

精神論的な問い詰めというのは事実上、負けた側の言葉である。
被害を受けながら相手を法的物理的に処罰できない立場の者が「現実にはお前に手を出せないが、本当はお前は間違っているのだ、反省しろ」と告げる。
以前、不祥事を起こしたNHKに対して「私たちが金を払っているのだということをかみ締めて……」といったことを言う人がいたが、結局それはしたい放題をしている相手に何ら実質的な罰を与えられず指図もできないわれわれの「取られ損」の度合いを強調するばかりのように聞こえた。

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頭は重き

佐藤弓生から聞いた話

塚本邦雄氏の御令息である作家の塚本青史氏は、「どうやったら小説が書けますか」という質問をする人があると次のようにお答えになるという。

全く本を読まずに書くのはうまくゆかないが、といって、読みすぎても書けない。
それでまず、自分にとって大切と思える本を百冊読んでから書き始めなさい。

自分にとって大切と思えるというところが重要。
必然性なしに読んだだけでは価値がないということ。

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