« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »

霧中の回想などほか

今年の執筆に関する回想、付・予定

■短篇集『抒情的恐怖群』を今年四月、毎日新聞社から上梓。

一昨年の『神野悪五郎只今退散仕る』はそれなりに会心の作とはいえ、自分のこれまでの仕事の傾向からすれば、これだけでない、もう少々見せるべき別の世界もある、という意識が残った。その意味で、まだ他のプランは多々あるものの、ひとまずこの本を出版できたことで、わかってくださる方にはわかっていただける成果を示すことができてよかった。聞くところ、現在の出版界の状況はとてもよくないので、こうしたものが堂々と大手から刊行されるのは大変な僥倖であるらしい。むろん編集の方と版元とには大いに感謝するところだが、ただ、「状況がすべて」「貧乏が当然、分を知れ」「高度なものは売れないからレベルを下げろ」といった腐った奴隷根性を前提としてものを書くことはこの先もない。むろん、より広く読んでもらえるものを書こうと思うことはあるが、その場合もすべて自発的でなければならない。今回、このいささか気難しい一冊を公にでき、次に純文学にかかりきって完成後、この先しばらくは、より娯楽性のあるものが楽しいという気になった。外からの無理強いによってよい作品を書くことはできない。まず一度満足のゆくほどやりたいことができれば、次には全く異なった方向へ向かうことができる。この作品集はその点でも要となった。

■「日々のきのこ」脱稿。小説、70枚。

これがその純文学作品。来年早々1月7日刊行の「文學界」2月号に掲載されます。

■長編『ゴシックディテクティブ』(仮題)ほぼ完成。

現在のところ570枚。「日々のきのこ」を書き終えた後、じゃあ今度はもっとエンターテインメントらしいものを、と考えて書いた。刊行には今しばらくかかりそうだが、来年中には出るでしょう。題名も変更する可能性あり。カテゴリーはミステリ。

■可愛いお化けの話(題未定・連作長編)、来年執筆予定。

冒頭から50枚ほどは既にできている。来年中には完成させたい。

■穂村弘氏との対談集『あこがれこざる』白水社から来年?刊行予定。

長い。もう五年越しだ。といってあわてる気もないし、編集の方によればどれだけかかっても必ず出しますという話なので気長にやっている。既に五分の四程度まで終わり、あともう一回だけ対談することになるようです。穂村さん、どうかよろしく。

今年、特によかったこと

■『日本幻想作家事典』刊行。

いま一度記すが、これが編纂刊行される前に『抒情的恐怖群』を刊行できて本当によかった。まだ先はあるつもりだが、この一冊を私の2009年現在の到達点として、ここに記していただけたのが何より嬉しい。

■ハーマン・メルヴィル『白鯨』(阿部知二訳)を遂に読了。

非常に長い期間をかけて断続的に読んでいたもの。そのようにも読める形態の長編である。ここにある、したい放題の博物学的記述の繁茂を見て、「日々のきのこ」を書いている間、これでもいいのだ、という安心感をもらった。

■堀田善衞『定家明月記私抄』正・続、読了。

自分を定家にたぐえるのはあまりにも僭越だし、そんなつもりなのではないが、ここに伝えられてくる、狷介でかつ小心、しかも創作芸術意識以外の部分がきわめて俗物的な芸術家像がとても他人事と思われず、ついつい読み進めてしまった。名著だった。

■田代櫂『アントン・ブルックナー 魂の山嶺』読了。

どこまでいってもお洒落にならない、世慣れない、今ならイタいと言われ嘲笑されるだろう人柄の作曲家ブルックナーだが、しかし実のところ、世にイメージされるような「無垢で素朴な芸術の使徒」でもなく、時に計算高く、時に権力意識丸出しで、自己顕示欲も強く、よく僻む、というようなところ、また彼の実情は本人が訴えるほどは不遇でなかったことなど、よく調べた冷静な記述が特によかった。名著だった。

■ゴシックカルチャー研究会刊「コムニオ コフィン」刊行。

6号まで続き、特別号を一冊追加の後、しばらく休刊していた研究誌「コムニオ」の合冊。巻末には雨宮処凛・鶴見済両氏による対談を新たに追加。これについては過去の記事をご覧ください。よい出来になりました。
なお「コムニオ」は近く、復刊します。特集は「猟奇」。おたのしみに。

■上野・国立科学博物館で「菌類のふしぎ」展開催(2008年10/11~2009年1/12)

実際に行ったのは昨年の12月なのだが、今年まで続いていたので記す。本当に面白い、さまざまに想像を反応させることのできる催しだった。図鑑も買った。ここで見たことが「日々のきのこ」に反映していることは言うまでもない。

■板橋駅近くに、私たちの親しい人がカフェ百日紅(ひゃくじつこう)という店を開く。

それで来客・馴染み客の増加をめざし、今年11月以後月一回、だいたい第三金曜日の午後8時くらいから、ささやかな談話会を開催することにした。参加費はワンドリンクオーダーのみ。
第一回11/13(金)のテーマは「『塚本邦雄を考える』を考える」(『塚本邦雄を考える』は歌人・岩田正の著。これをきっかけに塚本について語った)
第二回12/18(金)は「江戸川乱歩、その可能性の中心」(ただ、まだ核心まで行けなかった感があるので、いずれ再度続きを行う予定)
第三回は1/15(金)の予定。これについては来年になってからここでもお知らせします。テーマ、場所・地図、等もそのときに。

| | トラックバック (0)

しむしむたむ

古本自慢のような記述は普段しないが、珍しいことだったのでたまにお許し願うとしたい。
本日、吉祥寺「百年」という店で、今年夏頃出た、堀江あき子編『昭和少年SF大図鑑』を見つけて安く買ったのだが、それだけならどうということはない。
続いて「よみた屋」という店へ行くと、早川書房の『世界SF全集 第33巻 世界のSF(短篇集)ソ連東欧篇』が、箱汚れ、帯・月報付き、小口やや焼け、表紙・背美の形で2000円だった。
この『世界SF全集』はほとんど集めたが、『10巻 ハックスリー:すばらしい新世界/オーウェル:1984年』とこの巻とがないまま、随分経った。最初、全巻揃える気はなかったのだが、たまたまある時期、持っていない巻を安く見つけたりしたことがあり、結果としてこの二冊以外が揃うこととなったのだった。
10巻については、自分が社会風刺SFというのに全く興味がない(というよりそういう不愉快なのは読みたくない)のでこの先も読むことはないと思う。だから揃わなくとも構わない(ただし激安で美本が見つかればただ全巻揃えるためにだけ買うかもしれない)。また二冊とも他の形でも刊行されている。
それに対し、33巻は、今では得られないやや特殊なアンソロジーで、より貴重である。
かつて『世界SF全集』を買い集めていた70年代から80年代の頃、SFは英米の作家と70年代の日本作家ばかりに注目していたので、ソ連・東欧という地域の作家は(レムとかベリャーエフとかの一部を除けば)まるで知らず、従って、欲しい優先順位になかなか上がってこなかったのだ。
全集最後のところに五巻分入っている「短篇集」も、英米篇(古典/現代)日本篇(古典/現代)の4冊まで持っているのにこの「ソ連東欧篇」だけは買わないままになっていた。
しかし、90年代以後になって、旧ソ連もそうだが、何より東欧の幻想小説に大変なものがあることを教えられ、SFといってもその種の幻想小説と全く別ものでないことも知り、その頃からこの33巻が俄かに欲しくなったのだが、どうもその時期にはあまり見かけなくなっていた。
本気で買うつもりなら今はネットですぐ購入できるだろうが、たまたま目の前にこないと思い出さない。しかもこれで2000円なら高くはないと思い、購入。
そして店を出ようとしたとき、店先の100円本のところに、中城健による漫画版『ウルトラQ』が見つかる。これは昔の新書サイズのものを一部持っているが、こちらは後に紛失原稿分も補った大判一巻本で、これまたけっこう貴重なのである。それが100円とは驚いた。
ウルトラQ漫画版といえば、絵でいうなら私は後のシャープな藤原カムイ版を好むが、これはこれとしていわば過去の文化遺産といえるものであり、それが100円で帯までついてかなり綺麗なのだから、もう一度店内に戻って購入した。
ということで、予期しないSF本ばかり買うこととなった。
まことに本日はSFの神様が降りていらしたのだと思われたことである。

| | トラックバック (0)

むつかし

「そんなの気持ちの問題じゃないか、気にするな」という意見って、一番役に立たない。
何より難しいのは気持ちを一番いい位置にセットすることだ。

| | トラックバック (0)

凛然たらむ

江戸川乱歩は特に戦後、知的論理的ミステリを称揚したとされるが、当人の仕事の大半は怪奇小説と言ってよい。
そのことが後年の乱歩にとって実際にどう感じられていたのかはわからないが、彼の随筆に見る限り高い評価とはいえない口調が多い。
ところが詳細に見てゆくと、そういう言い方をしながらも怪奇幻想的な短篇には相当愛着を示していることもうかがえる。
パイオニアであることの栄光とは別に、どうも、乱歩には、怪奇幻想作家であること自体を誇るための周囲の受容の仕組みが不足していたように思える。
受容の仕組みというのは、ただ人気がある、ただ売れる、というのではいけないのだ。それだけでは「売れるだけの低級作品」という、芸術家(という地位を得た人々)からの激しい否定が向けられるからだ。
本当にあるべき受容の仕組みとは、何人かのオピニオンリーダーによって、その在り方がそのままで芸術的であり、高級なのである、と告知し読者を言いくるめる場ができていることだ。
かつての三島由紀夫、そして現在の村上春樹がそうであるように、「たまたまよく売れているけれども、これはもともと高級でハイセンスな文学なのだ」というプロパガンダが既に完成しているとき、その作家はより自分の資質に従った自由な創作を続けることができる。
たとえば、「これは高級なのだ、わからない奴は愚かで可哀想なことだ」と常に「わかっていない大衆」をリードしてくれる批評家がいるか否かによって作家の自由の度合いはまるで異なってしまう。
戦後の乱歩の場合、自分自身が批評家をも兼ねなければならず、その場合、ミステリを「高級なもの」として周知させるには、「探偵小説」を「推理小説」と呼び換え、その上で当時の文学的高級さの標準であった左翼系純文学に通ずる社会主義リアリズムに合致する作風を持つ松本清張を日本ミステリの典型と見定める作為が必要になったのだろうと私は想像する。
それにより、ミステリの文学的地位は上昇したが、このために自己の過去の作風の何割かを否定的に語らねばならなかったとすれば、乱歩にとって不幸なことである。
今ようやく、謎解きや知的論理的部分とは別の怪奇幻想自体に見える乱歩の、他には得がたい可能性が、たとえば三島や川端とも同列に語られ始めている。そしてこれは、戦後の精神状況をある程度経巡ってからでないとありえない受容であることはわかっているが、それにしても、戦前の作について「エログロという俗情との結託を意識的戦略的に遂行することにより、従来見ることのできなかった制度的限界をも可視化しえたきわめて先鋭的な作家であり」とかなんとか言える批評家がもっと早い頃からいたら、などと、ふと考えてしまう。

| | トラックバック (0)

多々あるなり

いかに幅広い知識、精緻な論理を展開していても
よく吟味してゆくと
「だから俺は偉いのだ」
に収束する言葉は意外に多い。

| | トラックバック (0)

るるも来た

芸術至上主義や耽美主義が典型だが、美意識をある程度公式化したがる傾向というものは自他の絶対的な一致への疑いから発している。
つまり社会的なのだ。
世紀末以来、世俗的なもの、常識的な態度、社会的慣習によって均一化された凡庸さ等を激しく軽蔑した芸術主義者たちの批判意識の突出が強烈で、それらの主義が社会性という名の「選ばれなさ」を拒否した詩的美観の勝利としてイメージ的に受け取られることが多かったためか、彼らは非社会的で超然とした特別の地位にあるかのように見なされてきたようだ。
しかしそれはその特別性がそのようにプロパガンダされた結果であって、実情は、決して一致し得ない自他の差を、他者に「この俺の見解に従う者は特別に選ばれた者である」と思い込ませることによって暴力的に一致させようとした戦略の成功がそうさせているものだ。
アプリオリな絶対や真実を信じる確信者はそういった党派性に意識を向けることがない。
ただそういった確信の強さが、当人の意図を超えてプロパガンダとして作用する場合があり、そのとき、彼の確信を共有しようとした社会性豊かな追従者が当人の代わりに党派的活動を続けるのはよく見られることだ。
あたりまえといえばあたりまえだが、結局は好悪に発する美意識を神とすることはできない。
確信は様式では抱えきれない。
自ら主義者でなかった、後に第一級の芸術家とされた人々は、公式化できる美しさのために何かを表出したわけではなかった。
以上、宮澤賢治を念頭に置いて書いた。

| | トラックバック (0)

« 2009年11月 | トップページ | 2010年1月 »