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はたりと閉じる宝石の匣

黒瀬珂瀾第二歌集『空庭』を語る会というのを聞きに行って、発言を勧められたのでいくつか言及した。
俄かのことでもあるし、常のとおり言い残しがあったのでここにいくらか補足します。
といって確固たる根拠を提示できるわけではないので仮説程度。
黒瀬珂瀾という歌人の作歌上の意識はなんとなく、前衛短歌から出発しつつその後の曲折を我がこととせずにニューウェーブ以後の最新情報を摂取した結果のような気がする。
つまり、60年代以後のヘーゲル的展開もしくは政争とは別に、枝分かれしたところで前衛短歌の直系として存在する。
彼が師とした春日井建、そして塚本邦雄らのとりわけ表現優位の方法が基本だが、その後のたとえば穂村弘がさんざんぶつかった「80年代を生きた自分にはこのやり方しかないが、バブル以後の現在、これで受けるのだろうか」という怯えは関係がない。
やろうとすれば大抵の様式をものにすることができるからだ。それがポストモダンということなので、よくされるように穂村をポストモダン的と呼ぶのは間違いである。それは「村上春樹的」というだけのことだ。全く多様式ではありえない。穂村弘は非常にセンスが鋭いとともに非常に不器用な歌人である。
それに対して多様式の歌人である黒瀬は、眼前にサブカルチャーと呼ばれ最も若い層に共有される文化があれば容易く自らのものとできるし、逆に60年代の前衛短歌とその時代に優勢であった左翼的姿勢を表層揶揄的なものとしてでなく正しい形で記憶し、端々にほのめかすこともできる。
だがそこにも厳とした選別があり、基本的にクールでないものは受け付けない。
ところがその一見スタイルだけを優先しているかのような態度の中に、ときおり他と交換できない偏愛を見せる。おそらくそのひとつが戦後派的視線への同一化だろうし、また、いくつかのTVアニメを例として浮き上がるストーリー的複合点だろう。
世の人は「不器用な天才」が大好きだ。
その逆を行くのは茨の道と思う。
だが、いかにでもありながらこれしかないと見極めるものが見えたとき、もはや迷いはないはずだ。そうあることを願う。私の考えではそれを導くものが彼の偏愛である。

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