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肝心なところで言い間違える人友の会

5月カフェ百日紅では広く文学を語りましょう。

5/21(金)20:00~ 文芸と文芸評論

「80年代は、文学やってますと言うだけでも勇気が要った」というのが以前、穂村弘さんと対談したときの一致した感想だった。
本当にそうだったのか。わからない。
一番の理由は自分が何のタイトルもなく無名だったことだろう(無名は今もね)。
「そんなに書きたくもなかったけど、業界の人に勧められてささっと応募してみたら新人賞もらっちゃってぇ、みんながあんまり騒ぐから、今、新作書いてまーす」(←おなじみアイドルスカウトの新人作家ヴァージョンしてみました)とかなんとか周りに認められているような状態(事実上ありえない)でもないと、「小説書いてます」とはかっこ悪くて言えなかった。
ところが、90年代から普通に「文学好きです」「小説書いてます」と言う若い人を見るようになった。
結果なんてわからない、流行もかっこよさも関係ない、ただ好きだからやってます、とやっと素直に言えるようになったのか、と思った。というより、かっこよさにこだわることの方がかっこ悪い、という受け取り方になってたみたい。
それまでは、「既に成功していないと何を言うのも恥ずかしい」とか、相当お洒落で有名でもないと表現行為そのものがもうださい、っていうような感情をかきたてる、勝者の視点しか認めない的空気があったのではないか、と今思うが、私の周囲だけだったのだろうか。
何より、「文学は終わった」「今どきブンガクぅ?」と言って見せる態度が文化全般に流行っててなんかヤだった。
随分後になって笙野頼子さんがこの非生産的な軽薄さを激しく撃った。
でも一番駄目だったのはそういう空気に負けていた自分です。
今、それを取り返すように語りたい。
俺は文学が好きだー。

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胃痛要因排除週間

夏目漱石の『三四郎』は、恋愛にどうしても勝ち負けを見る、そこに自分の恋愛を重ね合わせてしまう、という状態から離れられない人が読んでも真価を見いだすことはできないと思う。
ところで、最近、モンキー・パンチの絵によってアニメ化された『坊っちゃん』と『姿三四郎』が並べて紹介されているCMを見た。以前、同時期にアニメ化されたものらしい。
ただでさえ、「漱石の『三四郎』は柔道の話か?」と早とちりしてしまう読者が後を断たない(のではないかと思う、少なくとも中学生の頃の自分がそうだったから)のに、わざわざ『坊っちゃん』と同時期にって。

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ジョジョ立ち作法師範代

森茉莉の著作では「ドッキリチャンネル」を愛する人が読者として一番いいところをついているのでは、という気分も最近ある。
倉橋由美子も野溝七生子もおかしみというものが欠けている。
「そりゃあ文豪に思う存分甘やかされて育ったんだから」というような条件のことも考えなくはないが、しかし、あの自分への見極めによるおかしさはやはり森茉莉特有と思う。

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情に棹さして流された人収容所

始まりにはいつもすべてがある。
だが刻一刻と可能性は死んでゆく。
だから始まりの日はどれだけ祝っても足りない。

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社史編纂技法切磋琢磨道場

川端康成は、好きな小説も多いのだが、この人の「文芸時評」が、読み物としておもしろく読めるとともに、そこにある、小説への絶対の信頼(文芸文庫の解説にこんなことが書いてあった)が眩しい。
その確信があるから、情や利害関係への配慮にまどわされず、厳しく公平な評に徹することができた。

やはりこれだ。ほとんど信仰と同じ。
よい文学は絶対残るという確信、とか。

ところで、4/16の百日紅での「幻想文学について」はとても楽しかった。
あんなに寒い中、おいでくださったみなさま、心からありがとう。
これからもああいう話がいいと思う。
楽しくないと続かないし。

ということで、次回百日紅談話会は

「文学魂」

というのはどうかと考えています(が、まだ決定ではない)。

稲垣足穂についてというのもかねてから考えていますが、今、久しぶりにちくま文庫収録作品を全作読み返していて、これが終わったら、とします。
ただ、よく中断するのでやや先の話かも。

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賢人会議召集事務請負株式会社

明日4/16(金)20:00~です
カフェ百日紅で 幻想文学について

せっかくだから山尾悠子の作品のこととかも。むろんご希望次第。

山尾悠子のいくつかの代表的短篇を読んだ人はこれが非常に芸術的な名作であることはすぐわかるはずなのに、現在、純文学誌からのアプローチが、私の知る限り全然ない。
何かご存知の方いらしたらお教えください。

そんなことどうでもいいという意見にも反対はしませんが、私からすれば、山尾悠子の作品は、ファンからだけでなく、正統な芸術的文学としても批評対象にされるべきと思います。

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供養拠点探知犬

深沢七郎のように、一般庶民の根強さが、その意地汚さずるさ底意地の悪さ腰抜け加減欲望への執着の強さとともにある前提でそれを描くのではなく、同じ庶民をリアリスティックに描いているのに、常に童話のように可憐で人恋しいものとなる、という私小説作家、小山清。
ただし貧しい人を左翼思想的に礼賛するものではなく、どこまでも視点人物の人間のよさが感じられてくるということだ。
実際にはけっこう気難しい人だっただろうと思うが、そのようによい人を想像させてしまう手腕のあった作家、としておく。
ごく小さい世界だけを描き、作家活動が軌道に乗り始めた頃、持病の心疾患による脳梗塞から失語症となり、その生活を支える苦労から妻が自殺、そして再度の脳梗塞により53歳の若さで亡くなった。
いかに度外れたところを持つとしても深沢七郎とも倉橋由美子ともつきあいたいとは思わないが、小山清とは一度話してみたかったと思ってしまう。

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擬態保護区

倉橋由美子の逆は誰かと考えると私の場合、深沢七郎が思い当たる。
身も蓋もない。素敵さもない。だがごまかしもない。そんな感じ。
素敵なごまかしばかり書いた倉橋の反対ということ。

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右翼系社会主義

ずいぶん前だが新潮社の『倉橋由美子全作品』全8巻を愛読した。
この人はたしか、ある時期から歴史的仮名遣いを堅持するようになったが、『聖少女』や『スミヤキストQの冒険』は新仮名だったのではないか。
この先もし完全な全集が刊行されるとしたら編集方針としてこういう場合どうするのか。
原稿そのものが新仮名で書かれているものを歴史的仮名に直すのか?
著者としてはそれが望ましかったのかもしれないが。
あるいは、実はもともとの原稿は初期からどれも歴史的仮名使いだったというなら問題はない。
三島由紀夫は通俗小説での発表形態を別にして、原稿はどれも歴史的仮名遣いだったと思う。
北杜夫は、ある時期まで歴史的仮名遣いだったが、あるとき、戦後の作家として新人がたくさん出てきて、その中でわざわざ歴史的仮名遣いなのはいかにも老人くさく、受けないと思って新仮名にしたと書いていた。
北杜夫のケースはなんだか情けない動機だが、その発想に無理がない。
倉橋由美子が、もともと新仮名で書いていて途中から歴史的仮名にシフト、ということなのだとすれば、認めてもよいことではあるとしても、スノッブと言われても仕方がない。
エッセイでのなんだかなな気位の維持とパラレルな気もする。
でもあるときは確かに素敵な世界を描いてくれた。
それはプチブルの陥り易い差別主義の成果でもあったけど。

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渦巻問題調査機構

まことに今どき何を言う、だが、アニメ「モノノ怪」、よいと思います。

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苦心惨憺率逓減舞踏

素敵な世界を描ける人ほど他者への差別意識が強いという仮説。

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浮世濃度測定薬

「人格者で作品も優れている」という作家がいればそれは素晴らしいが、ほとんど聞いたことがない。
というより、作家に優れた人格なんて不要だし、もし「人格者だが作品はたいしたことない」と言われるとしたらそれが作家としては最も悲しいことではないか。
逆に「作者の人間性の低さからすれば作品はよほどましだ」と言われるなら、作品自体が二流でも何か得した気になる、と感じるのは私だけか。

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逐電人員加算砲

百日紅談話会、4月は16日(金曜日)20:00から。
幻想文学について。
こんな感じで。

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所期信念保持装置

聴いてきたぜ佐村河内守・交響曲第一番by東京交響楽団・大友直人指揮。
とりわけ演奏会で後期ロマン派の作品が好まれるようになった今であればこその企画か。
前衛ならざれば現代音楽にあらずの1960年代には難しかったのではないか。
今、私たちの耳はこういうのを欲しがっているのだ。
なお、三楽章全曲やると70分のところ、第二楽章を省略で40分って、なんかブルックナーが紹介され初めた頃のやり方みたい。

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見神効果報告書

レーモン・ルーセルはただ一度経験した執筆による言語表現の恍惚感が忘れられず、その後もかつての耀きに触れようとして書き続けたという。
常に恍惚感や神秘体験の形になるとは限らない。条件のよしあしや出来不出来の問題を越えた確信を持つことは未知の何かを伝える資格かも知れない。
そしてそれは

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苦渋発案権

「死んでも死んでもくそたれたい」というフレーズをよく覚えている。寺山修司の本の中に記録された青年の罵詈雑言の例のひとつだった。

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印象改変技能士資格

人格というものはない。
長期継続する意識はない。
断片的な念のようなものが続くことがあるに過ぎない。
人は複数の念の組み合わせで動く。

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