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狷介人脈登録表

5/21おいでくださいましたみなさま、ありがとうございました。

私と同じく「文學界」の「新人月評」執筆経験のある方がおられたので少しお話を聞くと、「未読の読者によしあしをどう説明するか」を主眼にした、とのお答えだった。
私がこれを担当したときは、「言及されている作家へのメッセージ」の意味合いが強かったことを改めて意識した。
それは私自身が作家の一人のつもりであったからだ。
よって全く小説を書かない人の評とは異なる。
この態度というのは、私の場合、どうしても自分と相容れない創作姿勢の人(実際には三人)へのやや冷淡な評以外は、結果として、新人作にできるだけよいところを見いだそうとする書き方になったので、ある作家の方からは「生産的だ」と賛成された。
私自身が作家として、されたくない暴力的な排除の仕方(世の人々が「問答無用」「ばっさり」という言い方でとらえ、時には快いとする口調や態度)を避け、かつ、できるだけ励ましになるような書き方をしていたのだから、作家の側からそれが望ましい態度だと言われるのは当然である。
だが、全く小説を書かない人による評はそういった配慮からは自由であるし、その視線も必要だ。
読者として時間を損したと思えるものは容赦なく否定するのも読者の当然の権利である。
ただ、読者側からの視線での書き方をしたと語ってくださった方の評も、そういった極端な態度ではなく、また偉ぶらない、穏やかなものだったと記憶する。
飽くまでもどちらを見るかの志向の違いであって、よい、よくない、というその評価そのものが変わるわけではない。

そこでふと思ったのは、「文學界」の「新人月評」は普段、見開き2ページあって、右左に二人の評者が書く形式になっているのだから、これからはできるだけ一方を読者としての評者(つまり批評のみ書く人)、もう一方を作家としての評者(実際に小説を書く人)に依頼するというのが、文学にとってさらに「生産的」なのではないかということだ。

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技能的愚行選手権

5/21(金)20:00~
カフェ百日紅

「文芸と文芸評論」

川端康成の『文芸時評』は優れた批評であるとともに文学への信仰の書である。
信仰とは自らの最後の拠り所として譲ることのできないものだ。
社交と世渡りのためにならものわかりよく嘘もつけばよい。
だが、誰からも支持されなくてかまわない内心の言葉として、たとえ世が終わろうとも文学こそ永遠であると言おう。
その言葉の持つ不明と愚かさをすべて引き受けよう。
一寸先も見えないままただ営むことのできる愚かさだけが本物である。
今、人類最大の愚行、文学を語りましょう。

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社内格闘技

映画「第9地区」、イイ。

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居残り結社

インディペンデント映画「吸血」上映会での吉本直紀監督と高原英理との対談がアップされているのでご紹介します。
   ↓
「吸血」サイト

いろいろと意見はあろうかと思いますが、こうした志で作られる表現はまずそのよいところから見てゆかなければならないと思うものです。

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