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うさぎ的睡眠事情

三島由紀夫の『金閣寺』とサリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』を両方読んでおくこと、というような課題を、以前、どこかで見たような気がするが確信はない。
違いは多々あるが、それでも何か通じるものがあるように思う。

『豊饒の海』は読むに従い、物語とともにその物語を必要とする背後の何かが気になる。
それは作者そのものではないが、しかし物語を用意する者として読者に想像される作者には違いない。
といったようなことをもう随分前に「ユリイカ」三島由紀夫特集で書いた覚えがある。

続きは7/23(金)、20:00~カフェ百日紅で。

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牛的思考

「お前って個性的だよね、いい意味で」

「お前ってなんか変ってるよね、いい意味で」

「お前って馬鹿なんじゃない? いい意味で」

「お前、最低だね、いい意味で」

「お前、死んだほうがいいんじゃない、いい意味で」

いじめってこんな感じで進む気がする。

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帰宅産業

あまたある、ねこ動画・ねこ画像サイトにはつねづねお世話になっておりますわけですが
「……だにゃー」とか「……だにゃん」とかのタイトルの入っている場合、私的には非常に残念な気がいたします。

以前、『ねこまんが』という、読者投稿せりふ書き込み入り猫写真セレクト書籍があった。読者が猫の写真を撮り、その場面にうまく合うような台詞を書き入れてみたものを投稿、そこから面白いものだけ集めたという写真集だが、この投稿の条件として「にゃん語禁止」という項目があった。
その姿勢には賛成です。

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シュークリーム状無意識

偶然「ちびまる子ちゃん」に関することを思い出したので記録する。
オープニング曲「踊るポンポコリン」は思い切って美的でない、滑稽で幼稚で支離滅裂な歌詞、リズミカルで歌い易い曲だったせいか、多くの子供に喜ばれ、メガヒットになった。
するとそのしばらくあとにカヒミ・カリィの歌う全然幼稚でも滑稽でもないリリカルでお洒落なオープニング曲(小山田圭吾・作曲とのことだ)が採用された。
とはいえ子供たちは喜ばなかったようで、あまり長くしないうちに別のもっと楽しくナンセンスな主題歌に変更されたように記憶する。
「踊るポンポコリン」のときそれを歌うことになったBBクイーンズのヴォーカルは最初、その歌詞を見てためらったというが、自分たちの志向はひとまず脇において歌うことにしたのだろう。
映画の「デトロイト・メタル・シティ」で、今もカヒミ・カリィは小沢健二と並ぶ「お洒落」な歌手として名が出ていた。
カヒミ・カリィによる「ちびまる子ちゃん」の新たな主題歌というのは、先人が自らの意志をいくらか放棄してまで切り開いた道を、その先人に最も抵抗を感じさせた幼稚さや滑稽さを排除した上で、ある程度以上確実に売れる近道として特別の歌手に歩ませようとしたということだと思う。
もともと対象となる層が厚いので、それでもそこそこは売れたのかも知れない。
だが「お洒落」で子供たちを篭絡することはできなかった。
それは、お洒落とは相反するはずの野卑な多数層を対象に、高級感は保持したまま何か成してやろうとした企みだったように今は思える。目的が売上げだったのか「お洒落の啓蒙」だったのかは知らない。
以前、永井祐という歌人が、
黒瀬珂瀾の歌「一斉に都庁のガラス砕け散れ、つまりその、あれだ、天使の羽根が舞ふイメージで」
の面白さについて、「いんちきプロデューサーの台詞みたい」と語っていたが、これっていんちきプロデューサーの仕事だなと今日、思ったものだ。

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犬の気持ち反映車種

佐藤弓生の所属する歌誌「かばん」はかつて何かの機会、雑誌そのもののあり方について塚本邦雄氏にコメントを仰いだそうで、すると塚本氏は、その「かばん」という名称と表紙・誌面づくりの美意識のなさを酷評したという。
塚本邦雄氏の著作を知る者にはよく納得される。「かばん」誌はそういった貴種・エリート・特権選別といった意識の対極にあろうとする歌誌だからだ。
で、この話が出るたび私は言う。
「一度美意識系にしてみては? 
『かばん』という名は変えないなら、表記を"Qua vin"にしてみるとか。」

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イルカ泳ぎ研究生

石堂藍さんの萩の塵拾いから。

改めて知ったことで、教えられるところが多いが、自身を小説家と規定している人に書評を依頼すれば多くはこうなるだろうとも思った。(なお、「20051年」というのは2005年1月のことかな)
小説家にとって第一の希望は自分の作品が読まれ、よいところを見いだしてもらうことで、それがいくらか満たされるなら自分の気に入った他の作家のことを褒めるのも第二か三くらいには望まれるが、だとしてもそこで怜悧な批評を加えたいとは思うまい。
何より自分はそんな役割じゃないと思っている。
また、完全に敵対する相手への攻撃的な批判は別にして、わざわざ、いくらか気に入らない作品を否定して、それがなければ友達になれたかも知れないその作者に嫌われても、作家にとってよいことは何もない。
小説家は誰のものかも知れない文学全体のために書くのではなく、ごく私的な自分の作品のために書く。
川端康成の頃はともかく、今、文学全体を愛する作家はいない。
いるのは自分の文学と自分を作ったあるいは自分に好ましい文学とを愛する作家だけだ。
文学の質を向上させるような評を書く暇があれば、実作の提示によってそうしたいと思う。
そういえばかつて、金井美恵子がある作家の作品について書いた書評を読んだことがあるが、おそらく書くのが厭だったのをどうしても断れなかったのだろう、その作家のことも作品のこともどうでもよいし、このわたしがこんなのについて「いい書評」なんて絶対書くものか、という態度を誇示するものだった。
思えば私もよい書評なんて書けなくなって久しいくせに、自分の書く小説についてだけは是非よく読んでもらいたいわけで、なんと手前勝手で駄目な奴、と言われてもそこはまったく同じだ。
読み専門の、そしてそれをこそ喜びとする人がもっと多くいてほしい。

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くま的事象愛好会

先月おやすみしました談話会
今月は
7月23日(金)20:00から
(今回は第三ではなく第四金曜日)
カフェ百日紅

テーマは「三島由紀夫と1960年代」です。

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