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饅頭恐怖党大会

『平家物語』は全編読み通したわけではないものの、有名なくだりは原文で読んだし、だいたい話は知っているし、若干の暗唱もできるが、『太平記』となるとあらすじ程度さえよくわからない。
ある古本市で、手短にまとめられた『太平記』を見つけ、これでさらっと読んでおこうかな、原文で全部は長いし、と思い、中をのぞいてみたところ、たまたま、目に入ったのが、「この戦いにピリオドを打つのは……」という一節だった。
「ピリオド」かあー 「終止符」という言い方でさえどうかと思うのに、『太平記』に「ピリオド」はどうもなー
というわけでその本を買うのはやめた。
澁澤龍彦の短篇で江戸時代なのに語り手が「UFO」とか言うのがあるが、あれはわざととぼけてそう書いているので、そういうのとは意識の度合いが違うように思う。

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やっと寝たマン

※ 外場村には「起き上がり」が(by『屍鬼』)、
   うさぎ村には「寝転び」が出るという(by『うさと私』)。

今月の「文學界」に引き続き来月の「群像」にも短篇が掲載されます。

「遍歩(へんぽ)する二人」113枚(の予定)

「遍歩」については→

基本は意識と時間と距離を考える、みたいな。ブルーグレーがすき。自分が動けば月も来る。どうしても同じところにとどまってしまう心。泥(なず)む心。小さい旅がすき。ふか装束。絶対ってありますか。タヌいる? 残念な落書き。泥む風景。今だけの心。洞窟ロマン。くらくらする記憶。など。

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ウェーブ部屋

ときどきリズムが来る。
それはたいてい定型詩に近いが完全な七五調や五七調ではなくて、謡曲みたいなところが一部にあるといった感じ。しかも少しねじれている。
そういう場合にはそれまで想像できなかった部分が語感の推進によって描かれたりする。
必ずしもそれでうまくゆくのではないし、完全に定型にのっとられてしまってもよくない。
が、これがくると少なくとも新たなステージに進める。集中力が増す。
という散文の書き方って、納得する人いるのだろうか。

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ミルキー・アウェー

「遍歩(へんぽ)」について

もともとは微妙な言い間違えからでた言葉で、「散歩」と言おうとしてたまたま「へ」で始まる言葉(今では不明)を思い浮かべていたのか、「さんぽ」の「さ」が「へ」になった、ものらしい。
おかしかったのでそれ以来、「散歩に行こう」というときは「へんぽに行こう」などと使う。もちろん身内の間だけ。

あるときそれに漢字をあててみたらどうかと思い、
「遍歩」
としてみたら、もともとあった言葉のように見えて、しかも「遍路」のような風格まで出たので、以後、こう記している。
お遍路みたいに何か心の世界を求めて、でも気ままに歩きまわる、という意味でどうか。

たとえばこんな本なんか、いかにもありそうだ。

『遍歩のすすめ』
『遍歩入門』

さらに、プロの遍歩師が書いたこんな本

『遍歩道』

エッセイでは

『遍歩暮らし』

この道数十年の達人の回想録

『遍歩人生』

など。
なお、近く、オリンピックにも遍歩(フリースタイル)が競技として加わるというではありませんか。

といった感じの言葉です。

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知恵袋ねずみ

今になって大学に行ってよかったと思うこと。
自分の場合、文学部日本文学科というので、専門の研究家になるくらいしかその学問を生かす場はないだろうし、一般企業に就職するなら十中八九、二流三流以下のそれにしか行けないのだから、大学で学んだことはほぼ確実に無駄になると入学時から予想された。
確かにそれは一般企業では全然役に立たない知識なのだが、現在の仕事にとっては多くが得がたいものとなっている。
最もよく学んで、後になって恩恵をこうむったと思えるのは鶴屋南北と「四谷怪談」に関しての講義。それから説経節について。精神分析。都市論。祝祭論。西田哲学。国語学。M.G.ルイスの「マンク」に関して。三島由紀夫の「豊饒の海」を読む。川端康成論。
それだけでない。当時、意図して選んだのではなく、割り当てに近い形で受講した講義にも今思うと貴重なものが多い。第一外国語(英語)の先生は一年目がフォークナーの専門家で、二年目はポオの専門家という願ってもない配置だった。
さらにごく最近気づいたが、当時、特に内容からの希望ではなかったはずの、幸若舞・浄瑠璃における景清像という講義をとっていて、これが今書こうとしているものに大きく関係している。
おそらくまだ他にも目に見えないところで今の自分を用意してくれているだろう。
時期と当たりもよかったのだが、このところ大学はありがたかったと思うことがとりわけ増えたという次第。

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抜き打ち出の小槌

文学的初老である。
もともと初老とは40歳のことを言うそうだから51歳はもう「初」ではないが、近年では60歳前くらいでも初老と呼ぶこともあるというからまあこのへんでご勘弁。

文学的青春との対比である。
青春、というとだいたい10代20代、ぎりぎり30代までなら入るか。
その頃、文学的にはあんまり充実してなくて、なんとかできそうだと思えたのは39歳からあとくらい。

だから今、文学的初老なわけで、というのはそろそろ老い始めているのにまだまだ文学には初心者という意味としておく。全然本来の意味じゃない。

若くて決定的な作品を示すに越したことはないが、自分がもし20代で首尾よく単著として小説を刊行していたら著しく中二病的なものだっただろうし、それならそれでもよいのだが、思うにやはり自分の本質的なところは三島由紀夫的な若者の文学ではない。
少なくとも40代より後の仕事のほうが本物のように思うが、というか、その頃からのものしか世には出ていない。

若い頃から優れている人たくさんいますね。
自分の場合、あまりに愚鈍であるため、人より20年ばかり余分にかかってしまった、と言うのが正しいと思う。

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子守り犬

これまでになく迅速にかつ多方面で話題としていただいている「文學界」9月号掲載小説についてなんか話してみようということで

8月20日(金)20:00~ 於カフェ百日紅
「ポエティック・クラッシュ」裏話

という催しを行います。
該当作をお読みいただいた方に向けてお話ししますが、未読のまま興味本位でおいでいただいてもかまいません。でも長い話じゃないし、まあどっかで借りて読んどいてや。今回は幻想小説ではありません。
予約不要、参加費無料、ただしワンドリンクオーダー(有料)お願いします。

さほどショッキングな話はないと思いますけど。

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理系ねこ

「ポエティック・クラッシュ」のモデル問題について

といっても深刻なことではないしクレームがあったとかいうことでもありません。
ただ、若干、あらぬ誤解のないように、以下の点だけご確認ください。

この小説に登場する二人の主要登場人物の過去のエピソードと業績的情報にはそれぞれもとにしたあるいは意識した事実がありますが、彼らの人格と振る舞いはすべて私によるフィクションです。

これに限らず、当小説に記された詩の歴史や流派等、もともと一切がフィクションですので、この小説によって現代詩の具体的な状況を学ぶことはできません。
とはいえ、ここに語られる問題のいくつかは、いろいろと変形されているとしても、現在の詩と文学に無関係でないと考えます。固有名を除いた構造的なところは広く魂の問題として一考に価するものと信じています。

また、下にも記したように作中で引用される詩も私のオリジナルなのでそこに著作権問題は発生しません。

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軍隊式おねだり

現在発売中の「文學界」9月号に「ポエティック・クラッシュ」掲載。

もとになる話を書いたのはけっこう前だが、しばらく放ってあったのを、今年3月くらいに思い立っていくつか直し、4月に「文學界」編集部にわたしたもの。

伝統ある詩の雑誌の記念の催しとして、二人の詩人が対談する場面が大半で、気に入った詩を朗読し、解釈解説し、また詩壇のあり方を語る、といったものですが、途中、とあることから一方の詩人の計算が狂ってきて、というようなもの。
前半は詩の読解を愉しんでいただくとよいと思いますが後半は……

中に詩の新人賞の選考の話とか、現代詩人の資格とか、そういう話も挟まる。

ところで、しばらく前、高橋源一郎氏が、中原中也賞に落選したもののとても気に入ったという女性の詩人の詩をツイッターに書き、それを見た「新潮」の編集長が今年7月号に掲載し、このとき高橋さんが記した言葉を何人かの詩人が批判し、高橋さんがそれに答える、という件が話題になりました。

ですが、この「ポエティック・クラッシュ」は上に記したとおり、今年6月以後の、高橋源一郎氏周辺の、詩にまつわる発言騒動よりも前に書かれたものです。直接の関係はありません。
飽くまでもひとつの独立した小説としてお読みいただければ幸いです。

なおこの小説は幻想小説ではなく、前例を探すとすれば筒井康隆の『文学部唯野教授』とか高橋源一郎の『日本文学盛衰史』のような「文壇もの」とでもいいますか。
しかしスラップスティックでも空想的でもありません。 そしてとてもイタい。

それと、完全にフィクションで、実在の氏名は全く使っておらず、引用される詩もすべて私のオリジナルですが、いくつかモデルを想像させる事件や情報などはあります。

そのあたり、もう少々詳しくはいずれ。

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渦巻きに呑まれてみたい症候群

以前、若手詩人の一人から、「『現代詩手帖』に詩が載り、思潮社から詩集が出ないと『現代詩人』ではない」というような意味の話を聞いたと記憶する。
これはその詩人が「現代詩人」を、「現代作家」とか「現代歌人」とかの区分ではなく、ひとつの「資格」と定義していたことを示している。
その場合の「現代詩人」とは「芸術家としての詩人」を意味し、「大衆的な詩を書く詩人」とは厳格に区別されることになる。
そういう考え方に反対はしない。ある意味クールな視線である。また、それはよいか悪いかとか詩の精神がどうとかということではなくて、現実の詩人たちの否応ない社会的なあり方、受け取られ方、待遇、そして当人の序列意識の問題だ。
そう考えるのも自由だし、一方、「なにっ、違うぞ!」と言うのも自由である。
なお、その人は「現代詩手帖」に出ている詩人だった。

さて、今となってはその詩人が確かにそんな言い方をしたのかどうかも曖昧であるし、今も本当に現代詩人の世界では「現代詩手帖」誌絶対主義なのかどうかもわからない。
志とか質の問題からすればそういう資格としての詩人という考え方は論外かも知れないが、しかし、散文家、作家としての私にはこの、まるで詩的でない実社会の反映としての「現代詩人の資格」という話がとてもおもしろく記憶された。
だからそれが嘘でも本当でも私にはどちらでもよい。
どちらにせよ、この話には、最も芸術的であるはずのものがあたかも役所での登録のように、最も非芸術的に卑俗に存在するという場面の典型がある。
この(嘘かもしれない)前提をもとに、完全なフィクションとして、資格にこだわる「卑俗な現代詩人」の滑稽と悲しさを描いてみた。
「ポエティック・クラッシュ」という小説がそれ。もうじき「文學界」に掲載される予定です。

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