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異界立法審査権

物語的映画で、恋愛は常に劇的なものを引き寄せ易いし、たとえばヒーローが駄目なとこはあっても最終的にはイイ女ゲット、で十分「価値ある男」の証明になったりする。
ヒロインならなおさら、「求められていた女」の証明になりもする。
ともかく「恋愛できない奴はクズ」というアメリカ的なシナリオには必要なものでしょう。
でも最近の日本の、主に若い男子にとっての映像的ヒロインが、ゲット対象であるより自己投影の対象である場合もあるようで。
そういう客にとって、ヒロインは特別な美少女であることだけが重要で、その恋愛がむしろサービスにならないのではないかと思ったり。
といって、これが大勢になることはないかも知れないけどね。


ところで
ほぼ初めて私小説的な「遍歩する二人」ですが、基本には足穂的な遥かさへの希求が
(あると言いたいわけですが、お読みになった方、どうでしょう)

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クッキー枚数換算喜悦単位

最近見た「バイオハザード2」、「第9地区」。
これらハリウッド映画、ということでよいのかな、ストーリーは全く違うが、どちらも脚本に同じ要素があって、それは「エゴイスティックで憎憎しい人物を登場させ、終わり近くでそれが最高に残酷な殺され方をするのを見せる」というところ。
ハリウッド映画の特徴といえるかどうかはわかないが、アメリカ製のアクション映画ではとりわけこういう展開が多いように思う。
そしてこれこそ、忘れてならないエンターテインメントの基本だ。
私は大学で小説の方法に関することを教えているが、エンターテインメント的な物語を書くとき、重要なのは、読者に不満を残さないことだ、と告げている。
とりわけ、憎らしい登場人物がいたら、できるだけその憎らしさに見合うほど酷い目に遭わせるように配慮せよ、と教える。
純文学は違う。しかし、エンターテインメントであれば徹底して「ええ気持ちにさせてんか」というのが読者の望みなのであって、そうしないことについてストーリー上、十分に納得のゆくものがない限り、何らかの因果応報は貫かれるべきである。
読み手へのサービスを考えずにヤな奴を出すな、というのもどこかに憶えておきたい。
もちろん、そういう定型をわざと崩してみせるという技もありうる。
だが、基本も知らないまま、ただ不愉快を放置し、それによって絶望的・無情なカオスを見せ付けることこそ面白いと考えるのは傲慢と思う。
読者あってのエンターテインメントの世界からは出て行ってほしい態度だ。
どんな特異な、奇妙な、難解なテーマであろうとも、読者の感情的釣り合いをうまくとっていると思える作品は、私から見るとエンターテインメントである。

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怒耳天を突く

↑うさぎが激怒したときのたとえ。ただし稀なことなので、「めったにない」の意味も後に生じた。

それはともかく、通俗ということの考え方について。
批評家の石川忠司さんがいつか、「今ほしいのは快男児だね」と言った。
もともとはっきりした役割の図式がある程度保たれていて、特にヒーローヒロインは内面的な弱みを持たないのがエンターテインメントの基本と思い、通俗のあるべき形と思う。
今、かつて全盛だったミステリを凌駕して時代小説が好まれるのはそういうことではないのか。
私もまた娯楽にはそういう物語を読みたい・見たい。

アニメで言うなら「機動戦士ガンダム」から「新世紀エヴァンゲリオン」までは、「自らの内面の弱さに過剰に翻弄されるヒーローヒロイン」という、それまでなかった(めんどくさい)形の物語が発達し、かつ、過去の太宰治等の作をも思わせるような芸術的洗練を経て、それが従来より一段リアルな物語と受け取られたのではないか。
しかしながら、2000年以後だろうか、そういう、従来は純文学が受け持ってきた近代人の内面はそろそろおいといて、もっと目的に向かってわき目をせず懸命で、健気で、ほどほどに内面はあるとしても利己的になりすぎない、昔ながらの強さと「いい奴」感を持つヒーローヒロインが再び求められ始めたようにも思う。
「鋼の錬金術師」には懸命な質実剛健があり、自己の目的とともに仲間のためなら死をもいとわない心が描かれる。「ぼくなんか」「代わりはいくらでもいる」等の90年代的マイナス意識は薄い。
しばらくはそういうのがエンターテインメントでいいんじゃないでしょうか。
そして、プロデューサーのみなさん、これが最近の動向と考えていただいていいんじゃね?
少なくとも私は、映画とかアニメには、すぐひがむ心弱いヒーローヒロインの話はもういいです。

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ドは弩夏のド

遍歩(へんぽ)入門。

● 遍歩とは、比較的身近な空間を移動しながら、記憶と時間をも遡り、小さくても自分にとって特別な経験を得ようとする行為である。

● 精神の小旅行であることを意識せよ。

● あくまでも「小」旅行であり、大げさな構えは必要ない。

● 何か自分にとって絶対のもの、あるいは愛おしく忘れがたいものを見いだすことが望まれるが、予めそういった願望を意識しすぎてはいけない。何気なく、気づいたら、が理想。

● 道端での出会いの大切さを意識する。たとえば猫など。

● 求める心は必要だがあまりに求道的になりすぎてはいけない。

● いきあたりばったりの気持ちを忘れない。出会いは偶然にゆだねる。

● 遍路と違い、白装束を調える必要はないが、「ふか装束」は推奨する。

● ともすれば同じ場所にい続けようとしてしまう「泥(なず)む心」をできるだけ飼いならし、ときにそこから一気に出発できるような契機を得るのが理想である。

● 精神の動きにとって有害な執着、たとえばセンスのよさにこだわる、田舎くささを嫌う、幼稚さを軽蔑する、平凡を馬鹿にする、といった「大人の背伸び」一切を棄てること。

● 以上のようなことを一度は意識した上で、ほぼ忘れ去り、ただ無目的に歩いてみよう。

※ より詳しくは文芸誌「群像」10月号掲載の「遍歩する二人」をごらんください。

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牛モード

今月はなんかとてもとてもなので百日紅談話会はお休みさせていただきます。

そのうち怪談をやろうとおっしゃる方がいらっしゃるので、そういうことでも近々。

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海の記憶保持機構

過去の記憶は遠いほど細部が薄れる、のが大抵のところかと思うが、逆に、細部だけが残るという場合もある。
全体が曖昧なのに断片的な一部分ばかりよく憶えていて、それがどこに嵌まるべき記憶なのかわからない。
迷路の中でところどころ何かの手がかりがあるのだが、思い出せば思い出すほど全体像が見えにくくなる、というようなこと。
ときにそういった迷い歩きが救いでもあること。
しかし、あるいは、こうも思うのだ、ある決定的な真の何かを見いだしたとき、自分の過去の意味が完全に変容し、見も知らぬ世界が現出する、そんな鍵のような記憶がどこかにありはしないか。


※ 今月の短篇「遍歩する二人」……「群像」10月号に掲載。
   創作は他に、古井由吉、木村紅美、川崎徹。

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地軸逆転心配連合

自身の発想や行動の理由を言うとき、「学者だから」「理系だから」「保守だから」といったような自己規定から語る人がいる。
私はこれに反対だ。
もしそれを言うならたとえば学者の発想・態度を示す理由として「学者一般の方法を納得し自分のものとして引き受けているから」と言ってほしい。学者なんだから自動的にそうなる、というのがごまかしである。
もともと後天的な選択の結果であるはずのものをあたかも自己の出自のように語ることがどうも思考停止に思われる。その立場は本来あなたが納得して選んだものであるはずだ。
その最初の選択に自己決定がないかのように「だって気づいたらそうだったんだもん」と言いたげな回答は子供のものだ。

なお、確かにそれが選択の結果でない、生物的・社会的事実であっても「女/男だから」「日本人だから」「A型だから」というのはもっと困る。
その場合の特性が誰にとっても論理的な形で確定していないからだ。話者の勝手な断定を許す部分が多い。中にはただの虚偽もある。いくつもの錯覚や思い込みをもとになされる自己規定は周りに圧力となって働く。

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移動式墓地

「まき」という語

本家分家の関係にある一族、同族、の意味で使うものらしく、「……まき」と使用することもあるようだ。
「とりまき」と関係ある語だろうか。
この語を初めて知ったのは篠田一士訳のフォークナー『アブサロム、アブサロム!』を読んだときで、ここに「サトペンの一族」という意味で「サトペンまき」と出てくる。
サトペンとはこの物語の中心にいる家長トマス・サトペンの姓だが、これを最初見たとき、文脈から「サトペン的な」、といった意味だろうとは思ったものの、それとともにまさかそんなことはないと知りつつも「サトペン巻き」という髪の形か衣類の着け方でもあるかのような奇妙な印象を持った。
少なくとも私の周囲でこの語を用いる人はいなかったので、このときまで知らなかったのだった。
で、この先、使うかというとまず使わないだろう。
思えばまだまだ知らない語、一生使わないだろう語は無数にある。

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