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夢遊の猫々

七匹子猫のいる親猫が巣を移動すると、いつも、二匹、子猫が忘れられていて、しかもその二匹は同じでないので、わざとでなくたまたま忘れるらしいということから考えて、猫は五より多くの数を覚えられないのではないか、という川崎徹さんの説。
五まではなんとかなるらしい。
だとすればきっと猫は、数多いものがあると、右前足・左前足・右後ろ足・左後ろ足・尻尾、と数えるに違いない。

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議論忘却タイム

広い野原に寝ているうさぎの耳の毛が微かな風で少しだけ揺れる、というようなこと。

※ カフェ百日紅での忘年会があるかも、と先に記しましたが、こちらは私の主催ではなく、コムニオ編集関係者によるので、一般向けではありませんでした。間違いのありましたことお詫びいたします。
状況がいくらか落ち着いたので、上とは別に、12月か1月、もしくはその両方での談話会開催も考えています。
決定しましたらまたここでお知らせします。

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巣穴掘り進め主義

批評をしていた頃はきっと、来るべき表現にとって必要ないもの、よいように見えて本当は自分の本質を害するもの、を洗いだし、切捨て、あらたに本当に必要なものを見いだすための見極めをしていたのだと思う。

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遮光ダンス

以前、「好きだったものが嫌いになってしまうのって悲しい」と言った人がいたが
私は全然そういった考え方をしていないとそのとき思った。
かつてとても好きだったものがつまらなく思えたり嫌になったり、あるいは色褪せて見えたりするとき、それを感じている自分には既に未練がないからだ。悲しくもない。どうでもよい。
むしろ、あれほど好きだったものも完全でないことが見えてきたとしたら、それは自分が真に求めるべきものにより近づくためのステップなのではないか。
なお、どこまで行っても好きなままのものもある。それが自分にとっての本物のひとつだとも思う。

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猫の手貸します社

人はそれぞれの物語に生きる。
例外はない。
物語から逃れたいと思う自由はある。
だが、そうするうち、ときおり、最悪の物語にとらわれる人がいる。
それは「自分だけは物語から解放されている」という物語である。

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うたた寝のたね

井伏鱒二大激怒の話。
井伏が釣りに行って驚くほど大きなイワナを釣り上げたのでこれを料理してもらい友人に持参させた。
ところがその件をある雑誌の記者が「どうせ買ってきたものだろう」と書いたことに井伏は激怒し、雑誌に抗議の上、これと目される記者全員を出入り差し止めにしたという。
井伏は「小説が下手だと言われてもいいが、釣り師として魚を買ってきたと言われるのは許せない」と語り、ひとまずの解決の後も、この件が話題に出るとひどく不機嫌になったという。(川島勝『井伏鱒二 サヨナラダケガ人生』より要約)

当人にとっての価値の重さを想像できないまま軽薄に決め付けてくる相手というのは私も許せない。
自分も気をつけたいところだが、他者が何に命をかけているかがいつもわかるとは限らない。
できるのは、軽い気持ちで他人を揶揄はすまいということくらい。
考えなしの揶揄が理由で失脚した人ってけっこう多そう。

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土転び相撲

どうも大変なので今月は百日紅の談話会はお休みさせていただきます。
来月は忘年会とかあるらしい。
それと、来年になると思いますが、佐藤弓生第三歌集について語る会なども考えています。
んじゃね。

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犬たちの喜ぶ撫で方教室

「芸術」という言い方は便宜だと思う。というかそうしたい。
自分のやっている表現を「芸術」とすることでより自由と幅・深さが得られるならがんがん主張すればよい。
飽くまでも当人にとってよいものを導くために用いるべき語だ。
「芸術」とか「アート」の意味を他人任せにしたまま「これは芸術ではない」とか「これこそ芸術である」とか言っているのはなんてか、ひどくもったいない。

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銀の星採集特別編制隊

だいたい後ろ向きで古いもの懐かしいものが好きなのだが、それはオブジェおよびそこから自分が描くイメージとしてある場合がほぼすべてで、前時代的な価値観の主張を伴っていると反感をいだくことが多い。

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ワニ状開口競技

(承前)
日夏耿之介から生田耕作にいたる、気難しい文人たちには、いつまでもどこか子供っぽさのなくならないお人よし要素が隠れていて、それならではの「結果的人間嫌い」がああした狷介な言葉を残させたのでは、と思うのだがどうだろう。
なお、上の人々ほどは狷介でなかったらしい澁澤龍彦は自分の「幼児性」をよしとはしたが、当人はさほどお人よしでもなかった気がする。

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きのこ的対話

お人よしと気難しさは矛盾しない。
すぐに人を信じ、善意にとらえがちな人が何度も期待を裏切られ、ひどく怒ったり憎んだりしているうちに他者に過剰な警戒を示すようになることはよくある。
その結果、ときには、出会いの所で他者に向けて「俺を怒らせると怖いぞ」と思わせようとするような態度になったりする。
しかし、実のところ、本人の心内のお人よし度は変わっていないので、相手の善意らしいものが見えると途端にフレンドリーになったりする。
そういう人はできるだけ長い期間をかけ他者の悪人度を見極めてから、信頼すべき相手を決めるのがよいのだろうけれども、状況はたいてい判断を急がせるものだ。
おそらくお人よしの人はいつまでたっても「酸いも甘いも噛み分けた人」にはなれない。
「世慣れ」ができるというのも素質ではないだろうか。

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栗のいが的知識

作家の人の中には、「純文学作家ってなんか自分が特別だって思ってるみたい、自分は違うけど」みたいな言い方で、暗に「自分は、自分が特別ではない、と自覚できている特別な作家だ」とアピールする人がいるみたいだけど。
ごまかしがあるよね。
創作をやっているときは世界にただ一人対峙するような瞬間がある。全然ダメなのかもしれないが、でも今これやってるのは世界に自分一人だけだ、という感じ。
自分の作品が特別のものだと自負できない作家なんて作家やめればよい。
特別と自負する態度が見苦しいと思うなら、仕事の上で「自分は謙虚にやってます」という態度を編集の人に示せばよいのであって、読者ほか一般全体へ「みなさん、私はどっかの偉そうな作家とは違います」と主張する必要はない。
しかもそこに、たいてい、なんか説教らしいものがついてくる。
こういうとき、未だに「純文学作家」がひきあいに出されるのはなんか戦後一貫して変らないようだ。
創作者として当然の「自分は特別であると思うこと」をそれ自体で偉そうだと決められるのも迷惑である。
「私は人と同じです」的な自覚を徹底する必要も人格者をめざす必要もないのだから、もっと正直になって、

「私は自分が特別だと思うけど、それを社会生活で主張するようなことはしません」

と言えばよいと思う。

本日、千野帽子さんがたまたまリツイートおよびコメントしておられた、ある作家のツイッターのログを読んでみてしみじみ感じたこと、でした。

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りんご的性格

最初から意味がないなんて言っては駄目だ。
ものすごく期待して懸命に捜し歩いて、それにともない複雑で驚くべき内情がわかっていって、しかし結果として、そのもっと奥にあるものには何の希望も目的もないらしいことがうっすら見えてくる。その頃にはなんとなくそれでも仕方ないと思えるような気になっている。
こういうのが本物じゃないのかな。

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うさー的哲理

やっぱ今年は、はやぶさ年に決定。

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くまー的思考

完全に消えたかに見えた記憶が、何かのきっかけで再びありありと甦ることがある。
自分にとっての重要さとは関係ないらしい。
それで完全に今の意識だけを信頼することができない。
後になって、そうだったのか、と思う。
最近もあることに関し、他者から言われて、すぐにはよくわからなかったが、随分経ってから細部を思い出した。
自分の名に関する、ある事実だが、三十年以上前のこととはいえ、どうして忘れていたのかもわからない。
が、ともかく、いくつかははっきりしたので、以後、個人的に尋ねられれば新たに思い出した内容に従って答えようと思う。

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あのくたら山脈

以前は知らず、最近よく聞くようになった「ドヤ顔」というのは、品のない表情ではあるものの、ひとまず成果を示して見せて、他者にその評価を委ねている点で許せるところがある。
懸命によく見せようとしているあたりはかわいげがあると言えなくもない。
それに対し、「したり顔」は他者の視線には関係なく、自分の優秀さを示しおおせたと当人が勝手に考える言動をもとに、ひたすら自慢げにしている表情で、他者からすれば貧しいばかりのものだ。
とりわけ、僅かに先回りした考え程度の知見をもとにしたり顔をする人というのが見苦しい。

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わんこキャビア

死刑囚の中には短歌をよくする人がいるという。俳句を記す人もあるという。
しかし自由詩を残そうとする人はいないという。先日聞いた話。

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屋根の上の「うわん」

(↑ 左腕ではない / 雁ではない / ときどき「うわん」と声を出す)

いつか、ある駅のホームのベンチに座っていた老女が、首に大きな布袋をかけていて、そこから猫が顔を出していた。
猫はおとなしく体全体、袋に入ったままで、老女に顔を向けていた。
あるいはホームレスかとも思える様子の老女だったが、きっと、何より大切なのがその猫だったのだろう。
白くて綺麗で、そして本当に大人しい猫だった。

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銀色を少し曇らせ屋

海に臨む大きい都市は過ぎ去った夢を思い出すように楽しく淋しい。
神戸と横浜がモダニズムに親和性があったのはそのせい?

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群青色を少し薄める主義

年賀状はあんまり書かないまま、時期が過ぎた頃、寒中お見舞いみたいにお送りしたりするんですが、そのときはたいてい一句か一首か、書いて、基本、「おめでとう」とかはなし。干支の図もなし。
でも来年は うさぎ年 かあー。 かわいい系の絵が多い。 うさぎ かあー。

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ずずいと奥へ症候群

面倒が多いとつい、空の青さ、とかそういうことを言ってしまうってことだ。

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いいなと思ったらすぐ行ってしまいそうな場所地図

先日どうもこれでは嬉しくないと書いた印刷物の件、版元に指摘したら、謝罪とともに、再版では誤植の訂正および記事の組み換え・位置換えもしますという回答を得た。
飽くまでも再版があったときの話で、実現する可能性は高くないが、その約束がなされたことで納得した。
とりわけ今は子供モードなのでたわいなく喜んでいる。

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