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月光もなか

おかげさまで「遍歩(へんぽ)」という新語が僅かずつながらあちこちで用いられていますね。
いつか辞書に載ること希望。

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徹底かわいげ

「いたるところに中心がある」というのはニーチェの言葉で、永劫回帰の前には任意のどこもが中心であるというような意味と思うが、確か澁澤龍彦が『マルジナリア』でこれを好ましい言葉としてあげていた。
私もときおり思い出す言葉だが、ニーチェ的文脈からは少し離れた、表現の意義の問題として考えている。
世界を前に、これを示さねばならないとためらいなく言えるとき、いずれの人も常に世界の中心にいる。
すべての表現は他者を意識せずにはありえない。しかし、ここでいう中心性は予想的な他者からの注目や多数の支持や重要さの承認等の問題とは関係がない。
ただ自分ひとりだけで不可知の世界に向けて語る瞬間があるかどうかということだ。
だが無限に向けて言える言葉などあるのだろうか。
私はあると思うのだ。

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生涯、一うさぎとして

というわけで来年2011年1月21日(金曜日)20:00からカフェ百日紅
「佐藤弓生の『薄い街』について語る会」
を開催します。
いつもどおり、参加無料、ただしワンドリンクオーダーお願いします。
今回は特に、佐藤弓生第三歌集『薄い街』(沖積舎刊)を読了された方のご来場を期待します。
批評会形式にはしません。おいでの方が思い付きをお話し下されれば幸いです。
というプランですが、何か追加・変更があれば追々ここに告知させていただきます。

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賢明な猫認定証

佐藤弓生第三歌集『薄い街』今月刊行・歌集置いてる書店では流通することになっています。

来月あたり、これについての話など。カフェ百日紅で、と考えています。委細近く公表。

歌人のみなさんがよく開催される批評会のような形式ではない予定。

それと、やっぱり今月、百日紅での談話会はお休みとしました。

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うさぎ的大発見

来年2011年はうさぎ年。その前のうさぎ年は、というと1999年だ。
私の場合、『少女領域』が刊行された年だった。
きっと他でもうさぎ年らしい飛躍がいっぱいあったことと思う。

ところで、かつてノストラダムスは西暦1999年(と思われる年)の7月に

「アンゴルモアの大王が甦る」

と読める予言をしているというが、

実は

ノストラダムスは啓示された発音を間違えて記していたとわかった。

甦るのは、アンゴルモアの大王 ではなく

アンゴラの大王  だったのだ。

それで全世界がふかふかになったわけである。

うさぎ年だったから。

来年はどんなふかふかなものが現れるか、楽しみである。

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クリティカルな寝坊

てか、ここ数年、やなこと<いいこと だ。主観です。
ところで、悪口とか陰湿な侮蔑って当人の不幸度の大きさから始まるのでは?
ネット上で誰かを侮蔑して悦に入ってる人、ほぼ皆不幸そう。
意見が違うと思えば実名か公表名で真剣に真面目に批判すればいいのに。
不意をついて横から口を出す感じが卑しい。
たとえ、やなこと>いいこと になっても卑怯な侮蔑はすまいと思う。

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素直な天邪鬼

今月、いくつか忘年会行くけど、自分、今年あんまり忘れたいことない。

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少々自慢の耳長です

映画「ノルウェイの森」、より多くの方がご覧になることを切に祈っています。
言うまでもありませんが私は関係者ではありません。

が、まあその前に「デスカッパ」などもいかがでしょう。

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じっとしていて可愛いうさぎ証明書

うさぎ愛する会→うさ愛(め)で会、来年、始動なるか。

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たましいのつぼマッサージ

才能、というものはない、結果として優れていると記録された作品の作者に対して、後で「その人には才能があったからだ」と説明されるだけである。
と、よく生徒に語っている。
才能という語を仮に用いるなら、それはいつどこででも発揮されるアプリオリなものではなく、いくつもの条件が奇跡的に揃ってようやく、たまたま何かなされる、その動機程度のものと思う。
ほとんど運である。
また一般には全然創造的行為と無関係に見えるような、身の回りの環境や収入、人間関係あるいは社会的地位のような条件があって、そういう場でこそできた傑作というものも十分ありうる。

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幸せ茸はえますた

昨日12/4、古書信天翁での飯沢耕太郎さんと南陀楼綾繁さんによる
「『きのこ文学名作選』刊行記念 飯沢耕太郎トーク「きのこが好き。本が好き。」
というのに行った。
到着してすぐ当の飯沢耕太郎編『きのこ文学名作選』港の人刊)を買う。
で驚く。
どれほどかはどうか現物で体験してほしいものだが、祖父江慎氏+吉岡秀典氏(コズフィッシュ)によるブックデザインで、各作品ごとに紙も活字も組み方も違う。
これほどのものなので、全部売れても増刷はもうできないのだと飯沢さんがおっしゃった。
限定3000部だそうだが、まだ1000部しかできてなくて、残りを今作成中とのことであった。
なお、収録作はどれも面白いか珍しいかだが、中で私は加賀乙彦の「くさびら譚」が一番好き。

書物の話もよいのだが、特にきのこの話となると、始まる前からなんかにこにこだ。
幸せ茸に胞子振りまかれるね。
ただ幸せで、それだけでよいのだが、敢えて言うなら、競争とか成功不成功とかそういう問題がここにはないということだろうか。それと人間関係の困ったこととか。美醜とか貧富とかもない。
で、実に何もなくて変なきのこだけが繁茂している。
綾繁さんの聞き上手もよかった。
飯沢さんから本にいただいたサインがまたよかった。
いい日だった。

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くくっとうれし

そうそう、11/30の日経ビジネスオンラインでの千野帽子さんの連載「毎日が日直。『働く大人』の文学ガイド」が最終回なのですが、ここにこのブログの「栗のいが的知識」(11/19)から引用していただきました。
とともに『神野悪五郎只今退散仕る』も紹介いただき、千野さんどうもありがとう。

『神野悪五郎只今退散仕る』、ことによると来年、ちょっと違うところから何かあるかも知れません。

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ぐっとくる学

ぐっとくる口説き文句とか、ぐっとくる挨拶とか、ぐっとくる捨て台詞とか、あるいは、ぐっとくる詫びの言葉、ぐっとくる恥じらいの言葉、ぐっとくる言い間違え、ぐっとくる叫び、ぐっとくる寝言、とか、たいていのシチュエーションの言葉に「ぐっとくる」ものはありそうだが、まず見つからないのが「ぐっとくる愚痴」だと思う。

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こぐま型処刑器具

懐かしい怪奇玩具その2
長方体の木の箱(を模したプラスティック製)なのだが、特定の場所にコインを置いて端にあるボタンを押すと、蓋になった一部が持ち上がり、そこから青い手が出てきて箱の中へコインを落とし込む。貯金箱である。
いろいろな種類があるが原理は同じ。私の持っていたのはこれもプラモデルで、組み立てると一方の側面の下半分が引き出しになっている。それを引き出し、コインを置き、ボタンを押すと、上半分の蓋の奥から手が出た。ぜんまい式。
今も実家のどこかにあると思う。
ハロウィン的な玩具だし、アメリカ由来らしいから同種のものは今も販売しているのではないだろうか。
まだホラーというよりは「怪奇」の感じがいい。アダムス・ファミリー的でもある。

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骨壷型貯金箱

むかし、「黄金どくろ」というプラモデルがあった。その名のとおり、金色に塗った頭蓋骨で、組み立てると大きさは子供の手に掴めるくらい、ぜんまいによって顎がかたかた動き、その振動によって前に移動してくる、という、私からすればとても優れた玩具であった。
当時、歩く手首(原寸大。夜光塗料入り)とか、動く生首(切り口の接地面に仕込んだ小さい車輪によって動く。ただしこちらは原寸大ではない)とか、怪奇玩具がたくさんあったのだが、今はそういうのはないのだろうか。

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