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瓏々たるやあけぼのの空

恣意的なのに何かの確信を呼ぶ思い込みが芸術である。
宗教的な建造物はそれが造られたときは形而上に触れようとする手段だったのだが、何百年も経つと、その形態と歴史性が重要なものとなって、鑑賞の対象となる。
芸術的創作物も当初は制作者の必要に迫られたもののはずだが、発表された後は手段としての面が捨象され、目的として鑑賞される。

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ひさかたの光のどけき静こころ

というわけでまたしてもふかふか動物に行ってしまうのだなあ。

http://www.e-nioi.jp/event/free/usagigazou1.html

http://www.youtube.com/watch?v=epUk3T2Kfno&eurl=http://blog.livedoor.jp/parumo_zaeega/archives/50327615.html

http://www.youtube.com/watch?v=wB0ib00SVGI&feature=player_embedded

http://www.youtube.com/watch?v=1u1WKwxsizo&feature=related

http://gasoku.livedoor.biz/archives/51425486.html

http://www.youtube.com/watch?gl=JP&eurl=http%3A%2F%2Fwww.zaeega.com%2Farchives%2F50704451.html&hl=ja&v=hPzNl6NKAG0

よく知られたものばかりですが。まあ一息。
おかげさまで少しずつですが原稿書いてます。

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気はおおどかにあらばと願ひ

笑いというのは、受け取る側のほんの僅かの違いでまるで意味が違ってしまう。
常々書いているように嘲笑というのは多くの場合、何についてもあまりよい結果はもたらさないように思う。
悲嘆している人を無理に笑わそうとするのもよくないことだ。
だが、意図しないユーモラスな事象がいくらか心やわらげてくれるのも事実で、度合いのちょうどよい笑いがあると人はすこし救われる。
その条件は無数にあるが、私の感じるところでは、嘲笑でないこと、攻撃性が低いこと、シニシズムを含まないこと、できるだけわがこととして語っていること、等だろうか。
天然ぼけに近いほど楽にしてくれることが多いが、ただ、本当に天然の場合、ときにひどく無神経な発言もありうるのがまた難しい。
ところで、あまりの惨状を前にしての「もう笑うしかない」というような言い方は、私の希望として、どうかしばらくやめていただきたいと思う。
絶望の強さの表明として笑いの行為を持ち出すのは、当人の納得はともかく、それを聞いた人が、発言者の回避しようとした絶望感をやや無理にしかもより寒い形で受け取ってしまいがちだからだ。
絶望的に思えるときは生真面目に絶望的だと言いたい。
その上で無理にでなくなんとなくユーモラスでありうる人がいたらよいことだ。
なお、「新世紀エヴァンゲリオン」での名文句、「こんなときどうすればいいかわからない」「笑えばいいと思うよ」(概略)というのはこれとは逆のシチュエーションで、意味も逆だ。こんなふうに笑いの用い方は難しい。

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キリエ・エレイソンてふ言葉ぞ厳しき

改めて周囲を見回してみて、思うのは、今、気の利いたことは言うまいということだ。
本当に動じない人もいるだろうけれども、こんなときにも最低限の余裕を持っているぞと言いたいためにされる発言はすぐその質が知れる。
アクション映画でタフな主人公が絶体絶命のときにユーモラスなことを言うのとは異なる。
そんなタフな人はほとんどいないし、そうある必要もないけれども、自分が真の危機の前にいるときにだけ、自分について突き放した発言もしたければすればよい。
だが、自分の怯えを見ないようにするため、第三者の顔で他者の慌て方をあげつらうのはそれと違う。
怖いことは怖いと言おう。慌てるのは恥ずかしいことではない。慌てたあまりの誤認はよく確かめてから訂正すればよい。と決めたところ。

付 でもそれとも違って、あきらかに笑わされてしまうような、意図的にばかばかしい発言は、あまり切れ味が鋭すぎなければたまにいいかなとも思った。
弱っているときの辛らつな言葉は遠慮して欲しいが、やはりユーモアはありがたい。

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どなたの心の言はんかたなき

地震の後、未だかたづけは一部必要なところだけのまま、というか、これまでとさほど変らないというか、考えようでは、この状態も地震があったからなので、と今なら言い訳できるというか、情けなさいずれ変らず。
昨日、居間のテーブルの下に、外で落としたと思っていたカード入れがあった。
地震の前、見えにくいところに落ちてしまっていたのが、その後、いろいろ倒れて見えるところに出てきたらしい。
これについてのみよかったとは思うが、地震がないほうがよいのは言うまでもない。

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陸には憂ひありしかど

春にはいつも一週間程度ひどく不調になる時期があるのだが、今年は震災以後の不穏な時期と重なっていよいよ不活発でした。ただ、おかげさまでたいした被害はありませんでした。
ある程度平常に戻っても何もやる気にならなくて、これまでの原稿と自己記録等を整備する作業ばかりやっていた。
いつもの私的話題からのたとえで言えば、江戸川乱歩が発禁で仕事ができなくなって『貼雑年譜』を作っていたといったような。モチベーションはだいぶん違うけど。
でもまあ、そろそろ起動かなというわけで、あまり語るべきこともないのだが、ひとまずここも再開します。
なお毎月恒例のカフェ百日紅での談話会ですが今月は休止、来月は状況次第とします。

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卯の花の影に泣くなり

先日、本当に隙間に入り込んでいたらあるいは死んでいたか。
二週間前から寝つきが悪かった。
関係があるのかどうか。

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凛として酸性雨

ちょうど身をかがめると入り込めるような隙間があると本当に入ってしまいたい。
街中でも建物の中でもだ。
そうしてどうなるものでもないのだが。

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むらぎもの心に問へば恥ばかり

子供の頃、寝ようとすると、目の前の枕から先のシーツが遥かに広がる荒野のように見えたことがある。全体が広大な風景のようだった。
そうした見え方というのにも名がついているらしいがどういうのか忘れた。
一時的な距離感の異常だが、そのときの、どんなにこの広い荒野を越えて行こうとしても決して達せられないだろうという虚しく遥かな感じはなんとなく忘れがたい。
カフカの「皇帝の使者」の読後感に少し似ている。

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しかぞ住む(けど)世を鬱だ死のうと人はいふならむ

しばらくカフカを読み返しているので、近く、カフェ百日紅でカフカ大会でも、と思うのですが、どうも今月は体調的に苦しいかも知れないので来月かな。

「手稿版」による池内紀訳の『カフカ小説全集』の5巻「万里の長城ほか」・6巻「掟の問題ほか」を持っている。
ノートに記された断片や草稿を全訳したものだ。
後に出たuブックス版カフカ・コレクションの『ノート1 万里の長城』『ノート2 掟の問題』の二冊が同じ内容をもとにしているらしいのだが、厚さが違いすぎる。
全部は収録されていないのだろう。どこが取捨選択されているかも知りたい気がする。
長篇は『城』も『審判』も読んだが『アメリカ』改め『失踪者』だけまだだ。
小品と短編ならちくま文庫の『カフカ・セレクション』1~3もよいと思う。
一巻本で平凡社ライブラリーにも『夢・アフォリズム・詩』というのもあった。
小品や断片・草稿は三省堂版の『カフカ事典』の該当項目とともに読むと書かれていることの小説内での意味がある程度わかったりする。作者の意図とか要約とかではなく、読んでいたのに気付かなかった重要部分を示してくれるからだ。
カフカの場合、全体をよく読んできた人の説明は相当有効なことを知った。なにしろ草稿と断片が大半なのだ。

この『カフカ事典』を先日、古書信天翁(あほうどり)で手に入れたことが今のきっかけだ。
よい本だった。
古書信天翁さんにもありがとう。日暮里、谷中ぎんざ商店街入り口にあります。

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ふくらかにありぬべし

不安ばかりだ。
稲垣足穂は、ドストエフスキーの「悪霊」だったかの中で、ある小役人が精巧なミニチャア模型の町を作ることで人生的な危機をのりきったというエピソードを絶賛していたと記憶するがどうだったか。
「悪霊」は読んだがそういったところはほとんど憶えていない。だが足穂はそこだけが「悪霊」の価値だと言う。いくらなんでもそれは偏りすぎ、と思うわけだが、実は大抵の読者はこういう読み方をしているものである。自分もそうだ。
自分都合の読みは当然として、ただ、それだけでない読み方ができるかどうかが読書人か否かの分かれ目とも思う。
ということはともかく、何かに熱中していないと不安でならないときはある。そして何か作るためのことばかり考えている間は過酷な情報の過酷さにも気付かずにいられる。
それは足穂自身にもあったことかもしれない。
そういえば「ゲゲゲの女房」で、水木先生が先のない状況にいたとき、ひたすら軍艦の模型を作っていたという話はそのまま同じことだ。
水木先生の場合、自作を書くことも同じような集中対象だっただろうが、その創作自体が難しくなったとき、軍艦模型制作で渇をしのいだというわけだろう。

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牛鬼の鳴かぬかぎりはあらじとぞ思ふ

ブラームスの室内楽とピアノ小曲はどれも好きなのだが、交響曲だけはどうしても同時代のブルックナーと比較してしまうからか、悪くない、という程度の聞き手だ。ブラームスで管弦楽付きの大規模な曲なら「ドイツ・レクイエム」が最も好き。
そういう中では四番が比較的心にかない、三番の三楽章のようにとても好ましい楽章もある。音の厚みを聞くなら惜しみないし、確かに四曲とも名作には違いない。
そのブラームスの交響曲の一番の制作にはひどく時間がかかったことはよく知られていて、先行する交響曲の巨人たちを意識し、かつ聴衆の意向にも応えうるものを求めた結果といわれるが、一番を完成し演奏会を成功させると、次の二番は思いのほか短い期間に書かれた、というのもブラームスとその周辺を知る人には常識だろう。

でまあ自分のことだが、先の発表作で納得はしたとはいえ、やや力入り過ぎたかな、と思えもするし、ここでブラームスにたとえるのも不遜の限りだが、ともかく、ある程度の長さを持つ作を、ひたすら内声部を充実させるような手つきで書き込んで完成させた次は、もう少しシンプルな作を書こう、と、本日、思いましたとさ。

付、ブラームスの室内楽の中でも、クラリネット・ソナタ、チェロ・ソナタ、ヴァイオリン・ソナタというような楽器の少ない曲が特に好ましい。ピアノ曲も間奏曲とか本当に小さい規模の曲がよい。ブラームスの本領って実はそういうところかなと個人的には思ったりもする。

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テレスコ干さばステレンキョウ

↑上方落語から(ステレンギョとも)。

いつか行ったジェシー・ノーマンのリサイタルが終わって、とてもよかったなと思いながら近くのレストランに入ったら、隣にいた、同じ演奏会を聞いてきたらしい若い男が連れの女性にさんざん演奏のあらを語っていた。
どこがどう悪いとかよりも「オレはこんな程度では満足しない」という言い方で、しかも「(繊細な)オレの耳ではこんなの聞いてると気持ちが悪くなるんだ」として他の演奏家の音程の悪さまであげていた。
けっこう大きな声で周囲にこれ聞けよがしなので、これを私は、心からの批判ではなく、「こんなに耳のいいオレ」アピールとしか感じず、「そんなに気持ち悪くなるような耳はいらない耳」と言って内耳ごとちぎってやりたかった。
批判に自慢が混じっていると感じられるとき、私には強く蔑まれてならない。

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見ずやぼのぼの水浴びて

最終的には私個人の語感と考えていただきたいことだが、ネット上で書かれる文の中、否定のときの強調の仕方にあまりうなずけないものをよく見かける。
とりわけ「微塵も」という強調度の高すぎる語が入ると、どうしても素人の書き方だと思えてしまう。
それも外部への判断として「ということは私には微塵も感じられなかった」というのならまだしもと思うのだが、自分の意識に関する自己言及の中で「私にそんな要素は微塵もない」等の言い方となると、判断対象と判断主体が同一でありもともと他者からは決定不能の場であるため、そこで過度の否定強調がかえって疑わしさを増してしまうことを本人が気付いていないと考えられる。
そこまで言わないといられないくらい否定したいのだなとわかるとともに、そう言わないといられないような何かの動機があるのだな、つまりこの人は冷静に告白していない、よってこの人の言うことは信頼性に欠ける、という判断となる。
本当にそうでないと伝えたいならできるだけ冷静に見える言い方をしないと、ただ激昂しているとしか思われない、ということをよく自覚していないという意味で、その書き方は素人のものだ、と私は思うのだ。

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暮れてゆく記憶の形見

古い西洋館・危うい記憶・過去の惨劇・伝奇的伝承・闇にひそむ者・謎の女・韻文的語調・秘密の儀式
と考えると、これもゴシック・ストーリーの変形。ただしモダンの方の。

いや、今は次のことを。

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