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気はおおどかにあらばと願ひ

笑いというのは、受け取る側のほんの僅かの違いでまるで意味が違ってしまう。
常々書いているように嘲笑というのは多くの場合、何についてもあまりよい結果はもたらさないように思う。
悲嘆している人を無理に笑わそうとするのもよくないことだ。
だが、意図しないユーモラスな事象がいくらか心やわらげてくれるのも事実で、度合いのちょうどよい笑いがあると人はすこし救われる。
その条件は無数にあるが、私の感じるところでは、嘲笑でないこと、攻撃性が低いこと、シニシズムを含まないこと、できるだけわがこととして語っていること、等だろうか。
天然ぼけに近いほど楽にしてくれることが多いが、ただ、本当に天然の場合、ときにひどく無神経な発言もありうるのがまた難しい。
ところで、あまりの惨状を前にしての「もう笑うしかない」というような言い方は、私の希望として、どうかしばらくやめていただきたいと思う。
絶望の強さの表明として笑いの行為を持ち出すのは、当人の納得はともかく、それを聞いた人が、発言者の回避しようとした絶望感をやや無理にしかもより寒い形で受け取ってしまいがちだからだ。
絶望的に思えるときは生真面目に絶望的だと言いたい。
その上で無理にでなくなんとなくユーモラスでありうる人がいたらよいことだ。
なお、「新世紀エヴァンゲリオン」での名文句、「こんなときどうすればいいかわからない」「笑えばいいと思うよ」(概略)というのはこれとは逆のシチュエーションで、意味も逆だ。こんなふうに笑いの用い方は難しい。

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