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見ずやぼのぼの水浴びて

最終的には私個人の語感と考えていただきたいことだが、ネット上で書かれる文の中、否定のときの強調の仕方にあまりうなずけないものをよく見かける。
とりわけ「微塵も」という強調度の高すぎる語が入ると、どうしても素人の書き方だと思えてしまう。
それも外部への判断として「ということは私には微塵も感じられなかった」というのならまだしもと思うのだが、自分の意識に関する自己言及の中で「私にそんな要素は微塵もない」等の言い方となると、判断対象と判断主体が同一でありもともと他者からは決定不能の場であるため、そこで過度の否定強調がかえって疑わしさを増してしまうことを本人が気付いていないと考えられる。
そこまで言わないといられないくらい否定したいのだなとわかるとともに、そう言わないといられないような何かの動機があるのだな、つまりこの人は冷静に告白していない、よってこの人の言うことは信頼性に欠ける、という判断となる。
本当にそうでないと伝えたいならできるだけ冷静に見える言い方をしないと、ただ激昂しているとしか思われない、ということをよく自覚していないという意味で、その書き方は素人のものだ、と私は思うのだ。

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