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ふくらかにありぬべし

不安ばかりだ。
稲垣足穂は、ドストエフスキーの「悪霊」だったかの中で、ある小役人が精巧なミニチャア模型の町を作ることで人生的な危機をのりきったというエピソードを絶賛していたと記憶するがどうだったか。
「悪霊」は読んだがそういったところはほとんど憶えていない。だが足穂はそこだけが「悪霊」の価値だと言う。いくらなんでもそれは偏りすぎ、と思うわけだが、実は大抵の読者はこういう読み方をしているものである。自分もそうだ。
自分都合の読みは当然として、ただ、それだけでない読み方ができるかどうかが読書人か否かの分かれ目とも思う。
ということはともかく、何かに熱中していないと不安でならないときはある。そして何か作るためのことばかり考えている間は過酷な情報の過酷さにも気付かずにいられる。
それは足穂自身にもあったことかもしれない。
そういえば「ゲゲゲの女房」で、水木先生が先のない状況にいたとき、ひたすら軍艦の模型を作っていたという話はそのまま同じことだ。
水木先生の場合、自作を書くことも同じような集中対象だっただろうが、その創作自体が難しくなったとき、軍艦模型制作で渇をしのいだというわけだろう。

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