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掌に少し浮いてゐる期待

カフェ百日紅での「読んでおきたい名作文学選定会議」、明日に迫りましたので再度お知らせ。

4/29(金・祝)16:00~ カフェ百日紅において「読んでおきたい名作文学作品選定会議」を開催いたします。
予約・参加費無料、ただしワンドリンクオーダーのみお願いいたします。
他の方と語り合いたいような文学作品をいくつかお教えいただければ幸いです。
あとはいつものようにゆるっとした文学話の予定です。
通常の午後8時からとは異なり、この日は午後4時から始めます。

では明日。

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流氷の耀ける方に臨みて

思いつきで簡単な執筆テーマ地図みたいなメモを示してみることにした。メモなのでしばらくして考えが変ればまた書き直したものを示す。

1 【少年】 『無垢の力』によって批評的言及はほぼ完了したが、エッセイの形ならいつでも再開する。足穂的に少年を描く小説は「青色夢硝子」(『書物の王国6 鉱物』所収)、「六月の夜の都会の空」(『月光果樹園』所収)。また現在、美的な意味でない様相の少年愛問題をテーマにした小説を書いている。完成は今年中の予定。

2 【少女】 『少女領域』に代表される批評的言及は現在休止している。小説は「少女のための鏖殺作法」(『幻視の文学1985』収録)、「樹影譚」「影女抄」「緋の間」(『抒情的恐怖群』収録)。『神野悪五郎只今退散仕る』も少女の冒険である。

3 【ゴシック】 これも批評的にはやらないがいつでも言及の用意はある。「トーキングヘッズ」での連載が多くこれにあたる。ただもう先行き案内のようなことはできない。フィクションなら『抒情的恐怖群』収録作等。ゴシックストーリーとしては「影女抄」「グレー・グレー」が典型。

4 【妖怪】 『神野悪五郎只今退散仕る』が今のところ決定版。続編は状況が許せば可能。これとは別系列の、可愛らしさを意識した妖怪ストーリーがあって、こちらもそのうち完成するだろうと思う。逆に本当に怖い系なら「呪い田」(『抒情的恐怖群』)と「かごめ魍魎」。

5 【怪談】 「幽」誌にささやかな連載を続けている。それ以上は今はやらない。「水漬く屍、草生す屍」(『闇の司』に併録)および『抒情的恐怖群』収録作のいくつかには怪談をモデルとしているところがある。

6 【猟奇】 『闇の司』が頂点と思う。ほかに「町の底」「緋の間」(『抒情的恐怖群』)、「日の暮れ語り」「よくない道」など。

7 【きのこ】 昨年の「日々のきのこ」が現在のところ唯一の達成地点。飯沢耕太郎さんからは続編を期待していると言っていただいたので、いずれとりかかるが、まだまだ時間は必要だ。きのこの菌糸が地下で満杯になって子実体(つまりきのこ)が出るには大変時間がかかることがある。「日々のきのこ」は書き始めから完成まで20年かかっている。

8 【遍歩】 「遍歩する二人」で始めたものだが、気持ち的に源流は詩として書かれた『うさと私』。この続きにいくらか未発表のものがあっていつか全作をまとめたい。「遍歩する私」も続編は考えているが、いつになるかわからない。「グレー・グレー」にもこの傾向は少しある。

9 【都市伝説】 今年、「記憶の暮方」で大きく用いてみた。「町の底」「呪い田」「樹影譚」「帰省録」もそういうところから始まっている。

10 【異世界】 作品集に未収録のため、よく知られていないが、初期の頃、私は主に異世界幻想小説を書いた。「少女のための鏖殺作法」「黄昏黙示録」等。後者を拡大した連作があるがまだ完結していない。いつになるのか。それと「クリスタリジーレナー」(『稲生モノノケ大全 陽之巻』収録)を発端とする鉱物的別世界の物語がほぼ書かれており、この末尾に、以前「群像」に掲載した「石性感情」を置くことになる予定なのだが、これもいつになるか。

11 【鉱物】 仕事として『書物の王国6 鉱物』。それと実作は上に記した作品。「青色夢硝子」もこのテーマ。

12 【詩歌】 『うさと私』も詩だが、「夏が来ない」(『月光果樹園』に一部収録)「二輪行」等の詩、あるいは短歌俳句(『ゴシックスピリット』『月光果樹園』に一部収録)もある。それとは別に「詩について考えた小説」が「ポエティック・クラッシュ」。こういうのはこの先続けられるかどうかわからない。詩とは別に擬似文壇小説というようなのもありかなとも思う。さらに韻文の呪術性ということなら「記憶の暮方」。ほかに「かごめ魍魎」「闇の司」「水漬く屍、草生す屍」「緋の間」等のホラーノヴェルはいずれも定型詩をモティーフにしている。

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霧深き夜の眠り

眠っていたのか、よくわからずに眼を開くと暗い中、遠い光が見えた。
祖母に背負われて家に帰るところだったと思う。
それだけの記憶に何があるだろうか。
だが記さないではいられない。

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礼楽の波穂ゆすりめくさんざめき

しばらく無理の向きには眼を閉じます。
思うところは果たさねばなりません。
大きく変わるでしょう。
りんと響く音がする。

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実りあれと祈りつつただ実りあれ

子を育てることは、全面的でないにしても必ずどこかで幼稚と無知を認め、それを理由に責めず、過ちは指摘するが、やわらかな形で成長させるよう配慮すること、と認識している。
大抵の、育てる、という営みはそうした寛容さなしには不幸なことになると現代の私には思われる。
その成長への期待は大人の未熟者への対応でも最低限求められる了解のようにも思う。
いくら厳しくともよいが最終的に寛容さを担保していると感じられる編集者の人には信頼が持てる。
一方、表現者であることは、親の役割とは逆に、寛容さを捨ててでも、他者のできない表現を探ることと思う。
何人も何人も、あるきっかけで敵対するとどこまでも相手を許さない表現者を見てきた。
言うまでもないが私だってその一人ではある。
私がたまたま寛容のように見えるときがあるとしたら、ある意見がそのままであっても自分の表現に敵対しない限りにおいてだ。
ということを前提にして、そこで言うが、しかし、敵とかいうところでもう間違っている。
安易な敵味方などという発想がそもそも表現を貧しくする。
と、大抵の表現者はそれもわかっている。そして単純な対立によってできるものでない世界を注意深く描き出す。
ところが、そういった表現の豊かさをめざす表現者が、あるおりには阿修羅のように怒り、敵を憎むこともしばしばだ。そこに寛容さも妥協もない。その必要も認めない。
いかにわかっていると見えても、そういうことをいつでもしうる存在なのだ、表現者は。
優れた編集者の方々はそこのところもわかっている。

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さはあれど清しきはへび少女の瞳

カフェ百日紅・読んでおきたい名作文学選定会議のお知らせ

百日紅談話会にこれまでご参加くださいました皆様、またこの先一度は参加してみようとお考えの皆様にご連絡いたします。

4/29(金・祝)16:00~ カフェ百日紅において
「読んでおきたい名作文学作品選定会議」を開催いたします。

京都造形芸術大学の文芸表現学科というところでは、「百讀」として、文芸創作をめざす人が読むべき百冊の文学作品のリストを公開しています。
これを見て思ったのはやはり、文学に関して語り合う際、予め知っていてほしいと思う文学作品がいくつかあるということでした。

そこで、今回、百冊とはいかなくても、この先の百日紅談話会で話題にしたい、あるいは知識の前提としておきたい文学作品を二十~五十作(あるいは冊)くらい、決めてみることにしました。

今月の百日紅談話会は、4/29(金・祝)の午後4時から開催することとし、ご参加のみなさんのご意見をうかがいたいと思います。
今回は普段と異なり、祝日であり、あまり遅い時間でもないので、これまで日時の関係で参加できにくかった方にもお誘いを申しあげます。

おひとり何作でもかまいませんが、ひとまず十作品から二十作品くらい、ご推薦ください。そこから、全員の相談である程度意見の一致した作品を決定する予定です。ジャンルは結果としては小説が多くなるでしょうが、詩歌・評論・戯曲いずれも可です。

必ずとは申しませんができるだけ手に入りやすいものが望ましく、あまりに長大な作品は今回は外したいと思います。また、ただ珍しいだけとかその稀なつまらなさを知ってほしいとかいうような「ひねり」をもとにした選択はできれば避けていただきたく、まずは皆に一度は読んでもらいたい、知っていてもらいたいという、「個人的名作選」をお教えいただければ幸いです。
今回で決定しきれなかった分は次回以後も考えます。
ある程度まとまったところでリストを公にしたいと思います。

なお、以後、ここで決まった作品を読んでいることがこれからの参加資格となるわけではありません。
お勧めします、というだけのことなので、これまでどおり、お読みでない参加者が疎外されることはありません。

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立夏の後にきのこの傘の開くとさ

西荻ブックマークきのこの日のお知らせ

JR中央線・西荻窪駅(東京都杉並区)周辺で2006年5月より開催されている、西荻の本好きによる、本をめぐる、月一回のイベント、西荻ブックマーク。

そこで5月15日(日)は、きのこの日、となりました。

「きのこと文学、詩、短歌とその周辺」(5月15日)
(以下、サイトより引用)

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第52回西荻ブックマーク
2011年5月15日(日)
「きのこと文学、詩、短歌とその周辺」

出演(五十音順):飯沢耕太郎、石川美南、高原英理
会場:今野スタジオマーレ
開場:16:30/開演:17:00
料金:1500円
定員:30名
要予約

『きのこ文学大全』の著者、飯沢耕太郎さんと、きのこ偏愛歌人、石川美南さん、きのこ小説の作者、高原英理さんの3名がきのこを題材にした世界の詩歌や文学を通して、きのこの魅力と世界について熱く語ります。

飯沢耕太郎(いいざわ・こうたろう)
写真評論家、きのこ文学研究家。

石川美南(いしかわ・みな)
歌人。歌集『砂の降る教室』、私家版『夜灯集』など。

高原英理(たかはら・えいり)
作家。昨年『文學界』に小説「日々のきのこ」を発表。

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(引用以上)

なお、トークのほか、朗読、また岩里藁人(いわさと・わらじ)さん描くきのこ妖怪画の鑑賞などもあります。

お申し込み、イベント続報の掲載は西荻ブックマークのWEBサイトから
http://nishiogi-bookmark.org/2011/nbm52/

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静かなる果実の眠り

「可愛い」にはどうも二種あって、ここ二、三十年くらいの日本の「萌え」に沿った形態とそれ以前からある形態、という考えはどうか。
最近は海外までも「萌え」がクローズアップされているのでもはやこちらの方が主のようにさえ思われるかも知れないし、確かに最近の萌え関係はある洗練を経たような気もするが、しかし、ともかくこちらは、早くておよそ1970年代以後のいわばモードのひとつである。
だから廃るとは思わない。三十年と少し前くらいから始まった新たな歴史というべきなのかも知れない。
それはともかく、もう一方の可愛い形態の方はもともとヨーロッパ由来で、後にその視線から振り返って新たに発見された和ものも含むが、こちらの「可愛い」のセンスをわれわれが知ったのはおそらく明治末くらいからではないか。
ヨーロッパでは二百年近い、あるいはもっと、歴史があるはずだ。
ただ、日本に移植されてその形態はより一層心惹くものとなったようにも思う、という判断は、いや、日本にいる私によるものなのであまり意味はないか。
昨日からの思いつきを記してみました。

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瑞祥のふと気付かるるときぞあらまし

近くに輸入雑貨店があって、フランス、ドイツ、東欧の生活小物が多く、行くたびに小さな夢を持ち帰る気がする。
その小さな夢というのは、大正の頃から始まった、モダニズムと都会生活とヨーロッパのしあわせな幼少期の思い出、のようなちょっとブルジョワ、ちょっとなつかしいニュアンスで、いい絵本のような感じ。
なにもかも鉛色の今日このごろ、たまに出向いてはほんの僅かに別の空気を吸う。たまに安いものを何か買う。
少々前にここで小さいドイツ製の木彫りのきのこを買った。傘の下のところにわざと木の削り残しがされていてとてもうまくできている。

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知らざれども思ふはやめず

(承前) でも私はお洒落人間を悪く思ったことはない。
センスのよさや自分の見せ方の巧みさは褒められこそすれ否定する理由はない。
で、何が気に入らないかというと、本人がお洒落でもないくせに「お洒落な文学」なんてものにこだわりたがる、お洒落作家(って当人に見えてるだけなんだけど)をやたら持ち上げたがる人、つまり「お洒落人間ワナビー」がけっこう文学の世界にもいて、そういう人たちが、地味で見場の悪い作家たちの邪魔ばかりするってことです。
お洒落は実践するものです。
結果的にお洒落な文学があってもかまわないが、文学にお洒落を期待するのはやめよう。
そんなことする暇があるならどっかでいい服買ってこいよ。ってことですね。

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律してなほ、伝ふるは遠し

ブルックナーとフォークナーは「……ナー」という名前の末尾が似ているだけで分野も精神も全然違うアーティストだが、二人とも共通して、「アーティスト」というハイセンス・ハイブロウな響きからはなんとなく遠い。
どちらも田舎のおっさんで、確かに天才的だが、ものすごく旧弊で頑固なところを捨てなかった。
今では芸術家として一流と見られてはいるが、生前、あるきっかけで一転、広く認められるまでは、(あるいはその後も)どうにもお洒落でない作者だった(と想像する)。
今でも、この二人の名を出すことは、その人のセンスのよさを誇示するものではないだろう。
いや、教養の深さの誇示とは別で、「通」ぶりたい人にはまた違う高い価値もある。このそれぞれの巨人を知らずにクラシックも文学もわかったふりはできないから。
そうでなく、もっと浮薄に、アートってオシャレーって言いたい人にとっては全然およびでない作者、じゃないかということ。
で、以下は贔屓半分で考えてみるのだが、そのなんだか、「世に歓迎されるコピーで一言に宣伝できないところ」が真のアートだ、と、こうしておくのが自分の今の信条。

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詩は今しも触れるばかりに遥かなり

こんな時期にも『抒情的恐怖群』をお読みくださって、しかも感想までお記しくださる方々がおいでなのを知って、ひとこと御礼申しあげたくなりました。まことにありがとうございます。
またこれまでもお読みくださったみなさまありがとうございます。あの著では真に語りたい物語だけを語りました。

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謎めくは思惑の虹ならむとし

最近知った、現在「みんなのうた」で放映されている「誰かがサズを弾いていた」という曲。
うた・作曲:ヤドランカ、作詞:友利歩未、編曲:渡辺俊幸、そして、造形・イラストレーション:宇野亜喜良、映像:岡野正広。
うたもよく、しかも宇野亜喜良の造形・イラストが驚くばかりで、過去にあった「月のワルツ」級だった。
4月5月中放映だそう。なお、「サズ(Saz)は、イラン・トルコ・バルカン半島諸国で一般的な、長いネックを持つリュート属の撥弦楽器」とのこと。

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歌ありと眺める花々

「群像」3月号に掲載した、景清にかかわる小説の中で、景清塚についての描写をしていていて、中心に大きな榎が立っている、といったように記した。
これは私の実家の近くにあった塚らしいものの記憶をいくらか用いたもので、今ではかなり整備され位置もやや違ったところに、塚でなく「景清遺跡」という小さな記念碑が建てられている。
これまで確認する機会がなかったところ、先月、ようやく見に行ったら、現実に榎があった。
木があることはわかっていたが、それが実際に榎であることを私は先月まで知らなかった。
小説に榎を描いたのは、たまたま勤める大学のキャンパスに、そのとき書いていた小説にそぐわしいと思える木があり、それが榎だったので、用いたことによる。
郷里の景清遺跡は私の幼時には今の形ではなかったし、今見る榎は大木でないので、後の整備のさいに改めて植えられたのかもしれない。また榎はよく道端の目印として用いられてきた木だそうだ。
それだけのことなのだが、とても不思議な気がする。
何かが何かと呼応している例を知ると、他にももっともっと見えない何かがあるだろうことを予感もする。といって、どういう形にせよ、その「真相」のようなものを知ることはできないだろうとも思う。ただ遥かで遠く、とても手が届かないような気がする。
こんなこともあったという記録として。

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ただ聴くゆふぐれの諧調

共時性という考え方を言い出したのはユングだったか、パウリという物理学者と共時性についての共著を出していたと思う。
こんな偶然がどうしてあるのだろう、という不思議な出来事は確かにある。
また創作の場で見いだされる奇妙な符合はそう珍しいものではない。
ユング的にでなく、社会心理学的に説明されるものもあるだろう、しかしそれでも、創作という行為がどこか錬金術のような、一言で言えない心と事実の交錯であることはよく感じられるはずだ。
予期できないところが奇跡のように符合しながら、その意味は不明である。虚心になれば、共時性を人間の都合では解釈できないという意識になってもおかしくない。しかし反面、人間であるからには何らかの意味を見いだしたいと思い続けるのも仕方ない。

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爛漫たるやとざせるまなうらの下

決められた手順を守りいくつもの条件をクリアした上で行われた測定による厳密な価値決定というものはアートにはない。
アートに志すとは普遍性と客観的な保証のなさに耐えつつ創作を続けることだ。
それを運次第と言えば簡単だが、アートの受容にかわる運命は一般的な運ともどこか違う。予期されない奇妙な符合も多い。
何なのだろう。
アートに志すとはまた、不可知に触れることでもある。

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