« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »

ざざめぐごごろ

とある方が私の初期作品を御覧になって「『青色夢硝子』がよかったが、もっとやれ、と思ったら評論に行ってしまった」と残念がってくださっていたので、届くかどうかわからないがここでお答えします。
1996年から2007年までの約12年、どちらかといえば評論的なものを多く書きましたが、『抒情的恐怖群』の刊行後はほぼ小説に復帰しています。
もし「青色夢硝子」のような傾向がお好みであれば、『稲生モノノケ大全 陽之巻』所収の「クリスタリジーレナー」(これは秋里光彦の名による)、また先月の「ユリイカ」所収の「ほんたうの夏」といったところを図書館などでお探しいただけると幸いです。
そういうのだけを一冊にしたいのですがまだ先のこととなりそうです。

| | トラックバック (0)

眼を開き眠る技

「妖怪」という語は意味・文字ともに好きだが、「お化け」の語感と楽しさはそれを上回る。
お化け。しみじみといい言葉だ。

| | トラックバック (0)

リアルとありうるの差をもとめ

ようやく、そしてやはり、夏は来た。
蝉も鳴いた。
そうしているうちに残暑と言わねばならない時期になった。
だが私の中では夏はまだ終わらない。
さあ、行こう、まだ見ていない夏を探しに。

| | トラックバック (0)

よろこびのあらんかぎり

自らわざわざ記すほどの何があるか、と思い始めるとまるで今更の気になる。
のでしばらくここに書くこともなかったし、この先もそれほど気を入れて書くこともないかもしれないが、たまにふと思い出すようなもの。
意識は形ではなく作用なのだなと思うと確か宮沢賢治もそんなことを書いていた。
私は固形ではなく現象である。
違いない。
ところで醜い他者をどうしようか。その醜さの由来もわかっているとして。実は紙一重のようにも思えるが、しかし自分は全く違うと言わんばかりに嘲笑すればそれでよいのか。
自他どちらも不意に虚空に見いだされた形象の幻だと言っても、「あああんなのは嫌だ」感は消えない。
といって、それら一切を切り捨てている潔い自分に酔うのはもっと醜いと、最近は思えてならない。
格好が悪いと醜いは違う。格好の悪さは、それがある理想に向かっているとき、とても美しかったりもするのだ。
といったことを考えたりして時間が過ぎた。

| | トラックバック (0)

« 2011年7月 | トップページ | 2011年9月 »