朗報なるかいかなるか
キッチュとか下品とか、くっきりとした像を持つならそれは別の見方から格好が良いこともありうるという意見。
困るのは生乾きな感じ、すっきりしない感、という意見。
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キッチュとか下品とか、くっきりとした像を持つならそれは別の見方から格好が良いこともありうるという意見。
困るのは生乾きな感じ、すっきりしない感、という意見。
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最近頻繁に思うのは、あのときの自分は愚かだった、ということ。
具体的には記す気もない。ああなんと駄目だったのだろう。
とはいえ、それを愚かと断じている今の自分が、当時の自分より賢明である保証はない。
というより、かつて愚かだった者がそれよりましになっているとも思えない。
ただし、現在の自分を現在の自分が見下ろすことは論理的に不可能で、何かの観察対象は十分な距離ができてからようやくその評価が可能になる。
そのため、現在の自分は過去の自分に匹敵するほど愚かだろうとは推定できるが、どこがどう愚かでどこがどう駄目なのかはわからず、それゆえまたも愚かな失敗をしてしまうかもしれないのだ。
距離のできた過去の自分を今の自分から評価するという意味で「自分は馬鹿だった」と語ることは可能だが、現在およびこれからの自分について、「愚かである」かどうかはわからず、たとえ愚かであっても何がいけないかも知ることはできないのでそれを見下ろして愚かと評価できる能力は少なくとも現在の自分にはない。
このことは私のみならず、誰についてもあてはまるはずである。
よって、何か語るさいに「自分は愚かなので……」と始める人を見ると、その論理矛盾に気付かず、あたかも現在の自分さえ俯瞰できているかのような語りで、実質は「こういう自分だから甘くみてちょうだい」と言っているだけなのを私はひどく醜く思う。
過去はいくらでも自省謝罪できるが、今およびこれからの自分について予めの免罪はありえない。
安易に「自分は愚かなので」と先取りしておけば許されると思うな、甘えん坊の人。
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「多量の駄作の存在は、それらを受け入れる市場の存在を前提にするが、それが存在しないジャンルは名作を生み出せない。そのような駄作は、駆け出しの制作者の修練の場でもあるからである。それを失ったジャンルは、後継者を失って先細りになりがちである。」
(wikipedia「スタージョンの法則」から)
文学の衰退というのを私は信じないが、ただもし、衰退があるとしたら、それは駄作が増えことによるのではない。駄作を許容しない余裕のなさが拡大することによるのである。
文芸誌の掲載作には駄作が多い、と嘆くのは間違いで、まだこれだけ駄作が掲載されていることに可能性があると言うべきだ。
逆に文芸誌から駄作を徹底排除せよ、とする意見が支配的になったとき、文学の未来は危ない。
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ところで神秘主義と科学とは案外矛盾しない。
意志決定の部分に神秘主義的な発想があっても、現実化の段階で厳格な科学的思考が貫かれている場合がそれだ。
西洋なんてそうではないですか。カトリックの理想を奥底に持ちながら大きな科学の発展をもたらした学者は多数いるだろう。
ヒューマニズム(人間中心主義)もまた神秘主義である。
希望の部分を科学に規定される理由はない。人の希望をかなえるために科学はある。
そして私は科学には最も信頼を置いている。
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では個より以上の永遠のようなものがあるのかと言うと、普段こと改めて考えているわけでもないのだが、自分の場合、大抵、今以上の何かがある気で行動しているように思うのだ。
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ところで私は読みたい本もあるがなんとなく読まないでいたい本も多い。
だが読んでないものを想像で批判したり軽蔑したりすることは厳に慎みたいと思う。
それと、読んだ上で内容のよくない点を指摘するのは賛成だが、最終的に「センスのいい自分にはこんなの馬鹿馬鹿しくて」というようなただの自分礼賛が目的になる貶し方は最低である。
十年経てば忘れられる「センス」よりもっと大切なことがあるだろう?
さらに言うなら「今の自分」よりもっと大切なものが。
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最近は評論がいいと思う。
大澤信亮もよかったが、宇野常寛の『リトル・ピープルの時代』は世評どおり優れたものと思えた。
ある時代のように「貧乏くさいからいやだ」とか「田舎くさくて恥ずかしい」とかいうような、本質的でないファッションから侮蔑して己を誇る卑怯なやり方が完全に無効になった後の、真に語るべきことを考える人がいる、といった印象。
驕らない、誠実な態度と思う。
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書評(レビュー)と評論とを区別する人がいて、私もそれには賛成だが、あまり徹底した区別はされていないようにも思うのは、いくらか評論家として知られた人にときおり書評依頼が殺到したりすることがあるからだ。
その違いというのは
書評・レビューが、原則としてその本のよさを見いだして伝え、ときにはこうだったらよかったのに、くらいの希望や、また場合によってはここがよくないという注文も加えて、最終的にはその本の価値を示す機能を持つのに対し、
評論はそのテクスト(一冊の本とは限らない)から考え出せること、そしてそこに見えていなかったあるいは見えていても気付かれなかったことをあらわに示そうとするものである、というところだ。
つまり評論には、そこで言及するテクストなり作品なりから発生する考えだけが重要なのであって、そのテクストや本がいかに世の読者にとってよいものかを提示する義務がない。
そこを見間違えて評論家に書評を頼むと、(たいていは評論家も役割をわきまえてはいるのだが)どうも書評として必要なアピールの乏しいもの、レビューとしての勘所を外したものになったりする。
そしてここから「評論家」蔑視が始まる。評論家のくせにこの書評はなんだ、と言われるわけだ。だが本来評論家は本のよしあしをガイドする人ではないのである。
もっとよくあるのは、「俺の本のよいところを紹介してくれ」と願っている作家たちが、「なんだ、俺の本がただの山車にされているだけではないか」と怒りだすことだ。
しかも、ある評論家にとって真に興味のあることはその作家の読んで欲しいところでは大抵はない。
すると、作家は「こいつは間違った読みをしている」と激怒する。
どれもこれも評論家のやりたいことと、誤って求められていることとの食い違いによって生じるトラブルだ。
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小国寡民(しょうこくかみん、小さな国に少ない人)、ということ。
このユートピアは老子が告げた。
その少ない民がある程度以上に文化的であれば言うことはない。
だがそれを成り立たせないのが歴史の方向なのだったが。
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