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いいんですか倶楽部

「仮面ライダーディケイド」の劇場版ではラストシーンで巨大ショッカー対巨大仮面ライダー(なんと!)の対決となる。
リトル・ピープル的ヒーローだった仮面ライダーも、ここへ来て遂にビッグブラザー化したか?
そりゃ単なる劇場版一作での特別な趣向に過ぎない、といわれればそれまでだが。
でも宇野常寛氏(『リトル・ピープルの時代』)の意見が聞きたい。

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期待はずれ友の会

で、スタンダールの「赤と黒」も面白くは読めなかった、というのはやや不正確で、前半の(へぼかもしれないにしても)懸命に権謀術数をめざす主人公の行動の記述は単純に見る限りなんとなく「スパイ大作戦」(TV版)の遥かな先祖のようなところも、今から考えればだが、あって、その傾向の先にならたとえ失敗するにしても格好悪く終わるにしても許容できた。
しかるになんだね、ジュリアン・ソレル、きみは結局愛に生き死ぬだけだったではないか。
だったらつまんないマキャベリストぶりなんかやめて最初から愛に生きろや、ってこれはジュリアンに言うべきでなくて作者に向けて言うべきだな。
前半の「すこしわくわく」があったため、後半の陰気な展開に全然のれない。後半はそれだけを独立させた物語にしてくれればそれなりに読めたと思う。
また前半は、ハードボイルドめざした若者が愛につまづいて転落するところですぐ終わり、でいい。
要するに後半長すぎ。ながながと嘆かれても面倒なだけだ。別に彼の愛がそんな尊いものとも読めなかったし。
野心を描くならそれ、愛に生きる話ならそれ、ですっきり分けてくれ、ということか。同じストーリーであっても、そのウェイトの置き方が一貫していればよいのだが、どうも、途中からめざすところがブレてしまっているように思った。
というのが初読のさいの、誤読もありそうだが正直な感想だ。
ただ、「従妹ベット」とは違って、「構造全体の退屈さ」がいやなのではなく、期待はずれ・テーマらしいものに対する首尾一貫しない混乱が多すぎ、ということなので、あるいはいつかもう一度読み返して見直すかも知れない。
それにしても、どうしてこんなに、こうした種類(どんなだ?)の物語を面白がれないのか、という話はまた次回。

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つぶら攻撃

夢および意識の弱った状態の知覚を何かからの脱出と考えるのは意外に古くからある発想なのかも知れないが、その具体的表現方法を尊び始めたのはやっぱりシュルレアリスムからか。昔の時代の夢の記録には生々しさが少ない。ブルトンによる夢の記述はとても夢らしい。

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有為やつ

今年の講義ではこれまでのテキストに加え、スタージョンの「孤独の円盤」も読むことにした。
スタージョンの短編のいくつかは痛いところをついてくる。暖かい結末が待っていたとしても、この世界の片隅の寒さを語ることはやめない。

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ザーヒル根性

小谷野敦さんのツイート記録を見ると最初のところに
「求職中。私にいちゃもんをつけるために話しかけるやつは私の著書を15冊以上読んでからにするように。」
とある。
なるほどこれはいい考えだ、自分も採用しよう。 あ 自分には15冊も著書がない。 あ 自分ツイッターやってない。

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ビックリブラザー

脳内物質使いきっちゃって希望素足りませんってときがある。

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乏し火

「少年のような」という形容が褒め言葉になるのは、少年の無分別を持っていない人に対する場合に限る。

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ムリンとしてかわいい人

バルザックに続けて言えば、スタンダールの「パルムの僧院」も同じような徒労感があった。
ああいうシーソーゲームストーリーはちっとも面白いと思わない、というのが、ずいぶん前に読んだときの記憶。
今もし再読すれば全然違って思えるかも知れないが、一度目の印象が悪すぎたのでもう読み直すことはないだろう。
そんなの読むくらいならカフカとかフォークナーとかスタージョンとか、他にまだ読んでない作品のある、きっとよいと思えそうな作家はいくらでもいる。
実はスタンダールは「赤と黒」にも失望している。という話はまたいずれ。

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しむしむたむたむ

バルザックの「従妹ベット」を昔読んだとき、これを楽しんであるいは名作と感動して読める人というのがとてもわからないと思った。徒労の気がした。
このうんざり感は「ミッション・インポッシブル」(2?)劇場版を見たときと似ている。
ここに自分の好きになれない物語の典型があると思う。以下また後ほど。

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土瓶虫

↑ってほんとにいると思ってた。

だいたいできあがって二、三日はハッピーだが、実はこの段階で、ラストに達するまでのテンションの維持と完成後の多幸症的活動性によって著しく消耗しており、その後、数日以上は何もしたくない状態が来て、寝込む。
だいぶんしばらくして、あ、このプランいいかな、というような何かを見いだすと次作はじまる。

というのが自分の創作サイクル。

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人事井戸

歌人・作家の東直子さんは小説の制作は編み物のようなものと思うと言っておられたと記憶する。
自分にとって小説を書くことは塑像の制作に共通性が感じられる。塑像と言うとなにやら大げさのようだが要するに粘土細工と似ている。
指先で少しずつ細部を作ってゆくのだが、途中、一部ちぎったり、足したり、少し作っておいたものをつけたり、気になるところを直し直し続けるところとか。
ちなみに私は小中学校の頃、粘土細工が得意であった。身に馴染んだ行為は何か作る際の比喩となりやすいものだろうか。

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夜中の賛辞

ありきたりな言い方かもしれないが、大方の場合、詩を書くのは狩猟で、小説を書くことは農業だ。
罠を仕掛けて獲る猟もあるかも知れないし、いろいろ準備の多いやり方もあるかも知れないが、詩はある瞬間の鋭さとか違和感とかがかなり勝負だった、そして一度逃すと二度と同じ獲物は得られない。
だったような気がする、自分の場合。
そこへゆくと小説は毎日少しずつ丹精していって、そのうちに実がなる感じ。
途中枯れてしまう失敗もあり、肥料をやりすぎてうまくゆかないときもあり、結局はできてみないと豊作か不作かわからない。
ただ、かなり無理と苦労をして少しずつ書き付けていくうちに、なんか臨界点みたいのが来るときがあって、それが来るとほぼ全体ができてしまう。そこが楽しい。

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まだ来ていない現実たちよ

シュルレアリスム

もう80年以上前に始まった運動なのに、その名は今聞いてもわくわくする。

シュルレアリスム

驚くほどたくさんの愚行とひどい喧嘩の中から、ほんの僅か、比類ない輝きが見える。

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知るは一時の魔

「ミッション・インポッシブル(MI)」の劇場版はもういくつもできているが確かその2だったかだけ見たことがあって、「これなら『ダイ・ハード』が見たい」と思った。
もともとの「ミッション・インポッシブル」TV版、日本での放映タイトル「スパイ大作戦」の楽しみは、奇想天外な騙しのプランをたて、それが途中少し予定外のこともあったにせよ、ラストで全面的に作戦成功に終わるという、映画でいうなら「スティング」と同じ性格の「知的勝利へのプロセス」ストーリーを毎回見せてくれるところにあった。
はっきり言えば、「ここでは主人公たちは常に一枚上手、全部大成功、敵は完全敗北」という、虫のよい願望充足のための文字通りのエンターテインメントなのだ。
それが映画版では綿密なプランとその遂行ではなく、次々ふりかかる予想外の事態を体力で乗り切る的な、ストラグル型のストーリーになっていて、しかも敵はなかなか敗北せず有効な反撃ばかり来る、主人公は全然スマートに攻撃できない、という見ていてちっとも楽しくないものだったと記憶する。
要するに私が「スパイ大作戦」に期待していたものが全くなかったということで、これはこれとして見よという意見もあるかも知れないが、予めそういうものと知っていたら見なかった。だからそれなら「ダイ・ハード」のほうがずっとよいというのだ。
この、シーソーゲームのような面倒が嫌い、エンターテインメントならご都合主義いっぱいの願望充足が欲しい、といういわば単純な子供の望みをなんとなくうしろめたいものとして隠している人はいないだろうか。
だが言おう、エンターテインメントと決めた作品なら、そこはためらわずご都合主義でやってほしい。
だからといって、それ以外の深みがなくなるものではない。
と、ここまでで、続きはそのうち。

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怪のある暮らし

60年代のアングラ・アヴァンギャルドへの若い人の反応が薄いと無念がっている人がいたが、そこで同じ反応を求めることはできない。
といって、似たような年代の者同士で「だよねー」と言い合うのはどうも残念である。
無念か残念か。
実のところ、今、何か創ろうとする者にはどうでもよいことだが。

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イリーガル効果

三島由紀夫、村上芳正、ジュネ、バタイユ、という組とか、寺山修司、宇野亜喜良、沢渡朔、とか、塚本邦雄、春日井建、葛原妙子らと中井英夫、あるいは澁澤龍彦とサド、ブルトン、ベルメール、デルボー、金子国義、四谷シモン、土方巽、野中ユリ、といった名称群。

こういうイリーガルが管理外ドメインに残る古い空間に今も群れとして多く生息しているわけで、案外そこからはメタバグどころかキラバグまでも取り出すことが可能という都市伝説、など、「電脳コイル」風に言うとすれば。

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麒麟体

『家畜人ヤプー』問題。
真性マゾヒスト男性読者以外にとって、『家畜人ヤプー』は村上芳正の画のためにある作品である、という考え。
かつて都市出版社から刊行された限定版にあの見事な画がなければ買うことはなかった。
それをいくつか継承した角川文庫版も今となっては宝である。

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苦悶式

1972年放映の「超人バロム1」に出てくる怪人たちはとりわけ気持ち悪いのが多かった。
少年二人が友情の力で一人の超人に変身、ていうのもなかなかよろしおま。

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渡る小川の水もはや冷たく

以前、生徒だった者がいくらか批評を発表する人になったので、何も便宜等図ってやれないものの、気持ちだけは応援していたのだが、彼が最近、私の信頼する評論家からかなり厳しい批判を受けている。
読む限りもっともな批判である。
と、思ったら、その人として批判されているのは実は別人の記述なのだそうだ。
当人も書いているが、以後、いかに短いコメントにせよ、誰が書いたかは明記すべきだ。
ともあれ、彼がそこまで間違ったことは書いてなかったというなら、ひとまずよかった、てとこかな。

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戻らず川

批評家の人たちといるとたいていボケなのだが、作家の人たちといるとそこはかとなくつっこみ役をうながされる感じがあると思った。

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霍乱さらにゆくとも

「人間嫌い友の会」というものがあると聞いたが本当か?
それって矛盾……などと言うと「いや、洒落だから」と返答されそうな気はする。
しかし、あんまり洒落にもなってない感があるのだが。
それとも人間は一人も参加していないとか。

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