ラブリーボム
自分にはさほど被害のないことについてあれこれとシャレを利かせた(つもりの)つっこみを入れつつ「まあどうなんですかね」みたいにして終わるような記事が一番嫌いだ。
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自分にはさほど被害のないことについてあれこれとシャレを利かせた(つもりの)つっこみを入れつつ「まあどうなんですかね」みたいにして終わるような記事が一番嫌いだ。
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古い日本映画を見ているとたまに「やっこさん」という言葉を聞くことがある。
「あいつ」とか「あの野郎」とかいうようなやや見下げつつ親しみをこめて言う三人称代わりとはわかるが、現在耳にすることはない。
イメージとしては江戸時代、大名行列の先にゆく髭の人だが、もともとは下僕の意味、さらに遡れば奴隷の意味ではなかったか。
敢えて同輩を蔑んで見せるような言い方ということなのかどうか知らないが、そもそもどうしてこういう言い方があったのかよくわからない。
そういえば江戸時代以前の文学なら古典として多くの学者が注釈をしてくれているが、明治文学の当時しか使わなかった言葉の多いものは本当にわからない。
特に泉鏡花なんか、是非、誰か、当時の風俗の研究とともにひとつひとつの語に詳細な説明と、できればその用法の教示をも願いたいものだ。
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『優雅な生活が最高の復讐である』という題の本があってずいぶん前に読んだが、その版には題名の意味するところが正確に書かれていなかった。
文庫化された版には説明があるそうだが、スペインのことわざで、過酷な人生を優雅に生きることがそれへの何よりの復讐となる、あるいは、被害をもたらした相手にやり返すのではなくその後自分がより幸せそうに暮らすことが何よりの復讐なのだ、というようなものと最近知った。
そんな意味だろうとは思っていたが、書かれた内容が悲惨な状況をほほえんでやり過ごすという話ではないので、どうもあまりよくわからないままだったのだ。
もっともなことわざではあるが、難しいところで、本当に過酷な中を優雅な表情でいられるならそれがその人の才能とも思える。
復讐に執念を燃やすのは確かに不幸かもしれないが、ときに見かけるのは立場が逆転してかつての敵に出逢うようなときだ。
たやすく仕返しができるほど立場がよくなったとき、何もしないで相手を許す人というのもあまりいないのではないかと思うが、とはいえ特に日本では時間とともになんとなく感情を散らしてしまって、復讐のポテンシャルが下がってしまう人はいそうである。
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映画「ステキな金縛り」見てきた。いいと思う。
夢の中の関連の仕方ってネットのリンクにちょっと似てないかと思うことあり。←映画とは関係ない話。
以下も映画とは関係ない。映画見に行くときに同行者と話した話。
ミステリー、というか探偵小説が始まっておそらく最初の驚きは「探偵が犯人だった」だろう。
次は「被害者が犯人だった(犯人は最初に死んだと見せかけていた)」か。
その次あたりは「全員が犯人だった」
さらに驚愕したのは「語り手が犯人だった」
トリックとは別に、こういう大仕掛けな驚きがかつてはあったわけですね。
そうなると次は「作者が犯人だった」
そしてとうとう「読者が犯人だった」
このへんで限界か。
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とりいかずよしにも「のっとり魔子」というちょっと気になる作品があったのだが一度雑誌で一部を読んだだけなので全貌がわからない。
なんか古谷三敏にも「魔子ちゃん」という短編があるようだし。これは確かめるまで全然知らなかった。
魔子という名は緑魔子以外にもその名の人はいたらしい。確か大杉栄・伊藤野枝の間の長女の名が魔子だったが後に改名して真子となったという話。
龍膽寺雄の「放浪時代」のヒロインが魔子。別に「魔子」という短編もある。
いつか悪魔という男子名をつけようとした親が非難されたが、魔子だとちょっといい感じにも見えるのは「悪」の字が問題ということか。とはいえ改名されたことからもわかるように普通に暮らしたければ魔子はやめるべきだという常識人の発想は言うまでもない。
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ふと思い出した古谷三敏、幻のコミックス『墓場の血太郎』
ただし表題作にあたる作品は「墓場ネズミの血太郎」の題名で収録されている。短篇集。
たしか「怪奇と幻想の好きなぼくが描いた作品で」というような自己紹介があった。
絵はやはり赤塚不二夫系だが十分に怪奇で、中には相当読み応えのある残酷なホラーもあった。
で、表題作「墓場ネズミの血太郎」は怪奇趣味だがとても静かで悲しい物語だった。
ここでストーリーは記さない。残念ながら所持はしていない。復刊希望したい。
この一冊を知っているので、私にとって古谷三敏はうんちくやエッセイ風にとどまらない、ただものではない漫画家と記憶されている。
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やるべきでないと感じたこと。
ある亡くなった作家の業績を称えるための集まりで、「名刺代わりです」と言いながら全員に自著を配っていた人。
全然宣伝の機会に恵まれない書き手は多いので、そういうのもあまり責める気はしない。
でもやるべきではない。
なお、貧しい人、運に恵まれない人の惨めな振る舞いを笑うことは容易い。
これもやるべきではない。
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「そこにしがみつく理由がない」という態度の取れる場では人は限りなくクールになれる。
即座にその世界を去ることに何の痛痒も感じないという状況が真にあれば、そこでその人は全く惨めな野心と下心なしに正しさだけをめざした発言ができるし、自らの見解だけを意地になって正当化する必要もない。
あとは当人の賢さ次第だが、この、正しさのためにならそこを去ることも厭わないという条件がおそらくはほとんどの人の知能を数倍高くすると思う。
問題は、「どの局面でも自分の居場所にしがみつく必要のない人」がまずほとんどいないことだ。
この態度が取れるのは「その世界で生き抜くこと」を最初から放棄している場合に限る。
何かの生業を持つ人はその生業に関してだけはクールになりえない。
また常に自己承認願望から逃れられない人もクールではありえない。
つまりあらゆる作家は永遠にクールにはなれない。
いつでもやめる気でいる批評家というのがいたらあるいは一度限りの正しさの実践も可能かも知れない。
池田雄一が書いていた、「一生の間青二才であり続けようという気概」は、上のような完璧な離脱からは遠いものの、その意味でクールさへの意志である。
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もし三十年くらい過去に戻れたらその頃の自分に言いたい。
「少なくともこれから三十年は大して困らない。だから先のことなんか一切心配しないで文学だけやれ」
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綿密に考えた後、なりゆきに任せるとうまくいったりしますね。
あるところから先を予め考えないのがよい。
安心しようと先取りをして最悪になることは意外に多い。
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自分の感じるところ、思考に限界はないというのを仮に感じる場があるとしたら科学の世界だけで、人文的な問題でいかに高度な知を発揮してもそれは限界を知っていることの証にしか思えない。そして限界を知ることは偉大だ。
偉大だが。
だから夢とかのほうがいいように思うのだった。夢にこそ明らかに限界はあるがそれはあまり当人の認識に入ってこないので。地を這うようにして偉大さを回避することの小さな喜び。路地歩きのような。
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素朴な気持ちで「そういう競争には加わりたくありません」と言うことが既に何かの負けの意味に受け取られるというような問題って多くありませんか。
白黒分けようとしてくる者を効果的にはぐらかすという知恵が必要となるが素朴な人にはなかなかそれができない。
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↑香ばしく痛い態度が徹底していないこと。
(承前)というのは大問題として、小問題としての自分の今は実にありがたいと思うわけです。
状況を考えれば非常に的確なアドヴァイスをいただいたのだが不満そうにしてしまったのは申し訳ない限り。
感謝とお詫びいたします。
ここ見ていてくださるとよいが(って今度会って言えよってことですね)。
とはそれそれで、脳内ホルモンってどのくらい効くものなのか。
ともそれそれに、シュルレアリスムは今もいいと思うが現在語られる必要はどこにあるかと問われると、自分的に必要ですとか好きだからですくらいしか言えない。でも、以下。
あと13年するとシュルレアリスム宣言からちょうど100年になるわけで、文化状況が今に近いのならきっとシュルレアリスム100年記念大特集とかブックフェアとか「今こそシュルレアリスムを語る」とかやりそう。
それ自体は歓迎だが、しかしですね、100年経ったからって何だってことです。
それ自体は歓迎なんだよ、理由はどうでもいいから何かもりたてるきっかけにさえしてくれれば。
そして思うのは、なんか今、文化の世界ですごく大事と思われてることなんて、100年記念とかと変らない程度の無根拠なものではないかということで、おわ。
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同じことをこの人が書けば大喝采、別の人が書けば陳腐、といったような事実および事実からなる以後の想像が最も作家を消耗させる。
作家そのものがいらないという意見ならむしろ平等だが。
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夏目漱石から村上春樹まで、たいていのよく読まれ人気のある、そして権威ある文学作品って、どこか中二病入ってないか?
というより、ひらたく見れば中二病となるはずの性向・言動をあたかも超俗的な芸術性と見せかけることのできた作品が残る、か。
読者自身の判断のこともあれば権威ある言論人の評価にそそのかされてのこともあるだろうが、着地点には本来鬼門の駄目さが待っている。首尾よくそれが輝かしいもののように見られたとき純文学は誕生する。
これが世界水準のことかどうかは知らない。
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この人は何をし始めるかわからない、という不安と期待を感じさせる人だけ、生存が望まれる、とか。実際はほとんどいないんじゃないのか。
だからだ、職人的というような態度って自己主張の逆みたいな意味で使われるし歓迎される。
だってオーダーどおりの仕事をしてくれる優れた人はそのオーダーどおりのよさが大切なので、芸術とか知ったことじゃないいちびりを絶対やってほしくないということだし。
作家の場合その実践を世にエンターテインメントと言うことになるが。
で、それにいかない人が中二病で。
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どうですか、読者として。作家ってのは、いいものを書いてる人でも生きてるとたいてい、いちいち自分様が大事って言わせようとウザいじゃないですか。可憐じゃないんだよ。読むだけの側にとって、作る側の自尊心なんてどうでもいいクズなわけだよ。
死んだ作家は何も主張せず可憐で、ただ作品だけで生きている。
というわけで、いい作家は山ほど作品を残して早く死ねってことじゃないか。
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無秩序だけでできている人がいないように常識や凡庸さだけで生きている人もいない。
との角度から見ればその人特有の奇妙な不条理さが見えるか、見いだしたい人は視線とそのための何かの準備が問題と思う。儀式というのもその手探りからくるのかもしれない。
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クノーは、新たなルール、というのを考えようとした人だそうで、シュルレアリストたちが無秩序礼賛に傾きすぎなのを醒めた目で見ていた、という話。
シュルレアリスムグループから破門されることになったのはブルトンの勝手な女関係から義理の姉(ブルトンの離婚した妻はクノーの妻の姉だった)と口を聞くなと命ぜられて応じなかったのが理由とか。
ブルトンって。
ところで『ナジャ』って永遠の不思議ちゃんってところか。
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「ウリポ」って変。
やっていることも変だがその名がどうしても「ぬるぽ」の仲間に聞こえる。
水声社が刊行している「レーモン・クノー・コレクション」はよい企画だが、「日本ウリポ史上最大のシリーズ」という触れ込みが、そのとおりなのかも知れないにしても初めて聞くと「なんだこれ?」だ。日本ウリポ史って。
そういえば同じレーモンのルーセルもウリポの理想的作家の一人だそうですね。
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では芸術の条件は?
だが現代と過去ではもう定義が違う。過去の芸術が乗り越えられ、というより過去の芸術作品が通俗として流通した後にそれへの批判として現在の芸術があるからだ。
かなり前の作家だが今のところまだ通俗化した受容をされていない芸術創作者としてたとえばカフカとかフォークナーとかがあると思う。
ならばその核心は。
以下は「トーキングヘッズ」での連載「カドゥケウスの杖」などお読みいただければよいと思います。次号ぐらいで明かされるかも知れませんね。なお今回の「トーキングヘッズ」48号ではタローカードに関する昔話(知ってる人は「ああ、あれか」)など記してみました。
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いや、だが、ではない、「危険な関係」は無条件で面白い。18世紀フランスの「スパイ大作戦」みたいなもので、ただし、悪人側からの。
敵はモラル、いかにそれを捨てさせるか、という戦いなのだが、ラストでいいわけのように「悪は滅ぶ」の形式にしているものの、基本は悪意ある誘惑者がいかにして相手を破滅させるかという話で、読者は悪人の側から見ることになるので、大変にすがすがしい。私は結局知恵と策略でうまく勝利するところが読みたいわけだ。
この書簡体小説は退廃と背徳の喜びがどうとか、サドと並べて語られるとか、そういうこともあるかも知れないが、何よりうまく他者を陥れる喜びというところが肝要だ。その意味で最高のエンターテインメントとなっている。
そこで「パルムの僧院」や「従妹ベット」が、このようなエンターテインメント作品を凌駕する「芸術」になっているかという比較になる。私はなっていないと思うのだ。
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