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財宝奏

美人であることの礼賛は昔話の「めでたしめでたし」に似ている。
昔話の主人公たちがその後どうなったかは一切考えられることなく、ある到達点として人は憧れまた妬む。
仮に当の主人公が「自分たちだって生きているのだから苦労ありますよ」といったような発言でもするとしたら一斉に「なんて贅沢な言い草だろう」と怒りの言葉が湧く、かどうかは知らないがその可能性がいつもある。
しかしなぜだ、この違いは、という意識も、表象によって生きるわれわれの常から一声二声の掛け声で終わる。

最近の田中弥生の批評を読んで。

☆ ☆ ☆

名の重み。と、固定指示子(クリプキ)。池田雄一の評論から連想。

☆ ☆ ☆

宮沢賢治のこともあった。フォークナーも読んだ。カフカ。久しぶりに中上健次。それから今まで実は読んだことのなかったハーラン・エリスン「『悔い改めよ、ハーレクィン!』とチクタクマンはいった」を読んだ。スタージョン。ガルシア=マルケス。それとブルトン「ナジャ」再読。もっとシュルレアリスムもっと。

☆ ☆ ☆

映画「ロード・オブ・ザ・リング(ス)」もう一度、一気に全作見たい。どこかでオールナイトやってほしい。

☆ ☆ ☆

後戻りしないことになった。

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ニジンスキーの手技

本当に重要なことは最初にやっておく・言っておくべきなのを改めて思った。のが遅すぎる。が仕方ないのでこれから気をつけるしかない。というのもやっぱり今更だが。
これはという趣旨を忘れることはまずないのだが、どうも状況が見えてきてそれに合わせた物言いになると不完全な伝達になるという経験もありがちか。
今日も晴れている?


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ボンサンスその2

作曲家ガブリエル・フォレ、という書き方を吉田秀和氏の著述で知って以来、「フォレ」で通している。
一般には「フォーレ」と書かれる。
だがFaure(最後のeにはアンサンテギュ付)のauは伸ばさないでオ(あくまでも日本語ではこれに近いというだけだが)と発音するようだ。
他にouの場合も、「プーランク」は「プランク」の方が原音に近いし、「クープラン」は「クプラン」とするほうが正確となる。
が、実際にフランス語で発音された「フォレ」はほとんど「フォ」としか聞こえない。無理に表記すれば「フォア」くらいか。フランス語のRの聞き分けは難しい。
なにやらかつてレイザーラモンHGが連発していた「フォー」が連想されなくもない。
原音に忠実な表記というのが無意味な気もしてきた次第であった。
とはいえ知ってしまった後はこれからも「フォレ」「プランク」「クプラン」でいくだろう。
となると、「ドヴォルザーク」は「ドヴォジャーク」か。
「ボロディン」を「ボロジーン」、「ワグナー」を「ヴァークナー」はなんとかできそうだが、「ドヴォジャーク」だけはそれまでの慣れを優先したいような気がしてならず、なかなか徹底できないものだなと思った。

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ビール公募

諦めないことが実力、というような意見もあり。
わからないのは運命という意味かな。
という
という
という
どうも結果がこれである「という」わけでした。
今日も晴れだった「という」こと。

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66 - B

(↑ 妖怪にもコードネームをつけてみたい)

よく晴れている。

と、こう書くだけでも晴天を告げる以上の意味のある場合がある。

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山あり谷ありもうじきいいところ

今年はショスタコーヴィチの交響曲5番と12番もホールで聴いた。
5番の明快な暗から明の作りは有名だが、5番ほどは演奏機会の多くない12番も5番と同じく当局の意向に沿う形で作曲された爆演用祝祭型の交響曲で、この終楽章のコーダが長い。しかも打楽器連発の総奏が続く血管の切れそうな曲である。
スターリンの死後やや経ってから知られることになったショスタコーヴィチの作風としては交響曲4番とか弦楽四重奏の後期作、ヴァイオリン協奏曲1番、あるいはヴィオラ・ソナタのような、かなり晦渋で繊細で暗いところの多いかつ神経症的なものが本来は中心だったかと思われるのだが、例の社会主義リアリズムのための交響曲を5番7番はじめいくつか残していて、それらが結局は人気作品として知られるものになっている。
今聴いてみてもなるほど勇壮なメロディーがたくさんの和声を伴い大きな音の長調で大団円する音楽の大好きな聴衆に向けて作られているのだろうことはよくわかるが、といって、これは真のショスタコーヴィチではない、とか言うのも違うだろう。
ショスタコーヴィチはもっと隠微なところに当局批判を忍び込ませていたらしく、音楽のつくりに関しては常にどこかで自分の可能性を広げることを期していたのではないかとも思う。その意味で交響曲5番7番11番12番あたりは、ほおっておけば繊細路線だけに行ってしまったかもしれないショスタコーヴィチの奥にあるもうひとつの資質を、ソ連共産党が無理に引き出したと言えるかも知れない。むろんそれはスターリンとその意向をかつぐ者たちの正当性の証明にはならない。彼らは芸術の敵には違いない。
しかし正直、私もこういうでかい音でがんがんやってくれる大衆的な大交響曲が好きなので、あまりそのあたりは批判できない。
特に12番のコーダでは、作曲家が「どうだ、もっとやるぞ、お前らこれが好きなんだろう、これでもか、どうだ、欲しがり屋め、このドラと大太鼓の大爆発でも食らえ」
などと言っているように聞こえなくもない。
そして聴く方の私はと言えば「ああいい、もっと、もっとだ、もっとくれえ」とせがんでいたりするのだった。

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メリークリスマス前々夜

気の進まない社交は全廃したが、外出そのものをやめたわけではむろんなく、たとえばコンサートのたぐいはたまに行く。
昨年から、年末にはシューベルトのピアノ曲が聞き収めとなることが続いている。
サンタクロースがピアノを聞かせてくれるのだ。というのはたとえで、しかし、この連続公演のゲルハルト・オピッツというピアニストは世にイメージされるサンタクロースに大変よく似ている。
年末に2回ずつ、東京オペラシティホールで行われるシューベルトのピアノソナタ(ほぼ)全曲演奏会は四年かけて計8回になる予定で、昨日が4回目。
この日は最後のソナタ三曲の最初、19番がメインだったが、前半に演奏された「ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲」という初めて聞く曲が思わぬ佳曲と知った。
来年も行きたいと思う。クリスマス近い頃にサンタ似のピアニストの演奏を聞くのは幸せな気がする。

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マラル目

今書いている作品がなかなかよい形にならなかったが、ようやくなんとかなったように思えたので息抜き的に記す。
今年は「ユリイカ」7月号に「ほんたうの夏」を掲載させてもらって以後ずっとこれで、大学の仕事とひとつふたつの例外を除いて、人前に出るとか、外とのかかわりとか、そういうのをほぼ何もしないできた。何もしたくなかった。
百日紅にも大きく不義理を続けています。ごめんなさい。
が、それでよく本が読めた。
これまでときに期待を抱いて、あるいは義理で、何かあると出席し続けたことが夢のようである。
このような文人的な暮らしがあることを忘れていた。愚かだった。
むろん必要なこともあるだろう、自ら求めることには過たず出ます。
でももう少々、読んでは書きの暮らしがいいと思う。思った。今年後半の個人的感想。

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類推ノマ

アミール・ナデリ監督映画「CUT」初日に見る。
TVブロスの一言映画評「メッセージには疑問ありだが」には納得した。
だが、それをわかった上で、その憤りに満ち、偏った「純映画」(純文学にならって)への憧憬は他人ごとでない感もある。文学についても同じだ。その考えは間違ってるけど、というのも同じ。
この映画は是非シネコンで上映して欲しい(見た人にはギャグとわかりますね)。
「あしたのジョー」+「ファイトクラブ」+ちょい北野武映画、で、映画愛いっぱい。
が、実のところ、映画愛の話というより、兄と弟の話、弟の死んだ兄への身体を張った落とし前のつけ方、という話として見た。そこだけのストーリーでも成り立つものであり、優れた映画への焼けるような思いそのものは別の問題のようにも思える。ただ、ここで名前の挙がっている名画の、見てないものは是非見ておきたい気にさせられる。
よい映画だった。お勧めです。

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ルークなクール

この間見た五匹のねこたちは枯葉のたくさんたまったところに丸くなって寝ていたのだが、今日、同じところへ行ってみると、枯葉が全部掃除されていて、ねこたちはいなくなっていた。
また別の場所にかたまっていた三匹の中の一匹は風邪をひいている様子だった。
ねこたち。

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いるいるおばけがすんでいる

「笑える」という言い方にあまり慣れない。意味は「笑うことができる」だが、わざわざ「できる」と言わないといけない状況に無理を感じるからか。
「笑う」というのは、意図しないでつい笑ってしまう、という状況を基本ととらえている。
「笑える」という言い方は、つい笑う、つまり無理なく笑う事態、に対して、どこか主体的に笑ってやろうとして、それがうまくいった場合、というようなニュアンスを感じる。
ので、滑稽をめざしていないものの中に次々と滑稽さを見つけ出して笑おうとしている人の態度のように思え、そういうのがあまり続くと、なんだかだんだん荒廃した気になってしまう。

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有為有為しい

ねこたちが五匹、ころころと寝ているのをそっと見た。
別のところでは三匹がかたまって寝ていた。
ねこたち。

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マンドレイク卿

生えてくる。どこに?

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死んだーマン

生きたーマンの相棒、って、いや違うよな。

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じーんとする話

「自分の気に入っている比喩は削ったほうがよい」
という話。
よい話を聞いた。
提出した原稿を編集の人に見てもらった結果、全体のバランスを崩すことになるので、自分のフェティッシュな理由から用いた比喩の部分は最終的に省くことにした、という経験談だった。
「機能的非識字」という話もあって、これは初めて聞いた。
字は読めてもよく意味を把握できない人、というように簡単にとらえたが、実際にはもっと深刻な場合を言うらしい。
ただ、本日の話では主に小説を読めない人の例として出ていたので、あまり社会問題としての話ではない。
というか、評論家と言われる人の中にも「小説が読めない」人はいるわけだが、そこはグラデーションでしょう、とか。
じーんとするというわけではないがいくつか深みに向かう気がする。ありがたい。
その後さらに原稿を見直す。余計な気遣いがいらなくなったので本当に幸せだ。そのへんがじーん。
そうだ今夜は皆既月蝕でしたね。不思議な感じこれも初めてはっきり見た。

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チャージ

主に学問的なことで、だけども、パネルディスカッションとかそういう複数で何か言い合う形は気が進まない。言いたいことは基本一人で話せないとやだな。

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リリカルチャー

稀なことだが、何か、教えてほしいと求めるくせに、最近の私の活動なんて全然知らない知ろうとしない興味ない、自分の聞きたいことだけ教えろ、的な人が尋ねてくることがある(大学の授業でのやりとりは含まない)。
教えません。減るから。

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いぬ走り

ところで、
こんな私にも稀に推薦というのを頼まれるときがある。
もちろん既に知っていてよいと思ったものでなければ推薦はしません。
まだ見ていないものの推薦はできない。
が、世に知られない若い人の作品にはできるだけ好意的でありたい。
だから言うのだが、そういうとき、若いアーティストたちよ、なんか難しく解釈してわけわかんない賞賛を浴びせてくれる先生の言葉、みたいなのは期待しないように。
ただ同じ表現者の、先行する一人と考えていただければ快く鑑賞することもできるわけなのです。

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伝播系

↑ひどく荒唐無稽な話でも語り伝えられているうちになんとなく信じられてしまうとか。

まったく隠者の暮らしなのだが不思議と連絡などくださる方があって来年からまた少々出る場所ができた。
とはいえ執筆の加減次第なので過度の出は残念ながら辞退させていただいた。
が、ともかくありがたく、御礼申しあげる次第です。

上の件とは別に、たまにアーティストの人と話していると「ふうん、あなた批評家ですか、せいぜいおもしろおかしく作品『解釈』などという難しいことをなさってくださいね」というような気持ちがうかがえるときがあって、今もう私は批評家とはいえないのでそれは違うのだが、もっと一般的な意味で「表現者の私は自由、鑑賞してあれこれ言う側の人は不自由」的な思い込みがなんだかなと思う。
批評家なら誰もがその人の作品に言及しようとするわけでもないしね。

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留守出ん

先週たまたま夜中に行ってみたシネコンで席が取れたので劇場版「けいおん!」を見る。
やたらに人が多いのでどうしたのだろうと思ったら、この日、昼の上映はなくてこの回が初回、しかもこの日が初上映なのだった。知らずに来てしまった。
終わってからのグッズがどうたらに並ぶ人も異例の状態だったが、舞台挨拶のあるような所だと既に予約完売なのだろう。

ところで十代男子なんかはこれを見てどんなだろうか。死のうと思わないだろうか。
なんとなく「十四にして心朽ちたり」の気がするが、そんなことはこのアニメ・漫画に群がる少年たちには「デフォ」なのかも知れない。眠りながらほほえんでいたい感じ、なのかどうか、ふと気付けば自分がいなくてしあわせ、というような。では逆に一句、以下。

目覚めるといつも私が居て遺憾    池田澄子

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じんじんバトル

ここでこういう立場の人がこういう発言をするとある種の没落のステロタイプとして解釈されることが明らかな発言ってありますね。
年配の成功した人が若い世代の行為を批判する、とか。すると、ああ、この人も老いたな、と言われることがわかっている。
具体的には江口寿史の最近の発言とか、いかにも「終わった作家の、先を行く若者への恫喝的繰り言」と言われそうだなと思っていたらやはり一部でそう言っている。
しかし、ここで現役の表現者かどうかがわかるのだ。
江口さんはどんなに不利になっても表現者として思うところを告げたのである。そしてそれが世には最も軽蔑されやすいことであっても思わず公にしてしまった。
それでよいのだ。表現者は「これを言えば強い奴らから抑えられること」を恐れないのと同じく「自分には真実と思えることだが、それを言えば遅れた終わった老いたと言われ軽蔑されるだろうこと」をも恐れてはならない。
功成り名遂げても、表現者である限り、「こうしとけば嫌われない」という態度だけを優先できないことがある。
むしろ「権威に抵抗」のそぶりは容易い。ほぼみな権威の側でないから歓迎してくれる。
難しいのは「権威側の遅れた人」と見られそうなことでも自らの信条にしたがって語り、馬鹿にされることをも恐れないことだ。
というか江口寿史の場合は本当に不用意だっただけなのかも知れないが、そういうところがまた大江健三郎的に大物なのだ。と、ここでは応援したい。

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むりむり人

批評の魅力というのは、その持ち出される論理と適用される対象との間の微妙なしかし抜きがたい齟齬の空間にある。
この齟齬が大きすぎるとそれは誤った論理ということになるので論外だ。
一方、この齟齬が、あったとしても見えないよう丁寧に接続されると、きわめて分かり易くうなずき易いものとなるが、その段階で教え込まれたものとしての教養にしかならない。
齟齬を滑らかに、ないものとしてしまう能力に長けた先生のような書き方は、歓迎されるが批評の魅力を引き出すことはない。
逆に、その齟齬を、読者の参加のもとに埋めさせてゆくとき、批評は何か得がたい生きた知識として感得される。
池田雄一の『メガクリティック』を読んで。

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