うつつ鬱もどき
↑ ところで「うつつ夢もどき」って記憶にありますか。塚本邦雄が「男子専科」に連載していた随筆。
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一般には「オシャレ文学の旗手」みたいに見られているのかも知れない千野帽子さんがこんなツイート。
chinoboshka 千野 帽子
学ばず作りたがる奴らより、作らなくても学んでる人のほうが100倍カッコいい。QT @raitu 良い作品を創る為には、良い作品を沢山学ばなければならない、と。//俺のように、ただ「学びたい」だけの人もいる。 htn.to/yUpPU1
1月26日
chinoboshka 千野 帽子
〈学ばず作りたがる奴らより、作らなくても学んでる人のほうが100倍カッコいい〉に懐疑の声もあるが「詩書いてます。自己流ですが」のポエマーより「十二音綴韻律とサッポー詩体と律詩とギャングスタ・ラップについて1冊ずつ研究書出した。自作はしない」の学者のがカッコいいに決まってんじゃん。
18時間前
全面的に賛成なのだが、ポエムはともかく小説について言うなら、実際の表現の世界では「学ばず作る人」というのはそれほど問題にならず、創作のプロのほとんどは「学んで作ってる人」だと思う。学び方の緩い人は多いが。
そこでここからは自分の意見
「多く学んでいたとしても、どうしてもその上で自分が作りたいと思うところで既にかっこよさは低減する」
「学ぶだけで満足していられる人が一番かっこいい」
創作をしたいと思う心はもう全然かっこよさとは相反するもので、学ぼうが学ぶまいが、またいかになにげなさを装っていても、表現したいということは必ず「このわたしの表現を見て、見てください」という望みであって、その袖引きの意識は絶対的にかっこわるいんです。
そのかっこわるさを隠すために多大のイメージ操作が行われる。
「いえ、別に宣伝なんかしたくありません」「手に取りたい人だけ取ってください」といった態度でいる作家も、それは自分のかかわっている出版社等が懸命に売り込みに見えない売込みをしてくれているからであって、そこで「読者から求められている、自分では売り込まないアーティスト」のふりをしてもさあ。
で、私にはやっぱり(宣伝のために操作されたイメージをすべて剥ぎ取るなら)「かっこいい作家はありえない」という結論が出ます。
それはまた「作ることに執着している限り作家にオシャレはありえない」という意味でもあります。
ただし、千野氏に少し沿って言うなら、「オシャレと読みうる作品は存在する」「文学をオシャレに読む方法は存在する」
つまり「オシャレ文学は実体としては存在しないが読者の読み方として存在する」(作家でない人限定)
ということだ。
ただ、千野氏も本当のところ、文学にとって「オシャレか否か」というファクターばかりを重要視してはおられないと思うけどね。
ゆえに私はこれからも、ものすごくかっこわるいことをし続けたい。
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『ベルセルク』が劇場用アニメ化されるそうで、
以前、TVアニメ版の後半を少し見ていた。終わり方には愕然とした。
で、主題曲ではなく、オリジナルサントラで聴けるかと思うのだが、平沢進による「舵をとれ」という歌があり、全曲を聞く機会があってこれは大変優れたものと思った。
今回の劇場版には使われないだろうことが残念である。
歌詞は意味のよくわからないところが多く、全く辻褄が考えられておらず、それでかえって『ベルセルク』の死に際寸前の生の輝きを歌うものと思う。
とりわけよく記憶する一節は
汚れても悔いずに 今かと固唾をのみ 生きて今会おうと
というところ。
君よ、生きて会おう。
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2012年現在、「ルンルン」「ナウい」「ネアカ/ネクラ」といった語はほぼ聞かない。だいたい30年くらい前にさかんに使われ、そしてその後、急速に恥ずかしい時代遅れの言葉となって今に至る。
普段誰も使わないからほぼ忘れているが、しかし、それが恥ずかしいという記憶はまだ年配者にある。
もしそういう感じ方がきわめて少数派になった頃には、全く奇異な昔の語として再度、地味に面白がられることもあるかも知れない。
昭和初年頃の言い回しは今聞くとなんだか面白いのがあるが、30~50年前なら「いまどきそんな時代遅れな言い方で」と思われたものだろう。
一度多くの人がやたらに用いていて、自分もそれに追従したという記憶はなんとなく後からは屈辱的に思える。
今の自分ならそんなセンスの悪い言い方はしない、それはその時代の流行がそうさせただけで、本来の自分はそんな軽薄ではなかった、はずだ、と言いたい気持ちがどこかにあるのではないか。
賢い人はそういう「本当の正しい賢い自分」なんてないことを知っている。しかしそれでも、あああ、なんだか今思うと軽薄なこと言ってたな、かっこわる、という、時代に流された苦い記憶はあるので、それを思い出させる表現は忘れたいというのもしかたない。
そういえば、「スキゾキッズ」というのもその種の言葉なんじゃないかと思いますが、今、どう思われますか、浅田彰さん。
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自分はやらないけれど
繰り返しあらわれる何かをいろいろな形に見いだす
とかね。
限定が自由であるというのもよく聞いた話である。
自分のだとどうなるのだろう。
白
かな。
それとも、青
か。
悔い
はどうだろう。
彷徨
は入れていいのか。
わからないことばかりだ。
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↑辺野古問題?
どうも冴えがありませんです。
自己宣伝が大した効果になった話も聞かないし。
これを馬鹿にできる人になりたいものだ。
しかし他に選択肢のない人を嘲笑するというその根性も嫌だなあ。
でも格好悪いなあ。
とまあ、これ、レーモン・クノーの『はまむぎ』の一場面みたいな。
どんな場面かと言うと、さてそれはいつかまた。
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人生経験の豊富な人が目を向けないことを考える
というのがむしろ想像の強みと思うが
経験はやはり大切だ。
問題はそれを完結させないように考えることではないか。
ときに小さなできごとが兆しであるように、だ。
予兆を読み取ろうとすることはいつも危うい。
が。
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他者の身体の動きを見るだけで響く。
すぐれた動きは言語的でないコミュニケーションを達成する。
身体が目の前で発する複数のメッセージを言い尽くすことはできない。
言えないことの記憶を常に持つ。
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(↑やめろや)
一人でできる運動はけっこう好き。多くの予想に反して走るのも昔からまずまず速かった。
だが競争が嫌い、というか比較されあうのが厭だったので、やっぱり体育の授業はあんまり好きでなかった。
軍隊教育の微かな名残がまだあった頃だったからか、今はどうなっているだろう。
あ、右翼もいやだけど左翼の「みんなで一緒にゴール」なんかも大嫌いです。
集団教育を免れて後、たまにだが、スポーツジムでストレッチとかヨガとかやるのは好きになった。
機械がないとなかなかできない筋肉運動もいいす。ただ歩くだけも可。
どんな形にせよ、今も競技はしたくない。勝負ではなく「身体との対話」がいいのです。
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吸血鬼になるには選別される必要があるが、ゾンビには誰でもなれる。
(流布するイメージの基本として。例外はいくらでもある)
ただし吸血鬼の選別性はポリドリ以来の歴史的産物である。
本日の授業から。
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レトリックの能力にはさほど差がなくても語る位置によって異なってくる。
ということを感じた。
語るに一番よい位置はどのあたりか。
それは今、行き過ぎたのか辿り着いてないのか。
が、書く対象によって異なるので決定的な基準はない。
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そういえば半村良の『妖星伝』は6巻までは連続して出ていたので毎回単行本になるたび買って読んだ。
6巻目のラストで十分終わりとしてもいいように思ったが、まだ7巻が続くと聞いて、待っていたら10年以上経ってようやく7巻が出て、読んでみたが、もはや別ものの気がした。
それまでのような波乱万丈の物語がないということについては悪いと思わない。ほとんど哲学的な対話になっていることもそれはそれでよい。しかし本当の意味での哲学になっていない論議が続くのは無念だった。
半村良が哲学に向かないというのではない。半村良は物語によっていわゆる知とは異なる哲学をする人だった。それを全部世にあるような形での対話形式にしてみるといかにも浅いものに見えてしまう。こういう形式が身に合う人ではないのだと思った。
伝記小説をスペキュレイティブなSFに着地させたという意味で7巻を評価する人も多いようだが、1995年(7巻刊行年)に人類の未来と宇宙の真理を語るなら、80年代を経由し既にサイバーパンクも始まったあとの言葉を聞きたかったということもある。というか、『妖星伝』の思想哲学は6巻までで十分に示されている。
だから私の『妖星伝』は70年代分(80年に刊行の6巻を含む)限定で、そしてそれでよいしそれで最高傑作と思う。
特に6巻最後の「diminuendo」(ここだけアルファベット表記)の感銘はひとしおである。やはりその後はいらないと思う。
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満月には少しあるものの月が綺麗で、見ていたら半村良の『産霊山秘録』を思い出す、と連れ立つ人が言う。
あそこには自分でも制御できないままテレポートしてしまい、そこで即死した超能力者の死体があるのだ、という話。
そこから思い出される1970年代に読んだ、日本SFが最高に面白かった時代の作品群。
半村良の『石の血脈』『妖星伝』『およね平吉時穴道行』から小松左京の『果しなき流れの果に』『継ぐのは誰か』『復活の日』『ゴルディアスの結び目』、光瀬龍の『たそがれに還る』『百億の昼と千億の夜』『喪われた都市の記録』、平井和正の『ウルフガイ』『サイボーグ・ブルース』『死霊狩り』、筒井康隆の『幻想の未来』『48億の妄想』『七瀬ふたたび』『メタモルフォセス群島』『バブリング創世記』、など。栄光の日本SFだったことよ。
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「京おばけ」という店を見つけて名前が楽しいので入った。
いいと思う。
「おばけ」やっぱりいい言葉だ。
一人称だが「私」とか「俺」を全然使わない小説を書いたのは久生十蘭だけではない、のはわかるが、ほかに誰がうまいのかな。
これはしかしあまり完璧をめざすのもどうかと思う。どうしても必要なところでは「私」なり「自分」なり記せばよいし。
ただ「私」が少ないとなんとなく主体も薄れているように思えてくるところはある。そういう効果をねらうものか。
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今年の最初の一冊に『闇の司』を読んでくださった方ありがとう。
その作者に優しい環境というのを望んでくださっている方ありがとう。
誰かが強く望むことはいつかかないます。待っててね。
また無残でレトリカルなホラーをやりたいですね。
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「聞いてもいいですか?」
この問いは怖い。
あらかじめ「いけない」とは言えない言わないでいたい場合は忍耐を試されそうだ。
「いいよ」と言ってから絶対答えたくない問いがきたら困る。
いや、相手はいいですかと尋ねているのだから断ればよいではないか。
だが最初から断るということがどうも了見の狭さを見せ付けるようでそれもいやだ。
なんて考える人はほとんどいない。
そのくらいには言葉は軽くいい加減に使っている。
が一度気になると困る。困ることは多い。
考えること。って。
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多くの不意打ちにも信頼が損なわれない物語がときおり癒しである。
危うさを語る人は何かに信頼をいだく必要がありはしないか。
だが信頼を意識する人には現代的な言葉が難しい。
あてもない。予期できない。それを喜ぶ人たちよ。幸あれ。
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