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『少年版江戸川乱歩選集』の記憶

『世界の名作怪奇館』と同時期、同じく講談社から『少年版江戸川乱歩選集』全6巻が刊行された。
表紙箱画口絵が生頼範義による、子供向けとはとても思えない絵であったことが多くの人に回顧されるものである。
B6判箱入り。装幀・水野石文。作品編集・中島河太郎。1970年7~10月に刊。
以下が全巻構成。
                          
『蜘蛛男』     挿絵・藤本蒼  リライト・解説・中島河太郎
『一寸法師』    挿絵・佐々木豊 リライト・解説・氷川瓏
『幽鬼の塔』    挿絵・坂口健之 リライト・解説・山村正夫
『幽霊塔』     挿絵・長谷川晶 リライト・解説・中島河太郎
『人間豹』     挿絵・稲垣三郎 リライト・解説・山村正夫
『三角館の恐怖』 挿絵・篠崎春夫 リライト・解説・氷川瓏

そもそも子供向けに『蜘蛛男』かよ、というところだが、生頼範義もさることながらこの『蜘蛛男』の巻の、藤本蒼(現・不二本蒼生)による挿絵がどれも最高だった。
これをアップしてくださっているサイトがあったのでリンク→
また、生頼さんによる『一寸法師』の口絵もよかった。こちらは→

いずれもリライトだが残酷な場面もそれほど削除されておらず、乱歩の魅力をよく伝えていたと思う。
ただ、後に『蜘蛛男』の原文を読んで「なんだあ、蜘蛛男もちゃんとレイプすんだあ」と思ったことであった。残虐シーンは残してあったがこの件だけは「少年版」では書かれていなかったため、当初、蜘蛛男は性的な行為をせず残酷に殺すだけの、実にすがすがしい殺人求道者に思えたのだった。

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初めて感銘を覚えた怪談本

以下、怪談本に関する2006年10月20・21日の記事(★~☆間)。やや編集。

2006年10月20日 (金)

自分が怪談ということを意識したのは岡本綺堂の『青蛙堂鬼談』から。それと少年少女向けに講談社から出ていた怪奇小説傑作選みたいな本に載っていた綺堂の『西瓜』だな。これは今でも怪談の模範と思う。

えぐいホラーはヤっていう人は昔も今もいるが、怪談嫌いな人ってそんなにいないと思う。怖さより懐かしさに反応する人もいるし。

2006年10月21日 (土)

以前「ダ・ヴィンチ」に掲載されたものですが怪談についての記憶としてここに再録します。初めて感銘を覚えた怪談本は? という問いへの回答です。昨日あげた本をもう少し詳しく記しています。

もっとも印象深かった怪談本

高原英理

 講談社刊『世界の名作怪奇館』第5巻日本編『まぼろしの雪女』(1970)は小泉八雲「雪女」「鳥取のふとんの話」「耳なし芳一の話」、芥川龍之介「妖婆」、岡本綺堂「西瓜」、上田秋成「蛇性の婬」、江戸川乱歩「鏡地獄」を収録。保永貞夫訳・解説。創作中心だがいずれも怪談と呼んでさしつかえあるまい。児童書なのでリライトではあるものの、後に原典にあたっても印象は変わらず二度楽しめた思いが強い。解説も挿し絵もよかった。特に綺堂の「西瓜」が、明白な因果によらない、といって全く偶然でもない、いわば捻じれの位置にあるような因果関係で怪異が起こる。本当に不思議で水際だっていて凡百の因果話を色褪せさせた。

以下2012/03/22現在からのコメント。

『世界の名作怪奇館』全8巻は、1・7・8巻を持っていないのだが2~6巻は今も実家にあって、子供向けの怪奇小説集としては非常にレベルの高いものと思う。
上では問いにあわせて怪談本のひとつとして書いているが、シリーズ全体の概念としては怪奇小説集である。
1・2巻が英米編、3巻はヨーロッパ編(ロシア・フランス・ドイツ。しかしロシアはヨーロッパか?)、4巻が東洋編、5巻が日本編、6巻からはジャンル別となり6巻ミステリー編、7巻SF編、8巻「海にしずんだ海賊都市」は手元にないので明確でないが実話編であったと思う。どれも野田弘志のカバーイラストがとてもよかった。
挿絵でいうなら、後に瀬名秀明氏もわざわざアンソロジーに再録しておられるように、上記書収録「鏡地獄」の片山健による挿絵が驚くばかりの怖さだった。
この後、創元推理文庫の『怪奇小説傑作集』全5巻に赴くわけだが、それと比べても選択には遜色がなく、ばかりか東洋編・日本編の存在によって網羅的充実はむしろ上回る。
日本編は上のとおりだが、東洋編でのタイやアフガニスタンの怪談などはなかなかこれを読まなければ知らないでいたものだっただろう。
なおミステリー編にはさすがに超自然的な物語はなく、ウールリッチの「非常階段」が「その子を殺すな」の題名で入っていたのと、ディクスン・カーの「銀色のカーテン」が「怪奇雨男」という題名で入っていたのが印象深い。
それにしても「怪奇雨男」とはまた大変な題だが、ただ、実際には大して怪奇でもなかった記憶がある。
このアンソロジーについてはまだまだ語れそうだが、あとは「トーキングヘッズ」の連載内ででも続けようか。

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2006年・新聞でのコメント

以下★~☆間。

2006/03/11 Sat

3/8の読売新聞夕刊「本よみうり堂 トレンド館」に、石田汗太記者による「ゴシックの美学 いまなぜ復活 不安社会で『生』の欲求」という記事が掲載された。

この件で先日取材に応じた。
記事には私の言葉として以下の部分もある。

「個人的には、30年代の江戸川乱歩の猟奇趣味、エログロナンセンスあたりが日本的ゴシックの源流と思っていますが、80年代にアングラ的に洗練されていた耽美と退廃のゴシック趣味が、90年代以後は『おたく文化』と重なりながらすそ野が広がったのが特徴だと思います」

上、大学でも教えているとおり。

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『八本脚の蝶』の記録

以下、★~☆間。少し編集。

2006/02/27 Mon

二階堂奥歯『八本脚の蝶』(ポプラ社刊)

巻末「記憶――あの日、彼女と」というところに佐藤弓生とともに寄稿。
「主体と客体の狭間」というのがそれ。
お読みいただけばわかるように、『ゴシックハート』の末尾に記した「ゴシックな記憶」の女性はこの人です。

2006/01/17 Tue

二階堂奥歯著『八本脚の蝶』ポプラ社から届く。
西崎憲、穂村弘、佐藤弓生らとともに私も短い文を載せている。

蝶の翅の模様が表紙なのだが、ネット上の書影では翅の模様だけが強調されて、なにか異様な怪物が口を開いているようにも見える。
そういう感じで出されてもよいとは思うが、実物を見るとかなり印象が違っていて、重厚かつ瀟洒で特に背表紙の飾り文字が綺麗。
カバーをとって広げると蝶が翅を広げている像になる。

この本、著者の自死までの日記だが いずれ、たとえばシルヴィア・プラス「のような」意識の女性(に限らないな)にはバイブルになるのではないかと思った。

自分が文を寄せているので活字メディアでの紹介とか書評はしないが何年か後に何か言及するかも知れない。
むろんその前にいろいろなところで話題にもなるでしょう。

2012年現在、残念ながら品切れで重版予定がない様子だが、やはりバイブルとしている方はおられるようだ。
アマゾンでのマーケットプレイスを見ると2012年3月20日の最低額が8999円、最高額が13800円。なお定価は1890円だった。
やはり形を変えてでも再版されるべき本だと思います。

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その後の『ゴシックハート』への言及

その後、刊行された書籍の中で『ゴシックハート』の関するある程度長い言及があるのは、私の知るところで

浅見克彦著
『SFで自己を読む 「攻殻機動隊」「スカイ・クロラ」「イノセンス」』
(青弓社刊・青弓社ライブラリー 69)→

こちらは批判というのではなく、参照、という形。

浅見氏はSF映画に詳しい方で、社会理論、社会思想史をご専攻とのこと。著書に『SF映画とヒューマニティ』(青弓社)、『消費・戯れ・権力』(社会評論社)など。和光大学で教えていらっしゃるそうです。

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『ゴシックハート』批判の記録

以下すべて2005年11月29日の記録。
まずは「ナイトメア叢書」創刊のことが記される。以下。(★~☆間が引用)

2005/11/29 Tue

青弓社から「ナイトメア叢書」という叢書が創刊され、その第1巻として『ホラー・ジャパネスクの現在』が2005年11月23日、刊行された。
編者は一柳廣孝・吉田司雄。
執筆者から、私のいくらか知る人をあげると平山夢明(インタビュー)、芳川泰久、稲生平太郎、城殿智行、長山靖生、など。
一柳氏による巻頭の言葉にも明らかなとおり、この叢書は「幻想文学」誌の創った幻想文学批評の歴史を引き継ぎ、さらにより広い範囲と成果を期すものである。
この後も、「近代幻想文学史の再構築」「妖怪は繁殖する」といった特集が予定されている。
志の高い企画を大いに歓迎したい。
またこの叢書が末永く継続することをお祈りする。

続いて、この「ナイトメア叢書」に『ゴシックハート』批判あるいは『ゴシックハート』的姿勢への批判が掲載された件が記される。
それに対する反応をいくつかに分けて記しているが、今回、一括して再録する(★~☆間)。

2005/11/29 Tue

 ところで、今回、『ホラー・ジャパネスクの現在』に跡上史郎氏による「澁澤龍彦 死後の生――ゴシック/セクシャル・マイノリティ/サブカルチャー」という澁澤龍彦について主に記した記事が掲載されているが、その中に自著『ゴシックハート』について言及したところがあり、しかも小見出しには「ゴシックハートと小さな三島由紀夫たち」「ゴシックハートを超えて」とある。
 この小見出しからもわかるとおり、跡上氏は、私が「ゴシックハート」と呼んだ心性に対しては批判的である。
 そして結論から言えば、その批判は、私から見ても正しい。

 簡略に跡上氏の見解を紹介すると、澁澤龍彦については、暗黒・異端・そしてゴスの元締め、といったイメージで語られる部分と、後年、当人自身がそうした重苦しいイメージに辟易しつつ提示した軽妙な、あるいはユーモアに富んだ部分、という少なくとも二つの面があり、その死後、澁澤に対する批評は後者の可能性を強調する方向で進んだにもかかわらず、現在、ゴシックと耽美を愛する読者からは相変わらず「黒い貴公子」として崇拝されていることが多い。
 むろん、こうした部分を全く見ないで澁澤を語るのは間違いであるし、またこの部分あっての澁澤、そしてその人気でもあるのだが、その硬直しがちな部分だけを見て陶酔し崇拝する、自己相対化とユーモアに欠けた態度を跡上氏は「ゴシックハート」と呼んで否定し、その視線だけで澁澤を崇拝することを批判している。
 ここで述べられているのは、ちょうど、「マルクスには多くの未知の可能性があったが、それを神格化するマルクス主義者はその可能性を排除し、マルクスを読むこと本来の可能性を狭めてしまった」というのと同じく、澁澤龍彦の著作からはこの先も豊饒な意味と価値が見出されるはずだが、澁澤崇拝からは貧しい成果しかありえない、というものである。

 私自身、かつて「別冊幻想文学 澁澤龍彦スペシャル」に掲載した「澁澤=サドの遊戯作法」という澁澤龍彦とサドをめぐる批評で、澁澤晩年の境地の「かたくなでない自由」について記しており、「澁澤といえば暗黒の貴公子」という短絡にはもともと批判的であるので、その澁澤への態度はさほど跡上氏とも変わらない。
 ただし、『ゴシックハート』にその態度は多く反映されておらず、これを読んだ方が私もまた偏狭な澁澤主義者と感じるならばそれは仕方のないことだ。
 だがここで跡上氏は私に対しての批判をしているというのではなく、私が「ゴシックハート」と命名した意識を優先することへの批判、と考えるのが正しい。

 また、私の記す「ゴシックハート」とは全体としての判断・意識の中のより極端な志向だけをさしているので、もし跡上氏の用いたようにただ死への魅惑、ただ厭世、ただ自己愛、ただ耽美だけに我を忘れる意識が他を覆い隠してしまう、というのであれば私としても、ともあれ批評的精神を意図する者としてやはりそれを肯定することはできないが、とはいえ、私もまた、著書に記すとおり、ユーモアに欠けた脆弱な意識の持ち主であることを隠すつもりもない。
 特にbk1の著者による紹介などではあからさまに厭世と否定の意識を記した。
 それは、誰しもある局面では感じることのある生きづらさについて、解決の見通しも加えず、いわば「かくあるべし」ではなく「ただかくある」として提示したに過ぎず、倫理的に、あるいは生き方として肯定されるものとは考えていない。
 だからこそ「ゴシックハート」はどちらかと言えば悪者の意識に近い、と後記にも書いた。悪者というのが正確でないなら「堕落者」でもよい。

 著書としての『ゴシックハート』は「本格ゴシック評論」と銘打って刊行していただいて、この刊行のされ方には大変感謝しているのだが、ただ、厳密には、私が真に評論と考えているものは前著『無垢の力――〈少年〉表象文学論』だけで、(その意味では『少女領域』も厳密な意味では評論的でないところが多い)『ゴシックハート』はどちらかといえば怪奇や暗さと死に惹かれる意識の様相をできるだけ冷静に記録してみたものというのが正しく、そうした意識への真っ向からの批判は敢えて避けたので、その意味で、自己相対化に富んだいわば「真の批評的な精神」は乏しいと言ってよいだろう。

 跡上氏の用いる「ゴシックハート」だけを私の示したものとされることにはとりあえず反対しておくが、ただし、『ゴシックハート』を読んでくださった方による見解としてこのような批判がなされることに文句はない。
 批判はこのようにして行うべきであるとも思う。

 もうひとつ、「ゴシックハート」が既にひとつの一般名詞として流通していることがありがたいような、こそばゆいような。

 何より、私は、誰かが私の言葉に反応してくれるということが嬉しくてならないので、あてこすりめいたものや、著者名と書名を明確にしないまま行なわれる卑怯な攻撃以外ならば、批判も歓迎する。
 礼儀とルールを守る書き方ならばさらにありがたい。

 特に今回の跡上氏による格式の高い批判は、実のところ直接私へ向けてのものとは言えないが、なんだかかゆいところを掻いてもらったような気さえする。

 跡上氏は澁澤龍彦の研究家であり、かつセクシュアリティ問題に関しても、さらには三島由紀夫に関しても詳しい学者の方である。
 今後、期待して注目したい。

ほぼ言い尽くしているので付け加えることはない。

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『ゴシックハート』日本推理作家協会賞落選の記録

以下のとおり(★~☆間が引用)。

2005/03/12 Sat

本日、社団法人日本推理作家協会理事長・逢坂剛さまより連絡あり
第58回推理作家協会賞評論その他の部門の候補作として『ゴシックハート』が選出されたとのこと

2005/05/24 Tue

『ゴシックハート』は日本推理作家協会賞評論その他の部門に落選しました

受賞作は以下のとおり 東京創元社のhpから

5月24日、第58回日本推理作家協会賞の選考会が行われ、戸松淳矩『剣と薔薇の夏』(クライム・クラブ)が、《長編および連作短編集部門》を受賞しました。短編部門は受賞作なし、評論その他の部門は日高恒太朗氏『不時着』(新人物往来社)が受賞しました。

それにしても『子不語の夢』も落選?
私の場合は最初から納得ずくだが、自分が落選したことよりこれが落ちたことが悲しいような……

なお、第58回推理作家協会賞 評論その他の部門・候補作は以下のとおり。

高原 英理  『ゴシックハート』            講談社
浜田雄介編 乱歩蔵びらき委員会 『子不語の夢』 皓星社
日高恒太朗  『不時着』                新人物往来社
村上 貴史  『ミステリアス・ジャム・セッション』  早川書房
吉田司雄編  『探偵小説と日本近代』        青弓社

『子不語の夢』は江戸川乱歩と小酒井不木の往復書簡集だが、村上裕徳氏による詳細を越えた註が読み物としても面白い労作だった。
また忘れてならないのはこの企画を実現させた「名張人外境」主人・中相作氏の志である。
日高氏には今更ながらだがお祝い申しあげることとして、それとは別に『子不語の夢』や同じく中氏の企画による『江戸川乱歩リファレンスブック』(全3巻)が何かで顕彰されればよいと今も願う。

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2004年12月~2005年1月の『ゴシックハート』関連(2)

『ゴシックハート』関連イベントの記憶

東雅夫さんと対談したときの記録から。(★~☆間)編集済み。

2004/12/19 Sun

2005年1月29日(土)のトークについて
■注意■ このイベントは既に終了しています。

ジュンク堂書店池袋本店「JUNKU 連続トークセッション」2005年1月29日(土)18:00~
 ~『ゴシックハート』(講談社)刊行記念~あなたの中のゴシックハート
 対談  高原英理 ・ 東雅夫

2005/01/27 Thu

1/27、ジュンク堂に問い合わせたところ、1/29トークセッション「あなたの中のゴシックハート」は予約満席になったとのことです。ご予約くださったみなさま、ありがとうございます。

なお、3月はじめに早稲田大学近辺の「あかね」という喫茶店で「サブカル、メンタルヘルスとゴシックカルチャー」に関する対談もしくは鼎談を行う予定。
さらに3/26、池袋近辺で「ゴシックハート」読書会に出席の予定です。

■注意■ ↑上のイベントもすべて終了しています。

2005/01/30 Sun

昨日の記

1/29池袋ジュンク堂での東雅夫氏とのトークセッションには定員40名のところ61人の方においでいただきました。おこしいただいたみなさまありがとうございます。

2005/01/31 Mon

あとになって

1/29のトークセッションは多くの方においでいただけてありがたかったわけですが、あとになっていくつか考えることがありました。

まず若干の裏話から
しばらく前、『ゴシックハート』出版記念パーティを催していただいたさい、そこには東雅夫氏もご出席であったのだが、数人の女子大生のみなさんがゴスロリの装いでおいでくださってもいた。
せっかくだから全員自己紹介を、となったときに東氏や私が「かつて澁澤さんのお宅で……」といった話をするたびゴスロリの方々は意想外の大変な受けを示してくださったものである。
この印象が非常に強く、1/29のトーク前、東氏との打ち合わせで、「せっかく来てもらったのだから、損をしたと思われないような話をしたい」という相談になったさい、「澁澤・中井ねたならこういう場においでの多くの方に喜んでもらえるだろう」という結論が出た。
そしてその方針でかつての「幻想文学」時代の澁澤・中井話を語った。
この件は自著で澁澤龍彦と中井英夫がいわば日本の「ゴス」を準備した人、として位置づけられているので違和感はないと思われもし、また実際に受けているのもわかった。

しかし今から考えて見ると、いきおいこの日の話には「幻想文学業界話」的なところが多くなった。また澁澤・中井両氏のひととなりを語るのがゴシックカルチャーを語ることなのだとは言えない。
満足してくださった方も多くおられたのはよかったが、ゴシックの志向、ゴシックの魂、といった原理的な内容を期待してこられた方に対しては大変申し訳のない結果となった。

というわけで、深い話を期待してこられたみなさん、すみません。

以後も何度か、複数の方々の前でお話しする機会がありますが、これからはできるかぎりゴシックという生き方とかゴシック的な思考の本質について語ろうと思います。

東雅夫さんには今一度御礼申しあげます。
それとともに、少なくともこの先は、受けとか状況とかいうやつにほぼノータッチの言葉を語っていたいものだと今も思った。
しかし状況なしに何をもなしえない者にとってはそれは「わたし探し」と同じようなないものねだりであるかも知れない。
といったことを書いて、ここで止めておけば、いくらかは賢く見える。
だがどうしても留まれず、わかった上でも愚かしく何か表現してしまうのが(自称も含めた)アーティスト・作家である。

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2004年12月~2005年1月の『ゴシックハート』関連(1)

「ダ・ヴィンチ」誌に『ゴシックハート』のかなり大規模な紹介をいただいたとき前後の記録。(★~☆間)少し編集した。

2004/12/04 Sat  漸近線

最近ときおり、記憶測定というより未来測定になっていますが、今回もわずかながら未来のこと。

雑誌「ダ・ヴィンチ」の2005年1月に発売される号にゴシックが特集されます。
そこで近く、ノベルコミック作家・イラストレーター・モデル・ミュージシャンのD[di:]さんと対談することになりました。
現代のゴシックって何? という話をする予定。

ところで最近、友人にD氏著『ファンタスティック・サイレント』の後半の話を読ませて泣かせている。
みなたいてい泣きますね。

2004/12/10 Fri  スリーピー・ホロウ

本日は海馬から移送されて間もない程度の記憶

2004/12/09のこと

「ダ・ヴィンチ」2月号(1月発売)内「ミステリー ダ・ヴィンチ」での
「あなたの中にあるゴシックハート」特集のため、D[di:]さんとお話する。
司会を神無月マキナさんにやっていただいた。
於・赤坂プリンスホテル旧館、おたがいゴスに装ったのを森豊さんによる写真撮影あり。掲載予定。

そのままのなりで早稲田文学新人賞受賞パーティへ。
知り合いひとりひとりから服装・容姿についてコメントあり。

2004/12/31 Fri  歓待の掟

今年やった主なこと

■1■ゴシック関係

・『ゴシックハート』刊行・9/15講談社
   この日記の最初から記述のあった件がこれで一旦完了
   ただしまだ遣り残し・新たな展開予定あり

・「夜想」復刊第2号「特集ドール」に「ゴシックドールの系譜」寄稿

・「ダ・ヴィンチ」2005年2月号の記事としてD[di:]さんと
   「ゴシックな心」について対談
   当特集の掲載された号は私には届いているが、
   あと10日くらいで店頭にも並ぶ


2005/01/07 Fri  ゲイ・サイエンス

昨日都内の書店で「ダ・ヴィンチ」2月号入荷を確認。
もしご興味ある方はその176ページから179ページ、
「ミステリー・ダ・ヴィンチ」の中の
「死と暗黒に彩られた”ゴシックハート”はあなたの中にもある……」
という特集とそこにある写真をご覧いただき、
その後、「よくやった」「恥を知れ」などとつっこみを入れていただけると幸いです。

さすがにDさんはきれいですね。

以後、著述類の位置がいくらか決定された。
今もその延長線上にいる。

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『稲生モノノケ大全 陽之巻』メルマガ用アンケート回答・再録

『稲生モノノケ大全 陽之巻』刊行のさい、執筆者へのアンケートとその回答がbk1のメールマガジンとして2005年9月ころ、配信された、と記憶する。が、2006年以前の手元の資料が不完全なので、今のところ確認できない。
ただ、私からの回答は残っており、随分前のものであるし、現在読めるものではないようなので、ここに再録する。(★~☆間)
もし現在も開示が望ましくないのであれば削除しますので、その場合は関係者の方、ご連絡ください。

稲生モノノケ大全 陽之巻 アンケート

【質問項目】
Q1:『稲生物怪録』(=稲生物語全般)のどこに、特に魅力をお感じになりますか?
Q2:『稲生物怪録』に登場するモノノケたちの中で、特に印象に残ったモノ、お気に入りのモノは?
Q3:今回御寄稿いただいた作品についてのコメント、読者へのメッセージ、編者への苦言など、御自由に。
…………………………………………………………………

【回答】

秋里光彦

Q1

私はこの物語を稲垣足穂の『山ン本五郎左衛門只今退散仕る』を読むことで知ったため、どこか懐かしさを共有するような書物として記憶されている。
後に同じ内容を足穂は『懐しの七月』とも題していることを知ってあまりの的中感に当惑さえした。
私が読んだものは大半が片仮名書きの、現代人には読みにくいテクストだったが、読みにくさも気にならない、次は何が起きるのか、次は、と興味にかられた。そして遂に七月が終わるとともに「少年の夏」も去る。
永遠に思えた夏休みが終わり、また、その夏休みは一生に一回だけのものである。
私たちはそれぞれ、一生に一度だけの本当の夏休みをどこかで過ごしてきた。
そこでは途方もないお化けたちが、どうだ、どうだ、こわいか、とさまざまに手を変え品を変え、私たちをおどかしてくれた。お化け屋敷の夏、そのおりには、怖い逃げたいと、思うた筈だが、かつての生々しい記憶が遠のくにつれ、いずれもいずれも懐かしい、気味の悪いものたちもまたわが友であったことに気づくのだ。
二度と戻らない夏のため。
二度と戻らないものたちのため。
私は今年も来るはずのない本当の夏を待つ。

Q2

みみず頭と靴脱ぎのところにいる死体、それと炭小屋いっぱいの顔が印象深いのだが、好みで言えば、『三次実録物語』では「その八 奇妙な赤石来る事」として出てくる無数の目と指のついた赤石である。
昨年、早稲田大学で講師をしていたとき、あるクラスの生徒たちが、学園祭で「稲生物怪屋敷」をやりたいと言い出した。時間も予算もないまま、にわか作りながら、稲生屋敷にみたてたお化け屋敷が完成し、さほど多くの人に見てもらったわけではないが、師として自慢したく思ったものである。
学生たちよ、よくやった。
そのとき、いくらか無理をしてでも絶対に作ろう、と皆が決めたもののひとつがこの、目・指つきの動く石であった。
なお、確か絵巻物の復刻に平太郎の台詞を現代語で付したものがあったと記憶するが、その中で、炭小屋の戸をあけると大きな老婆の顔があったという場面、このときの平太郎の台詞「炭が取れぬではないか」というのがとぼけていて好きである。

Q3

足穂はドストエフスキーの『悪霊』について語るとき、その物語の全体は問題にせず、神の問題にも罪の問題にもまるで触れず、この小説で何より大切なのは、とある登場人物(端役である)が、ひどく落胆したときにミニチュア細工を作ることでそれを耐えたと伝える部分である、と語ってやまなかった。
その意見の正当性はともあれ、私もやはり賛成したく思う。あの暗闇や物怪への繊細な反応を可能にする子どもの心の弱さをなくすことなく、それでもどうにかつらいときを耐えるには夢の胚種をどこかに持たねばいられない。あるいは、それができるなら、世界の意味合いも変わる。
そして私は今も子どもめいたものばかり愛する愚か者だ。
一生に一度の夏、一生に一度の奇跡、それが異形のものたちの世界の形をとって現れてきたら。
そんなことを思いつつ書いたのがこの作『クリスタリジーレナー』である。
おそらく、「お化け屋敷」とは異質の、しかしその何かの懐かしさには通ずるものと思いたい。
とはいえ、今回はいくらか、状況に合わせたところもあって、著名作家とは言い難い私が、多少とも目立ちたければ、他の作家の方々が決して書かないだろう展開を見せるのが適当だろう、そう思い、最初に考えた、完全にオーソドックスで懐かしい「ひと夏のお化け屋敷物語」の案を敢えて退け、このやや淋しい物語の方を提出することにしたのである。
ゆえに、いつかもう一度、今度はあまり比較や「誰かとかぶってしまうこと」を意識せずに、一冊の独立した自著として「ひと夏のお化け屋敷物語」を存分に書きたいと考えています。
さらに、実は『クリスタリジーレナー』のその続きとなるべき物語も既にあることはあるのだが、いつどういう形で公にできるかはまだわからない。

読者のみなさまには、「正当お化け物語ではありませんが、どうか、こんなものもいじめないで読んでやってください」と申しあげたく思います。

編者・東雅夫さんには参加させてくださってありがとう、このよい機会を与えてくださってありがとう、と申しあげるのみです。
また、このもともとの企画を実現させてくださった故佐々木絢子さんのご冥福をお祈りいたします。

以上。

なお、ここに記した、「一冊の独立した自著として」の「ひと夏のお化け屋敷物語」が、その後2007年に刊行された『神野悪五郎只今退散仕る』である。
また、Q1後半に記した詩想は後に「二輪行」という連作短歌および詩となった。

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『稲生モノノケ大全』についての当時の予告

2004/11/17 Wed に東雅夫編『稲生モノノケ大全 陽之巻』についての予告の記述がある。毎日新聞社刊。
2003年に『稲生物怪録』にかかわる文献およびそこからインスパイアされた文豪たちの作品を集めた『陰之巻』が刊行された。その後、現代作家による描き下ろし競作集として出されたのが『陽之巻』である。
亡くなった二階堂奥歯さんが毎日新聞社の編集部にいたことからの関係で成立した企画と聞いている。
ここに秋里光彦名義で「クリスタリジーレナー」という短篇を寄稿した。
『陽之巻』は翌年2005年5月30日に刊行された。
そのさいの紹介等は後ほど再録する。
この企画があったおかげで『神野悪五郎只今退散仕る』を2007年に刊行していただくことができた。
『神野悪五郎』は『稲生モノノケ大全 陽之巻』の別巻のような意味もある。そのあたりの詳細もいずれ記す。
まずはこの企画を実現してくださった皆様に深く、御礼申しあげる次第である。

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2004年文学フリマに出品したときの記録

2004/11/10 Wed  の記述。文学フリーマーケットというのがこの少し前から始まっていて、このときは11/14だったもよう。そこに『うさと私』私家版を出品することの告知をかねた態度表明というべきもの。★~☆間。若干編集した。

詩集『うさと私』という本

以前にも書きましたが、
これは1996年、谷川俊太郎さんの推薦文とともに刊行され、すぐに売り切れました。
現在も欲しいという方がいらっしゃるのですが、採算等の理由で重版はできないままです。
またその後に書かれた、刊行部分の倍ほどの続編があり、これらを考え合わせるといつの日か増補版として別の形で再出版するほうが意味があると考えています。
ただ、読みたい方にまるでゆきわたらないのも残念なのでこのほど出版された分だけは私家版を作成しました。

今年2004年11月14日、秋葉原の東京都中小企業振興公社・秋葉原庁舎
(JR・東京メトロ秋葉原駅から徒歩2分・都営新宿線岩本町駅から徒歩3分)
で開催される文学フリーマーケットに出品されます。
2階奥の端、B-44番の「榎本司郎事務所『コミックfantasy』」のブースに置いていただく予定です。

ここには佐藤弓生の選歌集『真珠区異聞』、
それと『うさと私』続編を連載している同人誌「別腹」も出品されます。
「別腹」執筆予定者は私の他に
穂村弘(歌人)、東直子(歌人)、長嶋有(=ブルボン小林、作家)、
ほしおさなえ(作家・詩人)、ひろたえみ(書家・俳優)、
田中庸介(詩人)、佐藤りえ(歌人)、増田静(歌人)、三上零(占い師)
神谷きよみ(ミュージシャン)、佐藤弓生(歌人)、など。

この「文学フリマ」についてはその成立の段階からさまざまな意見があるようですが、私はその中枢には全く接触していません。
ただ機会があったので使わせていただくだけです。
「玄人」意識の強い作家の方からは否定的に見える点もあるかもしれませんが、私自身はこの催しを歓迎しています。
実際にプロ作家の出品も増えているようで、さらに角川書店・徳間書店・幻冬舎なども参加されていますね。

現在、「文学フリマ」は大盛況の様子だが、私の方はある時期からほとんど出なくなって今に至る。
『うさと私』私家版については最近もご注文くださった方があった。これもそろそろ在庫は少なくなっている。
希望は持つことにするが、増補完全版というようなものがこの先刊行されるかどうかはわからない。

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2004年「東京カレンダー」での『ゴシックハート』紹介

2004/10/22 Fri  に記した記事。「東京カレンダー」誌に載った『ゴシックハート』紹介記事への喜び。★~☆間。

使徒来襲

「東京カレンダー」12月号217ページに『ゴシックハート』の紹介あり。
「BOOK」のところ、ページ上半分くらい。

「ゴシックの使徒が描き出す耽美と残酷への憧憬」

という表題。

自分、使徒だった。

シンジくん、ごめん。ぼく、使徒なんだ。

しつれい。

とにかく嬉しいですねこの表題。

わからない人はいないと思うが、「新世紀エヴァンゲリオン」の渚カヲルのふりしてるわけですね、これ。
これもよい思い出だ。
この程度で調子乗って馬鹿じゃねえの、てところだが、ある人の幸せは他者から見ると噴飯ものであることも多いようですね。

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「幻想文学」と「夜想」

2004/10/15 Fri に書いた回想。(★~☆間)
このとき既に「幻想文学」は終刊している。「夜想」は一旦休刊した後、版形を変え不定期の刊行物として現在も続く。

「幻想文学」にはたとえばブルックナーの交響曲みたいな根性座った・でも俗気も忘れない崇高志向を感じましたが
「夜想」からはいつもコクトーツインズの「トレジャー」を連想してしまいます。
文字どおり夜の思考・お洒落できらびやかで虚無的・無残好みの少女趣味、等。

「夜想」のイメージについて、以前強く同意してくださった方があったので再録する。
なお私のブルックナー観は「かっこよさとお洒落に見向きもせず遠くを望むアート」というべきもの。
ちなみのこのときのタイトルは「ノスフェラトゥ」。

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『ゴシックハート』刊行前から刊行時までの記録

(★~☆間がそれ。各日のタイトルは略)

2004/07/07 Wed

お知らせ
長らく『ゴシック的思考』と呼んで予告してきたものの正式な題名が決定

『ゴシックハート』

となりました。

また7月刊行予定としてきましたが、図版収録の手続きから少し遅れそう。
8月末か9月初めの刊行予定です。
ちょとごめんなさい。

2004/08/08 Sun

『ゴシックハート』刊行は9月となりました。
目次を紹介します。

『ゴシックハート』高原英理

1 ゴシックの精神

 1 ゴシックハート
 2 ゴシックの歴史
 3 現在のゴシック

2 人外【にんがい】

 1 「人外」の心――中井英夫
 2 フランケンシュタイン・モンスターの「人外」
 3 吸血鬼の「人外」

3 怪奇と恐怖

 1 怪奇への愛――『アッシャー家の崩壊』『血の末裔』
 2 恐怖の探求――『IT』『新耳袋』『リング』

4 様式美

 1 「ゴシック耽美主義」の文学理論――三島由紀夫、澁澤龍彦
 2 映像と画像のゴシック耽美――建石修志、村上昴、ウィトキン、シジスモンディ

5 残酷

 1 ゴシックな残酷さ――『責苦の庭』
 2 江戸川乱歩の作法――『残虐への郷愁』
 2 サドとその後裔――『悪徳の栄え』『マルドロールの歌』

6 身体

 1 肉体という呪縛
 2 サイボーグ的超越――『攻殻機動隊』『銃夢』
 3 美貌という権力
 4 選ばれなかった者の挑戦――『ヘルター・スケルター』

7 猟奇

 1 人体への執着
 2 身体欠損の物語――『芋虫』『ジョニーは戦場へ行った』『使い切った男』『蝿男』
 3 死体を介した連帯

8 異形

 1 醜さと不幸――『のろいの館』
 2 醜さと悪――『みにくい悪魔』
 3 姉妹の物語――『血』

9 両性具有

 1 両性具有を望む精神
 2 天使/小悪魔のゲーム――浅田彰
 3 カストラートという性――『ポルポリーノ』

10 人形

 1 ゴシック的人形の起源――ハンス・ベルメール
 2 ゴシック・ドール――四谷シモン、三浦悦子
 3 人形化願望――『O嬢の物語』『DOLL』
 4 人形主義――マリオ・A、江戸川乱歩

11 廃墟と終末

 1 廃墟を愛する心――レーンドルフ、フリードリヒ、グラック、稲垣足穂
 2 世界の終わり――モンスー・デジデーリオ、澁澤龍彦
 3 救済のない黙示録――『デビルマン』
 4 あてのない世界改変――『新世紀エヴァンゲリオン』
 5 グノーシス主義――中井英夫

12 幻想

 1 過度の想像力と幻想文学
 2 日本幻想文学の自覚――澁澤龍彦、中井英夫
 3 ゴシック・シュルレアリスム――キャリントン、バロ

エピローグ ゴシックな記憶

2004/08/26 Thu

『ゴシックハート』に使用の図版が決定したのでお知らせします。
今回は章ごとに扉絵を用います。ちょと贅沢で嬉しい。
レイアウトは装丁のミルキィ・イソベさんにお願いしました。


『ゴシックハート』扉絵

第1章 フローリア・シジスモンディ「REDEMPTION」より
第2章 伊藤潤二「フランケンシュタイン」より
第3章 ハリー・クラーク「ベレニス」挿絵
第4章 村上芳正「暗黒のメルヘン」表紙
第5章 大蘇芳年「英名二十八衆句」より「裸女つるし斬りの図」
第6章 士郎正宗「攻殻機動隊」表紙
第7章 竹中英太郎「芋虫」雑誌掲載時の扉絵
第8章 楳図かずお「のろいの館」表紙
第9章 建石修志「宙に止まる者」
第10章 三浦悦子「義躰少女」より
第11章 フリードリヒ「樫の森の修道院」
第12章 レメディオス・バロ「星粥」

2004/09/03 Fri  

ネット書店に配信するためのメッセージを用意せよ、ということだったので、およそ以下のようなものを送りました。本日はその前半。

『ゴシックハート』著者からのメッセージ
高原英理

 物心ついた頃から怪奇なもの怖いもの暗がりにあるものが気になって仕方なかった。夜、墓場、お化けとか怪談とか。
 集団生活と共同作業が苦手。今のところ徴兵制はないからよいが軍隊に入れられたら耐えられないだろうな。
 平穏が続くというのが信じられない。いつも死のイメージばかり考えていた。今も。
 ダークな感じ、陰惨なもの、残酷な物語・絵・写真を好む。ホラーノヴェルもホラー映画も好き。
 時代遅れと言われても耽美主義。様式美の感じられないものに興味が持てない。
 身体の改変・変容に強い興味がある。サイボーグを夢見ている。肉体の束縛を越えたい。
 両性具有、天使、悪魔、多くは西洋由来の神秘なイメージが好き。澁澤龍彦の紹介した文物絵画など。
 金もないのに贅沢好み。少女趣味。猟奇趣味。廃墟好き。頽廃趣味。逆の無垢なものにも惹かれる。
 情緒でもたれあう関係が厭。はにかみのない意識が厭。
 自信満々の人が厭。弱者だからと居直る人も厭。「それが当たり前なんだから皆に合わせておけ」と言われると怒る。はじめから正統とされているものには疑いを感じる。現状の制度というのが決定的な場面では自分の味方でないように思える。
 気弱のくせに高慢。社会にあるどんな役割も自分には相応しくない気がする。毎朝、起きると、また自分だ、と厭になる。自分でないものに変身したい。それは夜に生きる魔物であればよい。フランケンシュタイン・モンスターの気持ちがわかるつもり。楳図かずおの描く怪物たちの気持ちがわかるつもり。
 最近ようやく気づいた。私の考え方、好み、いずれも、ゴシックと呼ばれるものなのだ。私のような感じ方をゴシック的と言うのである。
 これから私はゴシックな意識について語ろうと思う。それは主義のような言い方になるときもあるが主義ではない。また思想や理論として構築されているのでもない。言ってみれば好悪の体系のようなものだ。しかしそこに自分として確固たる必然が感じられるものだけを語る。好みだからといって重要でない筈はない。命懸けの好みなのだと言いたい。ロックがそうであるように、それは生き方だからだ。

2004/09/05 Sun

前々日に続き『ゴシックハート』著者からのメッセージ
本日はその後半。


 私・高原英理は一九九六年、「第三十九回群像新人賞評論部門優秀作」に選ばれることから評論活動を開始しましたが、また一方で一九八五年、澁澤龍彦・中井英夫両氏の選考による「第一回幻想文学新人賞」をいただきました。この文学賞は翌年第二回まで行われましたが、澁澤氏の逝去により途絶したまま現在に至っています。
 澁澤さん・中井さんは今も私の師です。

 人外・異形・怪奇・恐怖・耽美・残酷・身体・廃墟・終末といったテーマによって、ゴシックの起源から現在の「ゴス」まで、見込みある未来のないまま今を生きるゴシックな魂の諸相を力及ぶ限り書きとめてみました。
 これまでの著作『少女領域』(国書刊行会刊)および『無垢の力 ――〈少年〉表象文学論』(講談社刊)はいずれも純然たる文芸評論でしたが、今回は文学にとどまらず、シジスモンディ、ウィトキン、フリードリヒ、キャリントン、バロ、ベルメール、建石修志、村上芳正、四谷シモン、三浦悦子、マリオ・Aなどの美術作品、岡崎京子『ヘルタースケルター』、士郎正宗/押井守『攻殻機動隊』、楳図かずお『のろいの館』、永井豪『デビルマン』、庵野秀明『新世紀エヴァンゲリオン』、三原ミツカズ『DOLL』などの漫画・アニメーションに関する言及も含みます。
 文学としては『オトラント城綺譚』『フランケンシュタイン』『吸血鬼』といったゴシック・ロマンスのほか、澁澤龍彦、中井英夫、三島由紀夫、江戸川乱歩、稲垣足穂、ポオ、サド、ロートレアモン、ミルボー、レアージュ、グラックなどの作品から、ゴシックな心に届くものだけを探りました。
 また、前著『無垢の力』の延長ともなる「人形」「両性具有」「幻想」といった章では、暗黒への志向とともに天上への憧憬もゴシックの領域であることが示されるでしょう。

 ここで善悪は問題ではありません。美しく残酷なこと。きりきりと鋭く、眠るように甘いもの。ときにパンク、ときにシュルレアリスティック、またときに崇高な、暗い魅惑に輝くゴシックの世界へ、どうかおいでください。

2004/09/15 Wed

本日、書店に『ゴシックハート』入荷確認。

よって本日はゴス記念日とします。

こうして『ゴシックハート』は刊行された。
「著者からのメッセージ」はその後、『ゴシックスピリット』の序のところに一部用いた。

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2004年5月2日~9日の「ひとことコメント」

昨日示した2004/05/02~09の期間、ついでに「ひとこと……」として小さいコメントを記していた。
今となってはどうでもよいこともあるが、振り返りとして再掲する。(★~☆間)

2004/05/02 Sun
ひとことCM 『ゴシック的思考(仮題)』講談社より7月刊行の予定。

2004/05/04 Tue
ひとことCM 6月にメディアファクトリーから創刊の季刊怪談雑誌「幽」に随筆連載します。

2004/05/05 Wed
ひとことCM 6/26、南青山の「梅窓院」というお寺の「祖師堂」で行われる怪談会に佐藤弓生とともに出ます。

2004/05/06 Thu
ひとことレジスタンス 輸入CD禁止法反対。

2004/05/08 Sat
ひとこと疑問 「自己責任」ていう人本当に自分責任負ってる?

2004/05/09 Sun
ひとこと呼びかけ 「CASSHERN」好きな人あつまれ

ここで『ゴシック的思考(仮題)』と告知したのが『ゴシックハート』。その後増刷を重ねた。現在五刷。
「幽」の連載は創刊号から十回ほど続いて終わり、現在は見開きコラムとしてほそぼそと続いている。
「幽」主催の怪談会では佐藤弓生とともにステージに立たせてもらったが、そうした出演はこれが最初で最後となった。いい思い出である。
あとは多少当時の政治経済状況について。普段こうしたことは敢えて言わないので珍しくはある。
最後の「CASSHERN」は紀里谷和明監督の映画。好評不評があい半ばしつつ、それなりに興行成績をあげたと聞いている。破綻も多いことはわかっているが、こういうものからは眼が離せない。

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2000年に提出して公開されなかった推薦書リストふたたび

2004/05/02 Sun  には以下。

さて、2000年3月ころ、「早稲田文学」から、附録としてつけるCDRに
収録する特集として「これからの『早稲田文学』読者に読んでほしい数冊の本」
というアンケートを頼まれた。
どうせみんなルール破り放題なんだろうと思い、
数冊ではなく数項目についてそれぞれ何冊かずつあげて答えておいたら、
結局収録されなかった。多すぎて載せられないということだった。
他の方々はあまり大量には書かなかったらしい。ちょっと恥。

で、そのとき記した推薦書など以下に。

として2004年05/02から09にかけて記した推薦書リストを編集しなおして再録する。★~☆間
※部分は今回補足。

読んでほしい数冊の本
高原英理

各ブロックごとにどれか一冊ずつ、あるいはどこからでも合計して「数冊」、読んでいただければ、私のいだく問題系の一端が共有されることと信じる。

■ブロックA(小説-少年/自己愛/憧憬)

「豊饒の海」全4巻 三島由紀夫(新潮文庫)
「孤島の鬼」江戸川乱歩(創元推理文庫ほか)
「稲垣足穂作品集」稲垣足穂
  (新潮社版もしくは沖積舎版・内容は同じ、河出文庫数冊でもよし※ちくま文庫でもよし)
  【「少年愛の美学」「彼等(they)」「一千一秒物語」「僕の"ユリーカ"」含む】
「中公文庫版・折口信夫全集第24巻 創作4」折口信夫(中央公論新社)
  【「口ぶえ」「死者の書」含む】
「創元ライブラリ版・中井英夫全集第5巻 金と泥の日々」中井英夫
  【「金と泥の日々」「夜翔ぶ女」「名なしの森」「夕映え少年」「他人の夢」含む】

※ 『無垢の力』系。

■ブロックB(小説-少女/自由/高慢)

「山梔(くちなし)」野溝七生子(講談社文芸文庫)
「ちくま日本文学全集第20巻 尾崎翠」尾崎翠(ちくま文庫)
   【「第七官界彷徨」含む】
「甘い蜜の部屋」森茉莉(ちくま文庫)
「ナチュラルウーマン」松浦理英子(河出文庫)
「ハイブリッド・チャイルド」大原まり子(ハヤカワ文庫JA)
「幽界森娘異聞」笙野頼子(※講談社文庫)

今回は『少女領域』系。

■ブロックC(小説or随筆-語り/博物誌/郷愁/詩歌/抵抗)

「山躁賦」古井由吉(集英社)
「夢の宇宙誌」澁澤龍彦(河出文庫)
「昭和幻燈館」久世光彦(中公文庫)
「緑珠玲瓏館」塚本邦雄(文藝春秋)
「神聖喜劇」全5巻 大西巨人(ちくま文庫)

文学ってば、こんなのがいいくないすか。

■ブロックD(評論-美学/幻想/フェミニズム/言説制度/都市)

「殉教の美学」磯田光一(冬樹社)
「銀河と地獄」川村二郎(講談社学術文庫)
「女という快楽」上野千鶴子(勁草書房)
「日本近代文学の起源」柄谷行人(講談社文芸文庫)
「都市空間のなかの文学」前田愛(ちくま学芸文庫)

このあたりが文芸評論に志すこととなった動機かな。

■ブロックE(小説・翻訳-悪/怪奇/ゴシック/沈思)

「ジュリエット物語又は悪徳の栄え」D.A.F.ド・サド 佐藤晴夫訳(未知谷)
   【河出文庫版・澁澤龍彦抄訳「悪徳の栄え」正続でもよし】
「葬儀」ジャン・ジュネ 生田耕作訳(河出書房新社)
「怪奇小説傑作集」全5巻 ブラックウッド、マッケン、ラヴクラフトほか
    平井呈一ほか編訳(創元推理文庫)
「アルゴールの城にて」ジュリアン・グラック 安藤元雄訳(白水uブックス)
「箱舟」ピエール・ガスカール 有田忠郎訳(書肆山田)

ほぼ幻想文学系。

■ブロックF(評論・翻訳-卓越/蕩尽/世紀末/ジェンダー/クイアセオリー)

「文庫版ニーチェ全集第11巻 善悪の彼岸・道徳の系譜」
    フリードリヒ・W・ニーチェ 信田正三訳(ちくま学芸文庫)
「バタイユ著作集第8巻 ジル・ド・レ論――悪の論理」
    ジョルジュ・バタイユ 伊東守男訳(二見書房)
「肉体と死と悪魔」マリオ・プラーツ 倉智恒夫・草野重行・土田知則・南條竹則訳
   (国書刊行会)
「性の歴史」Ⅰ~Ⅲ ミッシェル・フーコー 渡辺守章・田村俶訳(新潮社)
「聖フーコー――ゲイの聖人伝に向けて」
    ディヴィッド・M・ハルプリン 村山敏勝訳(太田出版)
「ジェンダー・トラブル――フェミニズムとアイデンティティの攪乱」
    ジュディス・バトラー 竹村和子訳(青土社)
「クローゼットの認識論――セクシュアリテイの20世紀」
    イヴ・コゾフスキー・セジウィック 外岡尚美訳(青土社)

以上で終り。
最後は思想・評論で〆。
※ジェンダー系には文句ある人も多そうだが、批判するにせよ、まず知ることはよいではないか。
私はもともとニーチェ主義者でした。……で「CASSHERN」?(恥)
なお以上にあげた推薦書はもはや「早稲田文学」読者に向けてだけではありません。

いや、「私のいだく問題系の一端」を共有していただく必要などないが、ただそれでも、上の本、いいと思いますよ。今も。

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