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枯れ木も山のにぎわい

国書刊行会創業40周年記念・各界著名人の「私の選ぶ国書刊行会の本」→
で三冊推薦しています。
私の場合、「著名人」、を聞いて呆れてください。

各書店で国書40周年フェアが開催されるそうであります。
自分の推薦した書目はどれも在庫ありのはずなのだが、並べられているかどうか。
「マンク」新装版ならきっとある。
なお、数か月前の「マンク」映画化・日本公開は全く偶然なのでーます。

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最近の詩歌書

一気に出てますね、いいのが。

千野帽子『俳句いきなり入門』(NHK出版新書)
倉阪鬼一郎『怖い俳句』(幻冬舎新書)
穂村弘・山田航『世界中が夕焼け』(新潮社)

プラス、もうじき
佐藤弓生『うたう百物語』(メディアファクトリー)
上、近刊のバナー → 

もう一冊、予定では既に出ていてもおかしくない現代詩文庫の新刊もあげたいのだが、なぜか未刊のまま。待つ。

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幾たびも抒情

このところ断続的に、『抒情的恐怖群』の名をあげてくださる方が幾人もいらっしゃって、心より御礼申しあげます。

ああした方向に、といっても収録作七作品がほぼ七方向なのだが、ともかく「ああした」としか言えない、そんな作品をさらにもういくつか、どこかに残しておきたいとは思うが、『抒情的恐怖群』は初動がよくなかったので、同じような条件での企画は難しいかも知れない。
でありますからもしあの方向を愛する方がおられましたら、これからも定期的にできるだけ名をあげ多少のコメントなどいただけましたなら、あるいは再び「ああした」傾向の刊行が可能かも知れませんです。

今は別のことを続けています。

思えば日本経済が壊滅するよりも前に一冊にもせよ代表作と自負できる著を刊行できてよかったと思うものであります。版元・編集の方には感謝し続けて止みません。
売れ行き? 人気? 権威? 知名度? はあ。ともかく1000年単位で考えましょう。

幾たびも記す 高原英理『抒情的恐怖群』(毎日新聞社刊)
刊行時、京極夏彦氏にご推薦いただきました。
京極氏のご見解の正しさは今徐々に確認されつつありますね。

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古井由吉『槿』

たまたま古井由吉の『槿』を読む機会があったときの覚え書から。

1 この小説もそうだが、「杳子」以来、古井由吉の小説の男性主人公が多く、
メンヘラホイホイであること。理由もなく心病んだ女にひどくもてる。

2 知り合い求められる二人の女、片方とは性的な関係を持ちもう一方とはほとんどそうした関係なしに続く、自殺が物語を進める上での主要な要素となる、女二人に限らず主人公はやたらにもてる、現実的な生活苦等の問題は除外されている、といったところが村上春樹の『ノルウェイの森』に似ている。なお『槿』は1983年刊、『ノルウェイの森』は1987年刊。両者に特別の関連はないと思う。
いずれも80年代的物語の磁場のもとにあったのだろう。

3 『槿』は前半(厳密にどこまでかは今ではよくわからない)をある雑誌に連載していたがその雑誌が終刊し、そこで中絶するかもしれなかったところ、別の雑誌に後半を連載し続けることとなって完結した、という経緯があったというが、後半部を続けることができるとわかったとき、作者は、それまでのやり方のままではうまくゆかないと判断し、その後いわば「てこ入れ」をしたと思われる。それは後半になっていきなりミステリー的な展開になるところにうかがえる。前半にその伏線はない。後半になって、謎とその追求、という物語的になりやすい新たな方向性に従い、いくつか新要素の組み込みをしていったと思われる。作者は前半を書いているとき、現在後半に読めるような展開をほとんど考えていなかったのではないかと私は考える。
この、自分の体質的・手探り的な書き方で続けた前半が行き詰まり、そこである定型的な物語要素を組み込んで書き続けた後半、という作り方は江戸川乱歩の『猟奇の果』に似ている。違いは『猟奇の果』が乱歩の失敗作として名高いのに対し、古井の『槿』が名作として名高いところである。

4 エンターテインメント小説は常に読者のために書かれるのが建前だが、純文学小説は主に、(その作者とは別の)作家のために書かれる。それを作家がそう読むのと同じように、作家でない人が享受することはいくらでも可能だが、エンターテインメントがそうであるような意味では一般読者のためにはない。
古井由吉の小説を読むと、そのスタイルもテーマも全然違うのに、自分の
小説がよく書ける

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「トーキングヘッズ」51号に

この間までここで記していた件にかかわる「リヴィング・デッド・クロニクル」というエッセイが掲載されますが今月末くらいにならないと書店に出ないという話でした。
なのでその頃また書きます。
今は予告のみ→トーキングヘッズ51号

ともあれ『女の子を殺さないために』(川田宇一郎)販促イベント以後、ほぼどこにも出ず、ネット上の情報もかなり限られたものくらいしか興味が持てず、という状態なのでリアル/電脳上が今どうなっていますかわかりません。
ただ、自分が目にするいくつかのごく限られたブログやツイートで最近話題になっているのが、ポエマー蔑視、みたいなやつ。
そう思うのも無理はないし私もいわゆるポエマーの書くものに心奪われたことは全くないが、いや、というか、そこにひとつふたつ考えさせられるものがあるので、近く、どっかで(例によって「トーキングヘッズ」で? どうかな)伝えようかと思っていますが、しかーし、それも批評じゃないし、できるかどうかわからない予告。

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紹介と啓蒙の最後の仕事だったかな

2008年に新書館の「大航海」という雑誌から依頼されて「80年代日本文学の幻影たち」という原稿を書いた。
それは同年10月刊行の「大航海」NO.68に掲載された。この号の特集は「1980年代」である。
そこで1980年代の主要な純文学作品とともに、重要と私が判断した諸作品をあげて簡単な解説をしている。
完全に体系的とは言えないが、そこそこよく読んでいたのである程度の指標にはなる。
「大航海」は現在では終刊してしまっているが、68号の在庫はまだあるらしく、ネット上で購入もできる。
だが今も問題だと思うのは、新書館のサイトでの、「雑誌詳細ページ」というところで、掲載記事の題名をすべて記載しているのだが、そこでの私の記事の題名が間違ったままになっていることだ。
ここ→

「80年代日本文化の幻影たち」 → 「80年代日本文学の幻影たち」

と訂正願います、新書館の方。

思えば、「稲垣足穂作品紹介」以来、案外多くの「ブックガイド」「作品紹介」を書いてきた。そのいくつかは手際よくなかなか便利で「使える」という評価だったので、完全にブックガイドライターとして立てば今頃けっこうな地位と収入を得ていたかもしれない。
しかしあるときからこういう仕事を続けることが苦痛になったのですかっとやめた。
上の「80年代日本文学の幻影たち」は「便利な啓蒙・紹介」の最後の仕事かと思う。
これができたのは、依頼された段階で、新たに読まねばならない作品がなかったからだ。ほぼすべて読んだ作品の記憶だけで紹介している。
そういうことなら趣味のようにしてやれるが、プロの仕事となるとそうはいかない。
それやこれやで以後、紹介めいた仕事はほぼしておらず、小説以外の雑文はすべてエッセイとなった。
しかも、いきがかり上、何かの作品に言及するときも紹介の仕方が適当で、今ではもはや過不足のないガイドはできないだろうと思う。というかしたくない。
分かりやすく手堅い紹介の手間なんかとばして、既に知っていてとても気に入ったものについてちょいと一言言う、なんていうお大尽仕事ならよい。
澁澤龍彦はかつて、「ある本を一行程度で推薦するようなことが自分は一番うまいかもしれない」といったような発言(記憶だけに頼っていて引用ごくいい加減)をしていたように思う。むろんその本は澁澤の気に入った本に限定される。こういうことなら自分も同じかな、なあんて、まーた自分を澁澤龍彦にたとえたったー。できもしないけど。

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次は(いまひとたびの)リヴィング・デッド

しばらく前にここで予告してあった、川田宇一郎氏による「ゾンビ論」が遂に公開されることとなりましたのでお知らせ。

ここ→青い金魚の日々・2012年7月8日日曜日

言及されている作品の作者である私が言っても信憑性に乏しいかもしれないが、とても面白い。
私の興味としてそれは嘘でなく優れていると思います。
リヴィング・デッドに関するエッセイを「トーキングヘッズ」51号に書いたところでもあるので、近く刊行されるそれとあわせてお読みいただけると昨今のリヴィング・デッド/アンデッド/ゾンビを用いた想像の用い方がわかって楽しめると愚考いたします。
その視線が彼の今回の著作から一貫しているところも読みどころですね。
というわけで、再度、紹介します、

川田宇一郎『女の子を殺さないために』(2012講談社刊、税込1995円)

はや世界的な作家と目されつつある村上春樹の、原点となった庄司薫の四部作、という視点はこの著作の見解でもあるとともに川田氏の群像新人賞から始まる発見であります。
そこから16年を経て厚みを増した論考は村上・庄司を内包しながら、より普遍に届こうとするもので、川端康成や坂口安吾、古井由吉にも柴田翔にも、また氷室冴子にも、ヘッセ、サリンジャーにも、あるいは浅田彰、蓮實重彦、大塚英志、斎藤美奈子といった人々の批評にも向いている。
70年代までの男子の闘争=「上昇」的な物語類型を脱して始まった80年代以後の浅田彰的な男子「逃走」(平行移動)類型、その先にある女子「下降」(垂直移動)類型という三種の物語ベクトルの交錯が説得的である。
意識の上では男性女性いずれにもアイデンティファイできる能力を、本来人は持つ筈だが、しかし、物語の進化の上ではどうしても前代の意識の集積を免れることができず、男性と女性の役割イメージから多くの類型的な物語が発生し、それが多彩なヴァリエーションを示すうち、中のいくつかは人類の遺産とでも言うべき記憶となるだろう、その大きな集積庫のひとつが文学である。
そうした物語を「舐めてかかり」軽視することがあたかも選良の証であったかのような80年代のドグマを捨てると、物語の否応ない切実な力が関知される。それを否定することは誰にもできない。
そのことを川田は知っている。そして考えるのだ、この物語はどこから生じるのか。
これはそうした態度の批評である。
私としては長年考えてなかなか了解の難しかった坂口安吾の「文学のふるさと」についてのひとつの解答例を示してくれているのがとてもよかった。
推薦します。

(いったんアップしますが、上は自著でないため、正確さに欠けた記述がみつかったさいには直ちに訂正します)

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次は怪談

といっても実話系ガチこわではありません。
怪談専門誌「幽」に連載の佐藤弓生「短歌百物語」が一冊になって8月刊行。

佐藤弓生『うたう百物語』メディアファクトリー刊
1680円(税込←今年ならこの価格・しばらく経つと高くなっちゃいますのでお早めにね)

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次は妖怪

「夏目友人帳」は少し知っている。「ぬらりひょんの孫」はまだ見ていない。
ほかにも多々あると思う。映像化はされていないかも知れないが今市子の「百鬼夜行抄」は大変よく考えられている。
小説だと「しゃばけ」が一番ポピュラーなのだろうけれどもまだ読んでいない。
実写では「妖怪大戦争」(新しいほう)以来、あまり記憶にないのだが、何かあっただろうか。あ、鬼太郎か。でも二作目以後続いていなくて残念だ。
思えば大映の妖怪三部作(「妖怪百物語」「妖怪大戦争」「東海道お化け道中」)は偉大だった。これで好きになった子供は数多いと思う。今思い返してもわくわくだ。
夏はお化けというのも彼岸の時期があるからか、室内での冬の夜語りというのもいいが、夏、アウトドアでお化けに遭遇の衝撃はより大きい。やはり日本の夏はお化けなしでは不足である。
というわけで今回の宣伝は高原英理『神野悪五郎只今退散仕る』(毎日新聞社)
お化けたくさん出ます。

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意義あるとして

ここに何か書いたことでいくらかでも変化はあるのか、未だによくわからないのだが、このところ、断続的に『抒情的恐怖群』についての記録を載せてみたら、おもしろいことにその都度、その都度である、アマゾンで何冊かずつ、売れているらしいのが認められた。
一冊でも売れると順位が大幅に上がるのでわかるのだが、こういう判断は誤っているのだろうか。
が、仮に判断は正しいとしても、それが私の記事によるという根拠はない。

とはいえ、自分が小さなアクションを起こす、すると僅かながら変化らしいものが、売上げの形で出てくる、とするなら、いかなることにせよ、続けてみるのがよいと誰もが考えるだろう。結果ゼロでもともとであり、私はここに記すための僅かな時間以外何も損はしないのである。

それに対し、作者が延々自著を語るなんて格好悪い、恥を知れ、すべてを読者に委ねよ、という意見はもっともだが、ここのそれは宣伝の意味とさせていただきたい。
何か語れば僅かにせよ売れるのなら、見苦しくとも私は全然かまわない。読者は一人でも増えてくださればよい。

できれば内容と意味を規定するようなことはしたくないが、といってまっさらで読んでもらおうとも思わない。それらしく売りを狙う広告がどこかに出るだけでその著作の読まれ方はかなりのところまで指定される。それはできるだけ多くに知ってもらうためには必要な部分でもある。しかし読み手はそうした指定に従うとは限らない。
このあたりの違いを一言で言うのは難しいが、宣伝行為としての作品周辺話と、読者誘導行為はまた別だと思うものである。しかもいかなることを言っても読者はそうそう誘導などされはしない。

少数だが、ときおり気にしてくださる読者の方々に御礼申しあげつつ。

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