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このへんとこのへんに賛成

このへんと (元はここから→

9月28日 豊崎由美 ‏@toyozakishatyou
①ある非純文学系の作家にきいたんですが、その方は編集者から「物語を早く動かせ」「主人公は早く登場させろ」という注文をうけることが多いんだそうです。読者の多くは我慢強くなくて、ゆるやかな展開や迂回する語りを好まない、“遅い小説”は途中で読むのをやめてしまうから、と。
9月28日 豊崎由美 ‏@toyozakishatyou
②なるほどー、だから最近のエンタメ系小説の多くは……(以下、愚痴を自粛)と納得がいったんですが、しかし、まあ、編集者のそういう通俗的な教育的指導がある限り、日本からはトマス・H・クック級のミステリー作家は生まれにくいだろうなとも思った次第。
9月28日 豊崎由美 ‏@toyozakishatyou
③結局、“遅い小説”を書きたいなら、まず、速い小説を書いて売れろということなんでしょう。でも、かつてとはちがい、今の日本ではその「売れる」とう域に達すること自体が難しい。90年代にデビューした作家は、その点では恵まれているといえるかもしれない。21世紀の作家は大変だ。
9月28日 豊崎由美 ‏@toyozakishatyou
④わたし自身は、遅延につぐ遅延、脱線につぐ脱線、迂回につぐ迂回によって、「自分は今いったい何を読まされているんだろう」と見当識を失うような小説が大好物ですけど。で、海外文学にはそういう小説、ざらにありますよね。

このへん (元はここから→

9月28日 千野 帽子 ‏@chinoboshka
読者を我慢のきかない(そして硬いものを噛めない)老人だと思って痒いところにサーヴィスしていたらほんとに読者にそうなった、というわけで編集者のマーケティングが読者を「育てた」わけですねー。QT @toyozakishatyou なるほどー、だから最近のエンタメ系小説の多くは……

に賛成。


思い出す、80年代、現在の自分の方法に続くような書き方の小説を見せたら、ある編集の人から
「村上春樹みたいな口調にしないと本出ませんよ」
「いまどき塚本邦雄みたいな書き方してると見捨てられますよ」
という助言があった。
その結果か。

ただし、その数年後に京極夏彦デビュー、笙野頼子芥川賞ほか三冠。

なお私のフィクションの修辞はときに入り組んではいるが、塚本邦雄の小説のようなバロック風ではありません。要するに「なんだか難しそうに見える書き方をしてるのはどれも全部受けないぜ」という意味。
ああ確かにある程度はあたってるか。あまり大きく広くは受けませんなあ。
でも最後まで春樹真似はしなくてよかった。
村上春樹その人は偉大だと思うが、確かにあの頃、春樹亜流口調の作家ってけっこういたのではないか。あんなふうにあちこちで助言されてたんだろうからね。

あ、でも上記おふたりのご意見とこれとはまた微妙に違うな。村上春樹の小説がエンターテインメント的に早くて迂回がない、ということでは全然ないのです。私が聞かされたのはまず読み易さ、ということだ。

それにしても2009年にしてよく出たのだった、高原英理『抒情的恐怖群』(毎日新聞社刊)

この先も迷路みたいな小説を書きたいものだが。

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「うさと私」系列作品

「遍歩する二人」と「グレー・グレー」にはどこか「うさと私」が感じられる、などの、とある読者の方からのご感想あり。

読者はありがたい。

なんか先日は作家に敵対したがる読者の例を出したみたいな感じになっていますが、でも本当のところそんなのは考慮に値しない。
むろん作者を全面肯定するのが読者、なのでないのは当然だが、といって、冷静に突き放して読むことと侮蔑したがるのとは違うでしょう。

私には私のできることしかできないのだが、かろうじてでもそれをよしとしてくださる方がおられることでなんとかなっている。
が、逆ではないんだな。こうしとけば認められるとかの予測が自分には出来ない。というより本来不可知でいかなる可能性も持つはずの読者をみくびってはならない。
そうではなく、たまたまこんなのできました、と提出してみたら、見ず知らずの人が「それいい」と言ってくれたときの喜びがすべてである。でなかったときはただがっかりするだけだ。

だからこそ今回のような経験はひとしお嬉しいものなのであった。

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柴田よしきさんの発言とそれへの反応について

過去専門のブログですが、過去にも何度か気になったことのまたひとつの表れと感じましたので比較的リアルタイムの件、多少。
まずこれ
   ↓
ただ、「読みました」といいましょう(笑)

柴田さんの意見はそのとおりで付け加えることもありません。コメント欄にかなりなんだかなな見解というか、ある何かの否定意志の歪んだ表出になっている人がいますね。ただ、だんだんとそういう「分からず屋」というより「分かりたくない屋」の悪影響を排除しようとする発言が重なっていて、後から読む人にはある程度すっきりしたものにもなっている。
なので内容には触れない。

気になったのは、こうした十分気を使って発せられた作家の発言に対してさえ、どうにかして揚げ足取りをしたくなる層があるということだ。

やっぱり作家という存在に対し、会社員と違って、「畜生、好きなことして儲けやがって」と見る人が今も後を絶たないということではないかと思う。
作家からは、なにそれ、お前現場をわかってるか、とか、いくらでも反論はあるし、だいたいは正しいのだろうが、この、「選ばれた者」(と勝手に想像されている存在)への抜きがたい敵意は、結局のところ、
「けっ、たかが小説書きなんてなぁ、大道芸やってお代をもらうのと同じなんだ、このオレ様は見た芸に満足しなきゃ一文も出さねえからな、分際をわきまえろや」
「オレ様が主人、貴様らはオレ様を楽しませてナンボ、大して面白くもねえ奴が偉そうにすんじゃねえぜ」
と言いたい気持ちがそうさせているからと思います。

とりわけ「エンターテインメント」と分類されるフィクションの世界には、ときどき、いつも店員に偉そうにする客、的な読者(というより読まないけど権利だけ主張する作家でない人)がいるのか、とも想像した。
そういう意識を増大させている人って、やはり一度は作家という立場に憧れたからではないかと、なおこれは邪推です。

「ポエティック・クラッシュ」という私の小説はこれとは全然質が違うけれども、ある点で、選ばれる/選ばれない、というシビアで不公平な問題を考えたものであります。これは実際、現在では図書館ででも探していただかないと読めないわけで、こうした過去の雑誌掲載・単行本未収録作品に関しては「図書館で読みました」ということに対し、私は「わざわざ探してくださった」意味と受け取っています。
ただもし、いつでも買える本として刊行されたときはもう「図書館で」とは言わないでいただけるとありがたいけど。
マイナーなせいでか、出会うのはとてもありがたい読者の方がほとんどで、これまで自分としては上の問題はあまり関係ありませんでしたので、あえて他人事として考えることができたという次第。

なお、これらとは別に、私として是非読んでいただきたい方に寄贈する場合があって、そういう問題も上のと全然別ですからね。

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覚え書とか

アニメ「結界師」(原作読んでない)に出てくる松戸平介という老学者のあり方が物語的には強い。
古くはファウストと同じだが逆百鬼丸の趣きあり。
それと付き従う悪魔の性格がとてもよい。悪魔だが陥れる悪意はなく契約どおりで有能でビジネスライクでもある。クールビューティーだし。

映画「アナザー」に出てくる、ちょっと敵意ある役の女子が誰かに似ていると思ったら、「ふたりはプリキュア」の白いほうだった。眉毛がそっくり。

中田ヤスタカの手つき色合いのようなものがきっと自分は好きなのだと思った。パフュームときゃりーぱみゅぱみゅだけでなく。

映画「プロメテウス」のかなり選ばれてきたはずの乗組員がとても優れた学者と思えない。程度の低いワーカーを連れてきたみたいで不用意でやかましくて考えなしで、これなら本当のワーカーだったノストロモ号(「エイリアン」)の乗組員の方がよっぽど分析能力に信頼ができる。

リャードフの「8つのロシア民謡」はてともよい曲で全部で14分ほど。調べてみたらリャードフ管弦楽曲集というのが三種ほどあってどれもCD一枚で足りる程度。

「ぬらりひょんの孫」も「結界師」もラスボス(あ厳密にはそうとも言えないか、でもめざす最大の対象)は九尾の狐(の類)である。そういえば「うしおととら」もそうだった。そりゃ強そうだけど、ちょっと芸がないのでは。ちなみにきつねかわいい。

映画「ロード・オブ・ザ・リングス」にはゴラムは出てくるがジャージャービンクスはいない、それで安心して見られる、と佐藤弓生。ジャージャーは日本人には評判が悪い、と言う人もいたが本当か。特に「クローンウォーズ」のエピソードなんかではこいつの行動だけあまりにギャグ漫画的でうるさくて邪魔なことばかりする。一気にシリアスさを欠いてしまって、あれほどの緊迫感の中では全然リアリティがない。だが、そういういちびりを含んで成立しているところが「スターウォーズ」がファンタジーでなくSFである所以か、とも話す。
なおゴラム=スメアゴルはいつも心痛めずには見られない。好きなのではないのだが。彼には冗談が一切ない。そこが痛々しく、よきにつけあしきにつけその真剣さがファンタジーの基本と思う。「なんちゃって」が多くなるとファンタジーが壊れる。

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詩集『うさと私』、何度でも

もうしばらく休止の予定でしたが思うところあって再開します。

何度も記した『うさと私』についてまたしても記すことにします。

またかよ。はい、ごめんなさい。

詩集『うさと私』は、あるきっかけから谷川俊太郎氏によい評価をいただいたやや長い詩篇がもとになっている。現行のものでは第一章のところがそれ。
その後、続きの章を足して一冊にしようとしていたら、ある出版社で、初版は半分だけ自費、増刷分印税支払い、ならどうか、という話になったので、その方式で刊行されました。
ほぼ自費出版に属する形ではあったが、当時のマガジンハウスの雑誌「クリーク」に紹介されたりしてけっこう評判はよかった。
帯には谷川先生の評をそのまま使わせていただいた。

「キューキョクの愛の表現。スタイル・ユニーク。」

というのが谷川先生からのお言葉であります。

おかげさまでかなり早くに売り切れた。
本来ならすぐ再版もありえたはずだが、その後しばらくして版元が倒産したため(つまりもう再版とかできる状態ではなかったらしい)、市場では初版のみ古書で流通しています。
どっかで出しなおしてもらえないかと打診したこともあったが、詩集という分類になるため、なかなかメジャーな形では難しく、だったら本当の自費出版として作っておくことにしようと決めて、現在のような形でささやかに通販しています。内容見本→

おまけもついています。
ごくごくたまにご注文いただきます。
最近も意外なご注文があり、大変ありがたく、嬉しかった次第。

さて、今回のご注文などを心支えにして、このたび、この、しあわせだが不運な詩集『うさと私』を再度増補してなんとか、より可愛らしく出せないか、あるところへ交渉してみることになりました。

初版はすぐ売り切れたのだし、その後も強く好んでくださる方が何人もおられるのだから、やりようによってはどうにかならないだろうか、と、私自身は思うのですが、しかし、作者がこの程度に知られない人だと難しいのもよくわかっています。そこをなんとかです。

以上、企画提出のさい、読んでいただくためのおおまかな紹介でした。

本来、だめもとの企画だし、それが成らないとしても失うものもあまりありませんから、話だけは持ってゆくことになりますが、正直、手持ちのカードが乏しいのでなかなか元気が出ません。ここ、しばらくしたら削除かな。

みんな、オラに少しだけ元気を分けてくれ!

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純文学作品のよしあし

純文学作品のよしあしは本当は誰にも決定できない。
なぜそれが掲載あるいは刊行されるのか、どれだけ価値がある(とされている)のかも、業界事情、あるいは文壇事情を知らない人にはわからない。ある日、ある作品が何かの文学賞受賞、と知らされるだけだ。
よく読んでいる人にはときおり「気に入った小説」が見つかるものだが、しかしそれが業界内でも真に評判よいかどうかとは全然別である。
いったい何が「業界内評価」を決めているのか、僅かながらそこに出入りしているはずの私にもよくわからない。

で、私はひとつの基準を決めている。それを読んで、自分が小説を書きたくなったらその作品はよい作品である。
よいアートは、それを鑑賞する者に、何かの表出欲望を与える。
口当たりのいい言い方をすれば、インスパイア、ですか。
なわけだから、ただなぞるのではない。それを読んでいると、その作品とも違う、なんだか思いも寄らない言葉やアイデアが湧く、という場合を最高と考えています。

でまあ、ここからはいつもどおり自分事で(ん? いや、ここまでも自分事だったか、ごめん)
昨年までに文芸誌に掲載した高原英理による純文学小説が以下。

「石性感情」  「群像」2006年5月号 講談社 28-36pp
「グレー・グレー」  「文學界」2008年10月号 文藝春秋 125-141pp
「日々のきのこ」  「文學界」2010年2月号 文藝春秋 78-99pp
「ポエティック・クラッシュ」  「文學界」2010年9月号 文藝春秋 114-136pp
「遍歩する二人」  「群像」2010年10月号 講談社 50-88pp
「記憶の暮方」  「群像」2011年3月号 講談社 20-96pp
「ほんたうの夏」  「ユリイカ」2011年7月号 青土社 104-121pp

上の内、「グレー・グレー」だけはご存知、『抒情的恐怖群』(毎日新聞社刊)に収録。→
あとは単行本未収録で、さて、これらが純文学業界でこの先、何かの価値を見いだされるかはまったく風まかせとしか言いようはなく、なので
以下ただ宣伝

「日々のきのこ」は何度か、きのこイベント等で朗読した+飯沢耕太郎さんから続きを、と言われた+沼野充義氏による「東京新聞」紙上の文芸時評で「言語実験として読むべき」と評していただいた。

「ポエティック・クラッシュ」は詩人・歌人の方々の間でかなり話題となった+今年の群像新人賞受賞パーティで、島本理生さんがこれ、モデルこみで知ってる、と言っておられた。なお、モデルになった事件はありますが実際のモデルとした人はいません。役割上、それにあたる方はいますが性格が異なります。この件はまたいつか改めて。

「遍歩する二人」は斎藤美奈子氏による「朝日新聞」紙上の文芸時評で引用・紹介された。その時評ではこの作品だけ山福朱実氏による挿絵がついた+永岡杜人氏による「文學界」新人小説月評で、半期のベスト5に選ばれた。

「記憶の暮方」は「群像」の創作合評で評された。そのときの評者は、藤野千夜・阿部公彦・佐々木敦の各氏、この順序は評価の高い順。藤野さんにはとりわけよく読んでいただけた様子です+大串尚代氏による「文學界」新人小説月評で半期のベスト5に選ばれた+幻想文学界に知られる慧眼の人プヒプヒさんに絶賛された。

「ほんたうの夏」はこの中で唯一、依頼されて書いた小説。宮沢賢治にちなむ作品。間宮緑さんの「ツァラ高原の月」とともに掲載された。

純文学界に限っても、新人小説月評では二作品、二期続けてベスト5入選で、こうしてみれば、業界内では結構評価高かったり、小さいながら話題になったりしているのだが、しかーし、それだからといって「純文学業界全体の動向を決定する何か」を動かすことはなかったもようだ。
なので、お読みいただければどれかはお気に入るでしょう、と言いたいところ、今ではすぐ読めるのは「グレー・グレー」だけである。
単行本化というのも最近はハードルが上がりっぱなしだが、そのうちよい風向きよ来い、と願います。

以上希望をこめて。

しばらく更新が途絶えます。ごきげんよう。

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映画「アナザー」に価値はあるか

映画「アナザー」の原作はとても緻密で、かつアニメ版の方も優れているとのことなので、それらに比べられるためか、実写版は大変評価が低い。
レビューに指摘されている不備はいちいち納得がゆく。言われればそのとおりと思う。
ホラー、サスペンス、謎解き、妥当なストーリー性、いずれの点でも不徹底で、評価の低さも仕方ないものではある。
ところが私は、それと佐藤弓生は、これを見て絶賛しつつ帰宅した。「ダークナイト・ライジング」よりいいくらい。というのが私たちの意見だった。
で帰宅してネット上のレビューを見てみると、あ、そういえばそのとおり、な評ばかりでしかもどれも点が低い。
わたしたちはきっと目が節穴なんだなあ、と納得、はしかし、しなかった(私に関しては、他人に対しての目が節穴であることは以前から認めているです)。
こういうとき、確かに世に普及した一般比較的な尺度だけなら駄作とされるが、そうでないところで測れるなら結果は違う。
かつてスプラッター映画と呼ばれた作品は一般にはただの「酷い映画」だったが、ホラー映画を見つくしたマニアによる発言が増えるに従い、評価は変わった。
そして言おう、実写映画「アナザー」に関して、私たちはあまり世には知られない尺度を知っている。
何か。
「少年ドラマシリーズ」という価値だ。正確にはその中の一部のSFサスペンス作品的価値ね。
かつてNHKで放映していた、「タイムトラベラー」や「暁はただ銀色」「夕ばえ作戦」「なぞの転校生」など。そしてそのいくつかは後に角川映画としてリメイクされた。
少年ドラマシリーズは多様な作品を含むらしく、全貌は私も知らないので、この印象は一部の作品について、としか言えないが、よく知られた「タイムトラベラー」を例に考えるとわかりやすい。
「アナザー」は、SFサスペンス系少年ドラマシリーズ的な基準から「とてもよい映画」である。
私の記憶する少年ドラマシリーズ(の一部)は思春期の少年少女たちを主人公として、多く学園もので、俳優たちはそれほど演技に長けておらず、CGのない時代ゆえ映像エフェクトもゆるく、「特撮」としても全然大したことがない。淡い恋愛はあるが、性描写はない。ときにサスペンスを目指しながらも、当時のNHK的基準からその衝撃の度合いはきわめて低い。
ただ、思春期の少年少女たちのどこか大人になりきらない心の描写とその行動の指し示すこの世の向こう、それを当時はSFの形で描くことが多かった。だからシチュエーションがホラーやファンタジーであってもかまわない。
ある時期の少年少女たちの、成人とは明らかに異なる、不自由で不合理で懸命で、それゆえ無垢な何かが、かろうじてとらえられている、その感触に見合うために、非日常的なシチュエーションが常に用いられるが、しかし、シチュエーションそのものは手段でしかないため、SFやホラー、ファンタジーとしては不徹底にならざるをえない。思春期の少年少女たちの不自由な無垢を描くことだけが主眼だからだ。
なのでストーリーもいい加減でよい。登場する少年少女たちの何か言いようのないものが描かれていればだ。
なお本質的な要素ではないが「アナザー」も角川映画だった。
「少年ドラマシリーズ」そのものは過去のものであり、それだけを愛するならただの郷愁だが、その主眼の持ち方・描き方は、今、意外にやってみる価値のあるものではないだろうか。CGアニメーションの発達した現在に敢えて特撮映画を作るようにだ。「呪怨」や「ひぐらしのなく頃に」以後に敢えてぬるいホラーを作る意義はここにある。
ただし登場する主要な少年少女の容姿は優れていないと困る。そうであれば演技にも演出にもある程度までは目をつぶろう。
こうした理由で私は映画「アナザー」を推薦します(あ、でももう上映期間終わりかけてる?)。

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詩歌さきわうのこと

秋は好きなのだが、あまり暦どおりに今は秋、と言うと、佐藤弓生が残念がるので、9月は「名残の夏」とでも言うことにしたい。
10月は「夏の隣」くらいか。11月は「夏の思い出」

12月は「夏はあと5か月後」1月は「新しい夏へ向かう始まり」2月は「ここを越えるともう夏の予感」3月は「日々夏は近づく」4月は「夏間近」5月「キター」

今年は詩歌のいい本が多く出た。ようやく全部揃ったのでもう一度全冊、以下。

『現代詩文庫 196巻 川口晴美詩集』 (思潮社)
佐藤弓生   『うたう百物語』 (メディアファクトリー)
千野帽子   『俳句いきなり入門』 (NHK出版新書)
倉阪鬼一郎  『怖い俳句』 (幻冬舎新書)
穂村弘・山田航 『世界中が夕焼け』 (新潮社)

よい小説を読んだときもそうですが、よい詩歌を読むとよい何かが書けます。

ところで、「作家を目指すつもりならその前に、世界・日本の傑作を読んで打ちのめされろ、その上で自分の作品なんかが本当に必要なのか考えてみろ」というような言い方をする人がいますが、私はどんなに打ちのめされるような大傑作を読んでも、確かに打ちのめされても、それで自分の作品が無用なんて一度も考えたことがない。
ジャンルはともあれ、すぐれた作品を常に見聞き・読むことは必要だが、それによって「書けなくなる」としたらその段階で既にその人はクリエイターではないと思う。
よい作品を読むと、その優れた磁場のもとで全然別の傑作を書ける気がする、というのが私の感じ方で、いやただ私のおめでたい性格のせいかも知れないが、そういうことでないと、だんだん読むのが嫌になるのではないですか。
自分の作品が必要ないという証明のために名作を読んでどうするのですか。
それと、「書くなら傑作しか書くな」なんていうのも傲慢。すべてのものは9割がクズであり、どんな名人でもクズを作るときはあって、それが許され続けるとそのうちに名作ができることもある、それを待てるシステムを構築するのが豊かな文化というものの役割でしょう。
といった理屈より、自分はただ書くのが好きなので、大傑作の前にそれがどれだけ無用だとしても書き続けるというだけのことですが。

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川口晴美詩集

今年2月に『現代詩文庫 196巻 川口晴美詩集』の解説を依頼された。
こればかりは喜んで引き受けた。
こればかりは、とわざわざ言うのは、現在、私は自分にとって意味ある作家詩人批評家に関して以外、一言も言及したくないからだ。
既に何度も書いているとおり、「請負仕事的な褒め屋さん」(実はかつてこれを何度もやって、大いに喜ばれもした・これはこれで悪い仕事だとは思わない)をやっている余裕はもうない。
だが川口晴美の詩は現在の私にとって古井由吉の小説と並んで好ましく望ましく、また、芸術としての文学を書こうとするとき、思いもよらない何かを与えてくれるという意味で得がたい作品群である。
こうして川口晴美のこれまでの主要な詩を順に読む機会を得、及ばないながら解説らしいものを書いた。
だいたい『液晶区』くらいからは読んでいたが、初期の詩は今回が初めてである。実によい機会だった。ありがたかった。
ただ、これほど好きな作品群についての解説というのは、あまりうまくいっていないだろうとも思う。それでよい。私の解説などどうであろうが、今回、川口晴美の詩の全体がコンパクトにまとまって読める形となったことを祝う。
9月5日に発売予定だそうです。

★ 思潮社刊 『現代詩文庫 196巻 川口晴美詩集』 → このリストの196巻のところ / アマゾン → 

巻末の作品論・詩人論はほかに、鈴木志郎康、野村喜和夫、阿部日奈子、田野倉康一、の各氏。私ごときがダメダメなことを書いていてもこういう方々がいるからひとまず安心だ。

初めて知った詩集が『液晶区』だったと思う。これは今も読み返すことが多い。
それと以前、『やわらかい檻』について少しだけ『ゴシックスピリット』に書いた。
「トーキングヘッズ」40号には「詩のための作為と物語のための作為」という題名で『半島の地図』について書いた。
それらの磁場の中でフィクションも書いたが、これについてはまたいつか。

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