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SFオールタイム・ベスト

必要があって池袋ジュンク堂へ行ったら7階にSF小博物館みたいなコーナーがあって、来年、日本SF作家クラブが創立50周年を迎えることに向けての長期小展示だそうな。

手元に『SFハンドブック』という早川文庫がある。1990年初版、所持するのは1998年18刷。とてもよい本だと思うが、現在、絶版らしい。
その後『新・SFハンドブック』が2001年に出ているそうだが、これも現在は新刊書店にはない。来年あたり、さらに新たな増補ハンドブックが出ることを期待。

手持ちの『SFハンドブック』では最初のところに「SFオールタイム・ベスト」というリストが掲げられいて、まず海外長篇部門は28位まで、続いて海外短篇部門が21位まで出ていた。

その中から、読んだものについて、これから、ときおり、かなり怪しい記憶を辿ってみたい。
今回はその第一回。

『夏への扉』ハインライン
オールタイムだとたいていいつもこれが一位なのだそうだ。確かに結末がハリウッド的に大勝利で明るくて読後の気分のよさは最高だと思う。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の原型といえる。
SFには破滅で終わるものがしばしばあるが、ただ、それは人類の運命、等々であって、そうなるとあまり怨恨とかいう問題でもなくなってしまう。
そのところ、『夏への扉』では飽くまでも話が一人の男の愛憎・勝敗に限定されていて、人類とか集団的運命の話は全然ない。
こういう物語の場合に、めいっぱいチャレンジを続けた主人公がラストで惨めに死ぬ、とかだとそれはエンターテインメントとして許されざることである。
二位の『幼年期の終わり』とは感情の持っていき方が違うのだ。その点ではSFのシチュエーションだがわれわれの日常にある感情と変わらない世界とも言え、だからこそひどい結末は絶対禁止、そしてハインラインはよくわかっている。
この作品はSFのみならず、エンターテインメントの鑑である。

『幼年期の終わり』クラーク
二位。一位は「本音の喜び」が勝ってしまったのかも知れないが、SFの本道はこちらにあると思う。
クラークは、それでもある程度の遊び(たとえばオーバーロードの正体・姿)も含ませながら、古典的な精神進化を思索している。小松左京の『果しなき流れの果に』や『神への長い道』もこのプランだ。そういうところでは経過がどれだけ冷酷であっても悲劇的であってもよい。崇高に触れる物語であるなら、だ。
また、この作品の末尾で強調されているのが、進化し続ける子供たちの自由ではなく、残され、滅びを待つ年長者たちであるところ、文学だと思うものだ。

三位の『銀河帝国興亡史』アシモフ、は読んでない。四位『アルジャーノンに花束を』ダニエル・キイス、名作の誉れ高いが、私はこの初期版の短篇で読んだきり、長篇版を読んでない。ストーリーはわかっているが、いつか長い方も読もうと思う。
そういえば化学治療による知能上昇のアイデアは「スペクトルマン」で大変残酷な形に用いられていた。トラウマ的にひどい話であった。

『火星年代記』ブラッドベリ
五位。今思うとSFというにはファンタジー的過ぎる気もするが、しかし懐かしさひとしお。五位ほどでなくてもよいがベストテンには入れたい。
ただ、「邂逅」といったどこか恐いような切ないような話とともに、火星(あれ地球だったかな)に一人残った男が通信で見いだされた女性と会いにゆくが、(ひどくて、)帰って以後連絡を絶つというような、「出会い系失敗」みたいなのも憶えている。それと、滅んだ火星人の遺骨で遊ぶ少年たち、などというのも印象深かった。火星人が精霊のようなのもあった気がする。でももう全体はよくわからなくなっている。いつか再読だ。
ブラッドベリなら『ウは宇宙船のウ』『スはスペースのス』そして『十月はたそがれの国』といった創元推理文庫の短篇集がさらに懐かしい。

今日はここまで。

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魔法少女まどか☆マギカ劇場版をようやく

「今日は右側の席か」とか言ってるやつ発見。おまいら……

暁美ほむらは「時をかける少女」から発想された、か?

ほむらちゃんと自分は全然似ていないが、諦めを知らないところだけ同じ。

TV版・劇場版前編のエンディングに使われている、劇場版後編では劇中に使われている、「MAGIA」という曲は「マギア」と読めばいいのか、素人の問い。

最近、人気ある物語の主人公がたいてい血筋とか家柄とか、個に属さないところで選ばれ予め尊ばれる傾向があるのに対して「まどか☆マギカ」は違う。そこが偉い。

「ケロロ軍曹」に「魔包少女モナカ☆うまか」という名称が出てくる由。☆のところは正しくは温泉マークの由。

同じ物語では全然ないのに魔法少女の淋しさというところからか、いつも思い出すのだが、「マリーは不思議な女の子」という歌、知ってる人いたらお教えください。
40年くらい前に「ちびっこのど自慢」という番組で一度だけ披露された曲だと記憶します。
 → 訂正 「ふしぎなマリー」が正しい題名だったそうです。
       また番組内オリジナル曲だそうなので本当に一度だけ、かは不明。

魔女のシーン(by劇団イヌカレー)がなーんとなく、昔の新書館から出ていた「フォアレディース」シリーズのいくつかを連想させる。個人的な連想であって似ているわけではない。
ちょっとだけ宇野亜喜良的な感じ、からか。

実際のところ台詞の語彙が貧しく、「ひどいよ こんなのってないよ」が繰り返されるのは辟易、するはずなのだが、しかしそうはならないのが腕のよさってとこですか。見習いたいなあ。

これもほとんど男子のいらない世界だが、そこがいいのだとしたら、わたしたちってなんて欲深い呪われた生き物なのでしょうね。さあ、皆で祟りましょう。

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怪談会正式発表

青蛙会としましたという口上も含めてこちら、ごらんください → 

11月3日(土)18:00~より、カフェ百日紅で開催します。
予約不要・入場無料。ただしワンドリンクオーダーをお願いします。とのこと。

怪談というと江戸時代、五大怪談として、「四谷怪談」「皿屋敷怪談」「牡丹灯篭怪談」「累怪談」「宗吾怪談(化け猫)」が代表的、と高田衛先生が書いておられた。
その内、あきらかに中国由来である「牡丹灯篭」以外は因果物語であり、死後の復讐がテーマなのはなんだか残念な気もするが、そのわかりやすさが長く記憶されるエンターテインメントというものだろうか。
現在、「新耳袋」の影響でか、必ずしも因果の読み取れない怪奇な出来事というのがけっこう好まれているのだとしたら嬉しいことだ。
実は岡本綺堂の怪談の突出して優れているところもこういう部分だった。
「猿の眼」の怖さは全貌がわからない、わかりえないところにある。
ただ、そこにも何か、暗い由来はあって、われわれが知らないだけなのかもしれない、というところではぎりぎり古い怪談の型を残してはいる。
そこへゆくと「西瓜」なんかは本当に因果関係があるのかないのかわからず、しかし、ある不吉の前触れであったことは感じられ、そうした不条理なところがより怖い。
これを私は小学生の頃、読んで、怪談魂を得たつもりでいます。

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日大芸術学部文芸学科で

武蔵野大学で週一回に加え、今年から日本大学芸術学部(所沢校)で幻想小説論/ミステリー小説論を半期ずつ週一回教えることになり、後期に入った。
好きな話ばかりできてありがたい。
ただ、自分の場合、大学で教えるのはこの週二回が限度かなと思う。

日大の方のテキスト中に一冊、『江戸川乱歩短篇集』(岩波文庫版)を決めている。
またお前の趣味かよと言われますね、はいそうです。
それはともかく、これまで乱歩等探偵小説作家には冷淡だった岩波文庫での収録作が最も乱歩の文芸作品を中心にしていて、生徒に勧めやすいのはなんだか皮肉であります。
ともすれば推理作家・江戸川乱歩、を押し出す他社の文庫では、推理小説としての金字塔作品にばかり焦点があっていて、一冊としての短篇集では乱歩の怪奇幻想小説のおもしろさをよく伝える作品が抜けていることも多い。
ただし、非常に残念なことに岩波版には「芋虫」が入っていない。
そこが岩波のヘタレなところ。

岩波文庫版『江戸川乱歩短篇集』収録作品以下(以前も書いたかな、なら再度)

「二銭銅貨」
「D坂の殺人事件」
「心理試験」
「白昼夢」
「屋根裏の散歩者」
「人間椅子」
「火星の運河」
「お勢登場」
「鏡地獄」
「木馬は廻る」
「押絵と旅する男」
「目羅博士の不思議な犯罪」

これに「芋虫」が入ればかなり完璧と思う。
ところで「何者」という短篇が一部ミステリファンには評価が高いと聞いたことがあるが本当かどうか。理由は、「犯罪の動機にオリジナリティがあるから」だそうである。それはわかるけれども、小説としてはさほどではないと思う。
といったように、ミステリ基準というのもあるらしいという話。
芸術学部なのでミステリでもアート性もしくはエンターテインメント性のいずれかを優先したい。トリックがすごいだけでは不足とする。上の作品はどれも文芸としてよい。
さらに言うなら、エログロ長篇にも大いに見るべきところがあるのだが、というより、むしろそちらに焦点をあてたいところではあるのだが、さすがにこれ以上乱歩ばかりでもどうかと思い、短篇集のみとした。
ほかには、デ・ラ・メア「なぞ」ポー「アッシャー家の崩壊」ドイル「まだらの紐」チェスタトン「折れた剣」ウールリッチ「非常階段」というのが後期前半の必読作品。
後期中盤が乱歩短篇集で、後期後半にもあと数作読んでもらう予定。
それにあわせ私も再読している。
心から好きな作品ばかりだから実に楽しい。

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「アウトレイジ」「アウトレイジ ビヨンド」

北野武監督映画「アウトレイジ」と「アウトレイジ ビヨンド」を見るとかつて何度も繰り返された「どうせ長くはいらない自分の命と引き換えに気に入らない敵を全滅」というストーリーが既に成仏したのかとも思う。
今回は幾何学的なゲームのように原因が結果を産む様子を俯瞰したストーリーになっていて、武の役柄も従来ほど中心的ではない。「ビヨンド」にはいくらかかつての香りもあって、多少ながら武の意趣ばらしがあるが、それも出来事全体の一こまにすぎない。
「その男、狂暴につき」「HANA-BI」「BROTHER」(「ソナチネ」はまだ見ていない)といったヴァイオレンスもののストーリーはだいたい、武演じる主役が死とひきかえに敵を殺す、というパターンだったと記憶する。あ、結末に若干違いはあったか、再度は未確認。
ともあれほぼどれも、死を恐れない者が主人となる、というヘーゲルの論理を図式化したような話ばかりだった。
全く裏づけはないが、かつてビートたけしとして見せたギャグに怒った右翼に脅され、心ならずも詫びを入れた経験によるルサンチマンがこの「自分の死を覚悟して自由に敵を殺す」というプランを育てたのではないかと私は考えている。
だがそれもこれだけいくつも繰り返すと、いわばパッションが薄まる、あるいはそろそろ満足する。
すると武の場合は、手馴れた暴力描写の巧みさを生かし、かつ主観性を薄め、クールな客観的・力学的ストーリーの提示となった、というのが私の意見。
結果のよしあしは別にして、作品制作の進化・変化とはこのように、こだわるところを徹底的にやり尽くし消し去ることで次のステージが始まる、といったものではないだろうか。
ただし、ルサンチマンは一度消尽したかに見えてもまた再来することはある。
北野武の場合も、今回こうした新境地を見せたとしても、再度例のストーリーを繰り返すこともあるかもしれない、ただそれでもいくらかずつ質は変わってゆく。
こうした変化が成り立つのは、自分のオブセッションを、納得のゆくまで繰り返し、ひとつひとつの完結した作品としていってのことだろう。

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怪談会中間報告

まだあんまり正確でもないのでいずれまたもう一度正式に書きますが

11月3日(土曜日・祝日)18:00からカフェ百日紅で怪談会あります。

というところは確定。一昨年と同じく、「青蛙会」ですね。
その名は岡本綺堂にあやかってなのだけれど、店主がかえる大好きなのも理由でしょう。

なお綺堂の『青蛙堂鬼談』にもいくらか記載がありますが、「青蛙神」は中国漢江から長江にかけての地方で信仰された三本足の蛙の神で、特に杭州では青蛙を「チンワ」と読むことから同じ発音の別字をあて「金華」とも書き「金華大将」とも呼んで、すばらしい幸をもたらす瑞祥とされたとか。
『青蛙堂鬼談』の冒頭「青蛙神」はあまり幸せな話ではありませんが、本場ではかなりイイものなのです。 『聊斎志異』にもこの青蛙神の話がありますが、怪談というよりは『夫婦善哉』の夫をもっとダメにしたような、しかしハッピーエンドの、神嫁婚姻談でした。

と今回はこの程度で失礼。実は上の件は最近書いて近くどこかから出るかもしれないある物語の中に用いた薀蓄であった。
なお、青蛙の三本足というのは前足二本に後足一本、という形です。よく仙人とともに描かれています。また月からやってきたとも。だとすればうさぎとも縁がありそうですね。

さて怪談好きな人に今回もお勧め、以下。

佐藤弓生『うたう百物語』(メディアファクトリー)税込み1680円 →

高原英理『抒情的恐怖群』(毎日新聞社)税込み1785円 →

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自分の批評的著作の位置づけ

評論・批評としては一生に一度の仕事である『無垢の力』。
最近同じ題名で内容が全く逆らしい本が出ると聞いたが、もともとこちらは『少年領域』という題名でもよかったものなので、もし再版するようなことがあったら改題するかもしれません。

そのさいは本文を「理論編」、言及した諸作品及び参考作品を「実践編」のアンソロジーとして全二巻、あるいは、実践編を上下二巻として全三巻、という体裁にできるとよい、などととらたぬ。
ともかく私の評論的な著作の中で本当に世界水準(という名の自己基準)で評論といえるものはこれだけだと思う。
またこれは末尾以外同じ内容を学術的な書き方で「近代日本文学における少年表象による憧憬の価値構成」という学位論文として東工大大学院の審査を経た上、ウェブ上にもある。
それらに対して『少女領域』は半ばエッセイ風の評論、『月光果樹園』は既発表の評論・エッセイの選集、『ゴシックハート』『ゴシックスピリット』は多少批評的なところのある連作的なエッセイ、と考えている。

そのせいか、『ゴシックハート』と『ゴシックスピリット』は評論というよりはマニフェストとか、精神のあり方として読まれることが多いように思う。
なお『ゴシック・ハート』『ゴシック・スピリット』ではありません。「・」はなしね。

ある読者の方が『ゴシックハート』『ゴシックスピリット』は分かりやすくてよいが、著者の本質は『抒情的恐怖群』所収の「グレー・グレー」(こちらは「・」あり)に読み取れる、といったことを書いておられるのは、やはり、この二作が真の評論とは違って自己のスタイルの表明だからか、と思った。
そのあとに小説が始まるのも当然なのだ。上のとらたぬプランと同じく、ゴシック二作は「理論編」、以後の小説は「実践編」ということになる。その意味で私としてはどちらもとても大切なものなのである。

評論の場合、売れるも売れないもほとんど関係ないが、『ゴシックハート』だけは価格のせいもあってか、ほそぼそとながら増刷を続けています。まだの人は買ってね。
『少女領域』と『月光果樹園』もそのうちなくなっちゃうよ。こんな綺麗な本なかなかないですよ。と、例によってきっちり宣伝。

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怪談は好きだけど

今、私は、「幽」でのごくささやかな連載以外、直接タッチしていないので怪談業界のことはよく知りませんが、いかがな様子なのでしょうね。
今も応援はしていますが残念ながら催しにはほとんど出られなくなりました。
不義理申し訳ありませんです。
といいつつ、近しい友人が催すそれだけは無視できないので、一昨年に続き、今年11月のカフェ百日紅での怪談会には出席いたします。
原則、どなたでもご出席可能ですが、一番怖いと思う文学作品をひとつ、それとできるだけ体験談に近い怖い話をひとつ、ご用意いただけると幸いといったところのようです。
詳細はいずれここでもお知らせ予定。

『抒情的恐怖群』収録の「町の底」「呪い田」「帰省録」「緋の間」は特に怪談の構造を意識して書きました。怪談好きの方はこれらいかにお感じになるかお尋ねしたいところ。

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毎度、妖怪です

またしても妖怪の話を、今回は生徒諸君の前で一時間ほど話したので記録として

そのとき言及した文学作品は

小泉八雲「怪談」

干宝「捜神記」

三坂春編 「老媼茶話」

「稲生物怪録」

泉鏡花「雨ばけ」「草迷宮」(ほか多数)

稲垣足穂「山ン本五郎左衛門只今退散仕る」

 ……と、こうくると言うまでもなく、

高原英理「神野悪五郎只今退散仕る」(参考程度ということで)

プラス

京極夏彦「姑獲鳥の夏」「魍魎の匣」

あとは漫画・アニメだが、「夏目友人帳」「ぬらりひょんの孫」「結界師」「ゲゲゲの鬼太郎」のほか、特に高水準のものとして強調したのは

諸星大二郎「妖怪ハンター」「諸怪志異」

また、絵師としてはこれも当然の

鳥山石燕「画図百鬼夜行」ほか

語ったこととしては、

「妖怪大戦争」(新・旧)なんかはよい映画だが、本来的にはどうも妖怪にバトルというのは似合わないように思う。
妖怪の中には祟るのもあるが、基本、どうだびっくりしただろう、の方向で満足するタイプがよい。
妖怪を描くさい、キャラクター化した妖怪であってもあまりに人間的な感情を見せすぎるのは好ましくない。
なお「妖怪」は現象をもさすので映像化されたものだけを考えるべきではない。

など。

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暫定的に過去の意味を決定しつつ何か書くと

その時間も含めいつも現場なのであることをときどき忘れる。

その都度いい気になりたい。

もう過ぎたことだ。三秒前のことだが。

何度繰り返しても慣れないこともある。それはいつも新しい、のか?

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こんなこと見聞きして考えて暮らしてます

明日にも始まるかもしれないがしかし数年は難しいかもしれない、という判断の不明が人を生かす。

妖怪を人格ある者として描くとき、人との差をはっきりさせるために、何かの障害のようなところを付与するというプランの描き方がけっこう多い。冗談や嘘がわからないとか論理はわかるが相手の感情が読めないとか。するとそれでより可憐に見えたりもする。

後からしか語れないことを現場にいてどうにか語る、過ちばかりであることも承知の上のレポートのつもり、という書き方は勇気あるが成功がありえず、もともとそれは成功のためではないし。

ときどき見かける、文学に個人の事情を反映させない意志。ほとんど無理だがごくたまに見事に達成されるときがあって、だから病み付きになる人とか。

どうもあまりにうまくゆかないとき陰謀論がしのびよる。大掛かりな組織でなくとも、もっと単純に、政治力のあるあいつとあいつが邪魔しているのではという邪推が、徐々に拡大して、事実からの判断を覆う。はたから見ているとまったく荒唐無稽なのだが、といって全然無意味な突出ではなく願望の筋道はよくわかるのがパラノイアの悲しいところだ。

ある特殊な語り方を実践していると、それだけで意識が違ってくる。

涙スイッチ。「かわいそうなゾウ」「ごんぎつね」など。動物系が多い。

安部公房「カンガルー・ノート」読了。そのうちみなで語ろう。

ヘンリー・ジェイムズ「ねじの回転」新訳で再読中。これについてもそのうちみなで語ろう。

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