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音楽に理由なし

どうしてか、西洋由来の調性音楽によれば、悲しげ、楽しげ、という表現ができる。

聞く者にこれは悲しい気持ちになる・楽しい気持ちになる、という効果をもたらす調がわかっているからだ。むろん受け取り方はさまざまで「悲しげ」より「淋しげ」「暗い」、「楽しげ」より「賑やか」「明るい」であってもよいが、短調のメロディを快活と感じることも、長調のメロディを暗いと感じることも、人間にはないようだ。
だがそれらは「なぜ悲しいか」「なぜ楽しいか」を音楽だけで伝えることはできない。効果だけがあって、理由の説明が音楽にはできないからだ。歌詞は言葉であって音楽ではない。
理由説明は言葉によらなくてはできない。

音楽が文学よりなんとなく可憐で芸術として高度な気がする、という人がいるとしたら、理由説明という下世話な「言い訳」の可能性を免れているからではないか。
ただ、本当は言葉であっても真に理由の説明などできはしない。
社会的に承認されたレトリックによって一定の社会的フィクションにのっとった説明という様式の告知を行なうに過ぎない。その承認されたレトリックもしくは物語性がある人には聞き苦しい凡庸さに聞こえる。
そのような凡庸で不純な感じを多く受け取る人が、「いわゆる文学」なんてかっこ悪い、と言い、また、自己吐露は醜い、自意識の主張は見苦しい、あるいは物語性からは離れた文学を、などと言うのだろう。いや、これでは言い足りないことが多いが今回はここまでにして。

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キタ━━━━ヽ(゚∀゚ )ノ━━━━!!!!

飯沢耕太郎著『フングス・マギクス』

副題「精選きのこ文学渉猟」、東洋書林 → 

「不思議の国のアリス」のきのこ場面から始まる。数々のきのこ文学の名作とともに「マタンゴ」もある。「リグ・ヴェーダ」から狂言「くさびら」まで、古典もある。鏡花、賢治。澁澤さんの家の庭に出たアミガサタケを食べる話。毒の話、幻覚の話、「地球の長い午後」ももちろんある。きのこの曖昧さ、どこに属するかわからない、区分によって思考する人間の及ばなさがあらわとなる瞬間がここにある。
緑のインクで印刷されていて森の中にいるようだ。同じ色でさまざまなきのこの絵が挿絵として入っている。

きのこ者たちよ、これを手にしようとするならあともう一息だ。

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あれなんだっけ

と思いつつ、そう思っていたことも忘れる、ような、人としてそれでもよいのか、いや、よい、な日もあるか。

唐突ながら

爛々と昼の星見え菌(きのこ)生え

は高浜虚子だったかな。さすが大物。

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きのこ的SFの名作、ほかに

そういえば「たったひとつの冴えたやりかた」ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、これに出てくる寄生宇宙人もなんか菌の仲間の感じがある。
きのこSFといえるかどうかはわからないが、何かに寄生して共生する、しかし、ときに当事者に制御できないところがあったりもする、というようなところ、なんか菌の生態を思わせたり。

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名作SF続く

「地球の長い午後」ブライアン・オールディス
これはきのこSFでもありますね。アミガサタケが知能きのことして出てくる。むろん実際のアミガサタケとは別の寄生きのこ。実は人類の進化はこの人間の脳に寄生するきのこのおかげだったとかいう真相もあったと覚える。
ほかにも地球と月とをわたる大きな「ツナワタリ」とかの異様な植物だか動物だか、そういうのが満載で、大変楽しい異生物世界だった。

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癒しに

きのこ図鑑というのも。
やはりカラーが望ましい。
ときおり驚くような色のきのこもありますね。青色とか。

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オニフスベ相撲

の話を「日々のきのこ」に書いた。
ある朝、突然たくさんの大きなオニフスベが庭に出ていて、互いにぶつかりながらばんばん胞子を撒くのである。
それが相撲のぶつかり稽古のようなのである。
しかもぶつかり合って端々から白い胞子が立ち上り、庭が白くかすんでしまう。
それを見ている人は胞子のせいか、酔ったようになって、なんだかぼんやりしている、というような話。
もちろん実際のオニフスベは自分で動いたり、ましてぶつかり合ったりはしません。
でもなんかそんなことしそうな気がするので書いてみたわけ。です。

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ときおり名作SF

についてぽちぽち。

「星の海に魂の帆をかけた女」コードウェイナー・スミス。
題名思い出しただけで号泣。
センスいい人たち(斜め上的センスってか)にはどうか知らないが、SFってときおり、こういう崇高さをストレートに描く余地を今も残しているからよいと思うのだ。
みんながみんなつっこみ屋さんになって、安易な俗情をつつきだし、嘲笑し続けている場に私は今もなかなか馴染めない。
身体的ハンディキャップを持ちひどくシビアな過程を経て誰もできない孤独な営為を達成する、意志強い女性をひたすらにレディと呼び敬う心を忘れないために。

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庭に頭蓋骨が

ある、と驚いたが、よく見るとオニフスベだった、という話。
白くて丸くて大きさもちょうどそんな感じなので間違うのだとか。
一晩で出ることがあるというから頭蓋骨でなくても妖怪のようだ。
その白い丸いのの中は全部胞子で、ばふーんと吐き出すのかと思うとすばらしい。
すぐにしおしおと皺が出て茶色くなって、そのうち消えてしまうというからやはり妖怪。
なんてことが本当にあるからきのこはイイ。

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創作しない人の批評が読みたいと言われ

ごめんなさい、わたし、創作する人なんです。
と謝りたくなる経験あり。
(なお、批評・評論も創作なのだが、「創作」の意味を敢えて狭義に、「創作と批評」に分けた言い方をするとして、)
「詩歌の世界では実作者たちによる批評しかない。詩歌の実作をしない人の批評が読みたい」
という望みを語る方とこのあいだ少し話した。
その意向は当然で、また正当だと思う。
だが私はというと、詩歌についても、ひどくへぼではあるが、自分で書く側であり、「作品を読んでもらいたい」側なので全然その方のご希望に添うような批評はできないと言った。なんか申しわけない感じがした。
それで、その方は俳句の作者だったので、であれば、俳句の創作よりも批評を楽しいものと公言されている千野帽子さんがそうした役割にはよいとお伝えしたのだった。
すると、その方としては、「作者の思い」的な不純な部分を完全に切り捨て、それらをときに激しく軽蔑して、「他者の言葉として作る俳句」、を提唱する千野さんの考え方を、正しいと認めるところは多いけれども、実作者として完全には賛成できないと言う。
となるとですね、やはり、確かに言語表現は他者の言葉なのだが、しかしそれでも作る側の「このわたしをわかってほしい」の気持ちがどこかにごくごく僅か残るのが仕方ない、と容認する立場として書く、創作家による批評、でないと、そこのところは難しいことにもなる。
私はその方の意見にも賛成なのだ。作者だから。しかし、そういう「作者の事情を思いやってくれる批評」は、どうしたって作者側でないと不可能ではないかとも思うのであった。
私の場合、詩歌についてはそれほど発表していませんがけっこうあります。ただ、今は小説の方だなと思うので主にそちらです。
そして、小説を書く者として作者の心をわかる(と勝手に思い込んだ)批評も書けるのかも知れないが、そうしたやり方にはもう私のしたいことは何もないのであった。

で、今はただ、きのこの話を書き続けています。

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「日々のきのこ」をふりかえる

もうだいぶん前のことになるので「日々のきのこ」が「文學界」に掲載されたときの記録を再録してみる。以下(☆~★)。

本日発売の「文學界」2月号に掲載されている「日々のきのこ」の第一章は「序曲」という題名で約30年前に書かれた。
その後、十数年ほど前にやや視点を変えた第二章を「罠」という題で書き足してみて、まずまずだなと思ったのでこの二章を連続した散文詩のようなものとした。
2000年、佐藤弓生の属する短歌同人誌「かばん」主催の記念朗読会が吉祥寺の井の頭公園で開催され、当時購読会員だった私も、野外ステージでこれを朗読した。
少しだけ音楽を加えることができるというので、ジョン・ケージの「プリペアドピアノのためのソナタとインターリュード」の中から、比較的静かで瞑想的な部分を背後に響かせながら読んだ。
当時私の知るクラシックおよび現代音楽の中で、最も自作に合うと感じたのがこの曲だった。
このときは意識していなかったが、ジョン・ケージはとてもきのこを愛する作曲家で、1962年に創設されたニューヨーク菌類学会の最初の会員の一人、また後にカリフォルニア大学に寄贈されることになる大量の菌類学文献を所蔵する人でもあったばかりか、1958年、滞在先のイタリアでは「Lascia o Raddoppia」(いちかばちか、の意とのこと)というTVのクイズ番組に数週間連続出演し、菌類学全般にわたる知識に関するクイズに勝ち抜いた結果、五百万リラの賞金を獲得したという(以上、飯沢耕太郎氏による『きのこ文学大全』のご教示による)。

しかし長らくこの二章分から先は進まなかった。
一昨年、ふと、前二章とはさらに異なる視点で、ただし飽くまでもきのこをモティーフにした散文を書き足してみた。
そこからはあれこれと足してみたい場面が見えてきたので、そこまでのリズムをなるべく崩さないように、書けるときに少しずつ書き進めた。
すると徐々に、全体のテーマらしいものも現れた。
昨年になると一層書く速度が上がり、一時期、集中的にかかりきって、ようやく全70枚ほどの短編小説として完成した。
そのようなことができたのは2008年末、上野の国立科学博物館で開催された「菌類のふしぎ」展に行ったからだと思う。楽しく、驚異に満ちていた。多くを考えさせられる展示だった。
菌類のふしぎ展の経験の何か月か後になって、こんな小説ができてきたのは、長らく地下にあった菌が、あるとき栄養を得て繁殖し育って、突然むくむくと子実体を作り出す、そのままの様子に思える。
なにぶん、きのこなので、今回の小説には読者に共感を求めるような要素はない。驚異と思弁と、そして少しだけユーモアも感じ取っていただけたらよいのだが、と思っている。

なお、「文學界」は先月号から、飯沢耕太郎さんの「きのこ文学の方へ」の連載が始まっていて、これがまた楽しいので、この2月号に限れば二大きのこ文学掲載という快挙達成になっています。



以上2010年1月7日の記事から。

本当に当時の「文學界」はなんてきのこだったのでしょう。
というあのころの幸運な感じをここにもう一度。

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きのこ再び

「日々のきのこ」の続編を書く時期がきた。
きのこ世界だけで一冊になることをめざしたい。
どれだけ時間がかかるか。
この先おりおり、きのこねたを記します。
本日は予告だけ。
(って、多くから期待されてるような言い方だが、多くはないにしても実際に期待してくださる方がいらっしゃるのでこう記しました)

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「美女と液体人間」「妖星ゴラス」

たまたま先日、映画「美女と液体人間」「妖星ゴラス」を続けて見る。
どちらも一度見ていて再鑑賞。
今思えば「美女と液体人間」はそのまま「ウルトラQ」劇場版だった。
前見たときも気になったが、当時、一万円札がまだなくて、五千円札が最高額なのな。それと自動車が古くていい感じ。
「妖星ゴラス」、もう今となっては「ありえねー芸」として、というかホラ話として見る。
大隕石を避けるため南極に強力ジェットを多数つけて地球の軌道を変える、という本筋もそうだが、ほんの付け足しというかサービスで出てくる怪獣マグマも全然必然性なくて、志村喬が「こんな環境になったら何があってもおかしくない」とかなんとか、後付の言い訳をするのとか、なんかいい味で、ああ昔はなんでもいい加減でいいなあの感。
しかし本当にこんな隕石がきたらもう絶対助からないなあ。
人類が外宇宙まで集団で脱出できるくらいの科学力がないと、本当に大隕石はお手上げですわ。

SF映画としてはどちらもちょっとそれはない感が強いのだが、「液体人間」は怪奇色がよい。「ゴラス」はホラを大真面目にやるところが。これ、かつてのSFの真髄だったですよね。

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SF映画では

ついでに映画のSFも。自分がこれは、として憶えているつもりの重要作品は(だいたい重要作順)。

「2001年宇宙の旅」
やはり名実ともに高級スペキュレイティブSF映画ではこれが最高。

「ブレードランナー」
現在のSF的画像と直結した画面とシチュエーション。影響受けていないものはないのでは。

「スターウォーズ」(現在全6エピソードすべてとして)
もっと娯楽的で神話的な、そして典型的なスペースオペラの頂点として。ただ、万全の予算・キャストを得て後から作った前3エピソードのレベルが高すぎて、エピソード4~6がなんとなく見劣りするのは残念。

「エイリアン」(特に1・2)
最初の「エイリアン」はホラー主体ではあるが同時にSFのあるべき姿として、そして多くの模倣を産む映像として影響力大と思う。

「バック・トゥ・ザ・フューチャー」(全3作通して)
「夏への扉」的な、「いい話」としての楽しいタイムトリップ話。これだけ満足させてくれる時間ものはなかなかない。いいなあ。

「ターミネーター」(特に2)
1にあたる作はよくできてはいるがサスペンス・アクションが主体、しかし、2になるともっと時間テーマが表に出るのと、「いいロボット」テーマでもあるのとでとても見ごたえあるものとなる。

「ゴジラ」
やっぱり日本は怪獣という素晴らしい文化を持っていることを忘れちゃいけないと思うんだ。

「惑星ソラリス」
原作に比べて著しく地味だが、そのぶん深く考えさせられる時間が長い、という意味で。

「ストーカー」
上と同じ意味で、実際には何が起こっているのかよくわからないのだが、その緊迫感は大変なものだ。メカやCGに頼らなくてもSFはできるという証明。でも何が起こっていたのだろう。

「宇宙戦争」(2005年版)
もとの「宇宙戦争」もいいのだが、こちらの、あのブオーというすごい音とともに地中からせりあがってくる巨大メカの恐さと、それでもどうにか人間の知恵でなんとかしようとしてからくも成功する、そのリアリティに。

「メン・イン・ブラック」(全3作)
ひそかに地球に住む宇宙人というプランとともに、都市伝説をうまくアレンジして、恐くならないようにしているのがよいと思う。

「キャシャーン」
日本映画ならいいのは他にももっとあると思うが、しかし、この退廃的な、2000年以後の私たちのメンタリティを定着した映像と壊れたストーリーを私は常に支持する。

「マトリックス」(最初のだけ)
これも映像的には革命だった。それとようやくサイバーパンクの本領が見え始めてきた作品として。

「第9地区」
だいぶんSFが普及して、宇宙人といってもステロタイプではない、という意識が生じて、かつ、ヒューマニズムへの問いとか、生理的にキモいものでも知的生命体なら忌避してはいけないとか、移民難民問題と同列の問題、貧困と暴力その他、実にたくさんの問題をかかえつつ、しかもなんか淋しいラストに泣く。

「遊星からの物体X」
これはほぼホラー全開でかつグロ大好きの人向けの趣味的に大好きな映画。絶望的な展開も今はいい思い出だ。

「ガメラ」(平成版、特に1・2)
やっぱり日本は怪獣という……もともとはかなり子供向けの荒唐無稽でご都合主義的な話だったのを、リメイクして見違えるようなものになった例。特に1でガメラ急上昇ののち回転、という映像の目覚しさに驚いた。ストーリー的には「ドラゴンボール」の元気玉的な2もよい。

「サマー・タイムマシン・ブルース」
アイデア勝負だなあ。しかもいい感じの大学生青春映画になっている。これもSFの発想があたりまえになってから成立する、小さいからこそ楽しい物語。

「ジュブナイル」
ドラえもん偽作のプランかあ。いつも泣かされる。それと題名どおりの子供たちのための冒険物語というところが正しく反映していてよかった。

「メトロポリス」
20世紀初頭モダニズム未来派的映像がよい。しかしストーリーがだめだめ。奴隷的労働者と支配層が手をむすんで、とか馬鹿じゃねえの。でも映像がよすぎて忘れられない。


「アイアン・スカイ」も入れてよい。「インディペンデンス・デイ」も、と言いたいが「アイアン・スカイ」見た直後ではどうもこちらは入れたくないという気もする。できはよいが。
もっと昔の名作もたくさんあると思うのだが、やっぱりSF映画はかなりテクノロジーに左右されるところがあって、それと、古い時代の考え方の納得いかないところがストーリーに反映しているとなかなかついてゆけない。本日はここまで。また思いついたら。

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アイアン・スカイ

友人が絶賛していたので上映期間かなりぎりぎりで見た。
ハリウッド映画がスタンダードと思ってはいけないと知らされるような展開であった。
ナチスは悪だがアメリカ合衆国のジャイアンぶりも同じことだなあー特に戦時に敵は殲滅があたりまえなところとかもなー、というようなシリアスな見方まではともかく、背景に絶大な批判と否定がある。風刺といってしまえば簡単だがなんかそういう教養語で言いあらわしたくない感じ。
というようなところから発する「きっついギャグ」もさることながら、低予算とはいえ戦前的宇宙メカがよかった。スマホひとつ作れないのに1930年代的な動力機械はどこまでも拡大できるとかね。宇宙ヒンデンブルクとか。
がそういう彼らはどうやって月の裏側で生存してきたか謎だが。
ということもともかく、なんとなくメカとその動かし方が「メトロポリス」だ。やっぱ大歯車むき出しの戦前的機械のよさ。
対するUSA軍艦内は「スタートレック」なんだが。
と、かなりもの思わされるところ、やはりよい映画です。




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SFオールタイム・ベスト・その2

6位『デューン』ハーバート、は読んでない。映画は見たが。今から全17巻読むのはちょっと大変そう。

『虎よ、虎よ!』ベスター
7位。小惑星帯に取り残された科学者たちの子孫が何世代も続いて迷信的原始的な「科学原住民」になってしまっている、とかのくだりはおもしろかった。ただどうしても主人公の復讐の向かうところには納得できないし、それで結末へ至る悪戦苦闘もなんとなく身を乗り出せなかった。
ひとつに訳文が、なんでこの語順で語られるのか気になる(つまり、原文はわからないが、この意味を伝えるときは自分ならこうする、と感じる)部分が多かったこともあって、なんとなく残念。

『リングワールド』ニーヴン、8位。これは読んどかないとな。と思いながら今に至る。いわば課題作品。ニーヴンは短篇を二冊分くらい読んでどれも好きなのできっといいと思う。

『アンドロイドは電気羊の夢を見るか』ディック
9位。ディックにしては、と思うのだが、とてもまともで読みやすかった気がする。『火星のタイム・スリップ』等との比較において。映画『ブレードランナー』を先に見ていたので、その影響もあるか。だがディックという作家はまだ未知の部分が私には多い。特有の不自由感のようなものがちょっと気になる。グノーシスにもなんか思い入れあったらしいし。

『ソラリスの陽のもとに』レム
10位。海の中から咲き出して何キロにも及ぶ巨大な花、とかの鳥肌たつような崇高な描写に感嘆した記憶。焼き殺しても何度も出てくる愛する女性とかも無慈悲な展開で、こういう苛烈で不可知な世界は本当にすばらしい。映画も見たしよかったけれどもやはり原作のあの空から海の異変を見る場面の崇高はなかったのが残念。

『ニューロマンサー』ギブスン
11位。これが翻訳されたときはなんだかSFに革命が起きたみたいな言われようで、『ニューロマンサー』がわかるかどうかで新世代かどうかが決まるみたいな空気まであった。
『攻殻機動隊』的世界の受容が世に浸透した今、思い返すと意外に素朴な電脳内描写だった。読んだ当時もものすごく先鋭的とは思わなかったように記憶する。
ただ、千葉を舞台にしたり、初期戦闘美少女というか、草薙素子の先駆形みたいな女子が出てきたり、なるほどサイバーパンクのパイオニア的作品ではある。が、『攻殻』みたいな現在との連続性はあまり感じず、どちらかと言えばSF古典以来のファンタジー性が強く、映画で言うなら「マトリックス」よりは「トロン」の方に近い印象。
中でヤクザが肩につけている「付け筋肉」みたいな武器がおもしろかった。ちょっとほしい。
それと、翻訳の中に「そのとき天使が通り過ぎた」という一節があったように記憶するが、これって、「一瞬沈黙した」の意味なのか。ある人は「ヘルズ・エンジェルスが横を通った」の意味ではないかと言ったがどうも違うと思う。と細かい記憶。

12位『月は無慈悲な夜の女王』ハインライン、題名がいいが読んでない。

今回はここまで。

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