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映画「告白」とか

随分時期が遅くなったが映画「告白」を見た。
実にすがすがしい。復讐とはこのようにすべきである。相手の一番痛いところにとどかないまま殺しても復讐にはならない。
また、「復讐はむなしい」とかいった心の真実を無視した説教に帰着する結末を私は嫌い、さらに、満身の知力によって復讐しようとした者が、ぎりぎりのところで阻まれるというよくあるミステリーの結末も嫌いである。
そうしたクソ面白くもない建前はこの映画には一切なく、いわば本音でできている。
原作も同じだそうで、やはり優れたものと思う。

ところで、近く公開の「藁の盾」、最初のシチュエーションを知っただけで、これには決して上記のようなすがすがしいラストはないなと思ったので今のところ見る気はない。
おそらく、意表を突く展開だけが連続し、結果としてはその最も憎むべき者は殺されはしないに違いない。この種の連続どんでん返しものというのは往々にして途中の激変ばかりにストーリーの力が向いて、ひどくしょぼい結末になりやすい。
もしそうでなく、最も残酷に罰されるべき者が十分な罰を受ける結末なのであれば、お教えいただきたいところ。それなら見ます。

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調子に乗る・いい気になる

子供が他人というものを意識せず、自分の興味だけに心奪われて、社会性の欠けた迷惑行為を続けているのを見ると、大人は「この馬鹿者!」と叱りたくなる。
その延長のような気がするが、特に迷惑をかけられていなくとも、大人が自分だけいい気になってはしゃいでいる、調子に乗ってなにか浮かれた態度でい続けている、というのを見ると「もっと現実を見ろこの馬鹿者!」と言いたくなることもあるだろう。
そのとおりと思うのである。他人から見て、なにかイタい、勝手な上機嫌というのはある。そして多くの人は口に出さずとも、そういうのを見て「ああこいつ、外が見えてない、かっこわる」と思うものなのだろう。
ところで、なにかを作る、やり続ける、というとき、この種の子供めいた上機嫌はなかなか貴重で、そういう状態が続くことが必要なときもある。
成人としてはそれを他者に見られるのは恥辱である。
しかし、期待に浮かされたり、周囲の状況を自分に都合よく読み取って調子に乗ったり、というのが全然ないと、なにかの達成はなかなか難しいのではないだろうか。その上機嫌が案外予想外のよい結果を産むものなのだ。
それ自体よいものではないが、迷惑をかけられない他人の上機嫌には寛容でありたい。いつもいつも他者に冷や水を浴びせて喜ぶ、というのはそれも実は幼稚である。

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ベルセルク黄金時代編完結を見る

劇場版「ベルセルク 黄金時代編Ⅲ降臨」をようやく見てこれで黄金時代編完結まで見た。

内容はTVアニメ版でわかっていたからとりたてて大騒ぎしないが、というより、TV版の結末の異様さ、ここで終わりかよ、これでいいのか感の驚き具合があまりに酷かったので、映画版はむしろガッツたちが救われているところが強調されて見えた。
因果関係も最小限度ではあるが示されているし、何より髑髏の騎士が意味あって登場するので、「こんなことになって、もうこの世には身ひとつ以外頼るものもない」という感じを与えたTV版の絶望感を大きく打ち消し、「ただ一人だがここに強大な味方がいた」という安心の方が大きい。
それほどTV版の絶望感は大きかったのだなと今更思うところであります。
実のところ、あのTV版は意図してどん底に落とそうというよりも、鷹の団の栄光を存分に描いていたら後の破局のための回が不足してきたのと、どうせ酷いんだからそんなところはもうちょちょちょっと最後二回だけで済ましておこう、みたいな制作側の流れを感じたが。
そのせいで、いったいあれでどうやってガッツは生き延びたのか全然わからないまま、なんだか古巣に戻ってきたというエンディングの後の数秒のシーンだけで描いていて、それも「何これ」だった。
その反省に立ってか、映画版では「蝕」の場面をより長く、またその因果のところもよくわかるように、さらに、満身創痍ではあるがかろうじて生き延びた経緯、その後の状況まで、実に丁寧に描いていた。
その分、絶望感が減るのは仕方ない。
こんなわけで、かつてTV版見た人は映画版を見て、むしろほっとするのではないか。
ああ、髑髏の騎士、いい人だなあ。とかね。

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きのこアート、きのこ音楽

恵比寿の山小屋というギャラリー・アンド・ショップで行なわれた
山小屋・きのこの時間 ~飯沢耕太郎+玉木えみ作品 展~ (2013年1月24日~31日)
の最終日にようやく行けた。
コラージュと水彩による作品。イイ。土産も手に入れた。
この催しの間、土・日にきのこ的催しがあったのだが、両日とも、武蔵野文化会館で行なわれた、デニス・コジュヒンによるプロコフィエフ・ピアノソナタ全曲演奏という二日連続のリサイタルを聴きに行っていて出られなかった。
プロコフィエフは作曲だけでなく、小説も書いていて、中にきのこの話がある。
その音楽作品の、美しいところも多いがどこか奇妙でおかしい計り知れない感じはきのこ的だと思う。
ピアノソナタは9曲あるが、全曲演奏というのは世界でもこれまで例がないらしい。大変すぐれた演奏であったと思う。
コジュヒンはこの先巨匠になりそうな予感。

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